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第三章 執着とすれ違い

恋人

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 朝いちばんの軍学校の視察を終え、俺はすぐにもエルシーのもとに帰るつもりだった。だが――。

「殿下、これから国王陛下との昼餐の予定です。すぐに王宮に――」

 ジョナサン・カーティスに釘を刺され、俺は顔を歪める。
 そう言えば、ステファニーやレコンフィールド公爵とメシを食うとか言ってたな、と嫌なことを思い出したからだ。顔を合わせれば、グダグダ押し切られるに決まっている。ステファニーは、昔から俺に対しては我がままを当然、聞いてもらえると思っているから、引かないのだ。
 
 だいたい、俺は昨夜ようやく、十二年もの初恋を実らせて、エルシーと初めての夜を過ごしたばかりだ。だと言うのに、他の女と婚約についての話し合いをするなんて、不誠実極まる。

 俺は、王宮へは断りの使いをやり、まっすぐアパートメントに戻るように指示を出した。

「よろしいのですか、国王陛下との約束を」
「体調不良とか、適当に言っておけ。昨日も断っているんだ。しつこすぎる」

 今回の視察、馬車にはジョナサン・カーティスが同乗し、馭者の隣にラルフ・シモンズ、ジェラルド・ブルックとロベルトは次の馬車に乗っていた。

 

 
 そわそわと時計を気にする俺に向かい、ジョナサンが言った。

「昨夜は、僕は家に戻りましたが、殿下はバージェス街にお泊りになったのですか?」

 俺はちらりと目を上げ、気まずくなって目を逸らし、頷いた。

「ああ……」
「エルスペス嬢も?」
「……ああ」
「このまま、彼女をアパートメントにお泊めになるおつもりで?」
「他に、行くところもないし、部屋は余ってるし、司令部にも近いし――」
「今日は彼女は司令部に?」
「……いや、今日は休めと言ってある」

 ジョナサンを俺をじっと、緑色の瞳で見つめた。彼は俺の二歳上で、士官学校の先輩で、ついでにものすごく「いい奴」だ。品行方正で、まっすぐで、身分に奢らず、下の者にも公平で――。

 つまり、俺が間違ったことをしたときに、黙って見逃したりはしない。

「殿下。……対外的に、彼女がどういう目で見られるか、あなたにもお分かりになるのでは」
「それは……その……」

 俺が視線を彷徨わせるのを見て、ジョナサンはため息をつく。

「まさかとは、思いますが……一線を越えてしまったわけでは――」

 俺は一瞬、しらばっくれようかと思ったが、ジョナサンに嘘をついて誤魔化せたためしがないことを思い出し、俺は正直に言った。

「……越えた」
「殿下――なんてことを! 彼女は女優でも娼婦でもない。爵位こそ失っても貴族令嬢として生まれ育た女性を。それを――」
「軽い気持ちじゃない! 俺は彼女と結婚するつもりだ! だから……」

 俺が力説するが、ジョナサンは呆れたように首を振った。

「冷静に考えてください。無理です。……王太子殿下のところにまだ男児がいなくて、ジョージ殿下は重病。このままだとあなたが国王になるしかない。貴賤結婚は歓迎されないし、苦労するのは彼女ですよ!」
「彼女を愛してる。ずっと――」
「みすみす、彼女を不幸にするとわかっていて、どうして。マックス・アシュバートン中佐は、殿下の命の恩人のご令嬢なのですよ!」
「マックスには許可をもらっていたんだ! ステファニーとの話は白紙に戻っていて、問題なく結婚できるはずだったんだ!」

 その話は予想外だったのか、ジョナサンが目を丸くする。

「……俺が死ぬ気で戦場を生き抜いたのは、全部、彼女と結婚できると思ったからだ」

 ガラガラと馬車の車輪の音が響く。

「ジョナサン、頼みがある」
「頼み? 僕にですか」
「エルシーを護ってほしい」

 ジョナサンの緑色の瞳が、大きく見開かれて俺を見つめた。

「僕に、護衛をしろと? ……あなたではなく」
「貴族のお前には不本意な任務かもしれないが――」

 ジョナサンはしばらく無言で俺を見つめ、頷いた。

「貴族である、僕がついていた方が安心ではありますね。もし、殿下が本気で彼女と結婚するつもりだと知ったら、がただで済ますとは思いません。身分を笠に着て当たられると、平民の護衛では強くでにくい」
「直接的な暴力はないと思うが」
「あり得なくはありませんよ」

 ジョナサンは言い、少しばかり厳しい口調で言った。

「最も弱い部分を狙うのが、攻撃の常道です。あなたにとって彼女は最大の弱点だ」
「別に俺に敵は――」
「国王陛下が、レコンフィールド公爵令嬢との結婚を薦めるのも、彼女は弱点になり得ないからでしょう」

 俺はハッとしてジョナサンを見た。

「……あなたにとって、ステファニー嬢は別に好きでもなんでもない相手です。国王として君臨するならば、そういう王妃の方がいい。――国王陛下ご自身の経験から、そう、判断なさったのでは」
「たしかに、父上と王妃はそういう関係だったかもしれない。だが、俺はそんな結婚はしたくない」

 父上と王妃は理想の夫婦だなんて言われているが、実態は真逆だ。父上は国王としての責任感だけで、愛のない結婚でも王妃を尊重してきたが、俺にはそんな芸当は無理だ。もう今さら、エルシーを諦めてステファニーと結婚なんて、できるわけがない。
 
「俺はエルシーを愛してるんだ。他の女と結婚なんてできない」

 ジョナサンは眉間にしわを寄せてしばし考えて、尋ねる。

「僕は愛人の警護などご免ですよ? 本気で結婚なさるつもりなのですね、エルスペス嬢と」
「ああ、もちろんだ! エルシーは俺の一番大切な恋人だ。けして愛人じゃない」
 
 ジョナサンが苦笑し、頷く。

「まあ、僕はいいですが、ジェラルドは少し、厄介かもしれません」

 俺は眉を寄せ、唇を歪めた。

「わかっている。しばらく、ジェラルドはエルシーに近づけないようにする。その分、お前に負担をかけることになるが」
「誠心誠意、彼女をお護りしましょう」
「すまない、ジョナサン! 彼女を何かあったら、生きていけない」

 俺はアパートメントに着くと、踊るような足取りで昇降機エレベーターに乗った。




 
 玄関で出迎えたジュリアンの目が、なんとなく尖っている。――昨夜、エルシーと関係を持ったことに、当然、ジュリアンは気づいているだろうが……。

「エルシーは――」
「起きていらっしゃいません」
「体調が悪いのか」

 ジュリアンは首を振った。

「ノーラにも顔を見せず、ベッドにもぐりこんでいらっしゃると。お部屋を覗いても、上掛けをかぶってお顔をお見せくださいません。お食事もいっさい手をつけず――」

 俺が帰ったことに気づいたノーラが、エプロンで手を拭きながらやってきた。

「殿下……! まさかとは思いますけど、女性に無体を働いたわけじゃございませんよね?」

 ノーラににらまれ、実のところかなり無理矢理だったと自覚している俺は、一瞬、目を彷徨わせる。

「いや、大丈夫だ。最初は、ぶつぶつ言っていたけど、最後の方はちゃんと――」
「途中で、シャワーは浴びられたのですよ。その間に、シーツなんかは交換させていただきましたけど……」

 ……つまり、ノーラは俺がエルシーの純潔を奪った証拠もばっちり見たわけだ……。

「ちょっと拗ねてるだけだ。俺がちゃんと説得する。――それより昼食を頼む。エルシーと一緒に食べようと思って、戻ってきたんだ」

 俺はそれだけ言って、足早に部屋に向かう。自分の部屋で上着を脱ぎ、ウエストコート姿でエルシーの部屋につながる扉を開けた。

 昨夜、一つになったベッドの上で、エルシーは上掛けと頭から被って、芋虫のように丸くなっていた。ベッド脇には朝食の用意とお茶のセットが乗った、ワゴン。……食事に手をつけた形跡はなかった。

 俺は紗幕をめくり、ベッドを覗き込む。

「まだ拗ねているのか? それとも体調が悪いのか?」

 ベッドの上の芋虫が、もぞもぞと動き、さらに深くもぐりこむ。……起きてはいるのだ。
 でも、上掛けにもぐりこんで、出てこない。

 ――まるで、ヤパーネのあの小説みたいだ。ヤパーネのあの小説、いろんな女をやたらに渡り歩く主人公の気持ちは俺にはわからなかったが、最愛の女性となる少女を手に入れる場面は何度も読んだ。無垢で清純で、主人公を兄のように慕っていた少女と、男女の関係になる場面。風俗や衣装は現代の我々とあまりに違うけれど、一線を越える興奮は同じだ。俺はエルシーとそうなる場面を何度も思い描いた。……だから、翌朝はベッドから出てこないんじゃないか、なんて想像もしていた。
 
 エルシーは千年前の東洋の小説なんて読んでいないだろうに。やっぱり、エルシーは俺の理想の女だ。すべてが夢のように思える。何をしても可愛いし、何もかもが愛おしい。

 きっと強引に純潔を奪った俺を恨んで、拗ねているけれど。でもどうしようもなかったんだ。もう、俺のものになったんだから、いい加減、諦めてくれよ。

 俺は、丸まった羽毛の芋虫の上にかがみこむ。

「朝食も食べてないじゃないか。――なあ、俺も昼食にするから、一緒に食べよう」

 俺がそう言って、無理に上掛けをめくったが、エルシーは俺に背を向けたまま、返事もしない。俺はその目じりに口づけ、髪を撫でて耳元で囁く。

「エルシー……お前は俺の秘書官だろう?」
「今日は休暇です」
「なんだ、やっぱり起きているんじゃないか。……意地っ張りの子猫め」

 俺はエルシーの拗ねた顔がもっと見たくなって、エルシーを仰向けにし、上から覆いかぶさるようにして見下ろした。機嫌の悪そうなブルーグレーの瞳が、俺をにらみつけている。寝間着はしっかり着ていて、それでも鎖骨が覗くようすが色っぽくて、裸だったら我慢できずに襲っていたなと俺は思う。

「……もしかして、そうやって俺を誘っているのか?……いつまでも寝ていると、襲ってしまうぞ?」
 
 俺が顔を近づけて言えば、エルシーは慌てて両手を振り回した。

「や、やめて! やめてください!」
「じゃあ、早く起きろ。ノーラとジュリアンも心配している」

 俺はそうして、拗ねた子猫をベッドから出すことに成功した。


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