上 下
14 / 68
第二章 忘れられた男 

特別業務

しおりを挟む
 リンドホルム城の図書室ライブラリー。天井の高い、やや湿気たその部屋には、鍵のかかるガラスの書棚に美術古書がたくさんあって、俺は時間があると入り浸っていた。

 窓の外の荒地ムアを嵐が吹き抜けるその午後、エルシーは俺を捜して図書室にやってきた。

「リジー?」

 木製の脚立に座って本を読んでいた俺は、エルシーの声を聴いて、書棚の向こうに声をかける。
 
「エルシー? 僕はここだよ」
「リジー、雷が……」

 そう言ったとたん稲光が輝き、一瞬の後、窓ガラスを震わして轟音がとどろく。

「きゃあっ……」
「待って、今、そっちに行く」

 俺は本を抱えて脚立を降り、エルシーのそばに駆け寄る。

「リジー、ご本を見てたの?」
「そう。絵の本だから、一緒に見よう。おいで」

 俺は絨毯の上に直接腰を下ろすと、エルシーの細い体を膝の上に抱き上げ、大型本を床に置いて、広げる。

「エル・グラン、という昔の、偉い絵描きの絵だよ」

 画面いっぱいに広がるのは、巨匠エル・グランの大作《最後の審判》。王都のワーズワース侯爵邸の、広間の天井画の、模写だ。

「これは僕は実物を見たことがある。……エルシーが王都に来たら、一緒に見に行こう」
「うん、約束ね――」


 




 最初のデートはやっぱりあそこにしよう。
 ワーズワース侯爵邸は王都の中心部にあるし、あそこの侯爵夫人は王妃のイトコで口うるさかったが、もう死んだ。侯爵も死んで、跡取りはどうしたっけ?
 まあいい。王子の俺が天井画を見せろと言えば文句は言うまい。理由はなんでもでっちあげれば――。

 そうと決めれば、俺はロベルトの姉でデザイナーのローリー・リーンのメゾンに行き、ドレスについて打ち合わせをする。「わざわざ下見に来なくても」なんてロベルトは言うが、エルシーの前でもたついたらかっこ悪い。
 
 だいたい何事も、「作戦」というのは入念な準備があってこそだ。
 敵の砦を奇襲で落とした時だって、俺は下見をして、周囲の地形を把握していた。だからこそ、悪天候を味方につけることができた。

 俺はドレス・メーカーの高級メゾンで、デザイナーのミス・リーンと打ち合わせをして――。

 

 なんと、ワーズワース邸が成金の資本家の所有になっていることを、初めて知った!

「なんなんだその、仮面舞踏会って」
「王都の若手の新興資本家が、交流のために開いている催しっすよ。ワーズワース侯爵邸の持ち主は前衛芸術家のパトロンを気取って、若手の芸術家を住まわせて、時々あそこでイベントをするんだそうですよ」

 ロベルトの調べによれば、戦争の末期、ワーズワース侯爵家は借財が嵩んであの邸を売却し、購入した新興資本家が仮面舞踏会を開催するようになったとか。

 ――俺たちが戦場で死に目に遭ってる頃から、仮面舞踏会だと? 殺すぞ。

 瞬間的に殺意が湧いたが、それを理性で抑え込み、なおもロベルトを促して報告を聞く。新興資本家の多くは投資家であるから、その催しで情報を交換し、今や、王都の若手投資家垂涎すいぜんの社交場なんだと。

「チケットが一人――」
「チケット制なのか!」

 そのチケットの価格を聞いて、俺は目を剥いた。出せない金額ではないが、ものすごくバカバカしい気がする。

「まあでも、そういう情報を得ておくのも悪くはないな」
「けっこう、ヤバイ取引も行われているっぽいっすね。先物、違法薬物、盗難美術品のオークションへの招待状――」
「なるほど」

 俺はラルフ・シモンズに命じて特務と連携を取り、その仮面舞踏会に潜入することにした。

「ただし、だ今回はあくまで情報収集でとどめろ。検挙は証拠を固めてからだ」
「了解です」

 ロベルトとラルフが応じ、俺は両手を握り締めて気合を入れる。

「……最大の目的は俺とエルシーのデートだ! いいな、邪魔するなよ!」

 ロベルトとラルフにものすごく微妙な目で見られたけれど、俺の決意は固かった。

 


 一番の難関は、エルシー本人をどうやって誘うかだ。
 秘書官への就任は、エルシーは納得はいっていないようだったが、了承した。ついでに、ハートネル中尉とも付き合っていない、という言質も得た。

 方向が同じだから付きまとわれて迷惑、という発言に、俺は安堵のあまり、ついつい大笑いしてしまった。

 だが、仮面舞踏会への参加を了承させるのは難しい。

 もちろん、事情を全部話して――俺がリジー・オーランドだということも――一緒に天井画を見ようと誘えば簡単だ。でも、そうなると、なぜアルバート王子が身分を隠し、リジーとしてリンドホルムで療養しなければならなかったのか、王妃の虐待やローズとの関係についてまで、洗いざらい話すことになるが、アルバート王子が実は庶子だなんて、打ち明けられてもかえって迷惑だ。

 エルシーは現在、爵位を失って事務職員をしている。そうなった原因はもちろん、マックスが死んだせいだし、それは俺を庇ったからだ。その入り組んだ事情を、エルシーに説明するのはとても神経を使う。少なくとも、もうちょっと親しくなってからじゃないと、勇気がでない。

 二人ででかけて、もっと二人の仲が進展してから、真実を説明しよう。――俺はそう、考えていた。
 



 司令の執務室に呼び出されたエルシーは、背筋をまっすぐに伸ばし、臆することなく俺を見つめた。その視線に、俺の方がドキドキして、いったい何から話していいかわからなくなる。今日こそ、エルシーを連れて・リーンのメゾンに行き、ドレスの採寸をしないとさすがに間に合わないと、ロベルトに釘を刺されている。

「その……エル……じゃなくてお前は事務職員じゃなくて、秘書官になったわけだが――」
「はい」
「事務職員と違い、秘書官の業務は多岐にわたる。俸給が上がる以上、今まで以上にいろいろやってもらうことになるが……」

 いや、俺はなんでこんな高圧的に喋っているんだよ、落ち着けと思うが、エルシーはあっさり頷く。

「もちろん、覚悟しております。できる限りのことは務めさせていただきますので、なんなりとお申し付けください」
 
 澄ました表情で頭を下げられ、俺は妙な興奮すら覚える。
 おいおい、上司にそんな簡単に、「なんでもやります」なんて言って、あんなことやこんなことや命じられたら、いったいどうするつもりだよ。俺はただ、旧ワーズワース邸での仮面舞踏会に誘いたいだけなのだが、俺の口は乗っ取られたように、意味不明な言辞を紡ぎ始める。

「女にしかこなせない、女特有の業務を言いつけることになると思うが……」

 俺が女で、こんなこと言われた日には、上司を殴って逐電チクデンするところだが、エルシーは意味が理解できないらしく、首を傾げる。

「例えば、だ。俺が身分を隠して何かのパーティーに潜入するとき、パートナーとして伴うのは女しか無理だ」

 旧ワーズワース邸には身分を隠して行くつもりだから、満更嘘でもないが、エルシーは露骨に眉を顰めた。

「潜入? 殿下ご自身で?」

 エルシーは無表情のクセに、考えていることが顔に出る。「バッカじゃないのかしら、この人」と顔に書いてある。俺だってそう思う。でも他に誘う名目が思いつかないんだよ!

 エルシーの冷たい視線にいたたまれなくなった俺は、誤魔化すために机の上のケースから紙巻煙草シガレットを取って、火をつける。落ち着け、俺。

 が、これがさらによくなかった。エルシーがあからさまに眉を顰めたのだ!

「煙草は嫌いか?」
「ええ」

 はっきりと言われて、しかし今さら引っ込みもつかなくて、俺は煙草を吸い続けるしかない。この、妙にスッパリしたところ、全く昔と変わらない。間諜スパイの真似事なんてできません、と言うエルシーを必死に説得し、かなり強引に、仮面舞踏会への同行に同意させる。
……王子の俺に誘われているのに、もう少し愛想ってものはないかよ。さすが「氷漬けの処女」と感心する俺に、エルシーがさらなる爆弾を落とす。

 俺がステファニーと相思相愛だなんてぬかしやがった。そういう噂があるのは知っているが、エルシー本人までが信じているのは耐えがたい。――エルシーはアルバート王子があの時のリジーだってことは知らない。それはわかっていても、とうしても頭に血が上って、拳で机を叩いてしまった。

 ブルーグレーの瞳を見開いたエルシーの怯えた表情に、俺は違う、そうじゃなくてと思うが、制御が効かない。

「言っておくが、お前は第三王子付きの秘書官だから。……つまり、俺の言うこと聞かなかったら即刻クビってこと。ばあさんの身体の具合もあまりよくはないんだろう?」

 俺の脅し文句に、エルシーが絶句して、さすがに言いすぎだと俺は慌てる。何とか懐柔しなければ! そうだ、ドレス! とにかくドレスの採寸に連れ出すんだ!

 俺は戸惑うエルシーを強引に司令部から連れ出し、馬車にひきずり込むように乗せ、十番街に向かった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【R18】寡黙で大人しいと思っていた夫の本性は獣

おうぎまちこ(あきたこまち)
恋愛
 侯爵令嬢セイラの家が借金でいよいよ没落しかけた時、支援してくれたのは学生時代に好きだった寡黙で理知的な青年エドガーだった。いまや国の経済界をゆるがすほどの大富豪になっていたエドガーの見返りは、セイラとの結婚。  だけど、周囲からは爵位目当てだと言われ、それを裏付けるかのように夜の営みも淡白なものだった。しかも、彼の秘書のサラからは、エドガーと身体の関係があると告げられる。  二度目の結婚記念日、ついに業を煮やしたセイラはエドガーに離縁したいと言い放ち――?   ※ムーンライト様で、日間総合1位、週間総合1位、月間短編1位をいただいた作品になります。

官能令嬢小説 大公妃は初夜で初恋夫と護衛騎士に乱される

絵夢子
恋愛
憧れの大公と大聖堂で挙式し大公妃となったローズ。大公は護衛騎士を初夜の寝室に招き入れる。 大公のためだけに守ってきたローズの柔肌は、護衛騎士の前で暴かれ、 大公は護衛騎士に自身の新妻への奉仕を命じる。 護衛騎士の目前で処女を奪われながらも、大公の言葉や行為に自分への情を感じ取るローズ。 大公カーライルの妻ローズへの思いとは。 恥辱の初夜から始まった夫婦の行先は? ~連載始めました~ 【R-18】藤堂課長は逃げる地味女子を溺愛したい。~地味女子は推しを拒みたい。 ~連載中~ 【R-18有】皇太子の執着と義兄の献身

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

処理中です...