【R18】女嫌いの医者と偽りのシークレット・ベビー

無憂

文字の大きさ
36 / 43
【番外編】モーガン公爵夫人アイリス・ローレンソン

白い結婚

しおりを挟む
「結婚はしたけれど、君を愛することはないよ」

 新婚初夜の褥の上で、あの人はわたくしにそう、告げた。

「俺はアビーを愛している。アビー以外は要らないと言ったけれど、父上は納得してくれなかった。だから、君を表向きの正妻として娶ることにした。私の愛はアビー以外にはないし、求めることも許さない」

 その残酷な宣言を、わたくしはただ、呆然と受け止めるしかなかった。

「君は大人しくお飾りの妻を演じてくれ。その見返りに、君の実家、フォレスト子爵家の借金は肩代わりしたし、今後も我がモーガン公爵家で後押しは約束する」
「それはつまり――」

 夫となったバーナードは、不機嫌そうに眉を顰め、ため息をつく。

「君とは白い結婚になるが、それを言い立てられては困るのだ」
「白い……結婚?」

 白い結婚がなんであるのか、それすら、その頃のわたくしは知らなかった。貴族の娘として、性的なものからは遠ざけられていた。結婚の後に当然、あるべきことも知らず、子供ができる理由も知らなった。

 ――すべては、夫となった人に任せるように。

 結婚の前夜にそう、母に諭されて、わたくしは嫁いだ。
 それが見えない牢獄に囚われるのと同じことだとは、思いもせずに。

 夫はナイフを取り出して自身の指を傷つけると、溢れ出た血を真っ白なシーツに擦りつける。

「これで結婚の儀式は終了だ。いいね?」

 ――それが、わたくし、モーガン公爵夫人となったアイリス・ローレンソンの、不幸な人生の幕開けだった。


 

 
 借金を抱えた弱小子爵家の娘であるわたくしのもとに、有数の名門貴族モーガン公爵家から結婚の話を持ち掛けられた時に、その不自然さに気づくべきだったのだ。
 父は借金の肩代わりと、モーガン公爵家の後ろ盾という条件に飛びつき、ろくな調査もせずに婚約した。夫が年上の愛人に夢中で、都合のいいお飾りの妻を探していたなんて、世間知らずのわたくしは思いもしなかった。

 夫は王都内の、繁華なタウンハウスに愛人のアビゲイル・ホワイトリィを住まわせ、入り浸った。わたくしには王都の外れの、ソーンバーグ・ハウスと呼ばれる瀟洒な屋敷を与えたが、夫が泊まるのは月に一、二度あるかないか。それもあの初夜の一夜を除いては寝室を訪れることもなかった。それでも公爵夫人として、王室の関わる正式な社交と領地の経営、膨大な使用人の管理などの厄介な仕事は、すべてわたくしに押し付けられ、それをこなすだけでアッと言う間に一年が過ぎた。

 そして――

「アビーが妊娠した。我が国では嫡出子しか爵位を継げない。君の子として届け出るから、妊娠しているふりをするように」

 夫に命じられてわたくしは仰天する。夫婦の営みがない「白い結婚」では、子供を孕むことはない。でも、愛人の子を我が子と偽るなんて――

「そこまでアビゲイル様を愛していらっしゃるなら、わたくしと離縁して、そちらと結婚なされば――」
「それができないから、こんな面倒なことをしている! うちが手を引いたらお前の実家など、あっと言う間に潰れるのだぞ、わかっているのか!」

 娼婦上がりのアビゲイルでは、公爵夫人に据えることはできない。だからこその、見せかけの妻なのだ。

 ようやく借金から解放され、弟に爵位を継がせられると喜んでいる実家のことを思えば、わたくしが耐える以外の道はなかった。

 そうしてわたくしは、産んでもいない嫡男、ベネディクトの母親のフリをし、また赤子など育てるのは嫌だというアビゲイルの代わりに子どもを養育した。
 幸いにもベネディクトは素直な子で、わたくしに懐いてはくれたが、いずれ自分の本当の母親が誰か知るだろう。

 女としての幸せをしらぬまま、瞬くまに二十年の月日が流れ、もう四十の声も間近になったある日、夫がタウンハウスで倒れたという報せがもたらされる。

「……倒れた。そう、お医者様はなんと?」
「それが、事情がよくわからぬまま、突然奥様……いえ、失礼いたしました、アビゲイル様がご旅行に行くと言ってお出かけになり、旦那様は寝ているからと……ですがあまりに様子がおかしいので寝室にお声をかけましたところ、口もきけないような状況でございまして。慌てて医師を呼びましたが……」
「どういうこと?」

 要領得ぬ従僕の言葉にわたくしは首を傾げるが、タウンハウスの執事がとにかくわたくしに来てほしいとの一点ばりで、わたくしは戸惑いながらも仕方なくタウンハウスに向かう。

 結婚して二十年。夫と愛人の愛の巣に、わたくしは近づくことすら禁じられていたのと言うのに。

 結論から言えば、夫は卒中の発作を起こし、アビゲイルは彼を見捨てて逃げたのだ。
 すぐにも医師を呼んでいれば軽い発作で済んだかもしれないのに、放置されたおかげでどうにもならないほど症状が進んでいた。

 わたくしは使用人を指揮し、看護の手筈を整える。この邸ではまともな主治医も置いておらず、わたくしは王立病院の医師に定期的に往診してもらうようにお願いした。

 大学カレッジに入学したばかりのベネディクトには、いつでも継承できるように弁護士に手続きを進めさせ、ひとまずわたくしが公爵夫人として引き続き事務を執る。
 すぐにも死ぬかと思った夫であったが、奇跡的に持ち直し、だがほぼ口もきけない寝た切りの状態で過ごすことになった。


 

 
 こうして五年近い日々が過ぎて、わたくしは四十三歳になっていた。ずっと夫を診てくれていた医師が王立病院を退いたとかで、新任の医師が我が家にやってきた。
 大学を出たばかりと聞いて不安もあったが、どのみち、夫の病状はこれ以上はよくはならないと言われていた。ただ世間体のためだけに医師を呼んでいるわけだから、どうでもいいと思い、わたくしは新任の医師を受け入れた。

 やってきた彼を見て、わたくしはしばし、時が止まったような気分で立ち尽くした。
 すらりと背が高く、金髪は綺麗に整えられて、仕立てのいいフロックコートを着こなした彼は、貴族の出だと一目でわかった。

「どうも。イライアス・ハミルトンと申します」

 玄関でトップハットを取って挨拶する彼に、わたくしは一瞬気圧されて、だが気を取り直して応える。

「モーガン公爵家の――バーナード・ローレンソンの妻、アイリスでございます」
「では早速診療と、問診を――」
「……まだ、ずいぶんとお若い

 思わず口にしてしまい、わたくしがハッとするが、彼は穏やかに微笑んだ。

「……はい。昨年大学を出たばかりの若造で……」

 だとすれば二十二か、三か……わたくしよりも二十も若いのだ。

「ベネディクトと同じくらいですわね。今年、ハートフォードを卒業いたしましたの」
「息子さん? 今はどちらに?」
「……息子は領地におりますわ。夫が倒れまして、できるだけ早くに継承させたいと思っておりますが、今はまだ領地の経営も不慣れですので」
「それは大変です」

 夫の寝室に導き、少し下がって診察を見学する。黒い往診カバンからカルテと聴診器を取り出し、わたくしや執事に尋ねながら何か書き取っていく。

「ご気分はいかがですか。では少しだけ胸の音を聞かせていただきますね……」
「うあ、う……」
「はい、大丈夫です、失礼いたしました」

 まともに口をきけない夫に対しても、丁寧な態度を崩さず、診療に不安なとこはない。

「前任のジェイコブ医師から処方も受け継いでおります。その薬で問題がないようでしたら、そちらをまたお出ししておきますので――」

 低く滑るような声にわたくしは魅了されて、気づけば彼から目が離せなくなっていた。
しおりを挟む
感想 55

あなたにおすすめの小説

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

借金まみれで高級娼館で働くことになった子爵令嬢、密かに好きだった幼馴染に買われる

しおの
恋愛
乙女ゲームの世界に転生した主人公。しかしゲームにはほぼ登場しないモブだった。 いつの間にか父がこさえた借金を返すため、高級娼館で働くことに…… しかしそこに現れたのは幼馴染で……?

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

ヤンデレにデレてみた

果桃しろくろ
恋愛
母が、ヤンデレな義父と再婚した。 もれなく、ヤンデレな義弟がついてきた。

処理中です...