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8、男の影
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デニスの残した財産をローズマリー・オルコットに渡すには、リントン伯爵にすべてを打ち明けなければならない。当然、ルーカスのことも。
もし、伯爵があの子の存在を知れば、すぐにも伯爵家に引き取ると言うに違いない。それくらい、ルーカスはデニスにそっくりだ。
しかし、ローズマリーはルーカスを手放すつもりはなく、ライラだって突然、デニスの息子がやってくるのは耐えられまい。だから僕はリントン伯爵にはまだ知らせず、ただ、オルコット男爵にだけ、「内密に」と言ってローズマリーの生存を伝えた。オルコット男爵家としては、妹が下町で未婚の母をやっているのは、貴族社会における外聞も悪い。「生きているのことはありがたいが、こちらからは何もできない」という手紙がきた。
僕はあれから、お菓子やルーカスの玩具を携え、何度か彼女の家を訪問した。
しかし、ローズマリーは頑なで、僕はいつもすげなく追い返された。だが、ルーカスはむしろ僕に懐いて、何かとまとわりついてきた。――僕の持っていくお菓子や、玩具が嬉しいのだろう。
だからたいてい、僕はローズマリーに追い出された後、階段のところでルーカスと話をするようになった。だがその日、僕が彼女の家に行くと階段の下にはすでにルーカスがいた。
「この前、おじさんにもらったご本ね、僕はまだ読めない。でも絵を見ているだけでも面白い」
その日、彼は僕が以前にやった、絵本を手にしていた。
「ああ、そうか、誰か大人に読んでもらったら……」
「……かあさまも字はあんまり得意じゃないって……」
「あ……」
そう言えば、オルコット男爵がそんな話をしていたのを思い出す。
ローズマリーは貴族とはいえ、かなりの底辺だ。母親を亡くし、父は長患い。家庭教師を雇う余裕もなく、早くから家事もしていたらしい。そんな環境では、読み書きを習得するのは難しかろう。
「じゃあ、おじさんが読んであげよう」
僕はローズマリーを後回しにして階段に腰を下ろし、ルーカスを膝の間に座らせて、絵本を開いた。騎士が旅をして魔物を退治し、お姫様と結婚する物語を読み上げてやる。ルーカスは目をキラキラさせながら物語に聞き入り、じっと絵と文字に見入っていた。
「すごいなあ、おじさん。僕も読めるようになりたい」
「学校に行ったら習うよ。僕は君をいい学校に入れるように、お母さんを説得しているところなんだけど――」
僕は絵本をルーカスに返し、立ち上がると埃を払いながら言った。
「そろそろお母さんに挨拶をして――」
すると、ルーカスがハッとして僕の上着の裾を掴み、引っ張る。
「今は行っちゃだめ。……マコーレー先生が来ているから」
「マコーレー先生?」
「お医者なんだ」
「医者?……お母さんは具合が悪いの?」
「わかんない。ヒンケツだって。僕は子供だから見ちゃいけないって、先生が来ると、僕は外で待ってないといけないの」
子供に見せられない貧血の治療? 瀉血でもすんのか?
僕は階段の下から彼女の部屋を伺う。
「マコーレー先生はそんなによく来るの?」
「うーん? 週に一回くらいかな?」
そんな話をしていると、扉が開く音がした。
「先生だ!」
こそっとルーカスが呟き、僕は反射的にルーカスを抱き上げて路地に身をひるがえす。
「おじさん?」
「しいっ!」
僕はルーカスの小さな身体を後ろから抱え上げるようにしして、路地の物陰に身を潜める。ちょうど、階段の上、玄関の足元だけがちらりと見える。――たぶん、あちらからは死角になって見えないはず。
黒い革靴が玄関のところで立ち止まり、一言二言、言葉を交わしている。それから向きをかえ、靴を鳴らして階段を降りてくる。しだいに姿が明らかになると、さして上等ではない黒いトラウザーズとコートが現れる。手には黒革の大きな診療カバン。そして、山高帽を被り、口元に髭を蓄えた冴えない中年男が、急ぎ足で去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕が尋ねる。
「あれが、マコーレー先生? 医者の?」
「……そうだよ?」
「いつも、昼間に来るの?」
「そうだね、お昼過ぎの、これくらいかな?」
僕はルーカスを地面に下ろし、階段の上と周囲を見回す。――医者が、往診するのは珍しくはない。だが、僕の見る限りでは、ローズマリーは顔色も普通だし、痩せすぎってほどでもない。少なくとも、毎週往診が必要な、重篤な貧血患者には見えなかった。
本当に往診なのか――?
「僕ね、マコーレー先生はあんまり好きじゃない。前に、僕の病気をタダで見てくれて、それから、今の家に引っ越したんだけど――」
「……そうなんだ。それはどのくらい前?」
「僕が三つか四つか。すごい高いお熱が出て、でも貧乏でお薬も買えないし、診てくれるお医者がいなくて――」
僕はルーカスの小さな帽子を脱がし、金髪をワシャワシャと撫でる。
「次に病気になったら、その時はおじさんが診てあげるよ。おじさんも実は医者なんだ」
ルーカスはびっくりした目で僕を見上げ、言った。
「そうなの? でもおじさんは、マコーレー先生みたいな大きなカバンは持ってないね?」
「おじさんは軍医……戦争に行ってて、帰ってきたところなんだ。いっぱい怪我人を診て、疲れたから休憩中なの」
「戦争に行ったんだ! すごいや! 大砲も撃った?」
「お医者だから、大砲にやられた人の治療が専門だ。例えば――」
好奇心の塊のような無邪気な瞳をキラキラさせて聞かれ、僕は大砲に直撃されて手足がもげたり、お腹に大穴の開いた兵士の話をしてやったら、ルーカスがますます興奮するのでしまったと思う。……子供にする話ではなかった。
そう、ルーカスはまだ幼い。この幼い子を女手一人で育てるのは並大抵ではない。
誰か、金銭的援助をしてくれる相手がいるのではないか。――だから、デニスの残した金を拒否できる。
僕の中にモヤモヤした疑いが湧きおこる。今すぐ階段を駆け上って玄関を蹴り上げ、ローズマリーを問い詰めたい。あるいは、医者を追いかけて脅しをかけるか――
だが、僕の中に残る理性がそれを押しとどめる。
僕には彼女を問い詰める理由がない。――今は、まだ。
その日、僕はローズマリーに会わずに帰った。顔を見たら余計なことを口走ってしまいそうだったから。
僕は即刻、探偵社にマコーレーという医者の調査を依頼した。
男はあのあたり一帯に患者を持ち、副業として家作を経営している、四十も半ばを越えた医者で、もちろん、妻子もいるとわかった。……そして決定的なことに、彼女の住むあの小さな家は、あの医者の持ち物だった。
「つまり、そういうことかよ……」
そりゃ、そんな治療は子供には見せられまい。
極めて不愉快だった。彼女が、あのつまらない医者に抱かれているのかと思うと、許しがたい気分だった。
なぜ、よりによって同じ医者なのだ。だったら、僕の方が若いし独身だし金持ちだし、何しろ侯爵様だ。顔だって僕の方がいいし、脚も長い。他ははともかく、「ヒステリー」治療の腕は僕の方が上だ。……たぶん。
ローズマリーが清く正しく生きているなら、僕もそれを尊重するつもりだったが、金目当て(たぶん)で妻子持ちの親父と寝ているなら、もう遠慮する必要はない。
僕は、ローズマリーを手に入れることを決意した。
もし、伯爵があの子の存在を知れば、すぐにも伯爵家に引き取ると言うに違いない。それくらい、ルーカスはデニスにそっくりだ。
しかし、ローズマリーはルーカスを手放すつもりはなく、ライラだって突然、デニスの息子がやってくるのは耐えられまい。だから僕はリントン伯爵にはまだ知らせず、ただ、オルコット男爵にだけ、「内密に」と言ってローズマリーの生存を伝えた。オルコット男爵家としては、妹が下町で未婚の母をやっているのは、貴族社会における外聞も悪い。「生きているのことはありがたいが、こちらからは何もできない」という手紙がきた。
僕はあれから、お菓子やルーカスの玩具を携え、何度か彼女の家を訪問した。
しかし、ローズマリーは頑なで、僕はいつもすげなく追い返された。だが、ルーカスはむしろ僕に懐いて、何かとまとわりついてきた。――僕の持っていくお菓子や、玩具が嬉しいのだろう。
だからたいてい、僕はローズマリーに追い出された後、階段のところでルーカスと話をするようになった。だがその日、僕が彼女の家に行くと階段の下にはすでにルーカスがいた。
「この前、おじさんにもらったご本ね、僕はまだ読めない。でも絵を見ているだけでも面白い」
その日、彼は僕が以前にやった、絵本を手にしていた。
「ああ、そうか、誰か大人に読んでもらったら……」
「……かあさまも字はあんまり得意じゃないって……」
「あ……」
そう言えば、オルコット男爵がそんな話をしていたのを思い出す。
ローズマリーは貴族とはいえ、かなりの底辺だ。母親を亡くし、父は長患い。家庭教師を雇う余裕もなく、早くから家事もしていたらしい。そんな環境では、読み書きを習得するのは難しかろう。
「じゃあ、おじさんが読んであげよう」
僕はローズマリーを後回しにして階段に腰を下ろし、ルーカスを膝の間に座らせて、絵本を開いた。騎士が旅をして魔物を退治し、お姫様と結婚する物語を読み上げてやる。ルーカスは目をキラキラさせながら物語に聞き入り、じっと絵と文字に見入っていた。
「すごいなあ、おじさん。僕も読めるようになりたい」
「学校に行ったら習うよ。僕は君をいい学校に入れるように、お母さんを説得しているところなんだけど――」
僕は絵本をルーカスに返し、立ち上がると埃を払いながら言った。
「そろそろお母さんに挨拶をして――」
すると、ルーカスがハッとして僕の上着の裾を掴み、引っ張る。
「今は行っちゃだめ。……マコーレー先生が来ているから」
「マコーレー先生?」
「お医者なんだ」
「医者?……お母さんは具合が悪いの?」
「わかんない。ヒンケツだって。僕は子供だから見ちゃいけないって、先生が来ると、僕は外で待ってないといけないの」
子供に見せられない貧血の治療? 瀉血でもすんのか?
僕は階段の下から彼女の部屋を伺う。
「マコーレー先生はそんなによく来るの?」
「うーん? 週に一回くらいかな?」
そんな話をしていると、扉が開く音がした。
「先生だ!」
こそっとルーカスが呟き、僕は反射的にルーカスを抱き上げて路地に身をひるがえす。
「おじさん?」
「しいっ!」
僕はルーカスの小さな身体を後ろから抱え上げるようにしして、路地の物陰に身を潜める。ちょうど、階段の上、玄関の足元だけがちらりと見える。――たぶん、あちらからは死角になって見えないはず。
黒い革靴が玄関のところで立ち止まり、一言二言、言葉を交わしている。それから向きをかえ、靴を鳴らして階段を降りてくる。しだいに姿が明らかになると、さして上等ではない黒いトラウザーズとコートが現れる。手には黒革の大きな診療カバン。そして、山高帽を被り、口元に髭を蓄えた冴えない中年男が、急ぎ足で去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕が尋ねる。
「あれが、マコーレー先生? 医者の?」
「……そうだよ?」
「いつも、昼間に来るの?」
「そうだね、お昼過ぎの、これくらいかな?」
僕はルーカスを地面に下ろし、階段の上と周囲を見回す。――医者が、往診するのは珍しくはない。だが、僕の見る限りでは、ローズマリーは顔色も普通だし、痩せすぎってほどでもない。少なくとも、毎週往診が必要な、重篤な貧血患者には見えなかった。
本当に往診なのか――?
「僕ね、マコーレー先生はあんまり好きじゃない。前に、僕の病気をタダで見てくれて、それから、今の家に引っ越したんだけど――」
「……そうなんだ。それはどのくらい前?」
「僕が三つか四つか。すごい高いお熱が出て、でも貧乏でお薬も買えないし、診てくれるお医者がいなくて――」
僕はルーカスの小さな帽子を脱がし、金髪をワシャワシャと撫でる。
「次に病気になったら、その時はおじさんが診てあげるよ。おじさんも実は医者なんだ」
ルーカスはびっくりした目で僕を見上げ、言った。
「そうなの? でもおじさんは、マコーレー先生みたいな大きなカバンは持ってないね?」
「おじさんは軍医……戦争に行ってて、帰ってきたところなんだ。いっぱい怪我人を診て、疲れたから休憩中なの」
「戦争に行ったんだ! すごいや! 大砲も撃った?」
「お医者だから、大砲にやられた人の治療が専門だ。例えば――」
好奇心の塊のような無邪気な瞳をキラキラさせて聞かれ、僕は大砲に直撃されて手足がもげたり、お腹に大穴の開いた兵士の話をしてやったら、ルーカスがますます興奮するのでしまったと思う。……子供にする話ではなかった。
そう、ルーカスはまだ幼い。この幼い子を女手一人で育てるのは並大抵ではない。
誰か、金銭的援助をしてくれる相手がいるのではないか。――だから、デニスの残した金を拒否できる。
僕の中にモヤモヤした疑いが湧きおこる。今すぐ階段を駆け上って玄関を蹴り上げ、ローズマリーを問い詰めたい。あるいは、医者を追いかけて脅しをかけるか――
だが、僕の中に残る理性がそれを押しとどめる。
僕には彼女を問い詰める理由がない。――今は、まだ。
その日、僕はローズマリーに会わずに帰った。顔を見たら余計なことを口走ってしまいそうだったから。
僕は即刻、探偵社にマコーレーという医者の調査を依頼した。
男はあのあたり一帯に患者を持ち、副業として家作を経営している、四十も半ばを越えた医者で、もちろん、妻子もいるとわかった。……そして決定的なことに、彼女の住むあの小さな家は、あの医者の持ち物だった。
「つまり、そういうことかよ……」
そりゃ、そんな治療は子供には見せられまい。
極めて不愉快だった。彼女が、あのつまらない医者に抱かれているのかと思うと、許しがたい気分だった。
なぜ、よりによって同じ医者なのだ。だったら、僕の方が若いし独身だし金持ちだし、何しろ侯爵様だ。顔だって僕の方がいいし、脚も長い。他ははともかく、「ヒステリー」治療の腕は僕の方が上だ。……たぶん。
ローズマリーが清く正しく生きているなら、僕もそれを尊重するつもりだったが、金目当て(たぶん)で妻子持ちの親父と寝ているなら、もう遠慮する必要はない。
僕は、ローズマリーを手に入れることを決意した。
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