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1巻

1-3

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 嫌な予感がして、わたしの心臓がバクバクと脈打つ。無意識に、リュシアンのくれたペンダントを握りしめる。そんなわたしを気遣うように、クレール侯爵は言葉を濁した。

「実は、リュシアンは今日のために休みを申請し、普通に許しも出ていたのです。ですが――」

 ちょうどその時、屋敷の門のあたりに新たな客が到着したらしいざわめきが起きた。
 遠目に見れば、馬車の周囲に王家の旗が翻っている。

「……王族?」

 でも今日は、王太子夫妻は来られないと言っていた。
 どういうこと? とクレール侯爵を振り仰ぐと、彼は苦い顔で言った。

「その……レティシア王女殿下がどうしても、我が家のバラを見たいとおっしゃったそうで――」
「レティシア様が?」

 クレール侯爵夫妻が露骨に気まずそうな表情をしている。この園遊会はレティシア様とリュシアンの噂を払拭するために企画したのに、そこにレティシア様ご自身がやってきてしまったのだ。気まずいどころではないだろう。

「本当に申し訳ない。息子は護衛騎士として王女殿下にお仕えしているだけで、やましい仲ではないのです」

 クレール侯爵にしてみれば、次男であるリュシアンの婿入り先として、我が家以上の好条件の家はない。
 我が家との話が潰れてしまうのは困るのだろう。レティシア様は隣国への嫁入りが決まっていて、リュシアンがレティシア様の婿になれる可能性は、万に一つもないのだから。
 そうしている間にも、車寄せの前でリュシアンが跪き、レティシア様が馬車から優雅に降り立つ。
 今日もリュシアンの銀髪とレティシア様の金髪はキラキラと輝いていた。
 噂通りに仲睦まじげに寄り添う二人の姿に胸がぎゅっと締めつけられる。
 それ以上、その場にいるのは無理だった。

「お父様……わたし、帰りたい」

 お父様がわたしの背中を支えるようにして撫でて言った。

「クレール侯爵夫妻、せっかくのお招きですが、娘の体調が悪いようなので、わたしどもはこれで……」
「ええ……申し訳ない。この埋め合わせは必ず……」

 目立たないように退出するわたしたちを、リュシアンの兄上が車寄せまで送ってきた。

「すみません……今日になって王女殿下が突然言い出されたそうで、我々も何がなんだか……」

 言い訳する兄上に、お父様が苦笑なさった。

「最近、レティシア様は夜会にもリュシアン殿を伴って出席なさっているそうですな。うちのクロエはまだ社交デビュー前ですが、婚約は王家にも届け出た正式なものです。あまりに目に余る噂が流れるようなら、我が家のメンツにも関わります。リュシアン殿にはくれぐれも……」
「よく言って聞かせます。確かに、弟は王太子殿下のご学友に選ばれた縁で、レティシア様とは幼いころから顔見知りではありますが、弟からは特に親しいという話も聞いたことはなくて。今度の噂にも我が家は困惑する一方で……リュシアンには異動願いを出すように言っているのですが……」

 二人の話を上の空で聞きながら、わたしはフラフラと車寄せに向かう。前から、レティシア様とリュシアンが腕を組んでこちらに向かってきた。
 レティシア様の大きく開いたドレスの胸元に、紫色の小さな宝石がきらめいている。
 ――アメジスト! 
 鈍器で殴られたような衝撃を受け、その場に縫い留められたように足が動かない。
 ハッと息を止めるわたしたちの前で、レティシア様がぎゅっとリュシアンに寄り添い、その腕に抱きついた。

「ご、ごめんなさい! わたくし、うっかりして、こちらにクロエ嬢が招待されていることをすっかり忘れて――」

 青い瞳を潤ませてふるふると震えるレティシア様の可憐な様子に、父もそれ以上は何も言うことができなかったらしく、ただ無言で頭を下げてすれ違う。リュシアンは一瞬視線を逸らし、だが表情は変えずに通り過ぎた。
 わたしは無意識に、自分の胸元のアメジストに触れて存在を確かめる。
 わたしがねだって、贈ってくれたアメジスト。覚えていてくれた、約束のプレゼント。
 ――でも、レティシア様にも、同じものを贈ったの? 
 心臓が痛いほど脈打っている。リュシアンはいったい、何を考えているの? 


   ◆◆◆


 クレール侯爵家の園遊会に腕を組んで出席したことで、リュシアンとレティシア様の噂はさらに加速した。
 曰く、リュシアンとレティシア様は幼馴染で二人は憎からず想い合っていたが、レティシア様に隣国との縁談が出て、リュシアンはいったん身を引いた。だが、隣国の王太子の不実に傷ついたレティシア様を放っておけず、リュシアンは護衛騎士として王女に仕えることにした。長く伸ばした銀の髪は、レティシア様への忠誠の証だと。
 しかし、クレール侯爵には、リュシアンを王女の婿にするつもりはないらしい。我がメレディス辺境伯家の機嫌を損ねたことを重く見て、即座に侯爵自身から丁寧な謝罪の手紙があった。
 今回のことはレティシア様の突然のわがままだが、主催のパーティに王族の来臨を賜った形になるので、クレール侯爵家から王家に苦情を言い立てることはできない。ただ、リュシアンの将来のためにも、レティシア様との噂がこれ以上広がるのは困る。リュシアンを王女の護衛から外してもらうよう、王家に申し入れるつもりだと書いてあった。
 クレール家の困惑も理解できなくはないが、苦々しい気持ちでその手紙を読む。

「あちらも、婿入り先を失うわけにはいくまいからなあ。リュシアンも王女殿下のわがままを抑えることができなかったのだろう。我が家から王太子殿下のお耳に入れておこう」

 お父様もそうおっしゃって、王宮に出かけていった。
 わたしは登城する元気もなく、ただお父様の背中を見送った。
 その日、王宮から戻ってこられたお父様は、ずいぶんと疲れた表情をしておられた。

「クロエ……リュシアンのことだが……」

 お父様が言いにくそうにわたしに告げた。

「王太子殿下とも相談したが、しばらくは王女殿下の護衛から外すことはできないそうだ」
「……はあ、そうなのですか」

 リュシアンは自らレティシア様の護衛に志願したと聞いている。彼の気持ちがレティシア様にあるなら、周囲が無理に引き剥がしても無駄では……
 無意識に首元のペンダントを握りしめ、そんなことを漠然と考えているわたしに、お父様が続ける。

「来年には、お前も社交界デビューする。そこでリュシアンがエスコートすれば、お前とリュシアンの婚約は周知されるだろう。その後、なるべく早く正式に式を挙げれば、噂も鎮まるはずだ」

 わたしとリュシアンの婚約は我が家を継ぐための政略目的だから、リュシアンの気持ちを無視して進むのも仕方がない。でもそれで本当にいいのかしら?
 内心に生じた疑念を振り払うように、私は聞く。

「それで、リュシアンはいいとして、レティシア様は?」

 クレール侯爵家で、まるで恋人同士のように腕を絡め合っていた二人の姿を思い描きながら言えば、お父様がため息をついた。

「レティシア様のお輿入こしいれの時期については隣国と協議中だが、暗礁に乗り上げているようだ」

 クレール侯爵家の園遊会の当日、王太子殿下はレティシア様の婚姻について隣国の使者と協議していたらしい。

「……王太子殿下がおっしゃるには、おそらくレティシア様は、リュシアンとの噂を隣国の使者の耳に入れるために、わざとクレール家に赴いたのだろうと」
「わざと?」

 お父様が頷く。

「レティシア様は、隣国の王太子との婚約を白紙に戻したいと考えておられる」
「それはまあ……たしかにあの王太子では……」

 レティシア様との婚約が決まっているのに、恋人を妊娠させてしまった人だ。
 頷くと、お父様もため息を吐いて頷いた。

「王太子の子は女児だったそうだ。隣国では女児に継承権はない。そこで王太子も子の認知はするが、令嬢との結婚は諦めたらしい」

 どうしても結婚するなら王族の籍を抜くと、隣国の国王が通告したそうだ。

「だから、レティシア様は遠からず隣国に嫁ぐ。それは間違いないが、もう一つ問題があって――」
「問題?」

 お父様の、眉間の皺がさらに深くなる。

「イネスに……王太子夫妻にまだ、子どもが生まれない」
「イネス姉さまに……」
「国王陛下のお子はレイノール殿下とレティシア殿下のお二人だけ。レティシア殿下を異国に嫁がせると、その次は国王陛下のイトコの公爵まで隔たってしまう」

 隣国に嫁ぐにあたりレティシア様は王位継承権を放棄することになる。王太子殿下に後継ぎがいない現在、レティシア様を国外に出すのを反対する貴族も多いのだという。
 つまり……わたしが目を見開くと、お父様が頷いた。

「レティシア様もそのことを見越して、わがままを言っているところもある。レティシア様を嫁がせるならば、王太子殿下にはご愛妾を、という意見もあるらしく……」
「そんな……!」

 イネス姉さまが嫁いで二年が経つ。王太子殿下との仲は、見ている方が赤面するほど睦まじいのに、子供ができないからってご愛妾だなんて、あんまりではないか。

「王太子殿下もそれは避けたいと思っておられる。イネスが子供さえ生んでくれれば、レティシア様の輿入こしいれになんの障害もなくなる」

 お父様はわたしの顔を見つめ、気まずそうな表情で言った。

「だからその……イネスがもう少し落ち着くまで、お前も王都でイネスを支えてやってほしい」

 イネス姉さまが子を産むまでレティシア様を嫁にだせず、リュシアンも護衛から外すことができないのだと。
 ――やはり、リュシアン自身がレティシア様の護衛でいることを望んでいるから――? 
 それはそれでわたしの胸はずきずきと痛み、わたしは目を伏せて俯いた。

「では、婚儀の直前まで、リュシアンはレティシア様の護衛を務めるわけですね?」
「そうなるな。今、二人の仲が噂になっているところでリュシアンを配置換えすると、我が家の差し金と思われてしまう。――というか、レティシア様がそのように世論を誘導する可能性がある。我が家から王太子妃を出している以上、世論の動きに敏感にならざるを得ない」

 生来の美しさで国民人気の高いレティシア様と我が家が対立していると思わせたくはない。
 お父様はそう、おっしゃった。

「イネスのためにお前に我慢をいるようで悪いが……」
「いいえ。王宮のイネス姉さまの方が、きっとわたしの何倍も苦しいわ。わたしは大丈夫。社交デビューさえすれば――」

 そうして、その日の話は終わった。園遊会の出来事は非常に不快ではあったけれど、騒ぎ立てればかえって我が家の恥になる。所詮、あと一年の辛抱なのだから――
 だが、わたしやお父様の見通しは甘かったのだ。
 翌年の社交界デビューの頃には、レティシア様と護衛騎士リュシアンの噂は王都中に広がっていた。お父様が推測した通り、おそらくレティシア様は意図的に噂を広めているのだ。
 隣国の、不実な婚約者に嫁ぐはずの、けなげな王女の悲恋の物語として。


   ◆◆◆


 リュシアンとは会えないまま、デビューの日がやってきた。
 わたしはリュシアンの瞳の色に合わせた薄紫色のドレスをあつらえ、首飾りはあえて真珠にした。
 首飾りの下に、リュシアンからもらったペンダントを身に着け、垂れる小さなアメジストが目立つようにする。リュシアンの出迎えを待つ間、わたしは鏡の前でくるりと一回りして、おかしくないか何度も確認した。
 薄紫がわたしに似合う色じゃないのはわかっているけど、わたしはどうしても、リュシアンの色を身につけたかった。
 リュシアンもデビューの重要性を理解しているのか、遅刻することもなく、我が家まで馬車で乗りつけてくれた。
 その姿を見て、わたしはわずかに息を吐いた。
 ずいぶん、久しぶりに会った気がする。
 彼も少しばかり気まずそうで、訪問できなかったことを詫びてくれた。

「なかなか休みが取れなくて、会いに来られなくてすまなかった。……ドレスや装身具も、俺が準備できればよかったんだが――」
「それは、大丈夫です。お姉さまと選んだの。リュシアンは忙しそうだったから」
「俺は女性のドレスに造詣が深くないから、あまり役には立てそうにない。それでよかったのかもな」

 デビュタントのドレスは親が娘のために仕立てるか、恋人や婚約者から贈られるか、半々くらいだから、リュシアンのセンスが未知数である現状、似合わない変なドレスを贈られるよりは、うんとマシだ。
 ――デビュー前に全く打ち合わせもできない状況が異常ではあるけれど。
 そういうリュシアンは、いつもと違う白を基調とした騎士服に、わたしの目の色に合わせたエメラルドのピンを帽子に挿している。普段の紺色の騎士服も素敵だけれど、この衣装は彼の銀髪によく映えていて、あまりの格好良さに心臓がドキドキした。
 彼は、長い脚をわたしの目の前で優雅に折り、わたしの手の甲に口づけて言った。

「綺麗だ、クロエ。君をエスコートできて光栄だ」
「ありがとう、リュシアン」

 それでも、その言葉にうまくはしゃぐことが出来ない。
 ――それは本心? 心から、そう思ってくれている?
 きっと不安が常態化して、何か起こるのではと気が気でなくなっているせいだ。
 さすがに、今日は何も起きないと思いたい。
 わたしはリュシアンの肘に手を預け、いつもとは違う心持ちで王宮に上がった。
 ほかのデビュタントたちと並んで、王宮の大広間への入場を待つ。
 シャンデリアで、会場は昼間のように明るく照らされている。
 初めての夜会。初めてのダンス。王宮の大広間も夜に来るのは初めてだ。
 高い天井には建国神話を描いた華麗なフレスコ画が広がり、シャンデリアの灯が金銀の装飾とクリスタルに反射して、キラキラと輝いている。
 居並ぶ貴顕淑女の豪華な衣装、笑いさざめく声。すべてが夢のように美しくて、わたしはうっとりと立ち尽くす。傍らに立つリュシアンの横顔をそっと見上げると、彫像のように完璧な美貌がそこにあった。うなじで一つにまとめられた銀の髪が背中に垂れ、光を弾いて揺らめく。
 じっと見つめている視線に気づいたのか、彼がわたしを見返して紫の瞳を見開き、それからかすかに微笑んだ――ように見えた。
 ああ、リュシアンはとても素敵だった! 
 本日のデビュタントの中で、わたし以上に素敵な婚約者を持つ人なんていないだろう。わたしは、今までの苦しみも忘れて、ただリュシアンに見惚れた。
 整列して入場後、他のデビュタントたちと一緒にいったん広間の隅にはけて、王太子夫妻のファーストダンスを見守る。広間には華やかな音楽と、楽しげな笑い声が溢れている。
 今夜も、イネス姉さまはとても綺麗で、王太子殿下と見つめ合って踊る姿も楽しそうだった。その姿を見るだけで、わたしの胸も温かくなる。これが終われば次は、デビュタントたちのダンスだ。
 ――リュシアンとの初めてのダンスに備え、ずいぶんと練習を重ねてきたのだ。無表情ながら、リュシアンの眼差しも普段より柔らかい気がする。
 リュシアンは私の前に立つとそっと手を差し出した。

「踊っていただけますか?」
「はい! もちろん!」

 型どおり、リュシアンが白手袋をめた右手でわたしの手を取り、左手を胸に当てて頭を下げる。
 それに妙に勢い込んで答えてしまったけれど、わたしにとっては夢に見た瞬間だったから。
 リュシアンの腕の中で音楽の拍を待っていた、その時。
 ――突然、王族席の周辺からけたたましい悲鳴が聞こえた。
 音楽が鳴りやみ、周囲が騒然となる。

「何事?」

 わたしが無意識にリュシアンの腕にすがりつけば、リュシアンもわたしの肩を安心させるように、そっと撫でる。

「大丈夫だ、俺が――」

 その時、王族席の方から一人の騎士が駆けてきた。

「隊長! レティシア殿下が――」
「俺は、今日は非番だ」
「ですが、お怪我をなさって――」
「レティシア様が?」

 わたしたちは顔を見合わせる。
 すぐに侍従長が宴の再開を促し、音楽が流れ始める。一瞬、みな戸惑ったが、周囲は踊り始めた。
 だが、わたしたちはすっかり、ダンスの気勢を削がれてしまっていた。
 リュシアンがため息をつく。

「非番だが、護衛隊長としては、その場にいたのに無視するわけにはいかない。少し順番が変わってしまうけれど、ダンスは後回しにして先に王族席に挨拶に行かないか」
「ええ。……わたしもそれがいいと思う」

 わたしたちが連れだって王族席に近づくと、周辺は護衛騎士が取り囲み、騒然としていた。

「何があった」

 リュシアンが部下を捕まえて情況を訪ねれば、部下が説明する。

「レティシア様がワインを運んできた給仕と接触して転倒し、ドレスにワインがかかってしまったのです。足をひねったのか立ち上がれないとおっしゃって――」

 ファーストダンスを終えて王族席に戻ってきた王太子夫妻も、何が起きたのかわからない様子で呆然としている。

「クロエ!」
「イネス姉さま! ……じゃなくて王太子妃殿下!」

 姉さまがわたしに近づき、そっと抱きしめて耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。

「いつもの手よ。あの人、周囲の同情を買うためにわざと転ぶの」
「姉さま?」

 見れば、レティシア様は駆け寄ったリュシアンに抱き着かんばかりに甘えている。
 そのせいで、レティシア様が浴びた赤ワインの染みが、リュシアンの白い騎士服にも飛んでいた。
 ――あれでは、リュシアンも着替えなければならない――

「リュシアン、助けて、足が!」
「いったいどうなさったのです。急に立ち上がるからそんなことに」

 さすが、リュシアンは服の汚れを気にすることなくレティシア様に近づき、状況を尋ねる。そして、周囲の騎士にレティシア様を支えるよう指示を出した。だが、レティシア様本人が、頑としてリュシアン以外の騎士の手助けを受け入れようとしない。

「リュシアン! あなたでなければいや! ほかの人は触らないで!」

 王族の威厳もなんのその、レティシア様の取り乱した声に、集まってきた貴族たちがざわめいた。このままでは、舞踏会そのものがめちゃくちゃになってしまう。
 公式の場で、王族の醜態をこれ以上晒させるわけにいかず、王太子殿下が仕方なく命じた。

「リュシアン、非番の日にすまないが、レティシアを退出させてくれ」
「殿下……」

 リュシアンの眉間にはっきりと皺が寄せられる。彼はちらりとわたしを見てから、それからレティシア様を横抱きに抱き上げ、広間を出て行く。レティシアさまはぎゅっとリュシアンの白い騎士服にすがりつき、肩越しにわたしと目を合わせた。
 一瞬だけ、その表情に勝ち誇った笑みが浮かんだのを、わたしは見逃さなかった。
 もちろん、その後リュシアンが広間に戻ってくることはなく、わたしはずっと一人で放置された。
 壁際で一人、広間を眺めているわたしの耳に同じデビュタントのあざけりの声が入ってくる。

「あの人、さっきからずっと一人ね」
「しょうがないわよ。レティシア様の恋人の婚約者だもの。お気の毒よね」

 クスクスと笑いさざめく声。
 わたしはその場の嘲笑にいたたまれず、夜会の途中で会場を後にした。――わたしの社交デビューはリュシアンとダンスを踊ることもできないまま、苦い思い出だけが残ったのだった。


 不測の事態とはいえ、デビューの夜会で放置されて、わたしはすっかり落ち込んだ。
 さすがのお父様も腹に据えかねて、わたしを辺境に連れて帰ると言い出した。
 あれはどう見ても、レティシア様がわたしのデビューを妨害したのだと。
 けれど、わたしが辺境に帰ってしまうと、イネス姉さまを支える人がいなくなる。
 王太子殿下がレティシア様の代わりに平謝りして、わたしを王都に引き止めた。
 肝心のレティシア様本人は、王太子殿下から叱られてもどこ吹く風で、その頃には夜な夜な、リュシアンや取り巻きを引き連れて王都の夜会に繰り出していたと聞く。
 そこでまた仲睦まじい二人の姿を周囲に見せつけ、噂は広がるばかり。
 ――いつしか、わたしは婚約者に顧みられない哀れな令嬢から、愛し合う幼馴染の二人を引き裂く、横入りのお邪魔虫だと言われるようになっていた。



   第三章 王女と騎士と、お邪魔虫


 王宮へ伺候する以外は引きこもっているわたしを心配して、王太子殿下がわたしと姉さまのために、王都の歌劇場のボックス席を手配してくださった。

「一生に一度のデビューを潰されたのが、こんなので帳消しにできることじゃないけれど、せめて気晴らしをしてほしいと、レイノール殿下もおっしゃって……」

 王宮から馬車に同乗して歌劇場に乗りつける道すがら、イネス姉さまが言った。

「レイノール殿下もレティシア様には厳重に注意なさったのよ。レティシア様の素行は目に余ると。あちこちの夜会に出入りしては、あなたやわたしの悪口を吹聴しているらしいわ」
「わたしはともかく、姉さまの悪口まで言うなんて……信じられないわ」

 わたしは婚約者に顧みられない哀れな令嬢として、社交界ですっかり有名だった。
 お父様がリュシアンに立腹したまま辺境に戻ったため、結婚式の日取りも決まっていない。もっと言えば、あの後クレール侯爵家を通してお詫びの手紙が届いただけで、それっきりリュシアンが会いに来ることもない。
 俯くわたしに、イネス姉さまが言った。

「レイノール殿下にも、クロエに甘え過ぎだと、文句を言ったのよ」

 その言葉に、わたしはびっくりして、思わず顔を上げた。

「姉さまが? 殿下に?」

 姉さまが申し訳なさそうに眉尻を下げている。

「王都にいたらどうしたって嫌な噂が耳に入るわ。レティシア様がリュシアンをひと時も離さないのは本当だし。……我が家への訪問もないのでしょう?」

 わたしが無言で頷けば、姉さまがため息をつく。

「デビューの時、リュシアンはレティシア様を退室させた後、広間に戻ってきたのよ。服がワインで汚れてしまって、着替えに手間取り時間がかかってしまったみたい」
「そうなの? てっきり、もう戻ってこないとばかり……」
「リュシアンもアクシデントさえなければ、婚約者の義務をないがしろにするつもりなんてなかったのよ。全部、レティシア様のわがままのせいなのよ」

 イネス姉さまが、今思い出しても不快だと言うように顔を歪める。

「あの時取り乱すレティシア様を、兄であるレイノール殿下がビシッと注意なさるべきだったのに。殿下はその場を収めることを優先して、リュシアンに押しつけたのよ」

 リュシアンに命じてレティシア様を退場させたことで、わたしは会場に放置されてしまった。デビュタントなのにパートナーに放置されるなんて、前代未聞だ。あまりにみじめな婚約者だと、周囲の嘲笑を浴びるわたしを目の当たりにして、王太子殿下は自身の失態だと深く反省なさったそうだ。――レティシア様のわがままを強くたしなめずに来たために、彼女を増長させてしまったのだと。
 レティシア様と隣国の王太子との婚約は、まだ効力を持っている。その状況で護衛の騎士との仲を噂されれば、王女としての品位を下げ、国の弱みになる。王族に相応しい行動を心がけるよう、王太子殿下がきつく叱責なさったそうだけど、レティシア様はかえって意地になったように、リュシアンを連れ回して遊び歩いているのだとか。
 わたしは、窓の外の王都の風景を見ながら考える。

「レティシア様は、隣国との結婚話を白紙にしたくて、リュシアンとの噂をことさらに吹聴しているのかしら?」

 わたしの問いに、イネス姉さまが首を振る。

「さあ……それもあるかもしれないけど。でも、たとえ隣国への輿入こしいれがなくなっても、レティシア様がリュシアンに嫁ぐのは無理よ。彼は次男で、爵位を継げないのだから」

 レティシア様の相手を国内で探すとなると、侯爵家以上の跡取りが条件だ。辺境伯の後継ぎなら王女と釣り合うけれど、リュシアンはわたしと結婚しないと辺境伯を継げない。レティシア様の結婚話がなくなったとしても、侯爵家の次男であるリュシアンとレティシア様が結ばれるのは絶望的だ。

「じゃあ、レティシア様は到底結婚の許されない相手に、何をどうしようと言うの……」

 わたしからリュシアンを奪っても、二人の結婚は認められないのに。
 そこまで考えて、わたしはお父様のお話を思い出した。
 もし、このままイネス姉さまに子が生まれなければ、次の王位継承者はレティシア様ということになる。
 では、レティシア様が女王になったら、どんな婿でも選び放題――? 
 やがて、馬車が歌劇場に到着し、わたしたちは王族専用通路から用意されたボックス席に入った。挨拶に訪れた支配人に劇場の説明を受け、わたしは高い位置から舞台を覗き込み、開演までのわくわく感を味わう。すでに一階席はあらかた埋まり、オーケストラピットからは音合わせの音が聞こえてくる。

「素敵ね! 今日はどんなお話なの?」
「さあ、レイノールさまのお話だと、古典悲劇の名作、『愛の後悔』だと聞いたけれど」

 だが、渡されたパンフレットには別のタイトルが記されていた。


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