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1巻

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「あ、リュシアンはいつも、レティシア様にもあんな感じで素っ気ないのよ。適当にあしらっているから、心配しないで。余計なことを言ってごめんなさい。そもそも、レティシア様は隣国へのお嫁入りが決まっているから……」

 それを聞いて、レイノール殿下がレティシア様に弱い理由を理解した。国境地帯で新たに発見された鉱山の利権をめぐり、隣国といざこざが発生した。その和平のために、レティシア様は成人の後、隣国の王太子のもとに嫁ぐことが決まっている。政略で遠い異国に嫁がせる妹だから、なおさら遠慮があるのだろう。

「わたしがね、もっと王宮になじめればいいのだけど――」

 姉さまが睫毛を伏せて肩を落とすので、わたしは励ますように言った。

「姉さまのせいじゃないわ。思うに、レティシア様は下世話に言うところの小姑だから、どなたが嫁いでいらしてもきっと気に食わずにいじめたわよ。愚痴はわたしが聞くから気にしないで頑張って」

 その言葉に、姉さまも力なく微笑んだ。

「そうね、ありがとう……」


   ◆◆◆


 その後も、わたしは姉さまを元気づけるためにちょくちょく登城していた。そんなある日、姉さまの部屋の周辺がざわついて、異様な雰囲気に包まれていた。
 異変に気づいたリュシアンが、扉の前に立つ小姓ペイジに尋ねる。

「何かあったのか?」
「王太子妃殿下が足を滑らせて――」
「なんだと?」

 イネス姉さまはテラスの石段で転倒し腰を強く打ち、医師の診察を受けていた。
 その場にいたのは姉さまとその侍女、そしてレティシア様だけだったと言う。
 すぐに王太子殿下も駆けつけ、医師から詳しい説明をお聞きになった。その間、わたしは姉さまの部屋で所在なく待った。同じテーブルにレティシア様もいたのだが、何か言いたげにわたしをジロジロと観察していて、非常に気づまりだった。
 やがて沈黙に耐え切れなくなったのか、レティシア様が口を開く。

「あなた、リュシアンの婚約者なのよね?」

 突然の問いかけに、わたしはハッとして背筋を正した。

「そ、そうです。うちは姉とわたしの姉妹だけなので、わたしが婿を取って家を継ぎます」
「……つまり、リュシアンが将来、辺境伯になるのね?」

 その言葉にも頷く。

「はい。リュシアン卿は次男ですし、騎士学校の成績も優秀だと聞きましたので……」
「つまり、領地目当ての婚約なのね?」

 レティシア様の言葉に、わたしは返答に窮して、首をかしげた。
 どうしてそんな風に、いちいち棘のある言い方をするのかしら。胸の中にもやもやが広がる。

「……まあその、領地を継ぐためにリュシアン卿に婿に入っていただくと言うか……」
「あなたも知っていると思うけど、わたくしも数年後には隣国に嫁ぐの」

 わたしの答えなど聞かず、レティシア様はどこか遠くを見るように視線を彷徨さまよわせる。青い瞳が揺蕩たゆたい、憂いを帯びて伏せられる。――お話の内容を聞かずにお姿だけ見ていれば、お美しくて本当に見惚れてしまいそうなのに。

「存じ上げております」
「相手の殿下はね、わたくしよりも十以上も年上なのよ」
「そうなのですか……」
「当然、もうお好きな方もいらっしゃって……婚約も間近だったのですって。そこへわたくしが割り込む形になって、まるでわたくしがお邪魔虫みたいに言われているの。わたくしだって好きでお嫁にいくわけじゃないのに」

 レティシア様の愚痴に、わたしはどう反応していいかわからず、黙っていた。
 ちらりと青い瞳が私を射貫く。

「同じ政略でも、あなたが羨ましいわ。……リュシアンみたいな人と結婚できるなんて」

 リュシアンと婚約できた幸運については、わたし自身もその通りだと思うので、わたしは「はあ」と頷いた。
 わたしの反応が物足りなかったのか、レティシア様はさらに力を込めて言葉を続けた。

「リュシアンとは幼馴染なのよ。小さなころはよく一緒に遊んだし、彼が騎士学校に入った後も、時々お兄様のところに来ていたから。……でも、隣国との間で、わたくしの婚約話が出たあたりかしら。彼、あまり来なくって……」

 昔を懐かしむようなレティシア様の表情に、わたしの胸がざわざわする。
 それって――

「わたくしね、隣国とのお話が出るまでは、ずっと王都の貴族の令息と結婚するとばかり思っていたの。たとえば、リュシアンのような――」

 レティシア様の発言に、わたしは固まってしまう。
 つまり、隣国との婚約がなかったらリュシアンと婚約していたって、レティシア様は言いたいのかしら? でも、リュシアンは次男だし――王女様と結婚なんて、無理よね……? 
 騒ぐ胸を抑えて無言で座っていると、王太子殿下に呼ばれて場を外していたリュシアンが戻ってきた。何か告げようとこちらへ歩み寄ってきたところをレティシア様が尋ねる。

「ねえ、リュシアンの本音を聞かせて。このまま、クロエ嬢と結婚でいいの?」

 まさかリュシアン本人にそんなことを聞くとは思わず唖然とする。
 リュシアンは一瞬、紫色の目をすがめたが、すぐに表情を消した。

「……自分には過ぎたお話で、光栄なことと存じます」

 言い方も素っ気なく、わたしの方を見ようともしない。
 ――本音では、リュシアンも不満があるのでは……
 そんな風に感じて、思わず目を伏せた。そしてふと目を上げて、わたしは気づいてしまった。
 リュシアンの紫色の瞳が、食い入るようにレティシア様を見つめていたのだ。
 嫌な予感に胸がドキドキした。
 レティシア様は妖精のように美しい。それに引き換え、わたしはそばかすまで浮いた、赤毛でみっともない娘だ。
 ――リュシアンも、本心ではレティシア様と婚約したかったのでは。
 わたしは、なんとなくいたたまれぬ気分で、膝の上で両手を組み換えたりしていた。早くレティシア様がこの場からいなくなってくれないかと、心の中で祈る。姉さまの怪我も心配だし、落ち着かない。
 そこへリュシアンがレティシア様に告げた。

「本日のところは、お部屋にお戻りいただけますか」
「イネス様のお加減がよくないの?」
「お怪我は特にはございませんが、念のために大事を取ってお休みいただくことになりました。レティシア様をおもてなしできないので、今日のところはお引き取りいただきたい」
「……なら、あなたが部屋まで送ってちょうだい」
「かしこまりました」

 リュシアンはしかつめらしく頭を下げ、そっとレティシアさまの前に跪き、手を差し出す。レティシア様が自然な動作でその手を取り、優雅に立ち上がった。

「クロエ嬢、婚約者をお借りするわね」

 にこやかに言い置いて、リュシアンの腕に手をかけ部屋を去っていく。リュシアンの銀の髪と、レティシア様の金の髪が響き合うように輝く後ろ姿を見て、わたしは絶望的な気持ちになる。
 ――もともと、幼馴染だった。だから――
 ぽつんと一人、居間に取り残されてしまったわたしを、姉さまの侍女が呼びにきた。
 寝室に向かうと、ベッドの上に起き上がり、しくしくと泣く姉さまを、王太子殿下が抱きしめいた。

「……イネス姉さま?」

 わたしが声をかけると、姉さまが弾かれたように顔を上げる。みどり色の瞳が涙でいっぱいだった。

「クロエ……ああ、わたし……」
「どうなさったの、姉さま。まだ、痛むの?」

 駆け寄ったわたしのために場所を開けると、王太子殿下は姉さまから離れて、重々しく言った。

「クロエ嬢。これは、ここだけの話にしてもらいたい」
「え?」
「イネスは転倒して腰を強く打って……流産してしまった」
「……りゅう……ざん?」

 わたしは意味がわからず、パチパチと目をしばたたく。

「王太子妃が転んで流産したなどと万が一、外部に漏れたら、イネスの不注意を咎める声が起こりかねない。イネスの立場を守るためにも、くれぐれも……」

 姉さまの王太子妃としての立場はまだ固まっていない。どんな小さな瑕疵かしも、大きな傷に発展することがあり得ると王太子殿下に強く言われ、わたしはただコクコクと頷く。

「は、はい! もちろんです。このことは誰にも言いません!」
「そなたの父上には私から手紙を書く。だが、それ以外には誰にも――」

 わたしはもう一度頷き、それから姉さまに尋ねた。

「……他は、大丈夫なの?」
「ええ……今のところは……」

 姉さまは俯き、涙を拭った。

「王太子妃失格ね。……妊娠していることすら、気づかなかったなんて……」

 そう言って薄い腹を撫でる姉さまに、王太子殿下は眉尻を下げた。

「そんなことはない。まだはっきりしていない時期だったんだ。私も迂闊だった。これからは気をつけて、二度とこんなことがないようにする」

 王太子殿下は姉さまを慰めてから、わたしを振り返った。

「イネスは、王宮内で孤立しているんだ。辺境育ちで友人もいなくて……私が至らないばかりに申し訳ない」
「そんなことは……」

 転んだのは姉さまだし、なぜ、王太子殿下が謝るのかよくわからない。
 返答に困っていると、王太子殿下がさらに言った。

「今までよりも頻繁に登城し、イネスを守ってやってくれないか?」
「……それは、かまいませんが……」

 わたしが登城したところで、姉さまを守れるとは思えなかったが、とりあえずは頷いておく。でも、王宮で孤立し、その上流産までした姉さまを支えるためなら、登城するくらいはなんでもない。
 が、王太子殿下がわずかに表情をゆがめ、言いにくそうに言い足した。

「それから――レティシアのことなんだが……」

 姉さまの肩がピクリと震えた。

「イネスは、レティシアが苦手らしい。ただ、我々の方からレティシアの訪問を差し止めるわけにいかない。そなたが間に入ってくれれば少しはましだと思うのだが……」

 つまり、姉さまの風よけとしてレティシア様の相手をしろ、ということだろう。
 きっと、無意識に眉間に皺を寄せてしまったと思う。さっきの問答を思い出しても、レティシア様のお相手は気が滅入る。妙にキラキラしいし、辺境育ちをあからさまに馬鹿にされているのを感じる。リュシアンにベタベタして、いちいち幼馴染であるのを強調し、「あなたよりわたくしの方が婚約者に相応しい」って言いたいのが透けて見える。王女様に対して失礼とは承知の上で、正直言って不愉快だし、できれば会いたくない。
 でも、レティシア様は毎日のようにイネス姉さまの部屋に入り浸っているというから、姉さまに会いにきたら、必然的にレティシア様のお相手もしなければならないだろう。
 王太子殿下の意向もあって、わたしはこれまでよりも頻繁に、王宮に上がることになった。
 レティシア様に会うのは嫌だけれど、リュシアンに会えるなら――そんな風に思って、気持ちを奮い立たせていたのだけれど。
 何度か王宮に通ううちに、わたしは王太子殿下の護衛騎士から、リュシアンが外れていることに気づいた。

「リュシアンは、今日はお休み?」

 何気なく尋ねたわたしに、イネス姉さまが気まずそうに言う。

「リュシアンは、配置換えになったの」
「配置換え……?」
「ええ……レティシア様付きに」

 わたしは驚きのあまり、言葉が出てこない。

「……そう、なの? 全然、知らなかった……」

 リュシアンがレティシア様付きになった。レティシア様の護衛として、ずっとお側に――
 わたしの胸がもやもやした不安で塗りつぶされていく。そしてそれは杞憂では済まなかった。



   第二章 婚約者と王女様


 姉さまの部屋にレティシア様がいらっしゃるたびに、わたしはレティシア様の背後に控える、リュシアンの姿を目にすることになった。
 紺色に金銀糸の刺繍が入った、華麗な護衛騎士のマント。紫色の瞳はまっすぐにレティシア様を見つめている。まるで、その一挙手一投足も見逃すまいとするかのように。
 その熱の籠った視線に、わたしの胸がずきりと痛んだ。
 ――わたしのことを、そんな風に見つめてくれたことはない。やっぱり、レティシア様だから――
 せめて目を伏せてその姿を視界に入れまいとしていると、レティシア様の方から、わたしに話しかけてきた。

「リュシアンはね、わたくしの護衛騎士に自ら志願してくれたの」
「……志願? リュシアンが?」
「ええ、そうなの。あなたの婚約者だと思うと気が引けるけれど……」

 そうして意味深な微笑みを浮かべる。

「とても熱心に仕えてくれて、ひと時もそばから離れないの。それにね……」

 レティシア様がわたしの耳元に口を寄せて、小声で言った。

「彼、髪が伸びたと思わない?」

 そう言われて、リュシアンに目を走らせる。
 たしかに、以前は短く揃えられていた髪がかなり伸び、襟足が肩につくほどになっている。

「わたくしが、髪が長い方が好きだと言ったら、わたくしのために切らないでいてくれるの」

 レティシア様付きへの異動は、リュシアン本人の希望だった。
 わたしはその事実にひどいショックを受けた。
 やはり、彼はレティシア様が好きなのだ。だからそばにいたくて――


 その日から、わたしにとって王宮通いは苦行となった。
 恋しい人はわたし以外の人に献身的に仕え、わたしのことなど存在しないかのように振舞うのだ。顔を合わせてもリュシアンはわたしを視界に入れることもなく、言葉もかけてくれない。
 勇気を出して話しかけたとしても、「勤務中だから」と冷たくあしらわれてしまう。
 見るたびにリュシアンの髪は伸びていき、やがて、うなじのところで一つ結びをするようになった。それはそれで、中性的な美貌を引き立て、端麗さを増していた。
 レティシア様の金の髪と、リュシアンの銀の髪が、キラキラと輝きあって――
 目を逸らすことすら許されないのが辛かった。
 寄り添い合う二人を見たくない。わたしをいないもののように扱うリュシアンを見たくない。
 王都を離れて領地に戻ることも考えた。
 そうすれば、二人を見ずに済むし、辛い思いをしなくてもいい。
 でも、イネス姉さまを一人残しておくことはできない。王太子殿下からくれぐれもと頼まれていたし、王太子妃として後継ぎを生まなければならないというプレッシャーが、姉さまの肩にのしかかっていた。それはわたしの目からも明らかなほど、年ごとに強くなっていく。
 わたしがいなくなったら、姉さまは潰れてしまうのではないか。――そんな風にも思えて、結局、姉さまを見捨てることができず、わたしは重い心に蓋をして、王宮に通い続けた。
 わたしがその辛い日々に耐えられたのは、レティシア様がいずれ、隣国に嫁ぐことが決まっているからだ。
 両国の和平のために、十も年上の相手に嫁ぐのはお気の毒だとは思う。
 我が国の成人年齢は十六歳。成人を迎えればすぐに、レティシア様は国を離れる。
 つまり、レティシア様が十六歳になるまでの二年間だけ、我慢すればいい。
 わたしはそんな風に考えていた。
 ところが、レティシア様が十六歳を迎える直前になって、隣国との間に問題が発生した。
 レティシア様が嫁ぐはずの王太子は、もともと国内の貴族令嬢と恋仲だったそうだ。だからレティシア様との縁談が持ち上がり、結婚式までに身辺を整理するよう、我が国から要望していた。
 一国の王女を嫁がせるのだ。それくらいの誠意を見せるのは当然だろう。
 しかし、結婚式まであと数か月となったところで、くだんの令嬢の妊娠が発覚したという。
 もともと女神のように美しいレティシア様は、国内でも人気が高い。和平のために、遠い隣国に嫁がせることに反対もあった。そこに来て発覚した、婚約者である隣国王太子の不実をきっかけに、レティシア様の輿入こしいれは無期限延期になってしまった。
 世間はレティシア様への同情に溢れていて、わたしの悩みなど、誰も理解してくれそうにない。
 そしてリュシアンはと言えば、幼馴染のレティシア様に献身的に仕え、わたしには興味すら示さない。我が家への訪問もずっと絶えたきり。
 レティシア様さえいなくなってくれれば――そんな風に思う自分自身がみじめだった。
 そんなわたしに、追い打ちをかけるような出来事が起こった。
 十六歳を迎えて成人したレティシア様の、社交界デビューの舞踏会。そのエスコートをリュシアンが務めることになったのだ。
 隣国の王太子とレティシア様の婚約は、破談寸前ではあるがまだ維持されていた。
 そうなると、一応、婚約者のいるレティシア様がエスコートを頼める相手は限られてくる。普通の貴族令嬢なら、父親か兄弟が務めるのだろうが、国王陛下や王太子殿下がエスコートするわけにもいかない。
 各方面に配慮した結果、普段から護衛騎士を務めるリュシアンならば、ということになったらしい。
 もちろん、レティシア様の希望もあったという。

「リュシアンにはクロエ嬢という婚約者がいるが、幸い、成人前で社交界デビューしていないから……」

 王太子殿下に申し訳なさそうに言われてしまえば、いやだなんて口にすることはできない。
 わたしはひきつる笑顔と痛む胸を押し隠して、「わかりました」と言った。
 リュシアンが他の女性をエスコートするのは辛いけれど、仕方がない。来年、わたしが成人した暁には、彼のエスコートでデビューし、まもなくリュシアンと結婚式を挙げる予定なのだから。
 そう、自分に言い聞かせても、胸がざわざわするのを抑えきれない。わたしは憂鬱な心を抱えたまま、ふさぎ込んで過ごした。
 ――今回ばかりは領地に帰ってしまおうか。あまりに心が狭いだろうか。
 レティシア様付きになってから、リュシアンの訪問も絶えていた。王宮で顔を合わせても、話をする機会もない。婚約者と言っても名ばかりで、彼が何を考えているかもわからず、不安ばかりが大きくなっていく。

「……領地に帰りたいの」

 イネス姉さまに打ち明ければ、姉さまもわたしの不安のきざすところに思い至ったのだろう。
 姉さまが困ったように眉尻を下げる。

「気持ちはわかるけど、クロエがいなくなったら、わたしはどうしたらいいのか……」

 そう言われてしまうと、わたしも帰郷を強行しにくい。
 結婚して二年以上経つのにいまだに子供ができないせいで、イネス姉さまへの風当たりは相当に強くなっている。
 姉さまはわたしの手を取って、すがるように言った。

「クロエが帰るなら、わたしも帰りたい――」

 姉さまが本当に王太子殿下に告げたせいで、わたしの帰郷まで止められてしまい、王都のタウンハウスで一人、悶々と過ごす羽目になった。
 成人前のわたしは王宮の舞踏会に出席できないから、レティシア様をエスコートするリュシアンの様子を実際に目にすることはない。それだけが不幸中の幸いだったかもしれない。
 なぜなら、しばらくの間、王都はデビュタントのレティシア様がいかにうるわしかったか、エスコートした騎士といかにお似合いだったか、そんな噂で持ち切りだったから。
 実物を目にしていたら、もっとショックを受けていたに違いない。
 美しいレティシア様。
 国のために、隣国の不実な王子と婚約を結ばざるを得なかった気の毒な方。
 でも、リュシアンはわたしの婚約者なのに。まるで恋人同士のように振る舞うのは、わたしに不誠実じゃないのかしら? ……でも、二人は幼馴染で、わたしが後から割り込んだわけだし。
 わたしの成人後、わたしとリュシアンはできる限り早く結婚式を挙げ、その後は二人で辺境領に帰って、領地経営を学ぶことになっている。王都を離れて二人きりになったら、リュシアンもレティシア様のことは忘れて、わたしを見てくれるはず。
 あとちょっと。あと一年。わたしが、成人さえすれば――
 レティシア様とリュシアンの噂がめぐる王都で、わたしは息を殺して暮らした。
 王宮に上るのも億劫だったけれど、イネス姉さまは「クロエが気を病むことはないわ」と慰めてくださった。

「リュシアンは、護衛の仕事として割り切っているだけよ。彼が王宮で王族付きになれたのも、クロエの婚約者で、将来辺境伯を継ぐ前提の上の抜擢なのよ」

 レティシア様にしても、隣国との婚約はそう簡単には解消できるものではない。鉱山の利権をめぐっての両国の利害は極めて複雑で、不実を働いた王太子は、相応の犠牲を払うことになるだろう、と姉さまは言った。
 二国間の協議がどうなっているのか、わたしには想像もつかないけれど、レティシア様が隣国に嫁がない未来はありえないそうだ。
 でもわたしは、身分や領地をたてにリュシアンと無理に結婚してもらいたいわけじゃない。
 わたしはリュシアンを愛しているから、彼に振り向いてもらいたいだけだ。
 彼がレティシア様を愛しているなら、いっそ婚約をなかったことにした方がいいのでは――
 そんな思いばかりが膨らんでいった。


 そんな中、レティシア様とリュシアンの噂は辺境の父のもとにも伝わったらしい。わたしを心配した父が、リュシアンの父に手紙を送り事情を聞いてくれた。それに対しては「王女の護衛はただの仕事、噂は事実無根だ」という返答が戻ってきた。何の解決にもならない答えだったけれど、クレール侯爵家からわたしへお詫びの花束と小さな包み、そしてリュシアンからの短い手紙が同封されていた。
 小さな包みの中身は、アメジストのペンダントだった。
 繊細な金鎖の先に、小さな紫色の石が揺れている。それを手に取り、わたしはアッと思った。
 ――彼が王宮に出仕する直前、初めての給金で贈ってくれると約束したアメジスト。
 あの後、我が家を訪ねることもなくなり、アメジストのことなんてすっかり忘れられてしまったと思っていた。なのに、リュシアンは覚えていてくれたのだ!
 彼の瞳と同じ、紫色の輝きを見つめていると、目の奥が熱くなって、涙が滲んだ。
 王宮に出仕してから、我が家への訪問の約束は何度か取りつけられた。でも、約束の日が近づくと、直前になって使いの者がキャンセルを告げに来る。期待して待ったあげくにキャンセルが繰り返されれば、わたしの心も擦り切れていく。最近では、訪問の約束自体なくなっていた。
 それでもこの小さな石が、消えかかっていたリュシアンへの信頼に火を灯した。
 わたしの胸は高鳴り、逸る心を抑えて手紙を開封する。
 言葉の少ないリュシアン同様、あっさり淡泊な手紙で、余計なことは何一つ書いていない。

「王宮の勤めが忙しくて、そちらへの訪問も間遠になり、申し訳なかった。約束したペンダントもなかなか渡せず気になっていたので、同封する。今度、我が家で園遊会を催すので、その日は休みを貰うことになっている。その折につけてくれたら嬉しい――」

 約束通り、小さなアメジストがあしらわれたペンダントは、リュシアンがわたしを気にかけてくれている証だ。
 首元にペンダントを飾るだけで、わたしの不安が溶けていく。
 もしかしたら、メレディス家への婿入りの話がなくなるのを恐れた彼の家族が、いろいろ手を回したのかもしれない。それでも、初めてのリュシアンからの誘いに、わたしは有頂天になった。
 すっかり浮かれたわたしは、翌日さっそく姉さまにそのことを報告した。姉さまもパッと表情を明るくして、我が事のように喜んでくれた。

「そう! よかったわね! クレールご夫妻も、クロエのことは気にかけていらっしゃるのよ。ちょうどお父様も辺境から王都に出ていらっしゃる時期だわ。なんなら、その日はわたしたち夫婦も一緒に――」

 だが、あいにくとその日は先約があり、王太子殿下は出席できないという。

「わたし一人での社交はまだ、許してもらっていないのよ。残念だわ」

 結局姉さまの出席は無理だったが、着ていくドレスや髪型を一緒に選んでもらった。贈られたアメジストは小さなものだけれど、首元のそれが映えるように、昼間らしくシンプルなデザインで……
 わたしは天にも昇る心地で、その日を待った。


 待ちに待った園遊会の日。
 辺境から定期報告のために王都を訪れたお父様も、心なしか安心したような、穏やかな表情をなさっている。
 今日こそリュシアンに会える。声を聞いて話をして、彼はわたしの婚約者だって確認できる。
 少しくらい拗ねて、甘えても許されるだろうか? だって、ずっと不安だったから――
 贈られたアメジストに合わせてあつらえた薄紫のデイドレスを身に纏い、わたしは父のエスコートでクレール侯爵邸の園遊会に乗り込んだ。
 婚約が調った時にお会いしたきりだったが、クレール侯爵夫妻もリュシアンの兄上も、わたしたち父子おやこを歓迎してくれた。
 だが――

「あの、リュシアンはどちらに?」

 どうして肝心のリュシアンが来てくれないのだろう? 
 尋ねるわたしたちに、クレール侯爵が思わずというふうに、額の汗を拭った。

「それが……」


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