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第1章
第1章 第6話
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1
日が暮れた若葉住宅の部屋で、アンナ、チエ、サキが一緒の時間を過ごしている。三人はそれぞれ仕事が終わり、夕食を一緒に食べた。
アンナは窓の外にぼんやりと灯る街灯を眺めながら口を開く。
「最近、配達先のおばあちゃんたち、いつも同じ話をするんだよね」
「ど、どんな話?」クッションを抱えたチエが静かに聞く。
「昔の商店街が賑やかだった頃のこととか、昔の暮らしがどうだったかとかさ。でも、同じ話をしてても、なんか楽しそうなんだよ」
サキが頷く。
「呉服屋に来るお客さんもそうだよ。昔の話をしてると、目がキラキラしてる」
アンナは今まで引っ掛かっていたものを打ち明けるように言った。
「なんかさ、私たちにできることがあるんじゃないかなって思うんだ」
「で、でも……な、何をすれば、いいのかな…?」
チエは困惑した顔を見せ、サキも腕を組んで考え込む。
「私たちに何ができるんだろう?」
「うーん……」
アンナはそれっきり口をつぐんでしまう。
しばらくの沈黙の後、チエがぽつりと口を開いた。
「ま、毎日が同じだと、退屈するのはわかるけど……ど、どう変えればいいのか、よくわからないね」
「そうなんだよね。お世話になってるおじいちゃんおばあちゃんたちに、何かしたいんだけど……」
アンナは頭を掻いた。「でも、何をすればいいのか……」
サキもため息をついた。「うん、何かできる気はするんだけど、具体的なアイデアが出てこないね」
その時、チエがふと思い出したように顔を上げた。「あ……そ、そういえば、今度この住宅の町内会があるって言ってた」
「町内会?」アンナが反応する。
「う、うん……若葉住宅の住人たちが集まって話をする会。た、たぶん、日常の問題とか困りごとを話し合うんだと、思う……」
「それ、行ってみない?」サキが提案する。「私たち、まだ若葉住宅のことをよく知らないし、住んでる人たちが何を考えてるのか聞けるかも」
アンナも興味を示した。
「うん、何かヒントがあるかもしれない。おじいちゃんおばあちゃんたちの本音を聞いてみたい」
「じゃ、じゃあ……、参加してみよう」チエも小さく頷いた。
2
町内にある小さな公民館の会議室には折りたたみのパイプ椅子がぎっしりと並び、住人たちがぽつぽつと座っていた。ヒビの入った壁には掲示板があり、チラシや連絡事項など雑然と貼られている。
アンナ、チエ、サキの三人は、部屋の隅に並んで腰を下ろしていた。見渡せば、知っている顔もいれば、初めて見る人もいる。柳田夫妻がにこやかに手を振ってくれたのが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「みんな、今日は集まってくれてありがとうな」
住民たちに向かい合って座っているのは、町内会長であり、この若葉住宅の地主でもある大石だった。白髪混じりの短髪に、年季の入った作業着姿。背筋は曲がっているが、声は意外と通る。
「今日は、若葉住宅の今後について、みんなの意見を聞きたいと思ってる」
部屋のあちこちから、小さな声が漏れ始めた。
「雨漏りがひどくてねえ」
「玄関の手すりがぐらぐらしてるのよ」
「前回お願いした窓のガタ付きはいつ直してくれるんだろうか」
住民たちはそれぞれの住まいの問題を口に出す。
アンナはじっと耳を傾けていた。彼女の頭には、毎日の配達先で見てきた光景が浮かぶ。窓辺にたたずむ老人、薄暗い部屋、湿った畳の匂い。
「みんな、ずっとこんな状態で暮らしてきたんだ…」アンナは唇を噛んだ。
サキは大石の顔色を伺っていた。彼は黙って住民たちの声を聞いているが、その表情は読み取れない。
「この人が地主で、町内会長…でも、何も変わってないのはなぜ?」サキの胸に疑問が渦巻く。もしかしたら、彼自身が変わることを望んでいないのかもしれない。
一方、チエは自分の膝に視線を落としていた。自分がここにいることに、少し場違いな感じがしていた。
「わ、私たちみたいな新入りが、何を言ったって相手にされないよね……」彼女の内気な性格が、言葉を引っ込めてしまう。でも、本屋で聞いたお客さんたちの「昔は良かった」という言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
「……だから、自治体にも何度も掛け合ったんだ。でも、今のままじゃ予算は下りないって」大石が深いため息をつく。
話題はいつの間にかバスの本数についての議論になっているらしい。町内会長の大石は諦めた表情で、住民たちをなだめている。
「じゃあ、私たちはこのままでいいのかい?」
歩くための杖を抱えた老婆が声を上げた。
「このまま、老いぼれて、誰にも見向きもされないまま?」
「そんなことは……でも、わしらも限界があるんだよ」大石は小さく首を振った。
部屋の空気が重く沈む。誰もが同じ不満を抱えながらも、口にしても変わらないという諦めが、そこに漂っていた。
アンナは拳を握った。「何か、何か言わなきゃ…」
でも、口を開こうとしたその時、サキがそっと腕を引いた。
サキはアンナの目を見て、首を横に振る。その様子を見たアンナは息を吐いて、ぐっと我慢する。
チエも胸の内で、言葉にならないもどかしさを抱えていた。「私たちに何かできることがあるのかな……」
三人は黙ったまま、住民たちの声を聞き続けた。
3
町内会の集会は、ため息と共に収束へと向かっていた。誰もが諦めの表情を浮かべ、椅子を軋ませながら立ち上がろうとしている。
「……結局、何か言ったところで何も変わらないんだよな」
「仕方ないさ、わしらも歳が歳だし……」
そんな声が広間のあちこちから漏れ聞こえる中、アンナはじっと唇を噛んでいた。
「ねえ、結局何も変えられないってことで話し合いは終わっちゃうの?」
突然の声に、全員の視線がアンナに集まった。
「アンナ!」チエは目を見開き、声を潜めて呟いた。
サキはすぐにアンナの腕を引いた。
「アンナ。やめときな」
だが、アンナは動じない。彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。
「本当に、何もできないって思ってるの?」
住人たちは一瞬驚いたように目を見合わせたが、すぐに苦笑を浮かべ始めた。
「若い子にはわからないさ」
「理想を言うのは簡単だけどねぇ……」
「でも、実際に行動すれば何か変わるかもしれないじゃないですか!」アンナの声は少し震えていたが、まっすぐだった。「ここで何もせずに諦めるより、少しでも動いてみたほうが……」
「まあまあ、落ち着きなさい」
静かながらも重みのある声が、アンナの言葉を遮った。大石が椅子に腰掛けたまま、落ち着いた視線を彼女に向けている。
「アンナちゃんだっけ? 君の言うこともわかるよ。でもね、私たちは何度も行動してきたんだ」大石はゆっくりと言葉を紡いだ。「自治体に要望書を出したり、役所に直談判しに行ったこともある。でも、予算がない、優先度が低い……そう言われて、話はいつも立ち消えになった」
「だけどっ……」アンナが食い下がろうとする。
「わしらも最初は期待してたさ。でも、結局は何も変わらなかった。それどころか、余計に疲れるだけだったよ」大石は遠くを見るような目をしていた。「だから、今はせめて静かに暮らせればそれでいい、そう考えるようになったんだ」
「し、静かに……ですか?」チエが小さな声で呟いた。彼女の心には、どこかやりきれない思いが渦巻いていた。
「それで、本当にいいの……?」
サキも下唇を噛み、何も言えずに立ち尽くしている。彼女はアンナを制止したものの、大石の言葉に納得することはできなかった。
「……すみません。生意気なことを言いました」アンナは肩を落とし、静かに頭を下げた。
「いいんだよ、若い子が何かを感じてくれるのは嬉しいことだ」
大石は穏やかに笑った。「でもな。みんな、生きていくだけで精一杯なんだ」
住人たちは再び静かに席を立ち始めた。三人はその場に取り残され、ただ黙って見送ることしかできなかった。
4
町内会の後、三人は重い足取りで若葉住宅への帰り道を歩いていた。夕暮れの空は茜色に染まり、影が長く伸びている。
「言い過ぎちゃったかな……」アンナがぽつりと呟く。
「ううん、間違ったことは言ってないよ」サキがそっと声を掛けた。
「でも、あの空気の中では、どうにもならなかったかもね」
「わ、私……何も言えなかった」チエはうつむいて、靴先で小石を転がした。
「み、みんながあきらめてる顔を見たら……、こ、言葉が出てこなくて」
「…私たちが思ってるより、ずっと根深い問題なんだね」サキも腕を組み、難しい顔をしている。
その時、後ろから声を掛けられた。振り返ると、柳田のおじいさんとおばあさんが、二人並んで歩いてきていた。
「アンナちゃん、サキちゃん、チエちゃん、ちょっとええかね?」おじいさんが穏やかな声をかけてくる。
三人は足を止めた。
「どうしたんですか?」
「さっきは、若いもんに辛いところを見せてしまったな。でも、あれが今の現実なんじゃ」
おばあさんがしわくちゃの手を胸元で組み、申し訳なさそうに笑った。
「みんな、本当は変えたいんじゃ。でも、もうわしらは先が短いからね」
「先が短いって……」アンナは言葉に詰まる。
「わしらにとっては、今さら何も変わらんでもええんじゃよ。このまま、静かに余生を過ごせればそれでいい。そう思って、諦めとるんじゃ」
おじいさんがゆっくりと頷いた。
「でもな、それは自分たちのことだけじゃ。アンナちゃんたちみたいな、若い人には未来がある」
「み、未来……」
チエが小さな声で反復する。
「わしらが変われんとしても、若いもんには何かしてあげたいと思っとる年寄りもおるんじゃよ」
おばあさんは優しい目をして、三人を見つめていた。
「君たちのような子が、ここに来てくれて嬉しいんじゃ」
「じゃあ、みんな本当に何もしたくないわけじゃないんですね」
サキの声には、かすかな希望が滲んでいた。
「そうじゃ。でも、どうしたらええかわからんのも本当の気持ちなんじゃよ」
おじいさんが苦笑する。
「だから、わしらはつい、諦めているなんて言ってしまうんじゃな」
アンナは拳を握りしめた。
「私、何も知らないくせに偉そうなことを言ってしまいました……」
「いいんじゃ。それが若さというもんじゃよ」
おばあさんは笑う。
「わしらには、もうその元気がないだけじゃ。だからこそ、君たちのその気持ちが嬉しいんじゃ」
「何か、私たちにできることがあるなら、やりたいです」
サキが真剣な眼差しを向ける。
「そう言ってくれるだけで、わしらは十分じゃ。でも、もし本当に何かするなら、わしらもできることを手伝わせてもらえんかね?」
おじいさんが小さく頭を下げた。
「もちろんです!」
アンナが力強く答えた。
「ありがとう、柳田さん」
サキも笑顔を見せる。
「私たち、諦めません。何かできることをやってみます」
5
三人は若葉住宅の自室に戻り、いつものようにリビングのちゃぶ台を囲んで座った。窓の外では、夜風が木々を揺らしている音がかすかに聞こえる。
「なんか、モヤモヤするね」
アンナが天井を見上げながらつぶやいた。
「あの寄り合い、結局何も変わらなそうな感じだったし」
「う、うん…」
チエは手元の湯飲みを見つめたまま。
「み、みんな……あきらめちゃってる感じだったよね」
サキは腕を組み、少し考え込んでから言った。
「大石さんが言ってたこともわかる。行政に何度も訴えてダメだったなら、期待できないって思っちゃうよね」
「それでも、柳田さんたちが言ってくれたこと、嬉しかったな」
アンナは横を向いて、二人の顔を見た。
「私たちには未来があるんだって」
「わ、私たちが何かできること、あるのかな……?」チエは不安そうに眉を寄せた。
「あるに決まってるじゃん!」
アンナが小さく拳を握る。
「今まで誰もやらなかったことを、私たちがやればいいんだよ」
「でも、何を?」
サキはアンナに冷静に問いかける。
「具体的に何をすればいいのか、何も思い浮かばないよね」
三人はしばし黙り込んだ。時計の針がゆっくりと時を刻んでいる音が、やけに大きく感じられる。
「うーん……」
チエが考え込んだ。
「で、でも、何か、あるはずだよね……」
「そうだよ。何か、みんなに元気を届けられたらいいな」
アンナは目を輝かせる。
「お世話になってるおじいちゃん、おばあちゃんたちに、少しでも楽しい毎日を感じてほしい」
「そうだね。生きる活力になるような、何かを……」
サキはしっかりと頷いた。
「私たちにしかできないこと、きっとあるよ」
アンナがにやりと笑って、二人を見渡した。
「三人寄れば文殊の知恵、って言うでしょ?」
「うん、そ、そうだね!」
チエが答えると、サキも笑った。
「それってチエにかけてるの?」
「え? えっ? 私?」
チエは顔を赤くして、目を丸くする。
「そ、そんな……わ、私…アイデアなんて」
「いやいや、 何かアイデアが出てくるかもよ」
アンナは軽くチエの肩を叩いた。
「そうだね。とりあえず、できることを考えてみよう」
サキも前向きな表情を見せた。
「何もできないって決めつけないで、できることを考えてみよう」
三人は顔を見合わせ、胸の中に芽生えた希望が、ゆっくりと育っているのを三人は感じていた。
日が暮れた若葉住宅の部屋で、アンナ、チエ、サキが一緒の時間を過ごしている。三人はそれぞれ仕事が終わり、夕食を一緒に食べた。
アンナは窓の外にぼんやりと灯る街灯を眺めながら口を開く。
「最近、配達先のおばあちゃんたち、いつも同じ話をするんだよね」
「ど、どんな話?」クッションを抱えたチエが静かに聞く。
「昔の商店街が賑やかだった頃のこととか、昔の暮らしがどうだったかとかさ。でも、同じ話をしてても、なんか楽しそうなんだよ」
サキが頷く。
「呉服屋に来るお客さんもそうだよ。昔の話をしてると、目がキラキラしてる」
アンナは今まで引っ掛かっていたものを打ち明けるように言った。
「なんかさ、私たちにできることがあるんじゃないかなって思うんだ」
「で、でも……な、何をすれば、いいのかな…?」
チエは困惑した顔を見せ、サキも腕を組んで考え込む。
「私たちに何ができるんだろう?」
「うーん……」
アンナはそれっきり口をつぐんでしまう。
しばらくの沈黙の後、チエがぽつりと口を開いた。
「ま、毎日が同じだと、退屈するのはわかるけど……ど、どう変えればいいのか、よくわからないね」
「そうなんだよね。お世話になってるおじいちゃんおばあちゃんたちに、何かしたいんだけど……」
アンナは頭を掻いた。「でも、何をすればいいのか……」
サキもため息をついた。「うん、何かできる気はするんだけど、具体的なアイデアが出てこないね」
その時、チエがふと思い出したように顔を上げた。「あ……そ、そういえば、今度この住宅の町内会があるって言ってた」
「町内会?」アンナが反応する。
「う、うん……若葉住宅の住人たちが集まって話をする会。た、たぶん、日常の問題とか困りごとを話し合うんだと、思う……」
「それ、行ってみない?」サキが提案する。「私たち、まだ若葉住宅のことをよく知らないし、住んでる人たちが何を考えてるのか聞けるかも」
アンナも興味を示した。
「うん、何かヒントがあるかもしれない。おじいちゃんおばあちゃんたちの本音を聞いてみたい」
「じゃ、じゃあ……、参加してみよう」チエも小さく頷いた。
2
町内にある小さな公民館の会議室には折りたたみのパイプ椅子がぎっしりと並び、住人たちがぽつぽつと座っていた。ヒビの入った壁には掲示板があり、チラシや連絡事項など雑然と貼られている。
アンナ、チエ、サキの三人は、部屋の隅に並んで腰を下ろしていた。見渡せば、知っている顔もいれば、初めて見る人もいる。柳田夫妻がにこやかに手を振ってくれたのが、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
「みんな、今日は集まってくれてありがとうな」
住民たちに向かい合って座っているのは、町内会長であり、この若葉住宅の地主でもある大石だった。白髪混じりの短髪に、年季の入った作業着姿。背筋は曲がっているが、声は意外と通る。
「今日は、若葉住宅の今後について、みんなの意見を聞きたいと思ってる」
部屋のあちこちから、小さな声が漏れ始めた。
「雨漏りがひどくてねえ」
「玄関の手すりがぐらぐらしてるのよ」
「前回お願いした窓のガタ付きはいつ直してくれるんだろうか」
住民たちはそれぞれの住まいの問題を口に出す。
アンナはじっと耳を傾けていた。彼女の頭には、毎日の配達先で見てきた光景が浮かぶ。窓辺にたたずむ老人、薄暗い部屋、湿った畳の匂い。
「みんな、ずっとこんな状態で暮らしてきたんだ…」アンナは唇を噛んだ。
サキは大石の顔色を伺っていた。彼は黙って住民たちの声を聞いているが、その表情は読み取れない。
「この人が地主で、町内会長…でも、何も変わってないのはなぜ?」サキの胸に疑問が渦巻く。もしかしたら、彼自身が変わることを望んでいないのかもしれない。
一方、チエは自分の膝に視線を落としていた。自分がここにいることに、少し場違いな感じがしていた。
「わ、私たちみたいな新入りが、何を言ったって相手にされないよね……」彼女の内気な性格が、言葉を引っ込めてしまう。でも、本屋で聞いたお客さんたちの「昔は良かった」という言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
「……だから、自治体にも何度も掛け合ったんだ。でも、今のままじゃ予算は下りないって」大石が深いため息をつく。
話題はいつの間にかバスの本数についての議論になっているらしい。町内会長の大石は諦めた表情で、住民たちをなだめている。
「じゃあ、私たちはこのままでいいのかい?」
歩くための杖を抱えた老婆が声を上げた。
「このまま、老いぼれて、誰にも見向きもされないまま?」
「そんなことは……でも、わしらも限界があるんだよ」大石は小さく首を振った。
部屋の空気が重く沈む。誰もが同じ不満を抱えながらも、口にしても変わらないという諦めが、そこに漂っていた。
アンナは拳を握った。「何か、何か言わなきゃ…」
でも、口を開こうとしたその時、サキがそっと腕を引いた。
サキはアンナの目を見て、首を横に振る。その様子を見たアンナは息を吐いて、ぐっと我慢する。
チエも胸の内で、言葉にならないもどかしさを抱えていた。「私たちに何かできることがあるのかな……」
三人は黙ったまま、住民たちの声を聞き続けた。
3
町内会の集会は、ため息と共に収束へと向かっていた。誰もが諦めの表情を浮かべ、椅子を軋ませながら立ち上がろうとしている。
「……結局、何か言ったところで何も変わらないんだよな」
「仕方ないさ、わしらも歳が歳だし……」
そんな声が広間のあちこちから漏れ聞こえる中、アンナはじっと唇を噛んでいた。
「ねえ、結局何も変えられないってことで話し合いは終わっちゃうの?」
突然の声に、全員の視線がアンナに集まった。
「アンナ!」チエは目を見開き、声を潜めて呟いた。
サキはすぐにアンナの腕を引いた。
「アンナ。やめときな」
だが、アンナは動じない。彼女は立ち上がり、周囲を見渡した。
「本当に、何もできないって思ってるの?」
住人たちは一瞬驚いたように目を見合わせたが、すぐに苦笑を浮かべ始めた。
「若い子にはわからないさ」
「理想を言うのは簡単だけどねぇ……」
「でも、実際に行動すれば何か変わるかもしれないじゃないですか!」アンナの声は少し震えていたが、まっすぐだった。「ここで何もせずに諦めるより、少しでも動いてみたほうが……」
「まあまあ、落ち着きなさい」
静かながらも重みのある声が、アンナの言葉を遮った。大石が椅子に腰掛けたまま、落ち着いた視線を彼女に向けている。
「アンナちゃんだっけ? 君の言うこともわかるよ。でもね、私たちは何度も行動してきたんだ」大石はゆっくりと言葉を紡いだ。「自治体に要望書を出したり、役所に直談判しに行ったこともある。でも、予算がない、優先度が低い……そう言われて、話はいつも立ち消えになった」
「だけどっ……」アンナが食い下がろうとする。
「わしらも最初は期待してたさ。でも、結局は何も変わらなかった。それどころか、余計に疲れるだけだったよ」大石は遠くを見るような目をしていた。「だから、今はせめて静かに暮らせればそれでいい、そう考えるようになったんだ」
「し、静かに……ですか?」チエが小さな声で呟いた。彼女の心には、どこかやりきれない思いが渦巻いていた。
「それで、本当にいいの……?」
サキも下唇を噛み、何も言えずに立ち尽くしている。彼女はアンナを制止したものの、大石の言葉に納得することはできなかった。
「……すみません。生意気なことを言いました」アンナは肩を落とし、静かに頭を下げた。
「いいんだよ、若い子が何かを感じてくれるのは嬉しいことだ」
大石は穏やかに笑った。「でもな。みんな、生きていくだけで精一杯なんだ」
住人たちは再び静かに席を立ち始めた。三人はその場に取り残され、ただ黙って見送ることしかできなかった。
4
町内会の後、三人は重い足取りで若葉住宅への帰り道を歩いていた。夕暮れの空は茜色に染まり、影が長く伸びている。
「言い過ぎちゃったかな……」アンナがぽつりと呟く。
「ううん、間違ったことは言ってないよ」サキがそっと声を掛けた。
「でも、あの空気の中では、どうにもならなかったかもね」
「わ、私……何も言えなかった」チエはうつむいて、靴先で小石を転がした。
「み、みんながあきらめてる顔を見たら……、こ、言葉が出てこなくて」
「…私たちが思ってるより、ずっと根深い問題なんだね」サキも腕を組み、難しい顔をしている。
その時、後ろから声を掛けられた。振り返ると、柳田のおじいさんとおばあさんが、二人並んで歩いてきていた。
「アンナちゃん、サキちゃん、チエちゃん、ちょっとええかね?」おじいさんが穏やかな声をかけてくる。
三人は足を止めた。
「どうしたんですか?」
「さっきは、若いもんに辛いところを見せてしまったな。でも、あれが今の現実なんじゃ」
おばあさんがしわくちゃの手を胸元で組み、申し訳なさそうに笑った。
「みんな、本当は変えたいんじゃ。でも、もうわしらは先が短いからね」
「先が短いって……」アンナは言葉に詰まる。
「わしらにとっては、今さら何も変わらんでもええんじゃよ。このまま、静かに余生を過ごせればそれでいい。そう思って、諦めとるんじゃ」
おじいさんがゆっくりと頷いた。
「でもな、それは自分たちのことだけじゃ。アンナちゃんたちみたいな、若い人には未来がある」
「み、未来……」
チエが小さな声で反復する。
「わしらが変われんとしても、若いもんには何かしてあげたいと思っとる年寄りもおるんじゃよ」
おばあさんは優しい目をして、三人を見つめていた。
「君たちのような子が、ここに来てくれて嬉しいんじゃ」
「じゃあ、みんな本当に何もしたくないわけじゃないんですね」
サキの声には、かすかな希望が滲んでいた。
「そうじゃ。でも、どうしたらええかわからんのも本当の気持ちなんじゃよ」
おじいさんが苦笑する。
「だから、わしらはつい、諦めているなんて言ってしまうんじゃな」
アンナは拳を握りしめた。
「私、何も知らないくせに偉そうなことを言ってしまいました……」
「いいんじゃ。それが若さというもんじゃよ」
おばあさんは笑う。
「わしらには、もうその元気がないだけじゃ。だからこそ、君たちのその気持ちが嬉しいんじゃ」
「何か、私たちにできることがあるなら、やりたいです」
サキが真剣な眼差しを向ける。
「そう言ってくれるだけで、わしらは十分じゃ。でも、もし本当に何かするなら、わしらもできることを手伝わせてもらえんかね?」
おじいさんが小さく頭を下げた。
「もちろんです!」
アンナが力強く答えた。
「ありがとう、柳田さん」
サキも笑顔を見せる。
「私たち、諦めません。何かできることをやってみます」
5
三人は若葉住宅の自室に戻り、いつものようにリビングのちゃぶ台を囲んで座った。窓の外では、夜風が木々を揺らしている音がかすかに聞こえる。
「なんか、モヤモヤするね」
アンナが天井を見上げながらつぶやいた。
「あの寄り合い、結局何も変わらなそうな感じだったし」
「う、うん…」
チエは手元の湯飲みを見つめたまま。
「み、みんな……あきらめちゃってる感じだったよね」
サキは腕を組み、少し考え込んでから言った。
「大石さんが言ってたこともわかる。行政に何度も訴えてダメだったなら、期待できないって思っちゃうよね」
「それでも、柳田さんたちが言ってくれたこと、嬉しかったな」
アンナは横を向いて、二人の顔を見た。
「私たちには未来があるんだって」
「わ、私たちが何かできること、あるのかな……?」チエは不安そうに眉を寄せた。
「あるに決まってるじゃん!」
アンナが小さく拳を握る。
「今まで誰もやらなかったことを、私たちがやればいいんだよ」
「でも、何を?」
サキはアンナに冷静に問いかける。
「具体的に何をすればいいのか、何も思い浮かばないよね」
三人はしばし黙り込んだ。時計の針がゆっくりと時を刻んでいる音が、やけに大きく感じられる。
「うーん……」
チエが考え込んだ。
「で、でも、何か、あるはずだよね……」
「そうだよ。何か、みんなに元気を届けられたらいいな」
アンナは目を輝かせる。
「お世話になってるおじいちゃん、おばあちゃんたちに、少しでも楽しい毎日を感じてほしい」
「そうだね。生きる活力になるような、何かを……」
サキはしっかりと頷いた。
「私たちにしかできないこと、きっとあるよ」
アンナがにやりと笑って、二人を見渡した。
「三人寄れば文殊の知恵、って言うでしょ?」
「うん、そ、そうだね!」
チエが答えると、サキも笑った。
「それってチエにかけてるの?」
「え? えっ? 私?」
チエは顔を赤くして、目を丸くする。
「そ、そんな……わ、私…アイデアなんて」
「いやいや、 何かアイデアが出てくるかもよ」
アンナは軽くチエの肩を叩いた。
「そうだね。とりあえず、できることを考えてみよう」
サキも前向きな表情を見せた。
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