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5巻【三】

2 新入生-2

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「ちょっと、中学のとき書道部じゃなかったの?」

 見下ろされた一年生が顔を真っ赤にさせて俯いた。眼鏡の子が信じられないと言った顔で半紙を指す。

「ここの書道部は全国大会に行くような部でしょ。こんな初心者レベルの字で入れると思ってるの? こんな下手な字で、なにを考えて」

 下手の言葉に俯いた一年生がピンクのスモッグの上でこぶしをぎゅっと握ったのが見えた。のんびりとしていた教室にひやりとした緊張が走る。朔也は急いで朱墨と小筆を手にさっとそちらへ行き、俯いた子の字を見た。

 書道部は朔也が知る先輩も後輩も全員が書道経験者だ。だが、ピンクのスモッグの子は違うとすぐに分かった。お手本は初心者用の楷書だが、どこの線が太くて細いのか把握できていない。そもそも起筆と収筆に慣れていない。だが、おざなりに書いた字ではないことも分かる。

 朔也は彼女の横に朱墨のつぼを机に置き、小筆に墨をつけた。

「ここ、お手本と違うのは分かるかな」

 後ろから覗き込むように手を伸ばして彼女の半紙に朱墨で矢印を書いた。落ち着いた口調を心がける。

「お手本だと少し左側へ斜めになってるでしょ。下にまっすぐじゃなくて、少し内側に向けて書くんだ。難しいけど、上にはねるときは、ここに三角ができるイメージで筆に力を入れるといいよ。線の太さはしっかりしてていいね。筆への力加減はばっちり。この調子で書いてみて」
「――はい」

 その子がようやく筆を握った。だが、その手が震えている。眼鏡の子が彼女の前から動かず見ていると分かっているからだ。朔也は言葉を重ねた。

「全部できなくていいからもう一回書いてみて? 上手下手は他人と比べる前に自分と比べてね。前の一枚より上手になるよう努力すればいいんだよ」

 するとその子が分かりましたと硯に筆をつけた。書道室内がほっとしたのが分かる。だが、眼鏡の一年生がこちらを見上げて言った。

「あの、この子、全然レベルがなってないです。書道パフォーマンスで全国を目指す部活なのに邪魔じゃないですか」

 視界の隅に見える二年生がなにか言おうとした。朔也は素早く「そんなことないよ」と眼鏡の子ににっこりとした。

「部活って好きなことをやるものだからさ。部員の中にも中学では書道部じゃなかった子もいるし」

 書道教室に通ってた子だけど。そこは心の内に留めて歯を見せて笑う。

「書道をやりたいなら大歓迎だよ。うちは入部時になにか審査してるわけじゃないから」
「できました」

 やり取りの間に必死に書いていた子が筆を置く。朔也はもう一度朱墨を筆につけた。

「あ、ここ上手くなったね。ここもお手本と違うって自分で気づいたんだ? さっきよりいいじゃん。次は余白を直してみようか。全体的に字が左に寄ってるから、名前を書くときに余白が足りなくてやりにくいでしょ」

 朔也とその子のやり取りを、眼鏡の子が信じられないというふうに見つめている。

「ちょっと、気分が削がれました」

 彼女は自分が書いた半紙を丸めてぐしゃりと握りつぶした。スモッグを脱いで座っていた席にぽんと置く。

「また来ます」

 ピシャンと扉が閉まり、廊下を足音が遠ざかる。その鋭い音に他の一年生まで背筋がびしっと固まって、誰かがごくりと唾を飲み込んだのが聞こえた気がした。

「今井ー、中村ー」

 朔也はその空気を振り切るように三年生のほうを振り返って手をひらひらさせた。

「こっちの一年生たち、もう何枚か書けてるみたい。見てあげてよ」

 目が合った今井と中村がすぐに頷き、今井は持ち前の明るさで「はーい!」とポニーテールを元気に揺らしてやって来た。

「あたし、三年の今井ね、よろしく! どれか一枚見せてもらってもいい?」
「私は中村。私も見ていいかな。あ、こんな難しいお手本にチャレンジしたの?」

 明るい今井と丁寧な中村がそれぞれにアドバイスし、朔也はピンクのスモッグの子に細々とポイントを説明した。朔也がお手本にも鉛筆で書き入れて説明すると、彼女は頷いて二枚書いた。だが、収筆が力が抜けてがさがさする。一の字を練習してもいいかと尋ねてきたので、勿論いいよと彼女の後ろに立った。最初に朔也が書いて、彼女が筆運を真似る。その様子は真剣で、今の出来事を振り切って集中し始めたのが分かった。数枚書くと納得したらしく、再び手本に戻って書き始める。朔也はすぐ後ろの席に座り、彼女がなにか質問してきたら答えられるようにした。それと同時に二年生たちに大丈夫と合図を送る。

「朔」

 長谷川の声で時計を見たとき、白い文字盤に黒の針が五時二十分を示していた。見学者の一年生は五時半には終えることになっている。

「一年生、今日は来てくれてありがとね。あと十分で終わりの時間だから、今書いてる一枚を最後にしよう」

 すると「はい」「分かりました」等の返事があり、時間差はあるもののそれぞれが書き終えた。誘い合ってやってきた複数の子が「ありがとうございました」と笑顔で連れだって出て行き、朔也がつきっきりだった子はぎりぎりまで書いてから「終わりました」と息をついた。朔也がアドバイスを終えるとありがとうございましたと礼を口にしたが、「あの」と筆を置いて小さな声で口ごもった。

「私、やっぱり入部は駄目でしょうか」
「駄目って、なんでそう思ったの?」

 他の一年生たちが使った筆を集めていた今井が手を止めた。

「あたしたち、誰も駄目なんて言ってないよ?」
「でも私……習字は授業でしかやったことがありません。ただ授業は楽しくて好きで、入学式と昨日の新入生歓迎会で感動して」

 すると二年生の一人が「分かるよ!」とこちらへ飛んで来た。

「私ね、中三のときに見に来た文化祭で書道部に感動して、書道部に入りたくてこの高校を受験したの。先輩たちを見てたら書道部に入りたくなるよね」

 顔をあげた一年生は目に涙を溜めていた。二年生が力強く笑いかける。

「部長が大歓迎って言うんだから、入りたいならおいでよ。書道がもっと楽しくなるよ」

 一年生はハンカチをぎゅっと握って今度は今井の顔を見る。今井は「その通り!」と明るく頷いた。

「朔ちゃんが、ってこの部長ね。朔ちゃんがいいって言ってるんだし、あたしも賛成だし、やればやるほど上手くなるものだよ。うちは団体で練習もするから。皆で助け合いながら練習できるの。仲間がいるってすっごく励みになるよ!」
「……それ、部の足を引っ張りませんか」
「練習すればいいんだって! 一年後には自分でびっくりすると思うよ。上手くなろうって練習するとすごく変わるから」

 その子がようやく少し白い歯を見せる。朔也は教卓の中に入っていた入部届けのプリントを一枚持ってきて、彼女の前に置いた。

「よかったら書道部も考えてみてよ。他の部活も見学してからでもいいし。うちは月水金が活動日だけど、火木土は自主練をやってるんだ。基本おれはいるし、明日の自主練も時間があったらおいでよ。他に一年生は来ないから、ゆっくりできるし」

 するとその子が入部届けを手にした。じっと眺めておずおずと言う。

「明日、来てもいいですか」

 今井がすかさず「勿論! 自主練は気楽にやる子も多いよ」と首を縦に振る。

「自分が使ってた慣れてる書道道具が使いたかったら持ってきてもいいよ」

 すると一年生は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「もう随分筆は使ってなくて。固まっちゃってるかもしれません。新しい筆、どこで買えますか」
「購買で売ってるよ。これがうちの購買に置いてる筆ね」

 今井はすぐに見本を持ってきて机に並べた。
「お勧めはこれかな。千円くらいしちゃうから、入部を決めてからでいいからね」

 その子はいいですかと尋ねてから、スマホを取り出して今井の勧めた筆を画像に収めた。「今日はありがとうございました」と一年生が書道室を出て行く。その途端に書道室の空気が一気に緩んだ。朔也も脱力して椅子に座り、「ああ、びっくりした」と思わず口にしてしまった。前髪を留めたピンを外し、頭を振る。

「ああいうの、普通のこと? おれ、すごく驚いたんだけど」

 一年生のやり取りを思い出して朔也が心臓の上を押さえると、ようやくいつもの空気になった書道室内で二年生も顔を見合わせた。

「私もびっくりしちゃって」
「なんていうか……あんな言い方しなくても、ねえ?」

 朔也は自分が一年生のときを振り返った。

「書道部って初心者は駄目とか先生に言われたっけ? おれ、覚えてない」

 二年生も全員首を傾げる。

「そんなことはなかったと思いますけど」
「全国大会出場校ですから敷居は高く感じましたけど、逆にすごいですよね、今の子。やりたいって一心で来たんですから」
「あの子、最後まで一生懸命やってて努力家でしたよね」

 最後の言葉に朔也も頷いた。

「新歓を見て感動してくれたってすごく嬉しかった。書道パフォーマンスで人の心を動かせたんだって、心に響いたよ。それが分かってくれる子がうちの部には合ってると思う」
「上手下手って自分では気になりますけど、一番は書道が好きかどうかですよね」
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