不可侵領域

千木

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 病室の中はしん、と静まり返っていた。扉の向こうからは様々な声がするが、それがやたらと遠くに聞こえ、一層この場の静けさを際立たせている。二人きりの空間、なのに少しだけ重い沈黙。
 ベッドには、目元に包帯を巻いたレンが眠っている。セイはその傍に座り、手を握っていた。
 手術は成功。それでも麻酔が切れるまでは目を覚まさないだろうと、執刀医は言っていた。なんとなく内職をするには落ち着かなくて、ずっと彼の顔を眺めている。眠っている時には流石に包帯を巻いていることはなかったから、その珍しさがなんとなく不安にさせるのかもしれない。
 医師もノノもいない。自分の背中を見るなり動揺を見せた二人は、あれから慌ただしく何かに取り掛かり始めた。骨への異常は無く、本当に擦り傷だけだと軽い処置を施されただけだったのに。まさか、背中に何か病気を表すような何かがあったのだろうか。しかし、今此処に自分の背中を確認出来る術は無い。気は重いが、後で聞くしかないだろう。

「ん、」
「!……神父様」

 握った指がぴくりと動き、同時にレンが小さく声を上げて身じろいだ。声を掛けると、ゆっくりと首を自分の方へ向けられる。

「セイ?」
「目が覚めましたか。何処か痛みはありますか?」
「大丈夫。少しだけぼんやりするけれど」
「麻酔の所為ですね。今お医者様を……」

 立ち上がりかけた彼女の手首を、レンが掴む。少しだけ戸惑を浮かべたセイは、しかしレンの顔を見るなり目を丸くして、微笑みながら再び腰を下ろす。それからそっと彼の手をとり、自分の頬へと持ってきて、すり、と擦り寄った。

「貴方がそんな心細そうな顔をするの、初めて見ました」
「そんなに情けない顔をしているかな」
「情けないわけではないですけど……。大丈夫ですよ。今は誰もいません」
「……うん」

 レンに覆い被さるようにして抱きしめる。割と平然としているように見えたけれど、やはり恐怖や心配はあったらしい。成功確率は高めではあっても、あまり症例の無い大かがりな手術なのだから当然だ。それを気丈にも表に出さなかっただけ。それは実際に手術台に横になる当人にしかわからないことで、セイが抱えていた心配心の比ではないだろう。

「君のところに戻って来られたと思ったら、気持ちが緩んでしまって。ごめんね」
「謝る必要なんてありません。おかえりなさい」
「うん、ただいま」

 いつもとは逆に、セイがレンの背中をトントンと撫でる。それからゆっくりと離れてキスを数回。額、頬、唇に。目を覚ましたら呼ぶように言われているが、もう少し。彼は強いから、落ち着くまでにそこまで時間はかからないだろうし。今は傍に寄り添って、彼の無事を素直に喜び、一緒に安堵する。

「目は、どうですか?」
「包帯越しでも、視界が違うのがわかる。成功しているのだとは思うよ。もうすぐ、君の顔が見られるんだね」
「好みでなかったら申し訳ありません」
「そういうことを言う?」
「でも、少しは心配ですよ。見た目は好きになる理由の大半を占めると言いますし」
「君は俺の容姿で好きになったの?」
「違います。見た目も好きですけど」
「じゃあ大丈夫じゃない」
「そこは人それぞれでは……」

 軽口を言い合っている内に、レンの肩の力が抜けていくのがわかって、セイも眉を開く。実際見た目の問題は気にしていたところだったので、それも含めて。
 少しするとノック音がして、返事をするとするりと扉が開かれる。医師がにこやかに手を振っていて、その後ろにノノもいた。

「起きたんだね、よかった~」
「すみません。呼ぶように言われていたのに」
「全然構わないよ。痛みとか、異常は無いかな」
「うん」
「じゃあ、包帯とろうか。ノノちゃん、」
「はいっす」

 起き上がったレンの包帯を、ノノが慣れた手つきで解いていく。瞑っているよう言われたレンの瞳は、露わになった時には瞼の下だった。医師に促され、ゆっくりと目が開かれる。ぴくりと睫毛が震えたのは、眩しいからだろうか。目を開けきってからも、レンはぼうっとした様子で真っ直ぐ一点を見つめている。心配してセイが声を掛けると、その目は此方を向いて丸く見開かれた。昼なのに、目の前に月が二つ浮いている。徐にレンの両手が自分へと伸ばされ、顔に触れる。相変わらず冷えた指先が、輪郭を確認するかのように頬を撫でた。

「……セイ?」
「はい」
「セイなの?」
「そうですよ、神父様」
「……」

 ずっと驚いたような表情で、ぺたぺたと触るレンの好きなようにさせる。ただ柔らかな笑みを浮かべて、質問に応じる。彼の手はセイの髪を撫で、目尻を撫で、それからやっと微笑んだ。幸せそうに、愛しむように。

「これが金色、これが青色。……セイの色」
「ふふ、擽ったいですよ」
「見える。はっきりではないけれど、君が見えるよ。惚れ直してしまいそう」
「……もう、ばか」

 どちらともなく抱き合った。溢れそうな想いが目を潤ませて、少しだけ視界が滲む。彼のこんな顔が見られるなら、名目だってなんだって、こうすることを選択して良かったと強く実感する。そんな二人を眺めながら、医師とノノは顔を見合わせて笑った。

「暫く様子見ね。場合によっては眼鏡かなぁ。だいぶレンズの厚いものになるとは思うし、目への負担が凄いだろうから、無理の無いようにね」
「うん、ありがとう。今後ともよろしくね」
「もちろん。とにかく一旦、お疲れ様。二人とも」

 労いの言葉を受けて、レンとセイは深々と頭を下げる。感謝を伝えなくてはならなかった。治療だけでなく、全てにおいて支えてくれたのは彼と、ノノなのだ。ここまで上手くいったのも、二人が互いに寂しい思いをしなかったのも、医師の図らいとノノの何気ない気遣いがあったからに違いない。言葉では全てを表しきることは出来なかったけれど、二人はしっかりと受け取ってくれた。

「あ、あともう一つ。奥さん……セイさん、さっきの背中の件だけどね」
「背中?何かあったの?」
「え?ええと、」

 セイが口を開く前に、ノノがかいつまんで説明してくれる。思っていた通り、それを聞いたレンは心配そうにセイを見やった。痛みはもう気にするほどでも無かったが、気がかりだったことを聞けるタイミングに、セイは医師に問い掛ける。

「あの、何か心配な点でもあったのでしょうか。お二人とも、とても驚いていたので……」
「あー、やっぱ心配掛けちゃってたじゃないっすか。センセ」
「仕方ないでしょ~。誰だってびっくりするよ」
「?……あの、」
「心配しないで。病気だとか、他に怪我をしていたとかじゃないんだよ」
「では、何が……」
「それは、旦那さんに見てもらった方が良いかもね」
「……?」

 とりあえず危惧していたような事態では無いらしいが、まるで会話についていけずにセイは首を傾げる。何故、彼に見てもらう必要があるのだろうか?話をふられたレンも不思議そうな顔をしている。
 そんな二人をよそに、ノノは先ほどと同じように服を捲るように言って、裾を持った。それからレンに背中を向けるように肩をぐいぐいと押すので、困惑しながらも言う通りにする。
 再び外気に触れた背中。白い肌に顔を近づけて目を凝らしてから、レンは目を見開いた。先ほどの二人と同じような表情。不安要素の無い、純粋な驚き。それから指で背中をなぞりだす。こそばゆさと冷たさにぴくりと肩が跳ねた。

「こ、れ、……どうして、」
「なんですか。そろそろ教えてください」
「……、番の、印……?」
「……えっ……?」

 絞り出た言葉に、セイは振り返る。しかしやはり自分では見ることが出来ない。頑張って首を回していると、ノノがそれを止めてカルテに挟まった写真を差し出した。
 なんの異常も無い人体を写したレントゲン写真。しかしその肩甲骨あたりに、後から付け足したように不自然な白く浮き出るものがあった。紋様のような、何かのマークのような、……羽根のような、そんな模様。

「これ……」
「セイさんのっすよ。さっき撮ったやつ。どういうメカニズムか未だにわかんないけど、番の印はX線撮影すると写るんす」
「これが、……私の背中に……?」
「そう。びっくりしたよ~。普段自分では見えないし、他人に見られる場所ではなかったから、気づかなかったんだね。レンさんも目が見えなかったわけだし」
「待って。下腹部以外に番の印が出るなんて、聞いたことが無いよ」
「うん、説明するね」

 レンの声が震えている。無理もなかった。セイ自身も、今の状況を理解しきれていない。嬉しさを感じる余裕などないくらいに、困惑が圧倒的に脳を支配している。医師は立て掛けてあった椅子を引っ張ってきて、腰を下ろした。

「これは、"天使の生まれ変わり"って言われてる、とっても希少な番の種類なんだ」
「天使の……生まれ変わり、」
「うん。番自体がとっても珍しいんだけど、その中でも本当に特殊な例。下腹部じゃなくて背中に番の印が出る。僕も含めて、この病院の医師、看護師の中に見たことある人はいなかった」
「前に、お医者様が言いかけた《特殊な例》……ですか?」
「そう。世界規模でも本当にごく僅かだから、流石に無いだろうって言わなかったけど……。セイさんの背中を見た時、そりゃあもう大慌てで調べたよ」
「大変だったんすよ。そもそも資料が全然無いんですもん。でも、間違いないっす」
「……」

 情報を整理して、頭を回す。
 番の印がある。一人の男性を愛し、彼だけに身体を捧げた自分の背中に。はっきりと写真に写っているそれは、ある事実を示していた。医師はそっと、優しく問い掛ける。

「セイさん。念のために確認なんだけど、レンさん以外と身体を重ねたことはあるかな?」
「ありません」
「なら確定だ。君たちは、間違いなく番だよ」
「ーー……!!」

 言葉が出なかった。レンを見る。自分も、彼と同じ顔をしているだろう。
 そうであったら良いと思ったことはあっても、番を強く望んだことは無かった。その希少性は理解していたし、教会での番に関するしがらみが大嫌いで、或いは居心地が悪くて、自分たちは此処に来たのだから。
 でも、それでも。本当に愛している人と、番であったなら……それは何よりの幸せに違いなかった。
 そっとレンが背中に触れて、キスをする。印の位置を知る。ふわ、とあたたかな熱が身体を巡って、すぐに消えていった。唇を離されたと思うと、後ろから強く抱き寄せられる。ようやく理解した思考に心がついていけず、ぐちゃぐちゃになった感情が涙となって溢れ出した。

「神父、さま、私」
「うん、……うん……!此処まで一緒にいてくれて、ありがとう、セイ」
「……し、んぷさま……ぁ」

 レンも泣いていた。回された腕にしがみついて、セイは嗚咽を漏らし続けた。そんな二人に、医師は穏やかに言葉を紡ぐ。

「君たちが選んで、諦めずに、二人でいることを貫いた結果だ。もちろん後々何かの拍子に気づけたかもしれない。レンさんの目も見えるようになったしね?でもこの場で、君たちの番の縁結びに立ち会えたことは、医師として、一人の人間として、誇りに思う。心から祝福するよ」

 感謝の言葉も出せなかったが、二人はこくこくと何度も頷いた。抱えていた不安感が、全て流れ落ちていく。
 二人が出会わなかったら。教会のしきたりに負け、付き合っていなかったら。身体を重ね、その時点で番でないからと諦めていたら。レンだけが追放され、離れ離れになっていたら。目を治すことを選んでいなかったら。
 本当に、何一つ無駄なことなど無かったのだ。もうそこに僅かな疑いも無い。将来の円満が決まったことよりずっと、今込み上げる幸せを噛み締める。
 顔を合わせた。二人とも酷い有様だ。それでも笑い合った。涙は絶えず流れ続けるけれど、その顔は間違いなく幸せを浮かべている。そして誰に何を言われても、離すことのなかった手を強く繋ぐ。自分たちで掴み取った縁を、何があっても手放さないように。番だと、運命だと言って驕ることの無いように。
 詳しいことは後で話すと言って、二人は出て行った。二人きりの時間をくれたことに感謝をして、静かに寄り添う。窓の外には何処までも澄み渡った青空が広がっていて、鳥の囀りが聞こえた。

「あれが、空色」
「そうです。雲が、白」
「うん。……ねぇ」
「はい」
「本当に……ありがとう」
「私こそ。……幸せです。神父様」

 キスをする。いつもより甘い気がして、また涙が一筋流れた。それは決して、悲しみを纏わない綺麗なもの。
 神様さえ味方につけた二人に、もう何も怖いものはなかった。
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