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陽子さん
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稔くんの部屋で楽しく過ごした僕だったけど
明日の朝も新聞配達があるので
早々に失礼し、自転車を立ち漕ぎして
夕方の街を走る。
『まあ、人それぞれあるんだろう』
とは思った。アルバイトに明け暮れる日々だと
悩む暇は無かった。
でも、出来ればもう少し楽で
ゆっくり眠れるバイトにしたい。
そうも思う。
なにせ、朝刊の折り込みもやると
午前4時には出ないと行けないから
8時間寝ようとすれば、3時に起きても
午後7時には寝ないとならない。
それは無理だった。配達の後学校へ行くのだし。
配達だけの今のアルバイトだと、月に2万位にしかならない。
(77年頃、高卒事務の初任給が7万位だから、大体半分位か。でも、配達だけ1区間で2万、と言うのは今よりは高給)
スーパーマーケットのアルバイトの方がいいかな、と
僕は思った。
時間が割と自由だし、第一気楽だ。
『明日、八百屋さんへ電話してみよう』
僕は期待した。
そんなふうに生きるのに必死だと、とても悩む暇は無かった。
そんなもんだと思う。
翌朝は5時に起きて、配達区間の最初の家に自転車で行く。
田舎なので、のどかだから
そこの軒下に一区間分の新聞が
纏めてあって。
公会堂とかが多い。盗難は無かったんだろう。
それを、自転車に積んで配達。
狭い路地はバイクが通れないし、煩いから自転車が有難がられて。
プロの配達員は、件数を稼ぐのにバイクで行くので
こう言う区間は高校生アルバイトのニーズがあるのだった。
いつも、イヤホンでラジオを聴いていた。
歌うヘッドライト、なんて
運転手さん向け番組。
中学の音楽の先生に、ピカピカの人がいて、歌うヘッドライト、なんて言われてたなぁ、なんて。
思い出しながら。
各々の家で新聞が違うから、間違いがあると全部ズレちゃうので
よく、怒られた(笑)。
中学の同級生の家だと、怒りはしなくて
起きて来て待っててくれると、却って間違いがあっちゃいけない、って思う。
中1の時、クラスの教師は
僕の事を吊し上げた事があった。
『みんな、嫌いか!』
と、先生がそう言えばみんな
沿うだろう。
でも、そんな時。
クラス委員長の正人は『僕は好きです。先生が相手でも態度を変えない。議論すべきです。クラスを扇動してはいけない。』
と、内申書など気にもしない秀才、正人の言葉に
教師も反省。
『解った。先生が悪かった。謝る』
その、インテリ正人の家は
経済新聞を取ってくれていて。
その家だけは間違えないように、と
僕も特に注意した(笑)
単純だけど、そんなものだ。
インテリ正人は、YAMAHAのDT250が
カッコいい、と言っていた。
『道なき道を走ってみたい』と言っていた。
なんとなく、お父さんが立派な人で
後継、と言う人生が嫌だったのだろう。
若者らしく、自由に走りたい。
正人は、1流進学校へ行ったが。
免許取るのかな。
そんなふうに、ペダルを漕ぎながら
夜は白み始める。
そんなふうに、朝5時に起きると言っても
家族はまだ、TVを見たりして笑っていたりするから
寝るには耳栓が必要なくらい。
そういう耳栓代わりにラジオをよく掛けていた。
ゲルマニュームラジオ、は
電気が要らないので、ずっと聴きっぱなしで寝ていたり。
すごく、いい音だった。
その後、1石ラジオ。トランジスタが一個だけ。
これも、いい音がして。新聞配達に持っていくのはこれ、だった。
勿論、自分で組み立てたものだった。
回路設計は、まだこの頃はしていないけど
できなくはない、そういう感じだった。
ラジオの製作雑誌も、よく図書館で借りてきて読んでいた。
買うのはちょっと、勿体無いので(何せ、自分が世帯主のようなものである)。
新聞配達を済ますと、もう6時は過ぎているので
家に戻り、朝ごはんを食べる。
そんな生活だと、悩むとか、不満、なんて
考える余裕もなかった。
仕事と学校、こなすのに精一杯。
だけれども、バイクは、新聞配達のこともあって
乗ろうと思った。
僕は五月生まれだから、すぐに原付免許を取ろうと思ったのだが・・・。
兄が「どうせならでかいの乗れよ」と。
それだと、教習所代を稼がないとなぁ、と。
次の日、登校して
玄関にある赤電話で、スーパーの求人に応募した。
あっさり採用になった。
時間給が500円、と
当時としてはいい時間給で
夕方が6時頃~9時くらいまでで
閉店まで八百屋、閉店後は品だし、陳列などの
普通のアルバイト。
それでも毎日あるし、日曜は昼間もアルバイトに出られたから
「これだと、新聞配達よりは楽だな」と。
1500×20=30000である。
日曜が4000×4=16000。
46000円と言うと、当時の高卒初任給の7割くらい
(ただ、日曜も出ているが)。
これは美味しい(笑)と、新聞配達のアルバイトは
辞める事にした。
なにせ、生活パターンが家族と違うから
早く寝るのもままならない。
新聞屋さんに電話して「あ、すみませんけどアルバイト辞めたいと思います」
と言うとあっさりOK(笑)
間違いが多かったしな。
そんな訳ですっきりして。学校の玄関から廊下を、上履きサンダルで歩いていた。
いい気分だった。
職員駐車場にある、音楽の持田先生のTY50が見えた。
TYで、中学生の頃河原をよく走った。
勿論公道は走らない。
当時は河原は大丈夫だと信じられていて。
僕もトライアルごっこをしていたり。
土手を登ったり、下ったり。
畝を乗り越えたり。
自然の河原だから、いろいろなものがごろごろしていて
それを避けて走るのも結構、トライアルっぽかった。
橋の上から、中学の先生が見ていて「怪我するなよ」と
言って。
白い、初代カローラで走り去っていった。
K型エンジンの甲高いギア音が、今も思い出される。
ーーーそうこう回想していると、クラスの前で
剣道部の小野君と、同じく剣道部の女子、小柄でかわいい子だけど
何か、にこにこお話をしながら。
僕は「いょ!カップルかい」と、冷やかす。
そんなんじゃないわよ、と、その女の子はにこにこ。
小野君は「クラブ、どこにした?」
ああ、そっか。まだ決めていなかったなあ。
アルバイトがあるから、クラブどころではないだろうし・・・・。
運動部は×。
文化部でも練習があるようなのは×。
と言うと、残るのは軽音学部、囲碁将棋、茶道くらいだった。
僕の後ろの席のケニア、順二くんは茶道部に入ったと言っていた。
後々、喫茶店を開くだけの事はある。
因みに小野君は剣士にはならず(笑)卒業後、大きなホームセンターに勤めて
ずっとそこに居る。根性はあるのだろう。
履歴書を持ってきて、と
アルバイト先のスーパーで言われたけれど
そんなもの書いたことないし。どこで売ってるんだろう?。
事務室のおばちゃんに聞いてみる。
「あのー履歴書ありますか?」
事務のおばちゃんはにこにこ「そうねぇ・・・・進路指導室にサンプルがあるだろうから、
図書室でコピー・・・・あなた一年生?何に使うの?」
と、詮索されたので(笑)結構結構、ありがとうございますと
退散。
そそくさと南校舎の4階へ。
進路指導室は空いていて。がらん。
それはそうで、4月のこの時期に進路、なんて考えてる
気の早い三年生はいない(77年はそうだった)。
大学進学も、就職も
無理が無いように、と
先生が割り振るので、まず浪人する子は居なかった。
その代わり、会社辞めたりすると白眼視される。
そんな時代でもあったから、TVドラマ「俺たちの旅」みたいに
アルバイト生活、なんてのはとても憧れられる存在だった。
一旦、ドロップアウトするともう、再就職はそれなりのところしか
入れない。
そういう時代だった。
進路指導室のサンプル・・・・と言ってもなぁ。探してはみたが
よく判らない。
そこで。
となりの図書室のおばちゃん、須美代ちゃんと言う
よく太った、ころころ笑う眼鏡のおばちゃんに
「すみませーん。履歴書のサンプルありますか」と
聞く。おばちゃんは、どこからか図書室の書類棚、みたいな所から
それを持ってきて「はいよ。あなた一年生?体大きいから三年生かと思ったわ」
と、にこにこ。
「頂いていいですか?」と言うと
おばちゃん「いいわ」
よく、進路指導の前になって図書館で慌てて書く三年がいるそう(笑)。
それをあっさり貰っては見た。
履歴書なんて書いたことないしなぁ。
だいたい、高1じゃあ。
住所氏名、年齢、学歴
くらいしか書きようがないな、と。
思ったけど、とりあえずそれを書いた。
放課後、自転車を飛ばしてスーパーへ行くと
事務室に通されて「はい。いつから来れる?」
と言うので僕は「切りのいいところでいいです」と言うと
チーフさんは笑って「大人だねぇキミ。じゃあ、20日締めだから21日から」
と、あっさり。
この頃は給料も手計算だったから、事務員さんが楽なのだ。そうすると。
そういう気遣いも必要だった。
そんなチーフさんは、天然パーマの元気な人で、浅黒く日焼けして
明るい人。
人気のありそうな人だった。
反して店長は、むっつりして怖そうな役人ふう。
うまくバランスが取れてるな、と思った。
「では、失礼しました」と、事務室から出ると
ひとりのお姉さんとすれ違う。
にっこり、と笑ったその人は、スーパーの店員さんらしい。
すらっとした長身で、僕よりちょっと低いくらい。
黒髪は真っ直ぐで、さらりと分けて纏めていたが
事務的なんだけど、なんとなく可愛らしい。
大学生かな、と思ったけど、ネームプレートが「沢口」と
印刷だったから社員、みたいだった。
ちら、と上目で僕を見たとき、ちょっとどっきりした。
丸坊主が少し伸びただけの少年だから。
なんとなく、いい香りがして。
いいなあ、と思って
か細い後ろ姿を見送った。
スーパーのアルバイトは、楽しかった。
タイムカード制だったし、新聞配達みたいに
出来ないとダメ、と言う事もなかった。
一番楽しかったのは、沢口さんとの出会いで
アパレル担当で、清楚でお洒落。
けれど、なんとなく華やかで。
太田裕美さんに似てるかな、と
僕は、友人が大好きなので
何枚か聴いた事があった。
ふんわりとした、やわらかで。優しい世界。
沢口さんもそんな感じだった。
スーパーは定休日がないのだけど、沢口さんは休日の前になると
よく、お店が7時に閉店になっても帰らずに、僕の仕事を手伝ってくれたり。
いろいろと、話しかけてくれて。
僕は、ちょっと恥ずかしかったのだけど、それでもなんとか会話をしてみたり。
陽子さん、と言う名前だと言う事。
海辺の小さな町の、このスーパーの支店に入社したのだけど
此方で人手が足りないので、ヘルパーで来ている、とか。
僕が、学費のためにアルバイトをしていると言うと
陽子さんは「そう、わたしも弟と妹の為に仕送りしているわ。」と
言って、ちょっと表情が凛々しく。
「ほんとは、大学に行きたかったんだけど。だから、君をみていると
嬉しいの。弟がそんな風に思ってくれたら、って。」
と。
弟は高校生なのかな。良くは判らないけど
僕は中学生から、ちょっと闇でアルバイトをしていたりしたから
やろうと思えば出来るのだけど、と思った。
「美大か音大、ですか?」と僕が尋ねると
「そう。美術かな、デザインスクールでも良かった」と。
「でも、まだ諦めないでもいいです。」と
僕は、進路指導室でちら、と見た奨学金制度の事を話した。
学生でなくても、貸して貰えるとの事に
ちょっとびっくりしたので、よく覚えている。
「でも、なんで美大って思ったの?」と
陽子さんは、くすっ、と笑って。
僕は素直に「太田裕美さんのレコードを聞いてて。声もなんとなく
陽子さんに似てて。」と
答えにならない答えを言った。
陽子さんは「そう。インスピレーションって大事なの。音楽も絵も、そうね。
もう一度大学・・・・か。」
陽子さんは考えているようだった。
「この仕事もね、お休みの日が不規則でしょう。お友達も出来ないし
出来たとしても、お店の人だとなんとなく・・・。」と
にっこり、ちょっと複雑な表情。
実際、こういう僕と陽子さんを見て
食料品チーフ(近藤正臣似)がブチ切れて(笑)僕に意地悪をしたり
偉そうに怒鳴ったりするのだけど。
そういう事もあるんだろうなぁ、と思った。
ああいう人に迫られてたら、それは逃げるべきだし
僕も守ってあげなくては。そう思った。
「僕で何か、出来る事があったら何でも言ってください。」と
言うと、陽子さんは
にっこりと、かわいらしい笑顔になって「ありがとう。」と
僕の、ちょっと伸びてきた丸坊主を撫でた。
そういう笑顔だと、クラスメートの女の子みたいだと僕が言うと
陽子さんは
「そう。わたしもまだ18歳だから。そんなに遠くもない・・・かな」と。
落ち着いて見えるので、もう少し上かと思ったけど
若々しい表情をすると、ハイティーンかな、と見えた。
ふつうの女の子みたいに、お洒落して楽しいことして。
そういう事をしてみたいんだろうな、なんて・・・・。
僕は、稔くんの言うようなディスコに
クラスメートの秀才たち、女の子が来ていると言うお話を
思い出した。
いろいろ、できないこと、あるよね。若いんだもの。
そう思う。
陽子さんは、それから楽しそうだった。
ちょっと、ハミングしながらアパレルの商品出しをしたり。
笑顔の多いひとになって。
なんか、わからないけど良かったな。
僕はそんな風に思った。
ある時、このお店で閉店後に店のパーキングでバーベキューパーティー、なんて
あったのだけれども
それは、この町の夏祭りで、花火大会の日。
今だったら時間外にそういう事をするのは、ちょっと圧力っぽい、と
思う人もいるだろうけれども
当時は、お店の人=家族、みたいな感じで
みんな温かかった。
なので、陽子さんたち女子は、お料理をしたり
お酒を注いで上げたりと、そういう事を嫌々やる、訳ではなくて
お姉さんが、お父さんにしてあげる。
そういう感覚で、楽しそうにしていた。
これは日本全体がそうだったような気がする。
どこの会社でも、意地悪をするようなひとは居なかった
(から、あの食料品チーフ、近藤正臣似さんは、皆に嫌われていた)
誠にザマーミロ、と思う。
僕も、その時は16歳になっていたけれど
ここのバーベキューに誘われた。僕は勤務時間なのだが
「いいよ」と、あの怖そうな店長も、愛想のいいチーフ(この時は副店長になっていた)も。
許すので、バーベキューを食った。食った。
それは16歳である。なんだって食う。
陽子さんが作ったものなら、美味しいだろうし。
ついでにビールも飲んで、したたか酔っ払って
ブルース・リーの真似をしたりして、ぶっ倒れた(笑)。
でもまあ、クーラーの利いた八百屋の冷蔵庫(笑)で
寝転がったら直ぐに冷めた。
なんたって冷蔵庫。
冷蔵庫から出てくると、陽子さんが「だめじゃない、お酒飲んだりして。」と
にっこり。
弟にもそういう風に言ってるのかなぁ、なんて思ったけど
「すみません」
陽子さんは「君の言うように、もう一度頑張ってみる。もうすぐね、支店に戻れそうなの。
そうしたら。」
奨学金を貰って、大学に行くのだろうか。
大学、なんて僕は考えた事も無かった。その日で精一杯。
それが現実だった。
「よかったですね。その方がいいです。」と、僕はお返事をした
少し、まだ酔っていた。気の利いた事は言えなかった。
・
・
・
それからもアルバイトは続いたし、陽子さんもご機嫌だった。
ただ、近藤正臣似(笑)が不満顔で
(いつも不満顔だが)。
あいつがなにかしたら、ぶっ飛ばしてやろうと思った。
なにせ、ブルース・リー以来のカンフーファンである。(根拠にもならないが)。
カンフーっぽい練習はしていた。
バーべキューの時、カンフーのワザを見せたので
近藤正臣似(笑)くんも、大人しくなった。
怒鳴ったりしたら危ないと思ったのだろう。
それはまあ、柔道もやってはいたし。
力もあった。
そのおかげで、中学の頃も不良には絡まれずに済んだ。
単純だが、そんなものだ。
アルバイトでお金が出来たので、教習所に通い始めたのが
6月頃だった。
教習所の入所書類の「勤務先」の欄にはスーパーの名前を書いた(笑)
禁止ではないけれど、高校生、とは書きたくなかった。
ヘンなところから噂になる事もあるからだ。
教習のバイクはヤマハのRX、RD350で
どちらも2サイクルで軽い。けれど低速が不安定なので
一本橋走行は難しかった。
ブレーキもとてもよく利くので、よく制動試験で転ぶ奴が居たが
そこは、僕はバイクを乗っているので
そんな事は無かった。
教官が「バイク慣れてるね、原付乗ってた?」と。見る人が見ると
判るらしい。
この教習所で、同じ県立北高の栄三くんに出会う。
彼は、稔くんの隣の町内。
GS400を手に入れ、今でも持っている。
そればかりか、スズキに入社して。以来スズキの人である。
楽しい奴だ。
その頃かな、バイク雑誌にヤマハXT500のエンジンを使った
ビッグ・シングル・ロードスポーツが出ると言う記事が載った。
試作車っぽい写真も出ていて。
これは、エイプリルフールで雑誌に載った、同じようなバイクを
本当にヤマハが開発している、と言う噂話だった。
僕は、その雑誌を学校で見ていると
稔くんが「おお、いいね。」
稔くんは、けっしてひとの趣味を貶さない。
いい人なのだ。
ふつうは「単気筒なんてダセーよ、4気筒だよ」と、CB400Fを褒める奴が多かったが。
そういう所のない稔くん、それとノリちゃんとよくバイクの話しをした。
ノリちゃんはツーリング派で、「北海道ツーリング、行こうよ」と
夢みたいな事を言うのだった。
高校在学中には・・・ちょっと無理だと思ったけど
夢、だ。
(このノリちゃんは、今でもツーリングが大好きで
隼を駆って、ひょい、と青森くらいは平気で行ったりする)。
「いいなあ、あんな奥さんだったら」と
15歳の僕は、陽子さんをそんなふうに想った。
制服から私服に着替えて、それで僕のアルバイトを手伝いに来てくれる。
私服の陽子さんは、そういった少年の空想を満たすには十分だった。
その夢想に耽るだけでも楽しかった、から
アルバイトも、面白かった。
西瓜を運んでいて、割れたら
「食べようよ、後で」と。青物のチーフ(アゴいさむに似ている)は
意外と優しい。
それで、僕はアパレルの仕事をしていた陽子さんに「終わってから、八百屋へ来て。
西瓜があるよ」と。
陽子さんは、仕事の時は真面目なんだけど、びっくりしたように笑顔で。
夜7時。
なぜか制服のまま。
「いつもなら、私服に着替えて来るのにな・・・。」と思ったけど
西瓜、汚れるし。
みんなが一緒だと、あんまり可愛いと
また、誰かがホレちゃうと困るし(なぜ?)と
僕は思ったりもした。
陽子さんには、恋人くらいは故郷にいるのだろうと
そんな風に思わない事も無かったけれど。
休みが週に一回では、帰るに帰れないだろうし。
そんな印象でもなかった。
ーーーーと、言うのは。
ちょっと前、中学のクラスメートのひとり。
フォークソング仲間の朋ちゃんに、市立高校の学園祭で会ったのだけれども。
なんとなく、やつれた感じ。
何があったかは知らないけれど。
煌くような美少女(と、クラスでは言われていた)だった筈が
ただの女の子、と言うか、年老いた女のように見えた。
どうも、この頃の朋ちゃんは、30男と付き合っていると言う
噂で(これは、同じく音楽仲間の裕子が教えてくれたのだが。
なんとかしてほしいと思ったのかもしれない)。
稔くんは、女の子の気持を大事にしてたのかな、と
そんな風にも思った。
それが非行と呼ばれても。
知り合いの女の子が望めば、望むようにしてあげる。
楽しくさせてあげる。
そうすれば、朋ちゃんのようにはならないんだろうな、なんて
ふうにも思った。
明日の朝も新聞配達があるので
早々に失礼し、自転車を立ち漕ぎして
夕方の街を走る。
『まあ、人それぞれあるんだろう』
とは思った。アルバイトに明け暮れる日々だと
悩む暇は無かった。
でも、出来ればもう少し楽で
ゆっくり眠れるバイトにしたい。
そうも思う。
なにせ、朝刊の折り込みもやると
午前4時には出ないと行けないから
8時間寝ようとすれば、3時に起きても
午後7時には寝ないとならない。
それは無理だった。配達の後学校へ行くのだし。
配達だけの今のアルバイトだと、月に2万位にしかならない。
(77年頃、高卒事務の初任給が7万位だから、大体半分位か。でも、配達だけ1区間で2万、と言うのは今よりは高給)
スーパーマーケットのアルバイトの方がいいかな、と
僕は思った。
時間が割と自由だし、第一気楽だ。
『明日、八百屋さんへ電話してみよう』
僕は期待した。
そんなふうに生きるのに必死だと、とても悩む暇は無かった。
そんなもんだと思う。
翌朝は5時に起きて、配達区間の最初の家に自転車で行く。
田舎なので、のどかだから
そこの軒下に一区間分の新聞が
纏めてあって。
公会堂とかが多い。盗難は無かったんだろう。
それを、自転車に積んで配達。
狭い路地はバイクが通れないし、煩いから自転車が有難がられて。
プロの配達員は、件数を稼ぐのにバイクで行くので
こう言う区間は高校生アルバイトのニーズがあるのだった。
いつも、イヤホンでラジオを聴いていた。
歌うヘッドライト、なんて
運転手さん向け番組。
中学の音楽の先生に、ピカピカの人がいて、歌うヘッドライト、なんて言われてたなぁ、なんて。
思い出しながら。
各々の家で新聞が違うから、間違いがあると全部ズレちゃうので
よく、怒られた(笑)。
中学の同級生の家だと、怒りはしなくて
起きて来て待っててくれると、却って間違いがあっちゃいけない、って思う。
中1の時、クラスの教師は
僕の事を吊し上げた事があった。
『みんな、嫌いか!』
と、先生がそう言えばみんな
沿うだろう。
でも、そんな時。
クラス委員長の正人は『僕は好きです。先生が相手でも態度を変えない。議論すべきです。クラスを扇動してはいけない。』
と、内申書など気にもしない秀才、正人の言葉に
教師も反省。
『解った。先生が悪かった。謝る』
その、インテリ正人の家は
経済新聞を取ってくれていて。
その家だけは間違えないように、と
僕も特に注意した(笑)
単純だけど、そんなものだ。
インテリ正人は、YAMAHAのDT250が
カッコいい、と言っていた。
『道なき道を走ってみたい』と言っていた。
なんとなく、お父さんが立派な人で
後継、と言う人生が嫌だったのだろう。
若者らしく、自由に走りたい。
正人は、1流進学校へ行ったが。
免許取るのかな。
そんなふうに、ペダルを漕ぎながら
夜は白み始める。
そんなふうに、朝5時に起きると言っても
家族はまだ、TVを見たりして笑っていたりするから
寝るには耳栓が必要なくらい。
そういう耳栓代わりにラジオをよく掛けていた。
ゲルマニュームラジオ、は
電気が要らないので、ずっと聴きっぱなしで寝ていたり。
すごく、いい音だった。
その後、1石ラジオ。トランジスタが一個だけ。
これも、いい音がして。新聞配達に持っていくのはこれ、だった。
勿論、自分で組み立てたものだった。
回路設計は、まだこの頃はしていないけど
できなくはない、そういう感じだった。
ラジオの製作雑誌も、よく図書館で借りてきて読んでいた。
買うのはちょっと、勿体無いので(何せ、自分が世帯主のようなものである)。
新聞配達を済ますと、もう6時は過ぎているので
家に戻り、朝ごはんを食べる。
そんな生活だと、悩むとか、不満、なんて
考える余裕もなかった。
仕事と学校、こなすのに精一杯。
だけれども、バイクは、新聞配達のこともあって
乗ろうと思った。
僕は五月生まれだから、すぐに原付免許を取ろうと思ったのだが・・・。
兄が「どうせならでかいの乗れよ」と。
それだと、教習所代を稼がないとなぁ、と。
次の日、登校して
玄関にある赤電話で、スーパーの求人に応募した。
あっさり採用になった。
時間給が500円、と
当時としてはいい時間給で
夕方が6時頃~9時くらいまでで
閉店まで八百屋、閉店後は品だし、陳列などの
普通のアルバイト。
それでも毎日あるし、日曜は昼間もアルバイトに出られたから
「これだと、新聞配達よりは楽だな」と。
1500×20=30000である。
日曜が4000×4=16000。
46000円と言うと、当時の高卒初任給の7割くらい
(ただ、日曜も出ているが)。
これは美味しい(笑)と、新聞配達のアルバイトは
辞める事にした。
なにせ、生活パターンが家族と違うから
早く寝るのもままならない。
新聞屋さんに電話して「あ、すみませんけどアルバイト辞めたいと思います」
と言うとあっさりOK(笑)
間違いが多かったしな。
そんな訳ですっきりして。学校の玄関から廊下を、上履きサンダルで歩いていた。
いい気分だった。
職員駐車場にある、音楽の持田先生のTY50が見えた。
TYで、中学生の頃河原をよく走った。
勿論公道は走らない。
当時は河原は大丈夫だと信じられていて。
僕もトライアルごっこをしていたり。
土手を登ったり、下ったり。
畝を乗り越えたり。
自然の河原だから、いろいろなものがごろごろしていて
それを避けて走るのも結構、トライアルっぽかった。
橋の上から、中学の先生が見ていて「怪我するなよ」と
言って。
白い、初代カローラで走り去っていった。
K型エンジンの甲高いギア音が、今も思い出される。
ーーーそうこう回想していると、クラスの前で
剣道部の小野君と、同じく剣道部の女子、小柄でかわいい子だけど
何か、にこにこお話をしながら。
僕は「いょ!カップルかい」と、冷やかす。
そんなんじゃないわよ、と、その女の子はにこにこ。
小野君は「クラブ、どこにした?」
ああ、そっか。まだ決めていなかったなあ。
アルバイトがあるから、クラブどころではないだろうし・・・・。
運動部は×。
文化部でも練習があるようなのは×。
と言うと、残るのは軽音学部、囲碁将棋、茶道くらいだった。
僕の後ろの席のケニア、順二くんは茶道部に入ったと言っていた。
後々、喫茶店を開くだけの事はある。
因みに小野君は剣士にはならず(笑)卒業後、大きなホームセンターに勤めて
ずっとそこに居る。根性はあるのだろう。
履歴書を持ってきて、と
アルバイト先のスーパーで言われたけれど
そんなもの書いたことないし。どこで売ってるんだろう?。
事務室のおばちゃんに聞いてみる。
「あのー履歴書ありますか?」
事務のおばちゃんはにこにこ「そうねぇ・・・・進路指導室にサンプルがあるだろうから、
図書室でコピー・・・・あなた一年生?何に使うの?」
と、詮索されたので(笑)結構結構、ありがとうございますと
退散。
そそくさと南校舎の4階へ。
進路指導室は空いていて。がらん。
それはそうで、4月のこの時期に進路、なんて考えてる
気の早い三年生はいない(77年はそうだった)。
大学進学も、就職も
無理が無いように、と
先生が割り振るので、まず浪人する子は居なかった。
その代わり、会社辞めたりすると白眼視される。
そんな時代でもあったから、TVドラマ「俺たちの旅」みたいに
アルバイト生活、なんてのはとても憧れられる存在だった。
一旦、ドロップアウトするともう、再就職はそれなりのところしか
入れない。
そういう時代だった。
進路指導室のサンプル・・・・と言ってもなぁ。探してはみたが
よく判らない。
そこで。
となりの図書室のおばちゃん、須美代ちゃんと言う
よく太った、ころころ笑う眼鏡のおばちゃんに
「すみませーん。履歴書のサンプルありますか」と
聞く。おばちゃんは、どこからか図書室の書類棚、みたいな所から
それを持ってきて「はいよ。あなた一年生?体大きいから三年生かと思ったわ」
と、にこにこ。
「頂いていいですか?」と言うと
おばちゃん「いいわ」
よく、進路指導の前になって図書館で慌てて書く三年がいるそう(笑)。
それをあっさり貰っては見た。
履歴書なんて書いたことないしなぁ。
だいたい、高1じゃあ。
住所氏名、年齢、学歴
くらいしか書きようがないな、と。
思ったけど、とりあえずそれを書いた。
放課後、自転車を飛ばしてスーパーへ行くと
事務室に通されて「はい。いつから来れる?」
と言うので僕は「切りのいいところでいいです」と言うと
チーフさんは笑って「大人だねぇキミ。じゃあ、20日締めだから21日から」
と、あっさり。
この頃は給料も手計算だったから、事務員さんが楽なのだ。そうすると。
そういう気遣いも必要だった。
そんなチーフさんは、天然パーマの元気な人で、浅黒く日焼けして
明るい人。
人気のありそうな人だった。
反して店長は、むっつりして怖そうな役人ふう。
うまくバランスが取れてるな、と思った。
「では、失礼しました」と、事務室から出ると
ひとりのお姉さんとすれ違う。
にっこり、と笑ったその人は、スーパーの店員さんらしい。
すらっとした長身で、僕よりちょっと低いくらい。
黒髪は真っ直ぐで、さらりと分けて纏めていたが
事務的なんだけど、なんとなく可愛らしい。
大学生かな、と思ったけど、ネームプレートが「沢口」と
印刷だったから社員、みたいだった。
ちら、と上目で僕を見たとき、ちょっとどっきりした。
丸坊主が少し伸びただけの少年だから。
なんとなく、いい香りがして。
いいなあ、と思って
か細い後ろ姿を見送った。
スーパーのアルバイトは、楽しかった。
タイムカード制だったし、新聞配達みたいに
出来ないとダメ、と言う事もなかった。
一番楽しかったのは、沢口さんとの出会いで
アパレル担当で、清楚でお洒落。
けれど、なんとなく華やかで。
太田裕美さんに似てるかな、と
僕は、友人が大好きなので
何枚か聴いた事があった。
ふんわりとした、やわらかで。優しい世界。
沢口さんもそんな感じだった。
スーパーは定休日がないのだけど、沢口さんは休日の前になると
よく、お店が7時に閉店になっても帰らずに、僕の仕事を手伝ってくれたり。
いろいろと、話しかけてくれて。
僕は、ちょっと恥ずかしかったのだけど、それでもなんとか会話をしてみたり。
陽子さん、と言う名前だと言う事。
海辺の小さな町の、このスーパーの支店に入社したのだけど
此方で人手が足りないので、ヘルパーで来ている、とか。
僕が、学費のためにアルバイトをしていると言うと
陽子さんは「そう、わたしも弟と妹の為に仕送りしているわ。」と
言って、ちょっと表情が凛々しく。
「ほんとは、大学に行きたかったんだけど。だから、君をみていると
嬉しいの。弟がそんな風に思ってくれたら、って。」
と。
弟は高校生なのかな。良くは判らないけど
僕は中学生から、ちょっと闇でアルバイトをしていたりしたから
やろうと思えば出来るのだけど、と思った。
「美大か音大、ですか?」と僕が尋ねると
「そう。美術かな、デザインスクールでも良かった」と。
「でも、まだ諦めないでもいいです。」と
僕は、進路指導室でちら、と見た奨学金制度の事を話した。
学生でなくても、貸して貰えるとの事に
ちょっとびっくりしたので、よく覚えている。
「でも、なんで美大って思ったの?」と
陽子さんは、くすっ、と笑って。
僕は素直に「太田裕美さんのレコードを聞いてて。声もなんとなく
陽子さんに似てて。」と
答えにならない答えを言った。
陽子さんは「そう。インスピレーションって大事なの。音楽も絵も、そうね。
もう一度大学・・・・か。」
陽子さんは考えているようだった。
「この仕事もね、お休みの日が不規則でしょう。お友達も出来ないし
出来たとしても、お店の人だとなんとなく・・・。」と
にっこり、ちょっと複雑な表情。
実際、こういう僕と陽子さんを見て
食料品チーフ(近藤正臣似)がブチ切れて(笑)僕に意地悪をしたり
偉そうに怒鳴ったりするのだけど。
そういう事もあるんだろうなぁ、と思った。
ああいう人に迫られてたら、それは逃げるべきだし
僕も守ってあげなくては。そう思った。
「僕で何か、出来る事があったら何でも言ってください。」と
言うと、陽子さんは
にっこりと、かわいらしい笑顔になって「ありがとう。」と
僕の、ちょっと伸びてきた丸坊主を撫でた。
そういう笑顔だと、クラスメートの女の子みたいだと僕が言うと
陽子さんは
「そう。わたしもまだ18歳だから。そんなに遠くもない・・・かな」と。
落ち着いて見えるので、もう少し上かと思ったけど
若々しい表情をすると、ハイティーンかな、と見えた。
ふつうの女の子みたいに、お洒落して楽しいことして。
そういう事をしてみたいんだろうな、なんて・・・・。
僕は、稔くんの言うようなディスコに
クラスメートの秀才たち、女の子が来ていると言うお話を
思い出した。
いろいろ、できないこと、あるよね。若いんだもの。
そう思う。
陽子さんは、それから楽しそうだった。
ちょっと、ハミングしながらアパレルの商品出しをしたり。
笑顔の多いひとになって。
なんか、わからないけど良かったな。
僕はそんな風に思った。
ある時、このお店で閉店後に店のパーキングでバーベキューパーティー、なんて
あったのだけれども
それは、この町の夏祭りで、花火大会の日。
今だったら時間外にそういう事をするのは、ちょっと圧力っぽい、と
思う人もいるだろうけれども
当時は、お店の人=家族、みたいな感じで
みんな温かかった。
なので、陽子さんたち女子は、お料理をしたり
お酒を注いで上げたりと、そういう事を嫌々やる、訳ではなくて
お姉さんが、お父さんにしてあげる。
そういう感覚で、楽しそうにしていた。
これは日本全体がそうだったような気がする。
どこの会社でも、意地悪をするようなひとは居なかった
(から、あの食料品チーフ、近藤正臣似さんは、皆に嫌われていた)
誠にザマーミロ、と思う。
僕も、その時は16歳になっていたけれど
ここのバーベキューに誘われた。僕は勤務時間なのだが
「いいよ」と、あの怖そうな店長も、愛想のいいチーフ(この時は副店長になっていた)も。
許すので、バーベキューを食った。食った。
それは16歳である。なんだって食う。
陽子さんが作ったものなら、美味しいだろうし。
ついでにビールも飲んで、したたか酔っ払って
ブルース・リーの真似をしたりして、ぶっ倒れた(笑)。
でもまあ、クーラーの利いた八百屋の冷蔵庫(笑)で
寝転がったら直ぐに冷めた。
なんたって冷蔵庫。
冷蔵庫から出てくると、陽子さんが「だめじゃない、お酒飲んだりして。」と
にっこり。
弟にもそういう風に言ってるのかなぁ、なんて思ったけど
「すみません」
陽子さんは「君の言うように、もう一度頑張ってみる。もうすぐね、支店に戻れそうなの。
そうしたら。」
奨学金を貰って、大学に行くのだろうか。
大学、なんて僕は考えた事も無かった。その日で精一杯。
それが現実だった。
「よかったですね。その方がいいです。」と、僕はお返事をした
少し、まだ酔っていた。気の利いた事は言えなかった。
・
・
・
それからもアルバイトは続いたし、陽子さんもご機嫌だった。
ただ、近藤正臣似(笑)が不満顔で
(いつも不満顔だが)。
あいつがなにかしたら、ぶっ飛ばしてやろうと思った。
なにせ、ブルース・リー以来のカンフーファンである。(根拠にもならないが)。
カンフーっぽい練習はしていた。
バーべキューの時、カンフーのワザを見せたので
近藤正臣似(笑)くんも、大人しくなった。
怒鳴ったりしたら危ないと思ったのだろう。
それはまあ、柔道もやってはいたし。
力もあった。
そのおかげで、中学の頃も不良には絡まれずに済んだ。
単純だが、そんなものだ。
アルバイトでお金が出来たので、教習所に通い始めたのが
6月頃だった。
教習所の入所書類の「勤務先」の欄にはスーパーの名前を書いた(笑)
禁止ではないけれど、高校生、とは書きたくなかった。
ヘンなところから噂になる事もあるからだ。
教習のバイクはヤマハのRX、RD350で
どちらも2サイクルで軽い。けれど低速が不安定なので
一本橋走行は難しかった。
ブレーキもとてもよく利くので、よく制動試験で転ぶ奴が居たが
そこは、僕はバイクを乗っているので
そんな事は無かった。
教官が「バイク慣れてるね、原付乗ってた?」と。見る人が見ると
判るらしい。
この教習所で、同じ県立北高の栄三くんに出会う。
彼は、稔くんの隣の町内。
GS400を手に入れ、今でも持っている。
そればかりか、スズキに入社して。以来スズキの人である。
楽しい奴だ。
その頃かな、バイク雑誌にヤマハXT500のエンジンを使った
ビッグ・シングル・ロードスポーツが出ると言う記事が載った。
試作車っぽい写真も出ていて。
これは、エイプリルフールで雑誌に載った、同じようなバイクを
本当にヤマハが開発している、と言う噂話だった。
僕は、その雑誌を学校で見ていると
稔くんが「おお、いいね。」
稔くんは、けっしてひとの趣味を貶さない。
いい人なのだ。
ふつうは「単気筒なんてダセーよ、4気筒だよ」と、CB400Fを褒める奴が多かったが。
そういう所のない稔くん、それとノリちゃんとよくバイクの話しをした。
ノリちゃんはツーリング派で、「北海道ツーリング、行こうよ」と
夢みたいな事を言うのだった。
高校在学中には・・・ちょっと無理だと思ったけど
夢、だ。
(このノリちゃんは、今でもツーリングが大好きで
隼を駆って、ひょい、と青森くらいは平気で行ったりする)。
「いいなあ、あんな奥さんだったら」と
15歳の僕は、陽子さんをそんなふうに想った。
制服から私服に着替えて、それで僕のアルバイトを手伝いに来てくれる。
私服の陽子さんは、そういった少年の空想を満たすには十分だった。
その夢想に耽るだけでも楽しかった、から
アルバイトも、面白かった。
西瓜を運んでいて、割れたら
「食べようよ、後で」と。青物のチーフ(アゴいさむに似ている)は
意外と優しい。
それで、僕はアパレルの仕事をしていた陽子さんに「終わってから、八百屋へ来て。
西瓜があるよ」と。
陽子さんは、仕事の時は真面目なんだけど、びっくりしたように笑顔で。
夜7時。
なぜか制服のまま。
「いつもなら、私服に着替えて来るのにな・・・。」と思ったけど
西瓜、汚れるし。
みんなが一緒だと、あんまり可愛いと
また、誰かがホレちゃうと困るし(なぜ?)と
僕は思ったりもした。
陽子さんには、恋人くらいは故郷にいるのだろうと
そんな風に思わない事も無かったけれど。
休みが週に一回では、帰るに帰れないだろうし。
そんな印象でもなかった。
ーーーーと、言うのは。
ちょっと前、中学のクラスメートのひとり。
フォークソング仲間の朋ちゃんに、市立高校の学園祭で会ったのだけれども。
なんとなく、やつれた感じ。
何があったかは知らないけれど。
煌くような美少女(と、クラスでは言われていた)だった筈が
ただの女の子、と言うか、年老いた女のように見えた。
どうも、この頃の朋ちゃんは、30男と付き合っていると言う
噂で(これは、同じく音楽仲間の裕子が教えてくれたのだが。
なんとかしてほしいと思ったのかもしれない)。
稔くんは、女の子の気持を大事にしてたのかな、と
そんな風にも思った。
それが非行と呼ばれても。
知り合いの女の子が望めば、望むようにしてあげる。
楽しくさせてあげる。
そうすれば、朋ちゃんのようにはならないんだろうな、なんて
ふうにも思った。
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