神がこちらを向いた時

宗治 芳征

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 神奈川県大和市、とあるマンションの一室。
 間取りは風呂トイレ別の1DK、白が基調となっている造りで、家具は必要最低限の物しか置かれていない。部屋に入れば当然の如く殺風景で、娯楽は本かノートパソコンくらい。
 こんな家だが、少女は大満足で暮らしている。
 とりわけ、本日の少女は上機嫌だった。
 週に一度の楽しみ、自分を奈落の底から救ってくれた男と会える日であること。それに加えて、昨日無事に高校を卒業できその報告ができること。
 少女は照れくさそうにしながら、テーブルを挟んで座っている男に卒業証書を渡した。
 男は卒業証書を受け取ると、丁寧に広げて視線を向けているようだった。
 男は口以外が隠れる猫の仮面を被っており、どこを見ているのかわからなかったが、口を結んでいる様子や態度から察するに、真剣に読んでくれているのだと少女は感じた。
 なお、男は顔に怪我負っているらしく、見せると不快にさせる恐れがあるからと、初めて会った時から猫の仮面を被っていた。当初は戸惑いや恐怖もあったが、四年もその姿と接しているので違和感はなくなっていた。
 少女は正座をしてはにかんでいたが、所作の音が聞こえ顔を上げた。
「卒業おめでとうございます、守屋楓もりやかえで殿」
 男が卒業証書を少女に向け、そう言った。
「全て、大宮さんのお陰です。本当にありがとうございます」
 少女は男から卒業証書を受け取ると、軽く頭を下げ微笑んだ。
「俺はきっかけを作ったにすぎない。全て楓の実力だよ」
 男はそう言って口元を緩めた。
「それは今までのこと全て……という意味で仰っていますか?」
「勿論」
 男は少女の言葉に即答したが、少女は納得できなかった。
「私はそうだと全く思えませんね。私の境遇からきっかけを作ることがどれだけ難しいかは、大宮さんならわかるでしょう? 自分一人なら間違いなく自殺を選んでいました」
 少女は憮然たる面持ちで述べた。
「そう言ってもらえるのは嬉しいが、乗り越えるきっかけを引き寄せていたのは、楓自身が善良な人間だったからだろう。楓が引き寄せたんだから、楓の力だ」
「いいえ。運が良かっただけです。もしくは、神様がこっちを見てくれたからですかね」
 少女が頑なに反論をすると、
「……神ねぇ」
 男は【神】というワードが気に入らなかったようで鼻を鳴らした。
「この話をすると、大宮さんはいつも不満そうにしますよね」
 少女はクスッと笑った。
「神なんていない……と何度も言ってきたつもりだが?」
 男は呆れたような口調で言った。少女は男の意を汲み取って大きく頷く。
「神がいたとしたら、そもそも争いは起きない。人種差別や貧富の格差は生まれないし、犯罪は以ての外だ。私が辛い思いをすることもなかった。皆が敬愛する慈悲深い神がいるとしたら、こんなことになるのか……ですよね?」
「その通り」
「私は……神様がいると思っていますよ」
 少女はそう答え僅かに頬を緩めた。
「失礼な言い方ですまんが、よくその境遇で神がいるだなんて思えたな? 楓がいると信じた神は邪神みたいな存在なのか?」
 男は溜め息まじりに言った。
「邪神じゃありませんよ。神は慈悲深い存在ではなく、善意も悪意もない。例えばですけど、平気で虫を殺したり、水溜まりをボーッと眺めたり、好きなことだけをする物心がない単なる幼児。もしくは、子犬や子猫のような存在なんだと思うんです。そんな神が、偶然こっちを向いてくれた」
 少女は真剣な顔で思想を述べた。
「面白い解釈だが、その方が残酷すぎないか?」
 数秒黙った後、男は不服そうに言った。
「私一人の力ではどうすることもできなかった。事実を受け止めて前に進むしかないと大宮さんはよく仰っていましたが、こう行き着いたわけですよ」
「だから、自力だろう? 高校を無事に卒業できたことや、志望大学に合格できたことも楓が成し遂げたことだ。神のお陰なんかじゃない」
 男は楓の意見にまたもや異を唱えた。男は柔軟な思考の持ち主で頭が切れるが、この件に関してだけは非常に頑固であった。
 少女は大きく息を吐くと、男に目を向け薄く笑った。
「さっきも言いましたが、お婆ちゃんと大宮さんがいなかったら死んでいました。神が見てくれていたんだとしか思えないんです。無情な神でも、こっちを向いてくれって祈らせてくださいよ。じゃないと辛いんです……いないと思う方が残酷すぎます」
 最後には呟くように言った。
「そういうもんか」
「そういうものです」
 朗らかな顔で少女は返事をした。
「楓、強くなったな」
 男はそう言った。
 少女はその言葉に目を見開き、自然と緩んでいく頬を止めようと下唇を噛んだ。
「私は弱いままですよ。未だにバイト先の方達とは上手く話せませんし、友達もいません。大学へ行ったらどうしようかなって不安ばかりです」
「いや、もう充分だ」
 少女が謙遜しつつ話している最中、男が言葉を発した。
「何がです?」
 言葉の意味がわからず、少女は顔をしかめた。男は少女からの問いには答えず顔を伏せる。数十秒ほどそのままで、少女の表情が更に険しくなった。
 正にその時だった。
「今日で俺からも卒業だ。これからは会いに来ない」
 男は面を上げ、はっきりと口にした。
「……は? ……え? え?」
 驚愕のあまり顔が引きつる少女に対し、男は微動だにしなかった。
「……嘘……じゃない?」
 男の態度から本心であることがわかり、少女は戦慄した。
「もう、楓は独り立ちできると俺は判断した。これ以上俺がいると甘えが生じ、才能の伸びしろを消してしまう」
 男が理由を述べたが、少女には受け入れがたい絶望でしかなかった。
「そ、そんなことはありません! 私は大宮さんのために……」
「俺のために生きるな」
 男は少女の言葉を制して言い放った。
「自分と向き合って何がしたいのか、どうなりたいのかを考えなさい」
 毅然として言う男に、少女の呼吸は荒くなっていった。
「カウンセラーになりますよ! 大宮さんが向いているかもしれないって言ったじゃないですか! もう決まっています!」
「それは進路選択の時に、俺が助言しただけのことだろう?」
「私にとって大宮さんは全てなんです! 言われた通りにするのがいけないんですか!」
「なら、今言われたことも聞き入れなさい」
 少女が嘆きの咆哮を浴びせ続けるが、男の態度は変わらなかった。
「……嫌……嫌……嫌です……嫌です! 嫌だ! 絶対に嫌だ!」
 少女が感情を爆発させ、目から涙がこぼれた。
「楓」
 わかってくれ、と言い聞かせるように男が言った。
「大宮さんがいなくなったら、私はまた一人になる。誰にも認められない……一人になる」
 少女は一度鼻をすすり、口を震わせながら言った。
 今日は最高の日になるはずだった。大好きな人に会え、成果を報告できる。褒めてもらえると思ったのに、まさかもう会わないと言われるなんて……。
 少女は目の前が真っ暗になり、俯いてただ涙を流すだけだった。
「正直に言うと、俺も辛い。楓に依存していた部分があるからね」
 フーッと息を吐いた後、男はそう言った。
 依存?
 少女は男が自分に依存していたとは思えず、眉をひそめた。
「けれど、いずれはこうするつもりだった。互いにとって、今がベストなタイミングなのだと俺は思う」
 男は再び真面目なトーンで言葉を放ってきた。
「嫌ぁああ!」
 少女は首を振り涙を散らしながら声を張り上げた。
「楓、君は誰よりも人の気持ちがわかり寄り添うことができる。凄い力を持っているんだよ」
「大宮さんがいなくなるなら、そんな才能は要りません!」
 少女は言い切った。そこには絶対的な拒絶が込められていた。
 男も少女の意思が揺らぎないと感じたのか、溜め息を吐くだけで何も答えなかった。
 泣きじゃくり、少女の激しい呼吸音だけが聞こえる部屋。
 何分かその状態が続いたが、
「じゃあ、成長した姿を見せてくれないか?」
 男がそう切り出してきた。
「……はい?」
 少女は意図がわからず、泣き顔のまま目を向けた。
「大学四年生になる頃、楓が就職活動をする時期かな。その時になったら、今度は楓から会いに来てくれないか」
「……三年……後?」
「そうなるな」
 泣き声まじりで聞き返す少女に、男は平然と答えた。
 また会える、会えなくなるわけではない。と若干希望の光が差し込んだが、
「嫌ですよ……三年も会えないなんて」
 少女はやはり受け止めきれず目を伏せた。
「できるはずだ。頑張りなさい」
 男は諭すように言ってきた。
 これ以上の譲歩はないと少女は理解し、辛い現実を直視せざるを得なかった。
「私は、大宮さんの素顔も連絡先も知らないんですよ? どうやって会いに行けばいいんですか?」
「俺の名前をネットで検索すればいい。直ぐにわかると思うよ。そういうところで俺は働いているからね。だけど、今直ぐじゃなくて三年後にしなきゃダメだよ。俺も、楓の成長を楽しみに三年間頑張るからさ」
 消え去りそうな声で言う少女に対し、男は努めて明るく振る舞っていた。
「俯いてないで、笑った顔を見せてくれないか?」
「無理ですよ」
 依然として下を向いたまま、少女は気のない返事をした。
「今の楓を目に焼きつけておきたいんだ。頼むよ」
 男が言った。その言葉から悲哀を感じた少女は歯を食いしばる。何度も深呼吸をした後、顔を上げて無理やり笑ってみせた。
「ありがとう」
 男はそっと言った。
 既に、男は決断をしている。自分がどう足掻いても変わらないと少女は思い、
「本当なんですね」
 そう口にすると、男はゆっくりと頷いた。
「三年後。大宮さんと会えない、万が一見つからなかったとしたら?」
「多分大丈夫だと思うけどなぁ」
 男は頭をかきながら言った。男は杞憂だとでも言いたいのだろうが、会えなくなるのは少女の生き甲斐を失くすことに等しかった。
「約束してください」
 少女は射貫くような目を向けた。
「いいよ。でも、その約束は三年後とは限らない」
「……え?」
 男の返答を聞き、少女は意図せずに声が出た。
 少しずつ現状を受け入れようとしているのに、暗い闇へと誘われる。悲しみから少女の表情が歪んでいく。
「違う、誤解しないでくれ。会わない期間を長くすると言いたかったわけじゃない」
 男は察したのか、そう言って顔の前で手を振った。
「では、どういう意味なんですか?」
 少女は沈んだ顔のまま確認した。すると、あぐらをかいていた男は正座になり、背筋を伸ばした。
 そして、口を開く。
「三年後とか関係なくさ。楓が頑張っても頑張っても、現実に打ちのめされたとする。その時は、必ず帰ってくるよ。俺がまた会いに来る……約束だ」
 と。
 男は、絶対に嘘をつかない人間である。
「約束……しましたからね」
 少女は誓いのように言った。
 迷うことなく、男は頷いてくれた。
 涙が頬を伝ったが、今度は少しだけ笑みを浮かべた少女であった。
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