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第八話
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「パスタ……パスタ……」
走りはじめて三十分後、ジョヴァンナの体力の限界はあっさりとやってきました。もはや歩く動作さえゾンビのように緩慢としています。
それでも、空腹の体を押して、ジョヴァンナは食べたいものを唱えながらレンガ敷きの庭を一歩一歩進んでいきます。少なめとはいえ朝食を摂ったにもかかわらず、空腹になるにはあまりにも早すぎます。まだ庭から見える廊下の大時計は十一時を差していないのです。
若いメイドたちに加え、庭師もシェフもキッチンメイドも、中にはハウスキーパーのマリアンナ夫人までやってきて、ジョヴァンナの奮闘を固唾を呑んで見守っています。グレーゼ侯爵家に雇われた老若男女の使用人数十人、老執事長ドナート以外はほとんど庭に集まっていました。中には侯爵邸本館だけでなく隣接する騎士宿舎や馬房、いくつかの別棟からもやってきています。
「おかわいそうに、奥様。あの細いお体から、太りたくて太ったわけなんてないのに、代わって差し上げたいくらいだわ」
「しっかし、おっかない呪いだなぁ。もしベレンガリオ様がああなったら、暴れて手がつけられなくなりそうだ。いやいや、奥様は体を張りすぎだよ」
「でも、善意で止めても太っていくだけだから……倒れないよう見守るしかないのがもどかしい……」
「もっといい方法があればいいんだが、痩せるったってなぁ」
「呪いでああなったってことは、最悪絶食したって太るかもしれないねぇ。いくら歩いたって焼け石に水かもしれないけど、他にどうすれば」
「ああくそ、ベレンガリオ様は何か手を打たないのか?」
皆口々にああでもないこうでもないと言い合いますが、解決策は出そうにありません。
ついに、見かねた金髪とそばかすのキッチンメイドは、一緒に生垣に隠れているシェフへ懇願します。
「ねえシェフ、奥様がパスタを求める怪物みたいになってるよ。何かないの?」
「これをお出しして、気を引きな」
そう言ってシェフがエプロンのポケットから出したのは、薄紙に包まれたお菓子です。メイドたちがよくおやつの時間に食べている、保存食にもなる堅焼きビスケットの一種でした。
しかしそれは、小麦粉ではなくキビやトウモロコシの粉で作られることもある、大変質素なものなのですが——今はそうも言っていられません。それに、太るものではないので大丈夫なはずです。
金髪とそばかすのキッチンメイドは、倒れかけたジョヴァンナの前へと駆け出して、それを差し出しました。
「奥様、二度焼きビスケットです! どうぞ!」
弱々しくジョヴァンナの手が伸び、薄紙からビスコッティを口へと運び入れます。
しっかりと焼き上げられたビスコッティの固さは、食べ慣れていないジョヴァンナの口に少しずつしか入りません。何せ、固いのです。端っこを歯で削るように噛むさまは、まるでクルミをかじるリスのようです。
それでも、疲れ切っていたジョヴァンナの顔には、少しだけ笑みが浮かびました。
「カリカリしてる美味しい」
「そうですか! そうですか!」
その光景を見ている誰もが、ペットの餌付けによく似ている、と思っても口には出しません。
ジョヴァンナは花壇のふちに座り込み、大人しくビスコッティを頬張ります。
「素朴な味だけど、すごく身に染みて美味しい……」
「奥様って好き嫌いないですよね。ご立派です」
「ううん、結婚前はたくさんあったけれど、ベレンガリオ様に嫁ぐならこちらの土地の味にちゃんと馴染めるよう、特訓したの。おかげで毎日美味しいわ、ありがとう」
何の気なしに紡がれるジョヴァンナのその言葉が、生垣の向こうにいるシェフの目頭を熱くさせていました。シェフならば美味しいと完食してもらえることが一番の喜びであるように、メイドたちの日々の仕事の出来を逐一褒め、散歩がてらでも門番や馬丁に声をかけて雑談に興じ、騎士たちには彼らの戴く主人であるベレンガリオの話をせがむ。まだ年若いグレーゼ侯爵夫人ジョヴァンナは、自然とそういった振る舞いのできる性分であり、また努力家でした。
だからこそ、大勢の使用人たちが、ジョヴァンナを応援したいと思っているのです。
そんな中、金髪とそばかすのキッチンメイドはジョヴァンナの前に座り込み、珍しく頭を悩ませて、質問します。
「奥様、今食事の時間に食べている量って、せいぜい二人前くらいですよね?」
「え、ええ」
「うーん……どう考えても、食べた量以上に肥満が進んでいるのでは? だってデザート類はそれほど食べておられないでしょう? ベレンガリオ様の甘党っぷりに比べれば、全然ですよ」
「そうかしら……?」
確かに、金髪とそばかすのキッチンメイドの言うとおりです。太りはじめてからは、砂糖や卵、脂肪分たっぷりの牛乳を使うデザートの類はできるだけ遠ざけています。どうしても倒れそうなときだけはキャンディを舐めてしのいでいますが、それも大した量ではありません。
昨日食べたカルパッチョも、決して太るような料理ではないのです。シェフが脂身の少ない牛肉の赤身を使っていますし、ジョヴァンナ自身も意識して野菜を多く摂っています。なのに、なぜこんなにも急激に太ったのか。
その答えは、すでに出ています。
「ということは、私の体、呪いの勢いに負けてる! どうしよう、このままじゃ多少ダイエットしたって元に戻らないわ!」
悲鳴にも似た声を上げ、ジョヴァンナは頭を抱えて嘆きます。
そもそも呪いに抵抗している証は、そういうものなのでしょうか。使用人たちには分かりません。
とはいえ、痩せたいのに痩せられないジョヴァンナが困り果てているのは事実であり、金髪とそばかすのキッチンメイドはそれを見過ごせませんでした。
「こうなったら、私の故郷に伝わるアレを試してみましょう。奥様、協力してください!」
「お願い!」
縋るように、ジョヴァンナは金髪とそばかすのキッチンメイドの手をがっちり両手で包んで握りしめます。
一体何を始めるのか。金髪とそばかすのキッチンメイド、改め——北国から出稼ぎでやってきた少女トゥーリッキことキキは、アレの準備のため他の使用人たちにも協力を依頼し、準備を始めました。
走りはじめて三十分後、ジョヴァンナの体力の限界はあっさりとやってきました。もはや歩く動作さえゾンビのように緩慢としています。
それでも、空腹の体を押して、ジョヴァンナは食べたいものを唱えながらレンガ敷きの庭を一歩一歩進んでいきます。少なめとはいえ朝食を摂ったにもかかわらず、空腹になるにはあまりにも早すぎます。まだ庭から見える廊下の大時計は十一時を差していないのです。
若いメイドたちに加え、庭師もシェフもキッチンメイドも、中にはハウスキーパーのマリアンナ夫人までやってきて、ジョヴァンナの奮闘を固唾を呑んで見守っています。グレーゼ侯爵家に雇われた老若男女の使用人数十人、老執事長ドナート以外はほとんど庭に集まっていました。中には侯爵邸本館だけでなく隣接する騎士宿舎や馬房、いくつかの別棟からもやってきています。
「おかわいそうに、奥様。あの細いお体から、太りたくて太ったわけなんてないのに、代わって差し上げたいくらいだわ」
「しっかし、おっかない呪いだなぁ。もしベレンガリオ様がああなったら、暴れて手がつけられなくなりそうだ。いやいや、奥様は体を張りすぎだよ」
「でも、善意で止めても太っていくだけだから……倒れないよう見守るしかないのがもどかしい……」
「もっといい方法があればいいんだが、痩せるったってなぁ」
「呪いでああなったってことは、最悪絶食したって太るかもしれないねぇ。いくら歩いたって焼け石に水かもしれないけど、他にどうすれば」
「ああくそ、ベレンガリオ様は何か手を打たないのか?」
皆口々にああでもないこうでもないと言い合いますが、解決策は出そうにありません。
ついに、見かねた金髪とそばかすのキッチンメイドは、一緒に生垣に隠れているシェフへ懇願します。
「ねえシェフ、奥様がパスタを求める怪物みたいになってるよ。何かないの?」
「これをお出しして、気を引きな」
そう言ってシェフがエプロンのポケットから出したのは、薄紙に包まれたお菓子です。メイドたちがよくおやつの時間に食べている、保存食にもなる堅焼きビスケットの一種でした。
しかしそれは、小麦粉ではなくキビやトウモロコシの粉で作られることもある、大変質素なものなのですが——今はそうも言っていられません。それに、太るものではないので大丈夫なはずです。
金髪とそばかすのキッチンメイドは、倒れかけたジョヴァンナの前へと駆け出して、それを差し出しました。
「奥様、二度焼きビスケットです! どうぞ!」
弱々しくジョヴァンナの手が伸び、薄紙からビスコッティを口へと運び入れます。
しっかりと焼き上げられたビスコッティの固さは、食べ慣れていないジョヴァンナの口に少しずつしか入りません。何せ、固いのです。端っこを歯で削るように噛むさまは、まるでクルミをかじるリスのようです。
それでも、疲れ切っていたジョヴァンナの顔には、少しだけ笑みが浮かびました。
「カリカリしてる美味しい」
「そうですか! そうですか!」
その光景を見ている誰もが、ペットの餌付けによく似ている、と思っても口には出しません。
ジョヴァンナは花壇のふちに座り込み、大人しくビスコッティを頬張ります。
「素朴な味だけど、すごく身に染みて美味しい……」
「奥様って好き嫌いないですよね。ご立派です」
「ううん、結婚前はたくさんあったけれど、ベレンガリオ様に嫁ぐならこちらの土地の味にちゃんと馴染めるよう、特訓したの。おかげで毎日美味しいわ、ありがとう」
何の気なしに紡がれるジョヴァンナのその言葉が、生垣の向こうにいるシェフの目頭を熱くさせていました。シェフならば美味しいと完食してもらえることが一番の喜びであるように、メイドたちの日々の仕事の出来を逐一褒め、散歩がてらでも門番や馬丁に声をかけて雑談に興じ、騎士たちには彼らの戴く主人であるベレンガリオの話をせがむ。まだ年若いグレーゼ侯爵夫人ジョヴァンナは、自然とそういった振る舞いのできる性分であり、また努力家でした。
だからこそ、大勢の使用人たちが、ジョヴァンナを応援したいと思っているのです。
そんな中、金髪とそばかすのキッチンメイドはジョヴァンナの前に座り込み、珍しく頭を悩ませて、質問します。
「奥様、今食事の時間に食べている量って、せいぜい二人前くらいですよね?」
「え、ええ」
「うーん……どう考えても、食べた量以上に肥満が進んでいるのでは? だってデザート類はそれほど食べておられないでしょう? ベレンガリオ様の甘党っぷりに比べれば、全然ですよ」
「そうかしら……?」
確かに、金髪とそばかすのキッチンメイドの言うとおりです。太りはじめてからは、砂糖や卵、脂肪分たっぷりの牛乳を使うデザートの類はできるだけ遠ざけています。どうしても倒れそうなときだけはキャンディを舐めてしのいでいますが、それも大した量ではありません。
昨日食べたカルパッチョも、決して太るような料理ではないのです。シェフが脂身の少ない牛肉の赤身を使っていますし、ジョヴァンナ自身も意識して野菜を多く摂っています。なのに、なぜこんなにも急激に太ったのか。
その答えは、すでに出ています。
「ということは、私の体、呪いの勢いに負けてる! どうしよう、このままじゃ多少ダイエットしたって元に戻らないわ!」
悲鳴にも似た声を上げ、ジョヴァンナは頭を抱えて嘆きます。
そもそも呪いに抵抗している証は、そういうものなのでしょうか。使用人たちには分かりません。
とはいえ、痩せたいのに痩せられないジョヴァンナが困り果てているのは事実であり、金髪とそばかすのキッチンメイドはそれを見過ごせませんでした。
「こうなったら、私の故郷に伝わるアレを試してみましょう。奥様、協力してください!」
「お願い!」
縋るように、ジョヴァンナは金髪とそばかすのキッチンメイドの手をがっちり両手で包んで握りしめます。
一体何を始めるのか。金髪とそばかすのキッチンメイド、改め——北国から出稼ぎでやってきた少女トゥーリッキことキキは、アレの準備のため他の使用人たちにも協力を依頼し、準備を始めました。
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