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第七話
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一方、そのころ。
ベレンガリオのいる、代々グレーゼ侯爵が使用している執務室にも、ジョヴァンナを応援する若いメイドたちの声が聞こえてきます。
半年の不在の間に溜まった書類仕事を片付けるために、ベレンガリオはしばらく執務室にこもって集中する予定でしたが、厳しい叱責を受けてジョヴァンナが痩せようと努力——時折悲鳴が聞こえてくるほどに——する様子が伝わってくるだけに、仕事の手が止まっているのです。
磨き抜かれたウォールナット材製の執務机の上には、紙の連なる山々やインク壺だけでなく、端のほうにちょこんと、ジョヴァンナからメイド経由で渡された幅広の金色の指輪がそのまま置かれています。奇遇なことに、嵌められたサファイアの青紫色は、ベレンガリオの瞳の色と同じでした。
何も、ベレンガリオはジョヴァンナを愛していないわけではありません。今も、理由はともかく愛する妻から贈られたプレゼント、それも自分の瞳と同じ色の宝石があしらわれたものを目の届く範囲に置いて、内心は喜んでいるのです。
ベレンガリオは、ジョヴァンナへの変わらぬ愛はもちろん、自分の制御できない気難しさも認識しているだけに、「肥え太って」、「離婚する」などと、とんでもないことを口走ってしまったことを時間が経つにつれてどんどん後悔しているのです。
なぜあんなことを言ってしまったのか。多くの男女間の諍いのあとにはよくある文句ですが、二人の間でそれが起きたのは初めてだったのです。
本意ではなかったと後悔し、一応は謝罪したものの、ならばなぜ愛する人にひどいことを言ってしまったのかと自問自答を繰り返すベレンガリオには、もはや今読んでいる書類の文章など目に入っていません。その右手に持つ万年筆がぴくりとも動かなくなってすでに二十分以上経ちます。
無言で耐えていたベレンガリオは、ついに椅子から立ち上がり、執務机の前を行ったり来たりしはじめました。
「止めに……いや、我慢、我慢だ、ベレンガリオ。過度な肥満は健康を害する、今のジョヴァンナに甘いデザートはだめだ。仕方ない」
折りたたみ可能なローテーブルを持ってきて山積みの書類の分類と事務処理済み書類の返送を担当している老執事長ドナートは、そんな主人の様子を見て見ぬふりもできず、こう答えます。
「ならば、坊っちゃまもおやつは抜きですか?」
「……そう、なる」
「では、そのように」
落ち着きのない主人とは打って変わって、ベレンガリオが生まれる前からグレーゼ侯爵家に務める老執事長ドナートは、平然としています。つらい思いをしているジョヴァンナの気持ちに寄り添えるよう、いつものおやつを抜きにしてベレンガリオの後悔と罪悪感を和らげてやろう、という気遣いですが、わずかばかり意趣返しの意味も込められています。
老執事長ドナートにとっては、すでにジョヴァンナはグレーゼ侯爵家の女主人であり、ベレンガリオと並んで仕えるべき存在です。それを貶されては少々腑に落ちない、使用人にもそのくらいの愛着や忠誠はあるのです。それ以上に、ベレンガリオの妻に対する態度に問題があると判断してのことでもあります。
意味なく執務机の前をうろうろ歩き回っていたベレンガリオが、足を止めました。数秒空けて、悩みつつも思い切って口を開きます。
「ところで、だ」
「はい」
「呪いというのは、犯人を特定できそうにないのか?」
老執事長ドナートは顔を上げ、ベレンガリオを見つめます。
呪いなどない、と啖呵を切ったあとでは、呪いについて尋ねるのは気が引けていたのでしょう。本人としては何気なくを装って問いかけたつもりなのでしょうが、顔を真っ赤にしたベレンガリオは慌てて弁解します。
「違うぞ!? 信じているわけではない、ただ元凶がいるなら断てばと思っただけだ!」
「ええ、坊っちゃまならそうおっしゃると信じておりますとも。なので、私名義で王都におられる坊っちゃまの叔父君であるセネラ子爵へ、昨今グレーゼ侯爵家を敵視する者などはいないかどうか、調査を依頼しておきました。もうじき知らせが届くかと」
「むぅ……そ、そうか」
老執事長ドナートの返答も対応の手際も文句のつけどころがなかったため、ベレンガリオはそのまま風船がしぼむように意気消沈して、黙りこくります。
老執事長ドナートは、気を利かせて、話題を変えました。
「奥様から頂いた指輪はお付けにならないので?」
ベレンガリオは何とも言えない表情で、言い訳します。
「……装飾品は嫌いだ」
そうですか、と老執事長ドナートはそれ以上言及しませんでした。
ベレンガリオが妻のために行動を開始する我慢の限界はすぐそこまで来ている——それを長年仕えてきた老執事長ドナートは、とっくに知っていたからです。
そうしてたった一時間後、老執事長ドナートの予想どおり、痺れを切らしたベレンガリオは子どものように執務室から飛び出していくのでした。
ベレンガリオのいる、代々グレーゼ侯爵が使用している執務室にも、ジョヴァンナを応援する若いメイドたちの声が聞こえてきます。
半年の不在の間に溜まった書類仕事を片付けるために、ベレンガリオはしばらく執務室にこもって集中する予定でしたが、厳しい叱責を受けてジョヴァンナが痩せようと努力——時折悲鳴が聞こえてくるほどに——する様子が伝わってくるだけに、仕事の手が止まっているのです。
磨き抜かれたウォールナット材製の執務机の上には、紙の連なる山々やインク壺だけでなく、端のほうにちょこんと、ジョヴァンナからメイド経由で渡された幅広の金色の指輪がそのまま置かれています。奇遇なことに、嵌められたサファイアの青紫色は、ベレンガリオの瞳の色と同じでした。
何も、ベレンガリオはジョヴァンナを愛していないわけではありません。今も、理由はともかく愛する妻から贈られたプレゼント、それも自分の瞳と同じ色の宝石があしらわれたものを目の届く範囲に置いて、内心は喜んでいるのです。
ベレンガリオは、ジョヴァンナへの変わらぬ愛はもちろん、自分の制御できない気難しさも認識しているだけに、「肥え太って」、「離婚する」などと、とんでもないことを口走ってしまったことを時間が経つにつれてどんどん後悔しているのです。
なぜあんなことを言ってしまったのか。多くの男女間の諍いのあとにはよくある文句ですが、二人の間でそれが起きたのは初めてだったのです。
本意ではなかったと後悔し、一応は謝罪したものの、ならばなぜ愛する人にひどいことを言ってしまったのかと自問自答を繰り返すベレンガリオには、もはや今読んでいる書類の文章など目に入っていません。その右手に持つ万年筆がぴくりとも動かなくなってすでに二十分以上経ちます。
無言で耐えていたベレンガリオは、ついに椅子から立ち上がり、執務机の前を行ったり来たりしはじめました。
「止めに……いや、我慢、我慢だ、ベレンガリオ。過度な肥満は健康を害する、今のジョヴァンナに甘いデザートはだめだ。仕方ない」
折りたたみ可能なローテーブルを持ってきて山積みの書類の分類と事務処理済み書類の返送を担当している老執事長ドナートは、そんな主人の様子を見て見ぬふりもできず、こう答えます。
「ならば、坊っちゃまもおやつは抜きですか?」
「……そう、なる」
「では、そのように」
落ち着きのない主人とは打って変わって、ベレンガリオが生まれる前からグレーゼ侯爵家に務める老執事長ドナートは、平然としています。つらい思いをしているジョヴァンナの気持ちに寄り添えるよう、いつものおやつを抜きにしてベレンガリオの後悔と罪悪感を和らげてやろう、という気遣いですが、わずかばかり意趣返しの意味も込められています。
老執事長ドナートにとっては、すでにジョヴァンナはグレーゼ侯爵家の女主人であり、ベレンガリオと並んで仕えるべき存在です。それを貶されては少々腑に落ちない、使用人にもそのくらいの愛着や忠誠はあるのです。それ以上に、ベレンガリオの妻に対する態度に問題があると判断してのことでもあります。
意味なく執務机の前をうろうろ歩き回っていたベレンガリオが、足を止めました。数秒空けて、悩みつつも思い切って口を開きます。
「ところで、だ」
「はい」
「呪いというのは、犯人を特定できそうにないのか?」
老執事長ドナートは顔を上げ、ベレンガリオを見つめます。
呪いなどない、と啖呵を切ったあとでは、呪いについて尋ねるのは気が引けていたのでしょう。本人としては何気なくを装って問いかけたつもりなのでしょうが、顔を真っ赤にしたベレンガリオは慌てて弁解します。
「違うぞ!? 信じているわけではない、ただ元凶がいるなら断てばと思っただけだ!」
「ええ、坊っちゃまならそうおっしゃると信じておりますとも。なので、私名義で王都におられる坊っちゃまの叔父君であるセネラ子爵へ、昨今グレーゼ侯爵家を敵視する者などはいないかどうか、調査を依頼しておきました。もうじき知らせが届くかと」
「むぅ……そ、そうか」
老執事長ドナートの返答も対応の手際も文句のつけどころがなかったため、ベレンガリオはそのまま風船がしぼむように意気消沈して、黙りこくります。
老執事長ドナートは、気を利かせて、話題を変えました。
「奥様から頂いた指輪はお付けにならないので?」
ベレンガリオは何とも言えない表情で、言い訳します。
「……装飾品は嫌いだ」
そうですか、と老執事長ドナートはそれ以上言及しませんでした。
ベレンガリオが妻のために行動を開始する我慢の限界はすぐそこまで来ている——それを長年仕えてきた老執事長ドナートは、とっくに知っていたからです。
そうしてたった一時間後、老執事長ドナートの予想どおり、痺れを切らしたベレンガリオは子どものように執務室から飛び出していくのでした。
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