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第二話
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グレーゼ侯爵邸では、ベレンガリオとジョヴァンナの離婚危機の話題で持ちきりでした。
厨房では、メインディッシュとなるシチューの大鍋を火にかけ、長い木のヘラでかき混ぜる未亡人の中年女性シェフが、背後で野菜の下拵えをしている年若いキッチンメイドたちとこんな話をしていました。
「でもさ、やっぱり事情があるとはいえ、大変な思いをして帰ってきたら妻が激太りしてた、っていうのは殿方にとってはショックかもね……いや、坊っちゃまが潔癖症すぎるんだけど」
まだグレーゼ侯爵邸に来て日の浅いキッチンメイドも、ベレンガリオの面倒な性格を把握しています。となれば、十年以上働くシェフは、ベレンガリオを擁護する——かと思いきや、馬鹿なことをしたとばかりにすっかり呆れた様子です。
「しょうがないよ。まあ、悪い人じゃあないんだがね。第一、奥様を迎えたのも坊っちゃまが一目惚れしたからなのに、離婚する、じゃあないんだよ」
「それは私も思った。自分から結婚を申し込んでおいてさ、無責任だよね」
「男ってのはそういうもんなんだよ。ほら、手を動かしな。奥様に早く食事をお持ちしないと」
シェフの一声に、キッチンメイドたちは思い思いの返事をします。
ジョヴァンナは呪いのせいで太った、呪いを受けるごとに太る。しかし、断食や厳しいダイエットをしてジョヴァンナが倒れたことを知っているグレーゼ侯爵邸の使用人たちは、無理に痩せさせようとはしません。侯爵夫人が栄養不足で倒れた、などという噂が広まれば、グレーゼ侯爵家の名誉に関わります。
「そういえば、呪いの中には不幸を引き起こすひどいものもあるって聞いたけど」
「らしいよ。坊っちゃまに向かうその呪いを、奥様が一身に受けてらっしゃるんだ。太ったのはその結果さ。元々、奥様の家系は遡れば魔法使いや魔女を多く輩出してきたとかで、子孫の奥様にもその才能が残っているとか。じゃなきゃ、呪いなんて普通の女性は受けられやしないよ」
「ふぅん。呪いってそんなにひどいんだ。おとぎ話に出てくる、魔女が人間をお菓子に変える、みたいなのかと思ってたら」
「それだって相当ひどいだろ」
「あ、そうか。食べられたら死んじゃう!」
どこかずれた金髪とそばかすのキッチンメイドの言葉に、周囲から笑いが巻き起こります。
彼女たちは、本当に呪いについて何も知りません。誰が、なぜ、いつ、どうやって、そんなこともさっぱり見当がつかないくらい、この国では忘れ去られたことなのです。
厨房前では、まんまるの背中が、そっと去っていきます。
ジョヴァンナです。厨房に用事があったのですが、シェフとキッチンメイドたちの話す自分のことを聞いてしまい、何となく姿を現しづらくなって引き返してしまいました。
彼女たちに悪気はなく、それどころか不憫に思ってくれていることは、ジョヴァンナも知っています。しかし、色々と迷惑をかけている自覚があるため、まだ侯爵夫人になったばかりのジョヴァンナは、使用人たちへの申し訳ない気持ちでいっぱいです。
厨房から離れ、階段に辿り着いた矢先、ジョヴァンナのお腹の音が鳴りました。階段の吹き抜けを伝い、その音が上へ上へと響いていきます。
無情にも、乙女にとっては恥以外何者でもない音がこだまし、ジョヴァンナは思わずため息をこぼしました。
「はあ……お腹空いたなぁ。何か食べたいのに、どうしよう」
ジョヴァンナの胸元には、金のフクロウが緑の宝石を抱き抱えるモチーフのブローチがあります。八角形に磨かれた緑の宝石は、まるで脈打つように、ほのかに、そしてゆっくりと光が明滅していました。
シェフやキッチンメイドたちが話していたとおり、ジョヴァンナの故郷ダーナテスカにはかつて魔法使いや魔女がいました。ダーナテスカという土地には古くからの魔法学院があり、二百年ほど前まで栄えていたのですが、いつしか閉鎖された魔法学院跡地にダーナテスカ伯爵邸ができ、魔法使いや魔女たちの活躍はすっかり鳴りをひそめてしまったのです。
ジョヴァンナの先祖にも著名な魔法使いがいたようで、胸元に輝く母から贈られた金フクロウのブローチは、その魔法使いが子孫のためにお守りとして作ったものである、と言い伝えられています。ある意味では、そのせいで今のジョヴァンナの苦難があるのですが——ジョヴァンナはそう考えません。きっと、こんな事態が起きるであろうことを見越して、子孫の力となるために遺されたものなのだ、そう信じています。
少し前まで、ベレンガリオへ向けての呪いは絶えず、金フクロウのブローチはその呪いを吸収してくれていたようです。それでも完全に失くすことはできず、その余波を受けてジョヴァンナは太ったのです。夜中でも緑の宝石がピカピカにずっと光っていた時期には、ジョヴァンナの体重も今より重かったので、少しずつ呪いは消えていっているのでしょう。
とはいえ、ジョヴァンナはどんどん太ってしまってお腹の減りが早くなり、夕食を待たず厨房に何か料理を求めていくことが常態化しています。これでは痩せる目処など立ちはしません。
ジョヴァンナの胸中では、部屋に戻るか厨房に引き返すか——空腹とプライドと、ベレンガリオの離婚宣告と痩せたい気持ちがせめぎ合います。
ところが、ジョヴァンナの後ろから、存在を知らせるがごとく、わざとらしい咳払いが聞こえてきました。
「んん! こほん!」
ジョヴァンナが振り向けば、そこにはベレンガリオが立っていました。
ジョヴァンナは思わず悲鳴を上げます。
「ひい!? ベ、ベレンガリオ様、ご機嫌麗しゅう」
「……腹が、どうしたって?」
どうやら、独り言を聞かれていたようです。いつから後ろにいたのか、まったく分かりません。
これ以上、詰問されてはかないません。というよりも、ジョヴァンナの心が保ちません。
ジョヴァンナは叫びながら、脱兎のごとく逃げ出します。
「何でもありません! 失礼いたしました、大至急荷物をまとめます!」
「あ、おい」
呼び止める声が聞こえた気もしますが、それどころではありません。
ジョヴァンナは必死になって、遠く離れた自室へ精一杯駆け出しました。その足音は廊下を少々揺らし、お腹の虫の音よりもだいぶ騒がしかったのですが、気にする余裕などありませんでした。
厨房では、メインディッシュとなるシチューの大鍋を火にかけ、長い木のヘラでかき混ぜる未亡人の中年女性シェフが、背後で野菜の下拵えをしている年若いキッチンメイドたちとこんな話をしていました。
「でもさ、やっぱり事情があるとはいえ、大変な思いをして帰ってきたら妻が激太りしてた、っていうのは殿方にとってはショックかもね……いや、坊っちゃまが潔癖症すぎるんだけど」
まだグレーゼ侯爵邸に来て日の浅いキッチンメイドも、ベレンガリオの面倒な性格を把握しています。となれば、十年以上働くシェフは、ベレンガリオを擁護する——かと思いきや、馬鹿なことをしたとばかりにすっかり呆れた様子です。
「しょうがないよ。まあ、悪い人じゃあないんだがね。第一、奥様を迎えたのも坊っちゃまが一目惚れしたからなのに、離婚する、じゃあないんだよ」
「それは私も思った。自分から結婚を申し込んでおいてさ、無責任だよね」
「男ってのはそういうもんなんだよ。ほら、手を動かしな。奥様に早く食事をお持ちしないと」
シェフの一声に、キッチンメイドたちは思い思いの返事をします。
ジョヴァンナは呪いのせいで太った、呪いを受けるごとに太る。しかし、断食や厳しいダイエットをしてジョヴァンナが倒れたことを知っているグレーゼ侯爵邸の使用人たちは、無理に痩せさせようとはしません。侯爵夫人が栄養不足で倒れた、などという噂が広まれば、グレーゼ侯爵家の名誉に関わります。
「そういえば、呪いの中には不幸を引き起こすひどいものもあるって聞いたけど」
「らしいよ。坊っちゃまに向かうその呪いを、奥様が一身に受けてらっしゃるんだ。太ったのはその結果さ。元々、奥様の家系は遡れば魔法使いや魔女を多く輩出してきたとかで、子孫の奥様にもその才能が残っているとか。じゃなきゃ、呪いなんて普通の女性は受けられやしないよ」
「ふぅん。呪いってそんなにひどいんだ。おとぎ話に出てくる、魔女が人間をお菓子に変える、みたいなのかと思ってたら」
「それだって相当ひどいだろ」
「あ、そうか。食べられたら死んじゃう!」
どこかずれた金髪とそばかすのキッチンメイドの言葉に、周囲から笑いが巻き起こります。
彼女たちは、本当に呪いについて何も知りません。誰が、なぜ、いつ、どうやって、そんなこともさっぱり見当がつかないくらい、この国では忘れ去られたことなのです。
厨房前では、まんまるの背中が、そっと去っていきます。
ジョヴァンナです。厨房に用事があったのですが、シェフとキッチンメイドたちの話す自分のことを聞いてしまい、何となく姿を現しづらくなって引き返してしまいました。
彼女たちに悪気はなく、それどころか不憫に思ってくれていることは、ジョヴァンナも知っています。しかし、色々と迷惑をかけている自覚があるため、まだ侯爵夫人になったばかりのジョヴァンナは、使用人たちへの申し訳ない気持ちでいっぱいです。
厨房から離れ、階段に辿り着いた矢先、ジョヴァンナのお腹の音が鳴りました。階段の吹き抜けを伝い、その音が上へ上へと響いていきます。
無情にも、乙女にとっては恥以外何者でもない音がこだまし、ジョヴァンナは思わずため息をこぼしました。
「はあ……お腹空いたなぁ。何か食べたいのに、どうしよう」
ジョヴァンナの胸元には、金のフクロウが緑の宝石を抱き抱えるモチーフのブローチがあります。八角形に磨かれた緑の宝石は、まるで脈打つように、ほのかに、そしてゆっくりと光が明滅していました。
シェフやキッチンメイドたちが話していたとおり、ジョヴァンナの故郷ダーナテスカにはかつて魔法使いや魔女がいました。ダーナテスカという土地には古くからの魔法学院があり、二百年ほど前まで栄えていたのですが、いつしか閉鎖された魔法学院跡地にダーナテスカ伯爵邸ができ、魔法使いや魔女たちの活躍はすっかり鳴りをひそめてしまったのです。
ジョヴァンナの先祖にも著名な魔法使いがいたようで、胸元に輝く母から贈られた金フクロウのブローチは、その魔法使いが子孫のためにお守りとして作ったものである、と言い伝えられています。ある意味では、そのせいで今のジョヴァンナの苦難があるのですが——ジョヴァンナはそう考えません。きっと、こんな事態が起きるであろうことを見越して、子孫の力となるために遺されたものなのだ、そう信じています。
少し前まで、ベレンガリオへ向けての呪いは絶えず、金フクロウのブローチはその呪いを吸収してくれていたようです。それでも完全に失くすことはできず、その余波を受けてジョヴァンナは太ったのです。夜中でも緑の宝石がピカピカにずっと光っていた時期には、ジョヴァンナの体重も今より重かったので、少しずつ呪いは消えていっているのでしょう。
とはいえ、ジョヴァンナはどんどん太ってしまってお腹の減りが早くなり、夕食を待たず厨房に何か料理を求めていくことが常態化しています。これでは痩せる目処など立ちはしません。
ジョヴァンナの胸中では、部屋に戻るか厨房に引き返すか——空腹とプライドと、ベレンガリオの離婚宣告と痩せたい気持ちがせめぎ合います。
ところが、ジョヴァンナの後ろから、存在を知らせるがごとく、わざとらしい咳払いが聞こえてきました。
「んん! こほん!」
ジョヴァンナが振り向けば、そこにはベレンガリオが立っていました。
ジョヴァンナは思わず悲鳴を上げます。
「ひい!? ベ、ベレンガリオ様、ご機嫌麗しゅう」
「……腹が、どうしたって?」
どうやら、独り言を聞かれていたようです。いつから後ろにいたのか、まったく分かりません。
これ以上、詰問されてはかないません。というよりも、ジョヴァンナの心が保ちません。
ジョヴァンナは叫びながら、脱兎のごとく逃げ出します。
「何でもありません! 失礼いたしました、大至急荷物をまとめます!」
「あ、おい」
呼び止める声が聞こえた気もしますが、それどころではありません。
ジョヴァンナは必死になって、遠く離れた自室へ精一杯駆け出しました。その足音は廊下を少々揺らし、お腹の虫の音よりもだいぶ騒がしかったのですが、気にする余裕などありませんでした。
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