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第三話
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途中で疲れてへばりつつも、何とかジョヴァンナは自室に辿り着きました。
しかし、廊下にある採光用の高い窓から見える夕日は傾いており、夕食までもう少しですが、そのもう少しが待てません。やはり厨房へ無理にでも入ればよかった、と後悔しつつ、自室の白塗りの扉のノブに触れたときのことです。
廊下の先から、若いメイドの弾んだ声がジョヴァンナの耳に届きます。
「奥様、お手紙と小包が! ダーナテスカ領からです!」
ジョヴァンナと同い年の若いメイドは最大限速く歩き、大切に持っていた封筒と小包をジョヴァンナへ差し出します。ちょうど指輪などアクセサリーをしまう小箱サイズの小包よりも、まずは手紙です。手紙を受け取ったジョヴァンナは、さっそく封筒裏の差出人を確認しました。
待ちに待った人物の名を目にして、ジョヴァンナは涙ぐみます。
「お母様からだわ! 何か、呪いをどうにかするヒントがあれば!」
ジョヴァンナはメイドも連れて、自室に入り込み、すぐさま封筒の封蝋をこじ開けます。もうお上品にやっている場合ではありません、一刻も早く現状を打破しなくては、お腹が減って恥ずかしすぎて死んでしまいます。いえ、その前に離婚の危機です。
ダーナテスカ伯爵領に住むジョヴァンナの実母、ダーナテスカ伯爵夫人オレスタからの手紙には、流暢な筆記体でこう書かれています。
『私の最愛の娘、親愛なるジョヴァンナへ。前回の手紙に書かれていたあなたのつらい身上を聞き、ついにお父上は倒れました。呪いなどもうどうでもいいから、さっさと帰ってらっしゃい。ベレンガリオ殿は、あなたがそこまでして尽くす価値のある殿方ですか? そのまま呪いを受けつづければ、あなたは本当に豚になってしまいますよ。とりあえず、少しでも呪いを減衰させる指輪が見つかりましたから、送っておきます。早めに決断するように。母より』
ジョヴァンナには懐かしく思えるほどの、相変わらずのこざっぱりとした文章です。間違いなく、母本人が書いたものでしょう。
しかし、遠くダーナテスカの土地にいるはずのジョヴァンナの母は、いつの間にグレーゼ侯爵家の離婚危機を察したのでしょうか。おそらく、ジョヴァンナのために老執事長ドナートやメイドたちが知らせてくれていたのでしょう。そう思うことにしました。
ジョヴァンナは当然、離婚などしたくありません。ベレンガリオの不機嫌の原因は正直よく分かりませんが、少なくとも太っているジョヴァンナを嫌っています。ならば、痩せなくては。
「豚にはなりたくないけど、それはそれ、これはこれ! 指輪で何とかなれば!」
隣で若いメイドが祈るように見守る中、ジョヴァンナは小包を開き、赤いビロードのアクセサリーボックスを取り出します。ちょっと固い蓋を開け、小さなサファイアのはめられた金地に緻密な彫刻が施された幅広の指輪をさっそく左手の薬指に嵌めようとしたところ、ジョヴァンナは目を見開きます。
「嵌まらないー……」
左手の薬指の爪のあたりで、指輪はそれ以上奥に進まなくなりました。指周りのぷくっとふよふよなお肉が邪魔をします。押し込んでしまうと絶対に取れなくなり、悲惨な結果をもたらすでしょう。
ジョヴァンナが己の肉を疎ましいとばかりに睨みつけていると、若いメイドは名案を思いつきました。
「諦めないでください、奥様。その指輪を、坊っちゃまに渡せばいかがでしょう?」
「な、なるほど。私じゃなくても、呪いを減衰させるなら、身を守るためにあの方が付ければいいのね」
わざわざジョヴァンナが嵌めなくてもいい、少し気が楽になったジョヴァンナはほっと一安心、頬の緊張が緩みます。元の可愛らしい少女の笑みは、太っても健在です。
「そうと決まれば、夕食時には」
若いメイドが話しはじめると、またしても邪魔をするかのごとく、ジョヴァンナのお腹の虫の音が鳴りました。
お腹を押さえ、ジョヴァンナは恥ずかしそうにうつむきます。乙女にとって、貴族令嬢として、お腹が鳴るなんてはしたない真似を家でもしたくはありませんが、生理現象ですからどうしようもありません。
「お腹、空いたぁ……」
「奥様、こんなこともあろうかと、高カロリーの補充に適したものをご用意しております」
「何、何?」
「特製キャンディです。シロップをたっぷり煮詰めて蜂蜜味に仕上げました」
何と蠱惑的な単語が並ぶのでしょう。キャンディ、シロップ、蜂蜜。糖分の塊のようなそれは、若いメイドのスカートポケットから薄紙に包まれて出てきました。
手作りのため少し形は不恰好ですが、薄紙を開いただけで蜂蜜の香りが立ち上ります。ジョヴァンナが本能の赴くままに無意識に差し出した右手に、若いメイドはつま先ほどの大きさの、三粒のキャンディを薄紙ごと渡します。
半透明の黄色の、甘い香りのするそれを、ジョヴァンナは一息に口へ放り込み、とことん舌に染み入る甘さを噛み締めます。
「美味しい。んー、甘ーい」
蜂蜜の味の中に、ほんのり薔薇の香りが残っていました。野辺に咲く薔薇から採れた蜂蜜、お屋敷にある最高級のブラウンシュガーを煮詰め、そして手にベタつかないよう繊細な粉砂糖をまとったキャンディは、空腹を抱えた五臓六腑に染み渡る——。
そう、糖分が思いっきり摂取され、脂肪に変わるのです。
ジョヴァンナは正気に戻りました。
「だめだ、私、このままじゃお母様のおっしゃるとおり、豚になっちゃう! 何とかしないと!」
頭を抱えるジョヴァンナは、それでも三粒のキャンディをしっかり味わっていました。これは別腹、別腹なのだ、別腹に入れと必死に念じ、ろくに憶えていない神や聖人の名前を思い出しながら助けを求めます。
その思いはどこか遠くの誰かに届いたかもしれませんが、だからと言ってジョヴァンナが一朝一夕で痩せることはありませんでした。
しかし、廊下にある採光用の高い窓から見える夕日は傾いており、夕食までもう少しですが、そのもう少しが待てません。やはり厨房へ無理にでも入ればよかった、と後悔しつつ、自室の白塗りの扉のノブに触れたときのことです。
廊下の先から、若いメイドの弾んだ声がジョヴァンナの耳に届きます。
「奥様、お手紙と小包が! ダーナテスカ領からです!」
ジョヴァンナと同い年の若いメイドは最大限速く歩き、大切に持っていた封筒と小包をジョヴァンナへ差し出します。ちょうど指輪などアクセサリーをしまう小箱サイズの小包よりも、まずは手紙です。手紙を受け取ったジョヴァンナは、さっそく封筒裏の差出人を確認しました。
待ちに待った人物の名を目にして、ジョヴァンナは涙ぐみます。
「お母様からだわ! 何か、呪いをどうにかするヒントがあれば!」
ジョヴァンナはメイドも連れて、自室に入り込み、すぐさま封筒の封蝋をこじ開けます。もうお上品にやっている場合ではありません、一刻も早く現状を打破しなくては、お腹が減って恥ずかしすぎて死んでしまいます。いえ、その前に離婚の危機です。
ダーナテスカ伯爵領に住むジョヴァンナの実母、ダーナテスカ伯爵夫人オレスタからの手紙には、流暢な筆記体でこう書かれています。
『私の最愛の娘、親愛なるジョヴァンナへ。前回の手紙に書かれていたあなたのつらい身上を聞き、ついにお父上は倒れました。呪いなどもうどうでもいいから、さっさと帰ってらっしゃい。ベレンガリオ殿は、あなたがそこまでして尽くす価値のある殿方ですか? そのまま呪いを受けつづければ、あなたは本当に豚になってしまいますよ。とりあえず、少しでも呪いを減衰させる指輪が見つかりましたから、送っておきます。早めに決断するように。母より』
ジョヴァンナには懐かしく思えるほどの、相変わらずのこざっぱりとした文章です。間違いなく、母本人が書いたものでしょう。
しかし、遠くダーナテスカの土地にいるはずのジョヴァンナの母は、いつの間にグレーゼ侯爵家の離婚危機を察したのでしょうか。おそらく、ジョヴァンナのために老執事長ドナートやメイドたちが知らせてくれていたのでしょう。そう思うことにしました。
ジョヴァンナは当然、離婚などしたくありません。ベレンガリオの不機嫌の原因は正直よく分かりませんが、少なくとも太っているジョヴァンナを嫌っています。ならば、痩せなくては。
「豚にはなりたくないけど、それはそれ、これはこれ! 指輪で何とかなれば!」
隣で若いメイドが祈るように見守る中、ジョヴァンナは小包を開き、赤いビロードのアクセサリーボックスを取り出します。ちょっと固い蓋を開け、小さなサファイアのはめられた金地に緻密な彫刻が施された幅広の指輪をさっそく左手の薬指に嵌めようとしたところ、ジョヴァンナは目を見開きます。
「嵌まらないー……」
左手の薬指の爪のあたりで、指輪はそれ以上奥に進まなくなりました。指周りのぷくっとふよふよなお肉が邪魔をします。押し込んでしまうと絶対に取れなくなり、悲惨な結果をもたらすでしょう。
ジョヴァンナが己の肉を疎ましいとばかりに睨みつけていると、若いメイドは名案を思いつきました。
「諦めないでください、奥様。その指輪を、坊っちゃまに渡せばいかがでしょう?」
「な、なるほど。私じゃなくても、呪いを減衰させるなら、身を守るためにあの方が付ければいいのね」
わざわざジョヴァンナが嵌めなくてもいい、少し気が楽になったジョヴァンナはほっと一安心、頬の緊張が緩みます。元の可愛らしい少女の笑みは、太っても健在です。
「そうと決まれば、夕食時には」
若いメイドが話しはじめると、またしても邪魔をするかのごとく、ジョヴァンナのお腹の虫の音が鳴りました。
お腹を押さえ、ジョヴァンナは恥ずかしそうにうつむきます。乙女にとって、貴族令嬢として、お腹が鳴るなんてはしたない真似を家でもしたくはありませんが、生理現象ですからどうしようもありません。
「お腹、空いたぁ……」
「奥様、こんなこともあろうかと、高カロリーの補充に適したものをご用意しております」
「何、何?」
「特製キャンディです。シロップをたっぷり煮詰めて蜂蜜味に仕上げました」
何と蠱惑的な単語が並ぶのでしょう。キャンディ、シロップ、蜂蜜。糖分の塊のようなそれは、若いメイドのスカートポケットから薄紙に包まれて出てきました。
手作りのため少し形は不恰好ですが、薄紙を開いただけで蜂蜜の香りが立ち上ります。ジョヴァンナが本能の赴くままに無意識に差し出した右手に、若いメイドはつま先ほどの大きさの、三粒のキャンディを薄紙ごと渡します。
半透明の黄色の、甘い香りのするそれを、ジョヴァンナは一息に口へ放り込み、とことん舌に染み入る甘さを噛み締めます。
「美味しい。んー、甘ーい」
蜂蜜の味の中に、ほんのり薔薇の香りが残っていました。野辺に咲く薔薇から採れた蜂蜜、お屋敷にある最高級のブラウンシュガーを煮詰め、そして手にベタつかないよう繊細な粉砂糖をまとったキャンディは、空腹を抱えた五臓六腑に染み渡る——。
そう、糖分が思いっきり摂取され、脂肪に変わるのです。
ジョヴァンナは正気に戻りました。
「だめだ、私、このままじゃお母様のおっしゃるとおり、豚になっちゃう! 何とかしないと!」
頭を抱えるジョヴァンナは、それでも三粒のキャンディをしっかり味わっていました。これは別腹、別腹なのだ、別腹に入れと必死に念じ、ろくに憶えていない神や聖人の名前を思い出しながら助けを求めます。
その思いはどこか遠くの誰かに届いたかもしれませんが、だからと言ってジョヴァンナが一朝一夕で痩せることはありませんでした。
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