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第三十七章 水底より甦りし邪神
広い湯船
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洗い終えた髪を半ば無理矢理にまとめ上げ、手ぬぐいを頭に巻いて固定する。何とかまとまったらあまり頭を振らないように気を付けつつ湯船に腰を下ろす。一息ついて、クラールを入れた洗面器がひっくり返らないよう沈まないように膝と腕で支える。
『おとーた、おちょーしゃあ!』
『よしよし、あんまり動いちゃ危ないよ』
湯船に落ちたところですぐに拾い上げるし、洗面器の中の湯はぬるくしてあると言っても湯船の湯がクラールには熱過ぎるなんてこともない、危険などないのだ。
『おとーしゃん、おとーたぁ、わぅっ!』
楽しそうに飛び跳ねて僕を呼んでいるけれど、クラールに僕を呼んでいるつもりはない。父親の意味も定義も分からずに「おとうさん」という音を覚えているだけ。狼同士ということもありアルにはクラールが何を言っているのか分かるようだけれど、僕には今クラールが僕に暴言を吐いていても気付く術がない。
『……あれ? クラール、頭……ぶつけた?』
クリっとした瞳の上、ピンと立った耳の内側、妙な膨らみが左右対称に二つある。
『んー……? 硬いね、骨……? にしては変な形だよね』
『わぅわぅー……おとーた、ゃ!』
『コブにしては……うーん……何だろこれ』
皮膚と肉の下にある骨を触っている感触が膨らみにはあった。膨らみは腫れている訳ではなくて骨がある? アルにはないし、クラールにだってなかったはずだ。いつも一番近くで見ている僕が気付かないはずがない、宿を探す間か風呂の間かに膨らんだのだ。
『楽しそうやねぇ、頭領はん。隣ええ?』
『え……ぁ、や、別に……いい、けど』
隣に茨木が腰を下ろす。彼女は白い浴衣のような物を着ていて、風呂に入るまで着ていたドレスよりは肌の露出が減っている。しかし、濡れてぴったりと肌に引っ付く布と浮かび上がったシルエットはまた違った妖艶さを演出する──はずなのだが、茨木のシルエットはあまり女性的ではなく、あまり見ないようにしている僕には特に照れる必要はなかった。
『そんな服あったんだね、僕も着たかったかも』
『湯浴み着?』
『って言うの? 僕、人に裸見られるの嫌いでさ……』
自分で見るのも嫌いだったけれど、近頃は虐待痕が消えているから肉付きのチェックくらいは問題なく出来るようになっている。
『湯浴み着はなぁ、怪我やら病気やらで傷ある人用やねん。うちが貸してもろたんは別の理由やけど』
『そうなんだ……って言うかさ、あの……僕は裸な訳だし、君も布一枚だろ? あんまり近寄らないで欲しいんだけど……』
『なして?』
『え……いや、その……だから寄って来ないでってば』
はっきりと理由を言えない僕が悪いのは当然だけれど、嫁も子供も居る男に必要以上に距離を詰める方も詰める方だ。パーソナルスペースの広さが人によって異なるとは分かっているけれど、それでも彼女は近過ぎる。
『……まぁ、離れろ言うんやったら』
拳二つ分程離れ、これでいいかとでも言っているような顔をする。
『頭領はん、よううちのこと避けはるけど……うちのこと嫌い?』
『いや、そんなことないよ。ただ、その……茨木距離が近いんだよ』
『酒呑様も悪魔の王さんもこんなもんやったやん』
『男同士だしさぁ……まだ分かるんだよ』
同性だろうと近寄られるのは苦手だが、異性よりはマシだ。
『……え、頭領はん……まだ?』
『まだって何が…………ぁ、いや、ぼっ、僕童貞じゃないよ!?』
『そんな話してへんし証拠抱えてはるやん』
クラールのことを証拠と呼ぶのはやめて欲しい。
『…………童貞臭いけど』
ギリギリ聞こえる程度の声でなんてことを言ってくれるんだ。聞こえないように……ではない事に茨木の性格が滲み出ている。
『……あの、さ。話変わるんだけど、クラール頭にコブあるんだよね。いや、コブって言うか……何か、硬いんだけどさ……』
洗面器を寄せて茨木にクラールの頭を撫でさせる。彼女も爪は鋭いが酒呑のように乱雑ではないので僕の警戒も薄まる。
『んー……? 何やろ、骨……角とか?』
『角って……アルにないし』
それに、皮膚の下にあるものだろうか。
『頭領はんたまに生やしてはるやん』
『……ぁー、いやいやいや……』
鬼の力が遺伝した? そうなったらクラールは僕とアルの子供と言うより『黒』とアルの子供ではないか。まぁ、僕の好きな人同士の……となれば何より嫌いな自分が混ざっているよりは嬉しいけれど。
『変な病気とかじゃないよね?』
『うちに聞かれても……ぁ、せや、撮ったろか』
『撮る?』
『何とか線言うてなぁ、骨とか飲み込んだ金属とかが透けて撮れる機能あるんよ』
『じゃあお願いしよっかな。ぁ、お風呂上がってからでいいよ』
義肢は湯の中でも問題なく機能しているようだが、変形して内部が濡れても大丈夫なのかは分からない。茨木には分かっているのかもしれないが、何も言わず僕の案を了承した。
風呂上がり、用意されていた浴衣を着て、大きな扇風機の前でぼうっと過ごす。自分でやると言ったのだが、宿の従業員達にどうしてもと言われ髪を手入れされている。乾かすのが面倒とはいえ他人にやらせるのはまた違った疲れが溜まる。
『ぁうわぅわわわぅ……ゃ! おとーしゃ、やぁ!』
クラールを他人に任せるなんて天地がひっくり返ろうともありえないので僕の手でタオルに包んで水気を取っていたのだが、親指を噛まれた。
『ゔぅー……』
そして不機嫌そうな唸り声を上げている。
『ダメだよ、ちゃんと拭かなきゃ風邪引いちゃう』
タオルの下に手を入れて素手で背を撫でるも、相当不機嫌らしく僕の指を噛む力は弱まらない。血まで出てきた。
『仕方ないなぁ……すいません、えっと……ドライヤー? 貸してくれません? ほら、クラール、これならすぐ終わるからもうちょっと我慢してね』
僕の髪を乾かすのに使われていた機械を一つ借り、低音に設定してスイッチを入れる。
『……きゃうっ!? わぅ! わん……おとーた、おとーたぁ!』
すると突然暴れ出し、僕の膝を飛び降りて逃げてしまった。
『えっ、ちょっ……ちょっとクラール! 待って……痛っ!』
すぐに立ち上がって追いかけようとしたが、床に垂れていた自分の髪を踏んで転んでしまった。膝がとても痛い、骨がどうにかなったと思えるくらいに痛い、しかし実際にはヒビすら入っていないのだろう。
『おとーしゃん……おとーた? ゃ……おとーたん!』
クラールが僕を探すように不安そうな鳴き声を上げている。きっとドライヤーの音に驚いてしまっただけで、僕から逃げようという意図はなかったのだろう。クラールにとって急に居なくなったのは僕の方なのだ。
『痛た……ぁ、アル、捕まえて!』
ちょうどクラールがアルの傍に行った。アルは尻尾にクラールを絡め取り、持ち上げて僕に見せた。
『ありがと、今行く……待って、膝痛い……もうちょっと待って』
『……クラール、あまりヘルを困らせるな』
強打した膝がある方の足を引きずるようにして歩き、アルの元で屈み、手を広げる。
『アル? どうしたの?』
アルは僕にクラールを渡さず、自分の顔の前にクラールを下ろした。可愛がる気になったのかと心温かに眺めていると、アルがクラールの頭に噛み付いた。
『え……な、何してるのアル! 離して!』
クラールに手を伸ばすと翼に遮られ、姿すら見えなくなる。
『ちょっとアル! 何してるの!? ねぇ、羽どけてよ……邪魔っ……どけろってば!』
翼を押し退けてみれば、もうアルはクラールを離していた。噛まれていた場所に傷はない。
『クラール? 大丈夫?』
クラールは鼻を持ち上げて僕の匂いを嗅ぎ取り、鳴かないまま僕の膝に飛び乗った。そして腹に顔を埋める。
『…………アル、どういうつもり?』
『……躾だ。あまり甘やかし過ぎるなよ』
『躾って……やり過ぎじゃない? クラールなんか元気ないよ』
『拗ねているだけだ。私は少し叱っただけだ』
『……クラール、何も悪いことしてないよ。僕が大きい音立てて驚かせちゃっただけで、クラールが自分から逃げた訳じゃないし、逃げたとしても噛むような叱り方しなくていいでしょ?』
アルはため息をついて姿勢を正し、僕を見上げる。真っ黒の瞳に真っ直ぐに見つめられるとやはり少し気後れする。
『その手の怪我は何だ? 血が出ているな。クラールの口も貴方の匂いがする血で汚れていたな。父親に噛み付いて怪我をさせるなら躾が必要だ』
『…………だからって噛まなくても』
『……貴方は人間だからそう言うんだ』
アルは前足を伸ばし、ふいっとそっぽを向いてその前足の上に頭を乗せた。クラールが眠った後にゆっくり話そうと決めて立ち上がろうとして、髪を踏んで後ろに倒れた。
『おとーた、おちょーしゃあ!』
『よしよし、あんまり動いちゃ危ないよ』
湯船に落ちたところですぐに拾い上げるし、洗面器の中の湯はぬるくしてあると言っても湯船の湯がクラールには熱過ぎるなんてこともない、危険などないのだ。
『おとーしゃん、おとーたぁ、わぅっ!』
楽しそうに飛び跳ねて僕を呼んでいるけれど、クラールに僕を呼んでいるつもりはない。父親の意味も定義も分からずに「おとうさん」という音を覚えているだけ。狼同士ということもありアルにはクラールが何を言っているのか分かるようだけれど、僕には今クラールが僕に暴言を吐いていても気付く術がない。
『……あれ? クラール、頭……ぶつけた?』
クリっとした瞳の上、ピンと立った耳の内側、妙な膨らみが左右対称に二つある。
『んー……? 硬いね、骨……? にしては変な形だよね』
『わぅわぅー……おとーた、ゃ!』
『コブにしては……うーん……何だろこれ』
皮膚と肉の下にある骨を触っている感触が膨らみにはあった。膨らみは腫れている訳ではなくて骨がある? アルにはないし、クラールにだってなかったはずだ。いつも一番近くで見ている僕が気付かないはずがない、宿を探す間か風呂の間かに膨らんだのだ。
『楽しそうやねぇ、頭領はん。隣ええ?』
『え……ぁ、や、別に……いい、けど』
隣に茨木が腰を下ろす。彼女は白い浴衣のような物を着ていて、風呂に入るまで着ていたドレスよりは肌の露出が減っている。しかし、濡れてぴったりと肌に引っ付く布と浮かび上がったシルエットはまた違った妖艶さを演出する──はずなのだが、茨木のシルエットはあまり女性的ではなく、あまり見ないようにしている僕には特に照れる必要はなかった。
『そんな服あったんだね、僕も着たかったかも』
『湯浴み着?』
『って言うの? 僕、人に裸見られるの嫌いでさ……』
自分で見るのも嫌いだったけれど、近頃は虐待痕が消えているから肉付きのチェックくらいは問題なく出来るようになっている。
『湯浴み着はなぁ、怪我やら病気やらで傷ある人用やねん。うちが貸してもろたんは別の理由やけど』
『そうなんだ……って言うかさ、あの……僕は裸な訳だし、君も布一枚だろ? あんまり近寄らないで欲しいんだけど……』
『なして?』
『え……いや、その……だから寄って来ないでってば』
はっきりと理由を言えない僕が悪いのは当然だけれど、嫁も子供も居る男に必要以上に距離を詰める方も詰める方だ。パーソナルスペースの広さが人によって異なるとは分かっているけれど、それでも彼女は近過ぎる。
『……まぁ、離れろ言うんやったら』
拳二つ分程離れ、これでいいかとでも言っているような顔をする。
『頭領はん、よううちのこと避けはるけど……うちのこと嫌い?』
『いや、そんなことないよ。ただ、その……茨木距離が近いんだよ』
『酒呑様も悪魔の王さんもこんなもんやったやん』
『男同士だしさぁ……まだ分かるんだよ』
同性だろうと近寄られるのは苦手だが、異性よりはマシだ。
『……え、頭領はん……まだ?』
『まだって何が…………ぁ、いや、ぼっ、僕童貞じゃないよ!?』
『そんな話してへんし証拠抱えてはるやん』
クラールのことを証拠と呼ぶのはやめて欲しい。
『…………童貞臭いけど』
ギリギリ聞こえる程度の声でなんてことを言ってくれるんだ。聞こえないように……ではない事に茨木の性格が滲み出ている。
『……あの、さ。話変わるんだけど、クラール頭にコブあるんだよね。いや、コブって言うか……何か、硬いんだけどさ……』
洗面器を寄せて茨木にクラールの頭を撫でさせる。彼女も爪は鋭いが酒呑のように乱雑ではないので僕の警戒も薄まる。
『んー……? 何やろ、骨……角とか?』
『角って……アルにないし』
それに、皮膚の下にあるものだろうか。
『頭領はんたまに生やしてはるやん』
『……ぁー、いやいやいや……』
鬼の力が遺伝した? そうなったらクラールは僕とアルの子供と言うより『黒』とアルの子供ではないか。まぁ、僕の好きな人同士の……となれば何より嫌いな自分が混ざっているよりは嬉しいけれど。
『変な病気とかじゃないよね?』
『うちに聞かれても……ぁ、せや、撮ったろか』
『撮る?』
『何とか線言うてなぁ、骨とか飲み込んだ金属とかが透けて撮れる機能あるんよ』
『じゃあお願いしよっかな。ぁ、お風呂上がってからでいいよ』
義肢は湯の中でも問題なく機能しているようだが、変形して内部が濡れても大丈夫なのかは分からない。茨木には分かっているのかもしれないが、何も言わず僕の案を了承した。
風呂上がり、用意されていた浴衣を着て、大きな扇風機の前でぼうっと過ごす。自分でやると言ったのだが、宿の従業員達にどうしてもと言われ髪を手入れされている。乾かすのが面倒とはいえ他人にやらせるのはまた違った疲れが溜まる。
『ぁうわぅわわわぅ……ゃ! おとーしゃ、やぁ!』
クラールを他人に任せるなんて天地がひっくり返ろうともありえないので僕の手でタオルに包んで水気を取っていたのだが、親指を噛まれた。
『ゔぅー……』
そして不機嫌そうな唸り声を上げている。
『ダメだよ、ちゃんと拭かなきゃ風邪引いちゃう』
タオルの下に手を入れて素手で背を撫でるも、相当不機嫌らしく僕の指を噛む力は弱まらない。血まで出てきた。
『仕方ないなぁ……すいません、えっと……ドライヤー? 貸してくれません? ほら、クラール、これならすぐ終わるからもうちょっと我慢してね』
僕の髪を乾かすのに使われていた機械を一つ借り、低音に設定してスイッチを入れる。
『……きゃうっ!? わぅ! わん……おとーた、おとーたぁ!』
すると突然暴れ出し、僕の膝を飛び降りて逃げてしまった。
『えっ、ちょっ……ちょっとクラール! 待って……痛っ!』
すぐに立ち上がって追いかけようとしたが、床に垂れていた自分の髪を踏んで転んでしまった。膝がとても痛い、骨がどうにかなったと思えるくらいに痛い、しかし実際にはヒビすら入っていないのだろう。
『おとーしゃん……おとーた? ゃ……おとーたん!』
クラールが僕を探すように不安そうな鳴き声を上げている。きっとドライヤーの音に驚いてしまっただけで、僕から逃げようという意図はなかったのだろう。クラールにとって急に居なくなったのは僕の方なのだ。
『痛た……ぁ、アル、捕まえて!』
ちょうどクラールがアルの傍に行った。アルは尻尾にクラールを絡め取り、持ち上げて僕に見せた。
『ありがと、今行く……待って、膝痛い……もうちょっと待って』
『……クラール、あまりヘルを困らせるな』
強打した膝がある方の足を引きずるようにして歩き、アルの元で屈み、手を広げる。
『アル? どうしたの?』
アルは僕にクラールを渡さず、自分の顔の前にクラールを下ろした。可愛がる気になったのかと心温かに眺めていると、アルがクラールの頭に噛み付いた。
『え……な、何してるのアル! 離して!』
クラールに手を伸ばすと翼に遮られ、姿すら見えなくなる。
『ちょっとアル! 何してるの!? ねぇ、羽どけてよ……邪魔っ……どけろってば!』
翼を押し退けてみれば、もうアルはクラールを離していた。噛まれていた場所に傷はない。
『クラール? 大丈夫?』
クラールは鼻を持ち上げて僕の匂いを嗅ぎ取り、鳴かないまま僕の膝に飛び乗った。そして腹に顔を埋める。
『…………アル、どういうつもり?』
『……躾だ。あまり甘やかし過ぎるなよ』
『躾って……やり過ぎじゃない? クラールなんか元気ないよ』
『拗ねているだけだ。私は少し叱っただけだ』
『……クラール、何も悪いことしてないよ。僕が大きい音立てて驚かせちゃっただけで、クラールが自分から逃げた訳じゃないし、逃げたとしても噛むような叱り方しなくていいでしょ?』
アルはため息をついて姿勢を正し、僕を見上げる。真っ黒の瞳に真っ直ぐに見つめられるとやはり少し気後れする。
『その手の怪我は何だ? 血が出ているな。クラールの口も貴方の匂いがする血で汚れていたな。父親に噛み付いて怪我をさせるなら躾が必要だ』
『…………だからって噛まなくても』
『……貴方は人間だからそう言うんだ』
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