魔法使いの国で無能だった少年は、魔物使いとして世界を救う旅に出る

ムーン

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第三十七章 水底より甦りし邪神

邪、そして蛇

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剣を突き立てた石の亀裂から黒い煙が吹き上がる。ヒナを縛っていた朽ち縄は消えていて、父親が彼女を引っ張っていくのを横目で確認し、手を振った。

『……ふむ。そら』

軽い掛け声と共にサタンがスラックスのポケットから取り出した小さな蛇らしきモノを石に向かって投げる。すると煙は蛇に吸い込まれるようにして消えて元の空が──美しい星空が戻ってきた。

『…………落ち着いた、でいい? 色々聞きたいんだけど』

『いや、まだだ。あの蛸がまだ居るだろう。鬼、方角は覚えているな? 追撃に向かうぞ』

どうやってここまで来たのかだとか、今投げた小さな蛇は何なのかとか、レヴィアタンらしき海蛇だとか、聞きたいことは大量にある。だが、その暇はないらしい。

『悪魔の王さん、この細っこい蛇……』

『あぁ、八岐大蛇だ。レヴィアタンの身体に封じてやった、復活した直後で霊体が固まっておらず、力も弱かったからな……強力な邪神だ、頃合いを見て勧誘と行こう』

やはりあの巨大な海蛇やそれが収縮した小さな蛇はレヴィアタンなのか。僕が殺してしまったから作り直しているなんて言っていたけれど、完成していたのか。

『ヘル、疲れたろう。私に乗るといい』

『ぁ……うん、ありがと、お願いするね』

そっとアルに跨り、クラールを足の間に乗せる。クラールはアルの匂いを嗅いだ後、くるくる回ってから腰を下ろし、僕の太腿に顎を置いた。

『酒だ、酒を寄越せ! 蕩けるような酒を! そこな白いのが持って来た、焼けるような酒を! 極上の! 美酒を! 寄越せぇっ!』

酒呑に摘まれた蛇は彼の指に絡み付いて暴れている……のだろうか。くねくねしている。

『酒ぇ……? お、ホンマやあるやん。美味そう……ほぉ、血ぃ入っとるやん、気ぃ利くなぁ』

『俺のだ! 我のだ! 私のだ! 貴様に呑ませる酒など、分け与える酒など、私以外が飲んでいい酒など、一滴も! 無い!』

『その身体でどうやって飲む気や、ええから俺に寄越し』

酒呑が飲もうとしているのは僕が持って来た酒、ヒナを救うために用意した毒酒だ。呑ませた後に体内から破壊する気で僕の血を混ぜた特別製だ。

『酒呑! 待って、それ毒あるんだよ! 飲んじゃダメ!』

『あぁん……? ふぅん…………いや、でも、ちょっとやったらええやろ?』

『はぁ!? いや、だから毒入ってるんだってば、そんなの放って早く来なよ』

『……一口、一口だけ! 後生や頭領、一口やったら何ともあらへんて』

毒だからという理由よりも血を混ぜるという気持ちの悪い行為をした物を飲んで欲しくない気持ちが強い。しょっちゅう血肉を与えたり我が子にまで血を飲ませている僕だが、諦め悪くそういった人間らしい常識もあるのだ。

『……今だ! 我が酒、私の酒、俺の酒、私だけの酒……今行くぞ、至高の美酒よ! とぅっ!』

『あっこら親父!』

オロチと呼ぶべきかレヴィと呼ぶべきか、身体と魂が別人というのは何ともややこしい。レヴィ……僕が門を超えた先で作った世界で会った彼女にはもう二度と会えないのだろうか。拙い言葉で他者の色恋に嫉妬して、それでも僕に従ってくれていた彼女は、やはり、あの日温泉の国で殺した時に消えてしまったのだろうか。今頃になって後悔が湧いてくる、殺した時は何とも思わなかった、むしろ良いことをした気分だった。迷惑な悪魔を殺した英雄──なんてものではなく、ただ、寂しがり屋を嫉妬の苦痛から解放してあげた──なんて、より気持ちの悪い救世感があった。

『……行くぞ。鬼、方角を見失うなよ』

『はぁい、悪魔はん』

『……余を恐れず、クトゥルフのテレパシーも意に介さず、掴み所のない女を演じるその図太さ……気に入ったぞ』

『あらぁ、嬉しいわぁ。悪魔の王さんにそないに言ってもらえるなんて……ふふ』

『…………ふっ、この程度では揺らぎもせんか』

酒呑の説得やレヴィに思いを馳せる時間に割ける余裕はない。サタンが茨木と共にクトゥルフを追って行ってしまう。アルに追いかけるように言うと、その両隣にカルコスとクリューソスが無言で並んだ。何だか微笑ましい。

『鬼よりもずっと便利なモノに変えてやってもいいぞ? 再生や飛行や……鬼は出来ないだろう。代償は余に仕える事だ、どうだ?』

『あら……ふふ、そら魅力的な条件やねぇ』

『……鬼のままでいいし余に仕える気も無いと』

茨木は「魅力的」と言ったのに、どうしてそう思うのだろう。サタンの判断に疑問を抱きつつも、二人の会話に耳をそば立て続ける。

『そんなにあの男は魅力的か?』

『……旦那様以外に仕えよいう気を起こさせてくれるもんは知らんなぁ』

二人の会話を盗み聞きするために鋭くした聴覚にドタドタちゃぷちゃぷと背後からの音が届く。酒呑が酒樽を抱えて追いかけてきたのだ。

『持ってきたの?』

『毒や言うてもチビチビ呑んだら何ともないやろ? 一気に呑んだらそらアカンやろけどなぁ』

そこまでして僕の血入りの毒酒が飲みたいか。

『……魅力的か?』

『…………ふふ、魅力なんて少しもありまへんなぁ』

クトゥルフが落ちた場所は方角しか分からないし、かなりの距離がある。再生能力が非常に高い人魚の身体を使っている今、撃ち落とした時の傷がどれだけ彼を足止めできるかも不安要素だ。

『……ねぇ、サタン。ベルゼブブに何か言った?』

『何か、とは?』

『ベルゼブブ……僕から離れちゃって』

『あぁ、アレは気ままだからな。そういう事もあるだろう』

ベルゼブブは僕から本当は離れたくないなんて言っていた。それでも離れた理由は僕が食べ物に見えなくなったから──離れろと何かに命令されたから。ベルゼブブに命令を下せるのなんてサタン以外にいない。
僕は彼を問い詰める口調でそんなことを話した。

『……そんなことを言った覚えはないな、そもそもブブは余の命令など聞かん。知っているだろう、ブブの余への態度は』

面と向かってクソトカゲと呼んだり程度の低い口喧嘩をしたり、確かに彼らの関係は上下ではなく対等に見える。

『じゃあ、ベルゼブブより上に誰か他に居るの?』

『命令だ……という建前だとは思わないのか? 余を疑ってブブは疑わないのか?』

ベルゼブブが最初からそう言っていて、態度も落ち着いていたら疑ったかもしれない。けれど、命令だと言った時の彼女の様子は演技には見えなかった、むしろ失言に見えた。そう思わせることすら──なんて言い出したらキリがないけれど、ベルゼブブがそこまで手の込んだことをするとは思えない。面と向かって話している印象だけで言えばサタンの方が嘘をついているように思える。

『魔物使い、ブブは島を菓子に変えて人間を呼び寄せて無意識の家畜にするような、回りくどい真似を好む悪魔だ』

確かに、お菓子の国のシステムは効率的とは言い難い。けれども半永久的に続く不気味なものだった。
ダメだ、僕の中にあるベルゼブブの像すら歪んできた。

『で……もっ、ベルゼブブは、僕から離れたくないって、傍に居るって……言ってくれた。僕のこと友達だって!』

俯いたまま声を荒らげると胸倉を掴んで持ち上げられ、爬虫類のような瞳孔を持つ金眼が瞬きを忘れさせた。

『サ、サタン様……? ヘルが何か……』

アルが怯えた様子で僕を心配している。その隣の獣達は牙を剥いて、サタンの顔の横には銃に変形した義肢がある。

『……悪魔の王さん、どういうつもりや』

樽が地面に落ち、酒を飲んでぷっくり膨らんだ小さな蛇が一瞬浮いた。

『………………魔物使い』

細く、細く、収縮していく瞳孔が黒い線のようになって、虹彩の金色が輝きを増す。

『……創世記の頃、魔界の弁として貴様が創られ……魔界の管理者として挨拶に行った時。その美しい魔力と屈託のない笑顔を見た時から、ずっと』

背に手が回され、胸倉を掴んでいた手に顎を持ち上げられる。

『…………愛している』

ゆっくりと彼の顔が近付いてきて──唇に何かが触れた。
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