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第二十二章 鬼の義肢と襲いくる災難
酒場での事件
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偏見かもしれないが、酒場というのは他の店に比べてトラブルが起きやすい場所だと思う。
酔っ払って前後不覚、気が大きくなって誰彼構わず喧嘩を売りつける。誰もがそんな人間になる──と、酒を飲めない僕は思っている。
『とにかく強いの、そのまんま』
『赤を頼む』
「……オレンジジュースください」
カウンターに座って無愛想な店主に注文をして、僕は他の客と目を合わせないように店内を見回した。内装にテーマのようなものはないらしく、いかにも貰い物といった壺やら花瓶やらが無造作に並べられていた。
「…………ごゆっくり」
「あ、どうも……」
『酒を飲むと肉が欲しくなるな』
『それなー』
「…………そんなにお金ないからね」
二人を窘めつつ、オレンジジュースに浮かんだ氷をストローでつつく。酒呑は酔うと凶暴さを増すし、アルは鬱陶しい絡み方をするようになる。だから彼らとは話したくない、かなり退屈だ。
退屈な上に、先程から妙な視線を感じる。アルが居るからだ……と思いたいが、僕に向けられているように感じる。
『……ヘル? 何処へ行く』
「お手洗い」
『そうか。しっかり拭けよ』
「…………分かってるよ」
ゆったりと流れる時間、酒場特有の濁った雰囲気、じっとりとまとわりつく視線。その全てを振り払いたくて、手洗いに立った。別に出したいものがあった訳ではなく、少し水に触れたかっただけだ。
「……冷たい」
どうせなら顔でも洗おうかと思っていたのだが、手前の洗面台は少し汚れていて、その気もなくなった。
流れていく水をぼうっと眺め、濡れた手をぶらんと垂らす。ふと顔を上げると、目の前の鏡に映った僕の後ろに人影が見えた。
「あ、すいません……」
薄汚れたジャケットを着た男。僕が座っていたカウンター席の後ろのテーブル席に座っていた連中の一人だ、目つきが悪かったからよく覚えている。
俯いたまま横を通り抜けようとすると、男は僕の腕を掴んだ。色の悪い皮膚に深爪の指先、見た目よりも力は弱い。
「な、なんですか……?」
「君……どっかで見たことあるな……」
「僕はあなたのこと知りませんよ。あの……離してくれませんか?」
男は乱暴に僕の腕を引っ張り、壁に押し付けると、顎を掴んで無理矢理上を向かせた。
「あーぁ、思い出した。少し前に話題になってた……」
「は? わ、話題? 人違いですよ」
「…………今日はあんまり可愛くない服だね、オフなのかな」
「こういうのしか着ませんけど……」
今日は可愛くない服だ、なんてまるで僕がいつもは可愛い服を着ているような物言いをする。
やはり人違いだ、この国で僕が話題になる訳もない。
「あのターバンみたいなの巻いた男は誰? パパ?」
僕と酒呑が親子に見えたのか? 全く似ていないと思うのだが。見た目の年齢的にはそう見えてもおかしくないのだろうか。
「違いますけど……」
「ふぅん……ね、いくら?」
「は?」
「現金はあまり持ってないんだけど、これで足りるかな?」
男はポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、僕に押し付ける。
「な、なんのことが分かりませんけど! 人違いですから!」
僕は混乱しながらも紙幣を握った男の手を押し返す。金をくれるというのは有り難いが、理由が分からないというのは欲望をかき消す程に不気味だ。
「…………お高く止まってんじゃねぇぞ! っんの売女が!」
激昴した男は僕の首を締めようと手を伸ばす──が、その手はひとりでにちぎれた。肘の下あたりから、決して鋭利とは言えない見えない刃物に切られたように。
僕は叫び声を上げる男を突き飛ばし、個室に逃げ込んだ。あの声を聞けばきっとすぐに誰かがやってくる。アルも来てくれるだろうけど、店員や客は僕が男の腕を切り飛ばしたと思うだろう。
駄目だ、今出ていくのは不味い。
「……どうしよう」
人が集まったら、騒ぎを聞いて個室から出たというように見せかけようか。
身の振り方を考えていると、外が騒がしくなってくる。
「警察を……!」
「……れが……った! こんな……」
「子供だ、トイレに……は…………しか」
ドン! と個室の扉が叩かれる。
「出てこい殺人鬼!」
「お、おいやめろよ、どんな凶器持ってるか……」
バレた? どうして? 殺人鬼? 死んだのか? もう?
死んだとしても僕は悪くない、僕は何もしていない。勝手に腕が取れたんだ。
そう言っても誰も信じてくれないだろう。
「どうしよう……どうしたら…………あっ」
僕は背後に小さな窓を見つける。便器に足をかければ届く高さ、あとは幅が足りるかどうか──やるしかない。
「よっ……と、ぅ……肩、せま…………痛っ………………通った!」
店の裏側は暗い路地だった、僕はそこに頭から落ちて、ゴミ箱をひっくり返した。逃げていく虫に小さく悲鳴を上げて、擦り傷や打撲の痛みを耐えて立ち上がる。
窓枠に擦った肩や腕が痛むが、足はなんともない、走れる。僕は暗い路地をさらに奥へ、光のない方へ走った。
ヘルが酒場を離れてすぐ、警官隊がやって来た。通報したのは店主で、証人と容疑者はこの店にいる客全員。
アルはすっかり酔っ払って、カウンターに顎を置いて酒呑を見上げた。
『騒がしいな……何かあったか? 頭が痛い』
『殺人? ゆぅてたな、まっずいオッサンの匂いするやろ。アレでもええから喰いたいわぁ』
『殺人……? ふぅん……』
酔いと喧騒でガンガンと痛む頭のせいで、アルは殺人という言葉を正確に認識出来ていなかった。そんなアルに比べ酒呑はまだ冷静なままで、警官や客の話を盗み聞きしていた。
『痛い……頭が、痛い……撫でてくれ、ヘル。撫でて……』
大きな刃物で腕を落とされたらしい。
被害者はまだ生きているらしい。
もうすぐ救急車と警察が来るらしい。
犯人は派手な髪の子供らしい。
犯人は恐ろしく残忍な殺人鬼らしい。
犯人は小柄でトイレの窓から逃げたらしい。
『あー……』
聞こえてくるのは真偽怪しい憶測。だが酒呑は犯人とやらがヘルであると察した。
事件はトイレで起こり、ヘルはその直前にトイレに立ち、犯人は子供だという言葉が聞こえてくれば嫌でも分かる。
『……酒代どないしよ』
ヘルが逃げてしまったらここの酒代が払えない、奴はご丁寧に財布まで持って行った。酒呑は心の中で悪態をつくと、撫でろとうるさいアルの頭を乱暴に撫でた。
『ヘル、もっと優し……誰だ貴様!』
『なんやねんなうっさいのぉ』
『ヘル、ヘルは何処だ?』
『……ちょいと黙り』
飛び起きたアルに優しくヘッドロックを仕掛け、酒呑はじっと背後に立った警官の様子を探った。
『…………何故だ?』
『今ちょっと面倒なことなっとってな、すぐ解決するさかい静かにしとき。自分騒いだら余計面倒なるわ』
『大人しくしていればヘルは帰ってくるんだな?』
『せや、何聞かれても俺が主人や言いや』
アルの返事を待つ間もなく、警官が酒呑の肩を叩く。口裏を合わせる時間が欲しかったと思いながら、酒呑は程よく酔っ払った男を演じることにした。
酔っ払って前後不覚、気が大きくなって誰彼構わず喧嘩を売りつける。誰もがそんな人間になる──と、酒を飲めない僕は思っている。
『とにかく強いの、そのまんま』
『赤を頼む』
「……オレンジジュースください」
カウンターに座って無愛想な店主に注文をして、僕は他の客と目を合わせないように店内を見回した。内装にテーマのようなものはないらしく、いかにも貰い物といった壺やら花瓶やらが無造作に並べられていた。
「…………ごゆっくり」
「あ、どうも……」
『酒を飲むと肉が欲しくなるな』
『それなー』
「…………そんなにお金ないからね」
二人を窘めつつ、オレンジジュースに浮かんだ氷をストローでつつく。酒呑は酔うと凶暴さを増すし、アルは鬱陶しい絡み方をするようになる。だから彼らとは話したくない、かなり退屈だ。
退屈な上に、先程から妙な視線を感じる。アルが居るからだ……と思いたいが、僕に向けられているように感じる。
『……ヘル? 何処へ行く』
「お手洗い」
『そうか。しっかり拭けよ』
「…………分かってるよ」
ゆったりと流れる時間、酒場特有の濁った雰囲気、じっとりとまとわりつく視線。その全てを振り払いたくて、手洗いに立った。別に出したいものがあった訳ではなく、少し水に触れたかっただけだ。
「……冷たい」
どうせなら顔でも洗おうかと思っていたのだが、手前の洗面台は少し汚れていて、その気もなくなった。
流れていく水をぼうっと眺め、濡れた手をぶらんと垂らす。ふと顔を上げると、目の前の鏡に映った僕の後ろに人影が見えた。
「あ、すいません……」
薄汚れたジャケットを着た男。僕が座っていたカウンター席の後ろのテーブル席に座っていた連中の一人だ、目つきが悪かったからよく覚えている。
俯いたまま横を通り抜けようとすると、男は僕の腕を掴んだ。色の悪い皮膚に深爪の指先、見た目よりも力は弱い。
「な、なんですか……?」
「君……どっかで見たことあるな……」
「僕はあなたのこと知りませんよ。あの……離してくれませんか?」
男は乱暴に僕の腕を引っ張り、壁に押し付けると、顎を掴んで無理矢理上を向かせた。
「あーぁ、思い出した。少し前に話題になってた……」
「は? わ、話題? 人違いですよ」
「…………今日はあんまり可愛くない服だね、オフなのかな」
「こういうのしか着ませんけど……」
今日は可愛くない服だ、なんてまるで僕がいつもは可愛い服を着ているような物言いをする。
やはり人違いだ、この国で僕が話題になる訳もない。
「あのターバンみたいなの巻いた男は誰? パパ?」
僕と酒呑が親子に見えたのか? 全く似ていないと思うのだが。見た目の年齢的にはそう見えてもおかしくないのだろうか。
「違いますけど……」
「ふぅん……ね、いくら?」
「は?」
「現金はあまり持ってないんだけど、これで足りるかな?」
男はポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、僕に押し付ける。
「な、なんのことが分かりませんけど! 人違いですから!」
僕は混乱しながらも紙幣を握った男の手を押し返す。金をくれるというのは有り難いが、理由が分からないというのは欲望をかき消す程に不気味だ。
「…………お高く止まってんじゃねぇぞ! っんの売女が!」
激昴した男は僕の首を締めようと手を伸ばす──が、その手はひとりでにちぎれた。肘の下あたりから、決して鋭利とは言えない見えない刃物に切られたように。
僕は叫び声を上げる男を突き飛ばし、個室に逃げ込んだ。あの声を聞けばきっとすぐに誰かがやってくる。アルも来てくれるだろうけど、店員や客は僕が男の腕を切り飛ばしたと思うだろう。
駄目だ、今出ていくのは不味い。
「……どうしよう」
人が集まったら、騒ぎを聞いて個室から出たというように見せかけようか。
身の振り方を考えていると、外が騒がしくなってくる。
「警察を……!」
「……れが……った! こんな……」
「子供だ、トイレに……は…………しか」
ドン! と個室の扉が叩かれる。
「出てこい殺人鬼!」
「お、おいやめろよ、どんな凶器持ってるか……」
バレた? どうして? 殺人鬼? 死んだのか? もう?
死んだとしても僕は悪くない、僕は何もしていない。勝手に腕が取れたんだ。
そう言っても誰も信じてくれないだろう。
「どうしよう……どうしたら…………あっ」
僕は背後に小さな窓を見つける。便器に足をかければ届く高さ、あとは幅が足りるかどうか──やるしかない。
「よっ……と、ぅ……肩、せま…………痛っ………………通った!」
店の裏側は暗い路地だった、僕はそこに頭から落ちて、ゴミ箱をひっくり返した。逃げていく虫に小さく悲鳴を上げて、擦り傷や打撲の痛みを耐えて立ち上がる。
窓枠に擦った肩や腕が痛むが、足はなんともない、走れる。僕は暗い路地をさらに奥へ、光のない方へ走った。
ヘルが酒場を離れてすぐ、警官隊がやって来た。通報したのは店主で、証人と容疑者はこの店にいる客全員。
アルはすっかり酔っ払って、カウンターに顎を置いて酒呑を見上げた。
『騒がしいな……何かあったか? 頭が痛い』
『殺人? ゆぅてたな、まっずいオッサンの匂いするやろ。アレでもええから喰いたいわぁ』
『殺人……? ふぅん……』
酔いと喧騒でガンガンと痛む頭のせいで、アルは殺人という言葉を正確に認識出来ていなかった。そんなアルに比べ酒呑はまだ冷静なままで、警官や客の話を盗み聞きしていた。
『痛い……頭が、痛い……撫でてくれ、ヘル。撫でて……』
大きな刃物で腕を落とされたらしい。
被害者はまだ生きているらしい。
もうすぐ救急車と警察が来るらしい。
犯人は派手な髪の子供らしい。
犯人は恐ろしく残忍な殺人鬼らしい。
犯人は小柄でトイレの窓から逃げたらしい。
『あー……』
聞こえてくるのは真偽怪しい憶測。だが酒呑は犯人とやらがヘルであると察した。
事件はトイレで起こり、ヘルはその直前にトイレに立ち、犯人は子供だという言葉が聞こえてくれば嫌でも分かる。
『……酒代どないしよ』
ヘルが逃げてしまったらここの酒代が払えない、奴はご丁寧に財布まで持って行った。酒呑は心の中で悪態をつくと、撫でろとうるさいアルの頭を乱暴に撫でた。
『ヘル、もっと優し……誰だ貴様!』
『なんやねんなうっさいのぉ』
『ヘル、ヘルは何処だ?』
『……ちょいと黙り』
飛び起きたアルに優しくヘッドロックを仕掛け、酒呑はじっと背後に立った警官の様子を探った。
『…………何故だ?』
『今ちょっと面倒なことなっとってな、すぐ解決するさかい静かにしとき。自分騒いだら余計面倒なるわ』
『大人しくしていればヘルは帰ってくるんだな?』
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