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第十八章 美食家な地獄の帝王

美食家の悪魔

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すぐ側に近づけられたベルゼブブの顔。その双眸は無数の眼で形作られている。複眼と言われるものだ。見慣れないその目は、虫を連想するその目は、正直に言うと気持ちが悪い。僕の目の前で揺れる触角も不快だ。

『そうですね、どこから話しましょうか』

僕の無礼な思考など気にもとめないであろうベルゼブブは、ナイについて──あのバケモノについて話し始めた。

『まずアレは神性です、神様ですね。バケモノバケモノ言ってはいけませんよ、貴方様の国では信仰対象でしょう?』

「……らしいけど、僕知らないし」

『名は……そうですね、ナイアルラトホテップ、これでいいでしょう。あまり呼びたくはありませんがね。さて、アレはまず……いつの間にか人界に居て、いつの間にかヘクセンナハトという女に魔法というよく分からない術を教え、煽って魔物使いと対立させました』

いつの間にか、が多いな。誰も、いや、少なくとも悪魔は気が付かなかったという事か。
僕にも覚えがある。ナイが何時いつ、何処から来たのか、ハッキリしていた事は無い。何故かそこに居るのだ。

「魔物使いって……僕?」

『の前世でしょうね。多分。で、魔物使い様は見事ヘクセンナハトを破りました、めでたしめでたし』

ベルゼブブはぱちぱちとやる気なさげに手を叩く。
僕の頭の中に神性だとか前世だとか、理解し難い言葉が並んでいく。

『まぁ十中八九、その頃の記憶を掘り出されたんでしょう。ヘクセンナハトは魔物使いを恨んでますからね、それと兄弟とは……全く奇妙な運命で。仕組まれたと考えてよさそうですね』

「……にいさまは、僕を殺したいのかな。だから……僕のこと、虐めてたのかな」

殺意を感じた事は無いけれど、もしかしたらそれは僕の思い込みで、本当は兄は僕を殺したくて仕方ないのかもしれない。

『まさか、前世の記憶なんて無いも同然。前世なんて存在しないと言って問題ありませんよ。生まれつきの趣味でしょう』

「それはそれでやだなぁ」

殺したい訳では無いのだろうか。それなら、嬉し……くは無いけれど、命の心配は必要無い。

『そうですね』

「適当だよね?  まぁいいや、あの……えっと、ナイ……にゃぃありゅっ…………ナイ君はさ、僕を殺したいのかな」

噛んでしまった恥ずかしさから顔を背ける。ベルゼブブはそんな僕を嘲笑うように僕の視界の真ん中に移動してきた。

『さぁ?  遊びたいんじゃないですか、ギリギリまで殺されはしないと思いますよ。ところでヘルシャフト様、舌の運動とかした方がいいですよ』

「何それ……どうせならサクッと殺して欲しいんだけど。あと滑舌に突っ込まないで」

『潔いですねぇ、そういうの嫌いじゃないですよ。でも舌っ足らずは嫌いです。鬱陶しくて』

ベルゼブブは僕の髪を梳ように手を動かしている、そうしているうちにすまし顔は歪み恍惚とした笑みを浮かべる。

『美味しい……』

「あ、あの……何してるの?」

『お気になさらず』

僕が戸惑っていると、街のあちらこちらから悲鳴が聞こえてきた。正気に戻った人々が街の有様を見て、単なる恐怖かはたまた罪悪感からか叫んでいるのだろう。
メルとも相談し、一度城へ戻る事になった。
ベルゼブブは意識のない兄を背負いながらも、ずっと僕の髪や頬を撫でていた。意図が分からないその行動は僕を不安にさせるには十分過ぎる。

人気のない城に戻り、メルの部屋へと。ベッドの上のセネカはひっぱたきたくなるようなのんきな寝顔をしていた。

「まだ寝てる」

『いっぱい食べたからねぇー、呪いの影響がなかったらこうなるわよね』

『ヘルシャフト様、兄君はどこに?』

「あー……適当に寝かせてあげて」

ベルゼブブはその場で手を離し、兄は頭を床に打ち付け鈍い音を響かせた。それでも起きる様子はなく、ベッドの横に転がされた。
寝顔なのだから当然と言えばそうかもしれないのだが、自信に満ち溢れた表情をしていない兄は新鮮だ。静かに目を閉じているその顔はやはり僕によく似ている。彼は僕の兄なのだから、僕が兄に似ていると言った方が正確か。

『……ベッドに寝かせないんですね』

『適当に、と仰いましたので』

『はは……なるほど』

僕もメルと同意見だった、だが起きないのならどこに寝かせてもいいだろう。
起きた兄が混乱しないように、僕は兄の傍に腰を下ろした。目覚めた時に見知った顔があると安心するだろうという建前を用意し、寝ている間に離れるなと怒られないようにという本音を隠して。今なら暴力を振るわない兄の傍に居られるという情けない本心を自分でも否定して。
そんな打算的な僕の横にベルゼブブはぴったりとくっつく。

「あの……何か」

『お気になさらず』

また頭を撫でられる。甘やかされている気分がして嫌いではないが、子供扱いされているようで恥ずかしくもある。
まぁ長命な悪魔からすれば僕は赤子のようなものだろう、そう自分に言い聞かせてメリットだけを思い込む。

『ベルゼブブ様、どうしてお菓子がなくなったんでしょう』

メルの言葉に辺りを見回せば、そこにお菓子は一つもない。壁も、床も、ベッドも、何もかもが一般的なものに変わっていた。いや、見た目は前と同じだからあまり一般的とは言えないだろうか。
シーツに手を這わせてもベタつくことはなく、さらさらと指が動く。甘い匂いもいつの間にか消えていた。

『私が『暴食の呪』を解いたからですよ』

『そうですか……そんな気はしました。あの、どうしてそのようなことを?』

『私は美食家でして。貴女も知っているでしょう?』

『ええ、よく肥えたもの、若いもの、健康なものを選んでいらっしゃったようですね』

人間の話だと思って聞くと、彼女達に恐怖と嫌悪感が湧き出る。調理風景などを詳細に想像すれば吐くことだって容易だ。

『至高を見つけましたから、もうこの国は要りません。だから解きました』

『至高……?』

きょとんと首を傾げたメルだったが、僕を見て目を見開く。まるで何かに気がついたように、そして僕はそれを考えたくなくて目を逸らした。
直後、頬に気味の悪い感触。恐る恐る目をやれば人のものとは形状が全く違ったベルゼブブの舌があった。

『ええ、至高、の……人』

「たっ、食べないで、くださいよ?」

僕にはまだ彼女を完全に操る事は出来ないし、メルやセネカでは太刀打ち出来ない。兄なら逃げるくらいは出来るかもしれないが、今は眠っている。

『まさか!  まだ育っていないのに、そんなもったいないことはいたしません!  せめて両目とも魔眼にならねば、味が薄い。こうやって舌や手で舐める分にはいいおやつですけどね』

「……将来的には、食べる、と」

気が変われば食われてしまうのだろうか。

『もちろん』

恍惚に歪む瞳には僕が何人映っているのだろう。じっと見なければ網の目模様と思えるだろうベルゼブブの複眼全てが僕を捉え、食物として認識する。
メルに目線で助けを求める、と、その時だ。赤や紫、体内を思わせる配色の扉が勢いよく開け放たれた。兵士も民も関係なく、少し前に喰ったであろう人の返り血を服に滲ませながら、思い思いに叫ぶ。

「旦那を食っちまった!」
「俺は子供を……ああ!  どうしてこんな!」
「悪魔だ!  悪魔の仕業だ!」
「……ああ!  そうだ、そうに違いない」
「お、俺は覚えてるぞ、王女が羽を生やして飛んだこと!」
「お、俺もだ、俺も見た!」
「…………王女が悪魔だ!」

そう結論付けた民衆は声を一つにした。今まで愛してきた──いや、無理矢理愛することを仕向けられた王女を、殺せと。
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