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感染
9.★
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和やかな喧騒に教室は包まれていた。それは中学一年の三学期の終業式が終わり、春休みに誰もが浮かれきっているからなのは言われなくても分かっている。そんな中でアキコに歩み寄った同級生が、まだ席に腰かけたままのアキコを見下ろし口を開く。
「ちょっと、話があんだけど。」
学校の中では最近、余り表だって自分から口を開かなくなっていた。周囲と自分の思考が同じ方向を向いていないのは自分でも理解できるようになっていて、majorityに入れない者は迫害される。薄々それを理解したのは近郊から集まった別な小学校の生徒の人数の方が多くて、アキコが通っていた小学校の方が少数派だったから。大きなmajorityの中でminority groupのままで過ごしていくのは生き辛い。眺めていればそれは理解できるが、そのどちらにも属さないアキコはminority groupよりも更に単位の小さなminorityだ。
嫌な気配だった。
嫌だなと感じるのに十分な雰囲気。
話があると言っているのが中学に入ってやっとできたアキコの友人で、普段仲良くしている同級生のクラスメイト。目の前の不機嫌そうな声をあげた少女は中学校で交流する事のできた他の小学校出身の一人で、彼女自身も大のオカルト好きだった。お陰で二人の交流が始まったとも言えるが、次第に彼女とアキコの違いに気がつき始めていた。
※※※
目の前の彼女は降霊と称して、所謂『こっくりさん』をやりたがった。
子供の時期には何故かこれが子供の中で流行る事があって、紙に五十音を書き記して鉛筆や十円玉に指をのせる。何か不思議な存在を降霊と称して呼び出して、様々な質問をする。だが、アキコはそれに呼び出されるものが、不快で怖くて仕方がない。名前は様々で『エンジェル様』だったら『エンジェルの小百合様』だったりしたが、やっていることはいつも同じ。それをやりたい彼女とやりたくないアキコ。
黒い靄が見えることがあるから、何だかやりたくない
実は彼女とそれをやると近くに黒い靄が沸き上がるように見えて、それは何だか本能的に近寄りたくない靄だった。それに気がついてから何とかして断ることばかり考えていたのだ。そうこうしているうちに、アキコと彼女は次第にすれ違い溝を深くし始めていたのだと思う。
オカルトと一括りにすれば二人は同じだが、アキコはどちらかというと土着の日本古来のものに傾倒していて、目の前の彼女が信じていたのはキリスト教と言うのが最も当て嵌まる。彼女は自分は天使に守護された人間だと話し、天使という概念の薄いアキコが自分の要望に逆らうのは悪魔に洗脳されているのだと何時からか思い始めていたようだ。その為か彼女は自分と同じ考えを持つようにと、何度となくアキコに説得を続けている。とはいえイエス・キリストの伝記に小学二年で不信の言葉を話したアキコが、守護天使位なら兎も角悪魔に洗脳とは皮肉だ。確かに悪魔と言われれば、イブを唆した蛇の呪いは悪魔の洗脳と言えなくもない。だから彼女の言うことは否定はしないが、それだからと言って自分も天使に守護されている人間になれると今更考えるのは困難だ。
※※※
「考えはあらたまった?」
帰途につこうとする同級生の喧騒のなかで、何故かひんやりとした空気が流れているように感じた。そう言われても天使も悪魔も視たこともないからわからないし、信じるには足りないとアキコが素直に言うと、不機嫌そうな表情が更に険悪になった。
「あんたが言ってる幽霊だって、他の人は見えないじゃない。あたしには黒い悪魔は見えてるけどね。」
断言するような言葉に困ったように彼女を見つめる。自分に視えるのは靄のようなモノばかりで、オカルト雑誌に載っているような天使も悪魔も視たことがない。視たことがないものは、アキコの中には空想の産物と等しいから傾倒するには足りない。それでも自分には呪いがかかっていて、闇の中から黒い影がやってくる。それが悪魔だと言われれば悪魔だけは理解ができるが、あれは真っ黒な影で翼も角も持たない。それを他人に見せる方法もアキコは知らないのだ。
もしかして私のは呪いなのと言ったら彼女にも害が及ぶのだろうか?
それとも呪い=悪魔なんだろうか。彼女は常に自分に黒い影を視ているのだとしたら、それなら彼女が言うことも納得できる。そんなことを一人口も開かずに考えていると、痺れを切らしたように彼女はアキコを睨み付けたかと思うと口を開いた。
「先に謝っとくわ、ごめんなさい。」
その言葉の意味を理解する前に、振りかぶった彼女の左の手のひらが力一杯アキコのの右頬を打っていた。周囲が突然の彼女の行動に一瞬静まり、彼女の声は大きく教室の中に響き渡る。
「もう、助けてあげないから。一人で何とかすれば?せっかく助けてあげとようとしてあげたのに、あんたが悪いんだからね。」
意味が分からず殴られた頬をおさえたまま、身を翻す彼女を眺める。
アキコは同じ気持ちを共有できる友達が欲しかっただけだった。だから、話していてオカルトに興味があると話した彼女と仲良くしたかったのだ。ほんの半年の間自分が自分の呪いを理解するために様々な本から得た知識を、ただ彼女と共有した。それだけのつもりだったのに何処からか彼女とアキコは大きくズレてしまっていた。
ボンヤリと人のいなくなった教室の中で座りながら、ズレの理由を考える。突然教室の真ん中で平手打ちして姿を消した彼女と、その後もぼんやりと座っている自分。
二人の差はなんだろう?
そう考えてふっと理解できた気がした。
彼女は天使に選ばれたと信じているから、彼女は正しい存在なのだろう。
では、自分は?
自分は血縁の起こしたことで呪われている。眼には呪われたものが視え、友達もこんな風になくしていく。呪いに何もかもを奪われていくのだ。呪われているから悪いのだ。全ては呪われたまま産まれた自分が悪いのだ。そう考えた瞬間、アキコは自分自身の存在を心底嫌悪した。生まれつき呪われた悪魔と同じ存在の自分が、どうやったら天使に守られて幸せになりうるのだろうか?そんなことは無理なのだ。
「私は……何よりも自分が嫌いだし…………憎い……。」
そう誰ももういない教室の中で呟いた時、初めて自分が何よりも自分を憎み嫌悪していることをアキコは知ったのだった。同時にもう彼女との間柄は絶望的だと理解した。クラス替えがあるのも幸いだ、アキコの中学は実は一年から二年になる時しかクラス替えをしない。つまりはありがたいことに、彼女とは恐らく違うクラスになるだろう、というか、そうなって欲しいと切に願っていた。
※※※
四月からの門出に向けて気持ちを切り替えないとならなかった。友達がいなくなったことは辛くても、あの状況のまま生活をするのよりはましだ。そんな春休みの最中、アキコは弟を連れて市街に映画を見に行く。元々姉弟は仲良く二人で街に遊びにいくことはよくあったので、別段特別なことではなかった。
二人で帰りの電車の中でホームの立ち食い蕎麦屋で買う車内持ち込み用の発泡スチロールの器にいれた蕎麦を楽しみの一つにして、二人でたわいもなく笑いこける。十五分ちょっとの電車の中で二人で一杯の蕎麦を分けて食べるのは、その頃の二人の定番の楽しみだったのだ。
「ちょっとトイレいくね。」
それはまだ春になりきらない冷えた体のなんて事のない生理現象で、弟も別段気にした風でもなく残りの蕎麦をすすっている。既に自分とほぼ変わらない体格に育った弟の食欲は旺盛で、全部食べられなきゃいいけどなと内心思いながら揺れる車内を歩く。ローカル線特有のデッキにある車内トイレで用を足したアキコが扉を開けると、目の前が背の高い胸板で塞がれているのに気がついた。待っていたのかとその横をすり抜けようとするが、その相手はわざとその進行方向を遮る。
意味がわからず思わず伏せていた視線をあげると、そこには見慣れた顔があった。冬場には自転車通学はしていないから出会うことはかなり減っていたが、見慣れた同級生の兄がそこには立っている。走り続けている電車のトイレの入り口で自分の前に立ちふさがるような理由が、アキコには思い浮かばすポカンとその人を見上げた。
無表情……
感情のないの表情は自転車に乗りながら他愛のない話をする気さくな近所のお兄ちゃんの顔ではなかった。仲良くしていると思い込んでいたのは実は自分だけだったと理解した瞬間、一気にその視線に背筋が凍るのを感じる。その視線にアキコの肌が確かに覚えがあったのだ。
夕闇の中でまとわりつき一人でいる不安を感じさせた気配。
砂利を踏む音の先に背後からまとわりつく視線。
片眼しか見えなかったが底冷えのするような眼。
雨戸の隙間から息を殺して私を怯えさせた気配。
ありとあらゆる悪意をもった蛇のような熱のない視線と気配が、目の前の仲良くしていたはずの青年の体から放たれていた。
咄嗟にその体の横をすり抜けようと動く。しかし漫画や物語のようにはいかず、容赦ない力で二の腕が捕まれトイレの中に押し戻されてしまう。物語みたいに助けてとも言えない。恐怖感が強すぎて悲鳴をあげることも出来ずに、その腕から逃れようと無言のままもがくがグイグイとトイレの中に向かって押し込まれていく、その自分の状況にアキコは心底震え上がった。
何が起きようとしているのかわからない。
このまま押し込まれたら何が起こる?
目の前の蛇のような視線が、自分の顔なんか一つも視ていないのは分かっている。無表情のまま舐めるように体を見ている悪意の塊が、自分を密室に押し込んだらきっと黒い影なんかよりも恐ろしい経験が待っている。
凄まじい恐怖感に襲われていた。
あの時にはまだなかった性への知識が、このままでは逃げられないと警鐘をならしている。押し込めようと無言で肩や胸を押してくる手に必死で抵抗し、暴れる自分の右手がトイレの中の洗面台に触れた。ボタン式で当たった洗面台から水が流れ出したのを咄嗟に相手の視界に浴びせかける。予期せぬモノに怯んで数歩後退した体を全力で押し退けると、走行中でバランスの悪い古めかしいボックス席の並ぶ在来線の通路を全力で駆け抜けていた。
「ねぇちゃん?」
蒼白になった姉の姿に弟が不安気に見つめているのは分かっていたが答えることも出来ないし、トイレからあの男が今にも追いかけてくるのではないかと気が気ではなかった。何しろあの男は直ぐ傍に住んでいて、きっと自分の生活のパターンも知っているし、アキコの部屋が何処かも知り尽くしている。
電車から降りても弟の手を硬く繋ぎホームの階段をかけ上がると、改札を駆け抜けるようにして駅舎を抜ける。普段のアキコなら弟にあわせて階段を登りユッタリと一緒に歩く筈だったが、血相を変えたままの姉の行動に弟は慌てて着いていく。そして、迎えに出ていた車に飛び乗った途端、アキコは安堵したのか声をあげて泣き出した。父も弟も驚いたようにその姿を眼を丸くして見つめる。しかし泣きじゃくりながら事の顛末を話したアキコに、父は無言のまま車を走らせていた。
その日の夕方、両親は近隣の同級生の家に二人で出掛けていった。確認しなくてもわかる事ではあるが、ここ数ヵ月の風呂場の覗きも、アキコの部屋の雨戸を開けて覗いていたのも同級生の兄の仕業だった。次もしこんなことをやったら警察につき出すと話をつけようとした叱責に、相手はこう言ったという。
「あいつが悪いんだ、あいつが誘ったから。あいつが俺に気があるような素振りをするから、だからやってやったんだ。」
何のことを言われたのか、その話を後から聞いた時アキコは呆然とした。夜道で感じたあの不快な不安を感じさせた気配は、アキコのせいだという。それまでは殆ど話したこともなかったし、話しかけた記憶もない。夜道を歩いていた時だって一緒に歩いた訳でもない。
こんばんは
そう言っただけ。それがさそったということなんだろうかとアキコは呆然と考える。背後から自転車で追い越されて話しかけられたから答えだけだ。それとも風呂場を覗かれているのに気がついて、窓を開けてしまったのが誘ったことになるのだろうか。でも先に覗いていたのは向こうな筈だ。やってやったと言うのは、アキコがそうして欲しいと願ったからということなのだろうか。
「気にしなくていい。」
そう父は言うけれど真実はなんなのだろう。悪意は知らない間に生まれていると思っていたが、自分がそう仕向けていると言われたのだ。もしかしてあの黒い影もアキコ自身が望んだから、あんなことをしたというのだとしたら。
蛇のような……
悪意の塊の蛇のような視線が頭を過ると、伯母の口にした呪いという言葉が甦る。もしかして呪いのせいで自分が知らぬ間に、自分自身でそうするように仕向けているのだとしたら。そう考えた瞬間、何故か耳元であのヒョウという奇妙な声が響いた気がした。
「ちょっと、話があんだけど。」
学校の中では最近、余り表だって自分から口を開かなくなっていた。周囲と自分の思考が同じ方向を向いていないのは自分でも理解できるようになっていて、majorityに入れない者は迫害される。薄々それを理解したのは近郊から集まった別な小学校の生徒の人数の方が多くて、アキコが通っていた小学校の方が少数派だったから。大きなmajorityの中でminority groupのままで過ごしていくのは生き辛い。眺めていればそれは理解できるが、そのどちらにも属さないアキコはminority groupよりも更に単位の小さなminorityだ。
嫌な気配だった。
嫌だなと感じるのに十分な雰囲気。
話があると言っているのが中学に入ってやっとできたアキコの友人で、普段仲良くしている同級生のクラスメイト。目の前の不機嫌そうな声をあげた少女は中学校で交流する事のできた他の小学校出身の一人で、彼女自身も大のオカルト好きだった。お陰で二人の交流が始まったとも言えるが、次第に彼女とアキコの違いに気がつき始めていた。
※※※
目の前の彼女は降霊と称して、所謂『こっくりさん』をやりたがった。
子供の時期には何故かこれが子供の中で流行る事があって、紙に五十音を書き記して鉛筆や十円玉に指をのせる。何か不思議な存在を降霊と称して呼び出して、様々な質問をする。だが、アキコはそれに呼び出されるものが、不快で怖くて仕方がない。名前は様々で『エンジェル様』だったら『エンジェルの小百合様』だったりしたが、やっていることはいつも同じ。それをやりたい彼女とやりたくないアキコ。
黒い靄が見えることがあるから、何だかやりたくない
実は彼女とそれをやると近くに黒い靄が沸き上がるように見えて、それは何だか本能的に近寄りたくない靄だった。それに気がついてから何とかして断ることばかり考えていたのだ。そうこうしているうちに、アキコと彼女は次第にすれ違い溝を深くし始めていたのだと思う。
オカルトと一括りにすれば二人は同じだが、アキコはどちらかというと土着の日本古来のものに傾倒していて、目の前の彼女が信じていたのはキリスト教と言うのが最も当て嵌まる。彼女は自分は天使に守護された人間だと話し、天使という概念の薄いアキコが自分の要望に逆らうのは悪魔に洗脳されているのだと何時からか思い始めていたようだ。その為か彼女は自分と同じ考えを持つようにと、何度となくアキコに説得を続けている。とはいえイエス・キリストの伝記に小学二年で不信の言葉を話したアキコが、守護天使位なら兎も角悪魔に洗脳とは皮肉だ。確かに悪魔と言われれば、イブを唆した蛇の呪いは悪魔の洗脳と言えなくもない。だから彼女の言うことは否定はしないが、それだからと言って自分も天使に守護されている人間になれると今更考えるのは困難だ。
※※※
「考えはあらたまった?」
帰途につこうとする同級生の喧騒のなかで、何故かひんやりとした空気が流れているように感じた。そう言われても天使も悪魔も視たこともないからわからないし、信じるには足りないとアキコが素直に言うと、不機嫌そうな表情が更に険悪になった。
「あんたが言ってる幽霊だって、他の人は見えないじゃない。あたしには黒い悪魔は見えてるけどね。」
断言するような言葉に困ったように彼女を見つめる。自分に視えるのは靄のようなモノばかりで、オカルト雑誌に載っているような天使も悪魔も視たことがない。視たことがないものは、アキコの中には空想の産物と等しいから傾倒するには足りない。それでも自分には呪いがかかっていて、闇の中から黒い影がやってくる。それが悪魔だと言われれば悪魔だけは理解ができるが、あれは真っ黒な影で翼も角も持たない。それを他人に見せる方法もアキコは知らないのだ。
もしかして私のは呪いなのと言ったら彼女にも害が及ぶのだろうか?
それとも呪い=悪魔なんだろうか。彼女は常に自分に黒い影を視ているのだとしたら、それなら彼女が言うことも納得できる。そんなことを一人口も開かずに考えていると、痺れを切らしたように彼女はアキコを睨み付けたかと思うと口を開いた。
「先に謝っとくわ、ごめんなさい。」
その言葉の意味を理解する前に、振りかぶった彼女の左の手のひらが力一杯アキコのの右頬を打っていた。周囲が突然の彼女の行動に一瞬静まり、彼女の声は大きく教室の中に響き渡る。
「もう、助けてあげないから。一人で何とかすれば?せっかく助けてあげとようとしてあげたのに、あんたが悪いんだからね。」
意味が分からず殴られた頬をおさえたまま、身を翻す彼女を眺める。
アキコは同じ気持ちを共有できる友達が欲しかっただけだった。だから、話していてオカルトに興味があると話した彼女と仲良くしたかったのだ。ほんの半年の間自分が自分の呪いを理解するために様々な本から得た知識を、ただ彼女と共有した。それだけのつもりだったのに何処からか彼女とアキコは大きくズレてしまっていた。
ボンヤリと人のいなくなった教室の中で座りながら、ズレの理由を考える。突然教室の真ん中で平手打ちして姿を消した彼女と、その後もぼんやりと座っている自分。
二人の差はなんだろう?
そう考えてふっと理解できた気がした。
彼女は天使に選ばれたと信じているから、彼女は正しい存在なのだろう。
では、自分は?
自分は血縁の起こしたことで呪われている。眼には呪われたものが視え、友達もこんな風になくしていく。呪いに何もかもを奪われていくのだ。呪われているから悪いのだ。全ては呪われたまま産まれた自分が悪いのだ。そう考えた瞬間、アキコは自分自身の存在を心底嫌悪した。生まれつき呪われた悪魔と同じ存在の自分が、どうやったら天使に守られて幸せになりうるのだろうか?そんなことは無理なのだ。
「私は……何よりも自分が嫌いだし…………憎い……。」
そう誰ももういない教室の中で呟いた時、初めて自分が何よりも自分を憎み嫌悪していることをアキコは知ったのだった。同時にもう彼女との間柄は絶望的だと理解した。クラス替えがあるのも幸いだ、アキコの中学は実は一年から二年になる時しかクラス替えをしない。つまりはありがたいことに、彼女とは恐らく違うクラスになるだろう、というか、そうなって欲しいと切に願っていた。
※※※
四月からの門出に向けて気持ちを切り替えないとならなかった。友達がいなくなったことは辛くても、あの状況のまま生活をするのよりはましだ。そんな春休みの最中、アキコは弟を連れて市街に映画を見に行く。元々姉弟は仲良く二人で街に遊びにいくことはよくあったので、別段特別なことではなかった。
二人で帰りの電車の中でホームの立ち食い蕎麦屋で買う車内持ち込み用の発泡スチロールの器にいれた蕎麦を楽しみの一つにして、二人でたわいもなく笑いこける。十五分ちょっとの電車の中で二人で一杯の蕎麦を分けて食べるのは、その頃の二人の定番の楽しみだったのだ。
「ちょっとトイレいくね。」
それはまだ春になりきらない冷えた体のなんて事のない生理現象で、弟も別段気にした風でもなく残りの蕎麦をすすっている。既に自分とほぼ変わらない体格に育った弟の食欲は旺盛で、全部食べられなきゃいいけどなと内心思いながら揺れる車内を歩く。ローカル線特有のデッキにある車内トイレで用を足したアキコが扉を開けると、目の前が背の高い胸板で塞がれているのに気がついた。待っていたのかとその横をすり抜けようとするが、その相手はわざとその進行方向を遮る。
意味がわからず思わず伏せていた視線をあげると、そこには見慣れた顔があった。冬場には自転車通学はしていないから出会うことはかなり減っていたが、見慣れた同級生の兄がそこには立っている。走り続けている電車のトイレの入り口で自分の前に立ちふさがるような理由が、アキコには思い浮かばすポカンとその人を見上げた。
無表情……
感情のないの表情は自転車に乗りながら他愛のない話をする気さくな近所のお兄ちゃんの顔ではなかった。仲良くしていると思い込んでいたのは実は自分だけだったと理解した瞬間、一気にその視線に背筋が凍るのを感じる。その視線にアキコの肌が確かに覚えがあったのだ。
夕闇の中でまとわりつき一人でいる不安を感じさせた気配。
砂利を踏む音の先に背後からまとわりつく視線。
片眼しか見えなかったが底冷えのするような眼。
雨戸の隙間から息を殺して私を怯えさせた気配。
ありとあらゆる悪意をもった蛇のような熱のない視線と気配が、目の前の仲良くしていたはずの青年の体から放たれていた。
咄嗟にその体の横をすり抜けようと動く。しかし漫画や物語のようにはいかず、容赦ない力で二の腕が捕まれトイレの中に押し戻されてしまう。物語みたいに助けてとも言えない。恐怖感が強すぎて悲鳴をあげることも出来ずに、その腕から逃れようと無言のままもがくがグイグイとトイレの中に向かって押し込まれていく、その自分の状況にアキコは心底震え上がった。
何が起きようとしているのかわからない。
このまま押し込まれたら何が起こる?
目の前の蛇のような視線が、自分の顔なんか一つも視ていないのは分かっている。無表情のまま舐めるように体を見ている悪意の塊が、自分を密室に押し込んだらきっと黒い影なんかよりも恐ろしい経験が待っている。
凄まじい恐怖感に襲われていた。
あの時にはまだなかった性への知識が、このままでは逃げられないと警鐘をならしている。押し込めようと無言で肩や胸を押してくる手に必死で抵抗し、暴れる自分の右手がトイレの中の洗面台に触れた。ボタン式で当たった洗面台から水が流れ出したのを咄嗟に相手の視界に浴びせかける。予期せぬモノに怯んで数歩後退した体を全力で押し退けると、走行中でバランスの悪い古めかしいボックス席の並ぶ在来線の通路を全力で駆け抜けていた。
「ねぇちゃん?」
蒼白になった姉の姿に弟が不安気に見つめているのは分かっていたが答えることも出来ないし、トイレからあの男が今にも追いかけてくるのではないかと気が気ではなかった。何しろあの男は直ぐ傍に住んでいて、きっと自分の生活のパターンも知っているし、アキコの部屋が何処かも知り尽くしている。
電車から降りても弟の手を硬く繋ぎホームの階段をかけ上がると、改札を駆け抜けるようにして駅舎を抜ける。普段のアキコなら弟にあわせて階段を登りユッタリと一緒に歩く筈だったが、血相を変えたままの姉の行動に弟は慌てて着いていく。そして、迎えに出ていた車に飛び乗った途端、アキコは安堵したのか声をあげて泣き出した。父も弟も驚いたようにその姿を眼を丸くして見つめる。しかし泣きじゃくりながら事の顛末を話したアキコに、父は無言のまま車を走らせていた。
その日の夕方、両親は近隣の同級生の家に二人で出掛けていった。確認しなくてもわかる事ではあるが、ここ数ヵ月の風呂場の覗きも、アキコの部屋の雨戸を開けて覗いていたのも同級生の兄の仕業だった。次もしこんなことをやったら警察につき出すと話をつけようとした叱責に、相手はこう言ったという。
「あいつが悪いんだ、あいつが誘ったから。あいつが俺に気があるような素振りをするから、だからやってやったんだ。」
何のことを言われたのか、その話を後から聞いた時アキコは呆然とした。夜道で感じたあの不快な不安を感じさせた気配は、アキコのせいだという。それまでは殆ど話したこともなかったし、話しかけた記憶もない。夜道を歩いていた時だって一緒に歩いた訳でもない。
こんばんは
そう言っただけ。それがさそったということなんだろうかとアキコは呆然と考える。背後から自転車で追い越されて話しかけられたから答えだけだ。それとも風呂場を覗かれているのに気がついて、窓を開けてしまったのが誘ったことになるのだろうか。でも先に覗いていたのは向こうな筈だ。やってやったと言うのは、アキコがそうして欲しいと願ったからということなのだろうか。
「気にしなくていい。」
そう父は言うけれど真実はなんなのだろう。悪意は知らない間に生まれていると思っていたが、自分がそう仕向けていると言われたのだ。もしかしてあの黒い影もアキコ自身が望んだから、あんなことをしたというのだとしたら。
蛇のような……
悪意の塊の蛇のような視線が頭を過ると、伯母の口にした呪いという言葉が甦る。もしかして呪いのせいで自分が知らぬ間に、自分自身でそうするように仕向けているのだとしたら。そう考えた瞬間、何故か耳元であのヒョウという奇妙な声が響いた気がした。
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