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第二章 二品目 リンゴの”くるくる”

12 言いにくかったこと

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 おやつの時間は盛況に終わった。次にあるのは、お片付け。
 天が野保とテレビを見ながらご機嫌に過ごしている様子を見て、奈々は竹志について台所に来た。
「お皿、洗います」
「え、いいよ」
「いいんです。どうせ今は勉強とかできへんし」
 リビングからは天の元気な声が響いてくる。なるほど、確かに集中しづらいだろう。
 竹志は小さく頷いて、洗った皿を拭いてくれるよう頼むのだった。
 水切りカゴにはいつもの倍以上の数の皿が並んでいる。それらを一枚一枚、奈々が丁寧に拭いていく。いつもなら竹志が一人でしている作業も、今日はとても捗った気がした。
「ありがとうね」
「こちらこそ、です。リンゴ、高かったでしょ?」
「まだ言ってる。別に高級ステーキ肉を買ったとかじゃないんだから、気にしないで。それより、感想聞いていいかな?」
「感想、ですか」
 奈々は何やら言い淀んでいる。美味しいというのが恥ずかしいのか、それとも何か思うところがあるのか。気になって仕方がない竹志は思わず奈々の顔を覗き込んだ。
 竹志の顔がどんどん近づいていると気付いた奈々が、一歩遠ざかって、きゅっと眉根を寄せて、呟いた。
「……んです」
「え、なに?」
 奈々の顔に竹志が耳を寄せる。奈々は悲鳴に近い声を上げつつ、何とか、ぽつりともう一度言った。
「あのパイ、私やなくて、天ちゃんの好物なんです」
「…………え?」
 竹志が思わず聞き返すと、奈々は申し訳なさそうに俯いてしまった。穴があったら入りたいという顔をしていた。
「私が好きなものって聞いて作ってくれはったんですよね? ホンマに、ごめんなさい……!」
 がばっと頭を下げる奈々に、竹志はかえって何と言っていいか分からなかった。
「いや、そんな謝ってもらうようなことじゃ……でも、なんで? 俺、奈々ちゃんの好きなものって聞いたんだけどなぁ」
「さぁそれは……自由過ぎるからかなと。話してるうちにあれが食べたいって思って、思わず口走っちゃったのかも……ともかく、天ちゃんによくあることなんです」
「あぁ、よくあることなんだ……そっか」
 奈々の様子を見るに、どうも一回や二回じゃなさそうだ。謝る謝らないよりも、その苦労の方が忍ばれた。
「うーん……奈々ちゃんは、どう思った? あのパイ、美味しくなかった?」
「え、そんなことないです。すごく美味しかったです」
「そうか……ならいいや。良かった」
 今日のおやつの目的は、奈々に喜んでもらうことだった。天の好物ではあったが、奈々がこうして美味しいと思ったのなら上々だ。 
 竹志は思わずにやけながら、皿洗いに戻った。水切りカゴにある皿を手に取り、適度に水を切ると、奈々はまた無言のまま皿を拭き始めた。カチャカチャと皿がふれあう音だけが響き、その間、二人の声は聞こえなかった。
 そう思われたが、再び奈々の声が、ぽつりと響いた。
「あの……」
「うん?」
 振り返ると、奈々は布巾を手にしたまま、なんだかもじもじしている。先ほどまでとは違う様子に、竹志は戸惑い、奈々の言葉を待った。
「あの……天ちゃんのこととか、ご飯とか、本当にお任せしてていいんですか?」
「え、うん。だってそれが俺の仕事なんだから」
「……ありがとうございます。じゃあ、お任せします。けど、その……」
「うん?」
「あの……洗濯だけは、私がやってもいいですか?」
「え、なんで? それも俺の仕事だよ?」
「そうなんですけど……その……」
 奈々は、どうしてもそれ以上を口にしようとしなかった。いや、もじもじして言えないという様子だ。首を傾げていると、竹志の目にふと中庭の様子が目に入った。そこに干してある洗濯物が。
「……あぁっ! そうか……!」
 奈々の言わんとすることが、ようやく理解できた。うまく隠してあるが、時折見え隠れするものについて、奈々は自分で洗濯したいと言っていたのだと。すなわち、下着類を。
「ごめん……そうだよね。嫌だよね、俺に洗濯されたら……」
「い、嫌っていうか、気になるっていうか……すみません、せっかく言ってくれてるのに」
「いいよいいよ。気にしないで、どんどん言って。俺ってば、何にも学習してないなぁ……」
「学習?」
 恥ずかしそうにしていた奈々が、急にきょとんとした。そして今度は、竹志の方が恥ずかしそうに俯きながら、ぽつりと呟いた。
「えーと……高校生の頃にね、俺、近所のお家で家事お手伝いのバイトしてたんだ。おばさんたちから助かるって言ってもらって、お金も貰えてラッキーって思ってたんだけど……」
 きょとんと純真そうな奈々の瞳が竹志を覗き込む。なんだか余計に、この先を言いづらくなってしまうのだった。
「え、えーとね……まぁそのお家の娘さんて、俺と同級生で、お手伝いにいくうちにちょっと仲良くなって、良い感じだと思ってたんだ。だけどね……まぁ嫌われちゃって……」
「……もしかして、洗濯もの?」
 竹志は、観念したように頷いた。
「俺は母さんの洗濯ものとか毎日見てたから、全然気にしてなくて、それで普通に干そうとしてたんだけど……その子がそれを嫌がってね……バイトもなしになってさ」
「その良い感じだったのは?」
「もちろん、そんな雰囲気じゃなくなったよ。幸い、クラスで悪い噂立てられるとか、そういうことはなかったんだけど。でも俺もその後、友達に怒られた。無神経すぎるって……だから、ほんとにごめんね」
 神妙に頭を下げる竹志に、奈々はふるふる首を横に振った。
「そ、そんな……無神経とか思いません! お仕事をちゃんとしようとしてくれはったんですよね。あ、でもその……」
 言い淀む奈々を見て、竹志はクスッと笑った。そうだ、今すべきは謝ることじゃないのだ。
「うん、わかった。じゃあ奈々ちゃんと天ちゃんの洗濯は、任せる。その他のことは俺のお仕事って事にしよう」
「はい」
 奈々はしっかりと頷いて、了承してくれた。と同時に、何故かいきなり噴き出した。
「え、なに?」
「ごめんなさい……でも、その……そんな失敗あるんやなぁって……」
「え、まぁ珍しいかな」
「普通聞かないですよ、そんなん……ちゃんとしてはるのに、それが仇になるって……!」
 そんなに面白い話だろうか、と竹志は戸惑った。笑われて嫌な気分ではないが、こんな風に笑って貰える話だとも思っていなかったのだ。
 だが、今はその話を思い出して良かったと思っている。
 あんなに堅苦しく、距離をとっていた奈々が、竹志の話で笑っているのだから。
(あの時の自分と、『リンゴのくるくる』に感謝だな)
 笑い声は、何かと聞きつけて野保と天が台所にやってくるまで、家の中に響き続けた。
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