となりの天狗様

真鳥カノ

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参章 飯綱山の狐使い

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 深夜の山南家は、静かだった。深夜なら当然だと思われるかもしれないが、昼間の喧噪と比べて信じられないほどに音が消えてしまうのだ。
 太郎と治朗がこの家に来てから、1ヶ月が経とうとしていた。毎日賑やかと言えば聞こえは良いが、藍にとっては急に日常が騒がしくなったとしか思えなかった。
 昼間は、客商売でおしゃべり好きな母と、あれこれ口うるさい天狗が二人、そんな彼らの声を習性で真似てしまう呼子、そして……ついどやしつけてしまう藍。四人と一匹の声が絶えず聞こえる。
 だがこの時間帯になると、母は仕事終わりで疲れ果てているし、治朗も呼子もさっさと寝てしまう。
 藍にとって、ようやく得られた静寂の時間帯だった。しかも現在、中間試験を目前に控えていた。高校に入って最初の試験だけに、ちょっと気合いが入っている。
 皆が寝静まった後でも、藍は自分の部屋で一人机に向かっていた。机の脇では、クッションを敷いた籠の中で、呼子が丸くなって寝息を立てている。それぐらいのBGMが藍には心地よかった。
 呼子の寝息とノートの上を走るシャープペンの音だけが響く中、ふいに藍が大きく伸びをした。ようやく、区切りのいいところまで解けた。
「ちょっと休憩」
 外の空気を吸おうと、藍はカーテンと窓を一気に開いた。
 真っ暗な空には、あまり星は見えなかった。藍たちの住むこの街は、大都会というほどでもないが、そこそこ人口が多く、発展もしている。大きな道路も何本か通じており、緑があるのも公園がほとんど。山のように、空気が澄んでいるような場所ではないのだ。
 月よりも星よりも、この夜の闇を照らしているのは人口の光だった。真夜中でも道ばたには街灯がついていて、歩くのに不自由はしない。藍の家の前を通る道にも、等間隔でぽつぽつと明かりが灯っている。
 そんな中に、少し離れた場所でぼんやりと明かりが見えた。街灯ではない。藍の家の敷地内だ。それが離れの部屋の明かりだと、すぐに気づいた。
 離れは昔、祖父が建てたものだった。当時大きな割烹を営んでいた祖父は、若手の育成にも熱心だった。若い料理人が集まりやすいようにと下宿を用意したのが始まりだ。祖父の引退により、その割烹を閉じてはや数年。作り主の祖父も亡くなり、下宿は無人の離れとして寂れかかっていた。
 離れには一階に二部屋、二階に四部屋ある。太郎が二階の奥の部屋を、治朗はその隣の部屋をそれぞれ使用している。
 今明かりがついているのは……二階奥の部屋。つまりは太郎の部屋だ。藍はいつもはこんな時間に外を見ることなどないので気づかなかった。
「こんな遅くまで何やってるんだろう……お仕事かな」
 太郎は今でもお山のお役目を果たしていると治朗が言っていた。この家の主夫業とお山の仕事、二足のわらじというわけだ。
「結界を張ってて大変だって言ってたのに」
 ぽつりと出た言葉は、深く考えて出たものではなかった。自然と思ったことが声に乗ったのだった。
 まるでその声に応えるかのように、風がふわりと流れて、藍の頬を撫ぜた。それと同時に、離れの明かりも消えた。ようやく眠るのだろうか。
「……私は、あともう一息かな」
 窓を閉めて、くるりときびすを返した、その時だった。目の前に、誰かが立っていたのが、見えた。
「……え、誰……?」
 体格を見るに、男性のようだった。ひょろりと背の高い、黒い服装。黒にところどころ茶が混ざった髪。顔は俯いていて見えない。
 おそらく、会ったことのない人だ。それが今、藍の部屋で、藍の目の前にいる。
 あまりに驚き過ぎて、藍は声が出せなかった。一歩後じさるということすら、竦んでできなかった。
(何この人……どうすれば……?)
 戸惑う藍に向けて、男は静かに手を伸ばした。何かを求めるように、手のひらを向けている。
「……セ」
「え?」
「ヨ……コ……セ……!」
 男は、”寄越せ”と言っている。
「寄越せって……何を?」
 男は、その問いには答えなかった。ただただ手を伸ばして、藍に言い募っている。
「ヨコセ……ヨコセ! デナイト……!」
 それだけ言われても、藍には何のことかわからなかった。一向に何もしない藍に、男はだんだん苛立ちを見せ始めた。だが、藍だって苛立っている。
「なんだか知らないけど、ヨコセだけ言われて、そう簡単に渡すわけないでしょうが!」
 男が伸ばした手を払いのけ、藍は男の襟首を掴んだ。そして、思い切り足を跳ね上げて……投げ飛ばしてしまった。
 大丈夫、と藍は自分に言い聞かせた。床にはカーペットを敷いてある。夜の間は、一階は無人。男は怪我はしないはずだし、誰にも迷惑はかけていないはずだ。
「……どこがだ」
 その声は、すぐ傍から聞こえた。
 見ると、先ほどの黒い男……ではなく、治朗が藍の眼前にいた。
「治朗くん、おはよう」
「……お早くない」
 先日以来、敬語はやめるよう言われたので呼び方も「治朗くん」と改めた治朗は、なんだかいやに機嫌が悪い。どうしてだろうかと、ややぼんやりする頭を巡らせた。
 不思議なことは他にもある。いつの間にか藍がカーペットに横倒しになっていて、治朗はそれを頭上から見下ろしていた。その顔は、初めて会った時のように、眉間に深いしわが刻まれている。
「あれ? 投げたのは私のはずなのに?」  
「ああ投げられた。起こしに来たら唐突に、な」
「起こしに……?」
 夜中に起こされる必要があるだろうか。それに先ほど投げ飛ばしたのは不法侵入の男であって、治朗ではないはずだ。
 寝転がったまま首をかしげる藍に、治朗は窓の外を指さした。いつの間にか、明るくなってカーテンから陽光が差し込んでいる。
 次いで、治朗は壁にかかっている問いを指さした。その時刻は、七時一五分。
「え!? 何で!?」
「知るか! さっさと着替えて降りてこい! あと、俺に一言ぐらい詫びろ!」
「も、申し訳ありませんでした!!」
 不法侵入者を投げ飛ばしたら、一瞬で夜が明けていた。それを不思議だと思う余裕もなく、藍は急いで洗面所に駆けだした。
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