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散ってしまえ夜桜よ

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「おぅ、雛菊。おめぇは、そんなに桜が嫌ぇか?」
「えっ? そんなことは、ありんせんよ」

 引き手茶屋を貸し切って行われた玉屋主催の夜桜見物。二階の障子を全て開け放った大座敷からは、提灯の灯に照らされた桜が闇夜に咲き乱れ、圧巻の情景が広がっている。
 もちろん、夜桜見物の酒宴に大金をばら撒いたのは越後屋の若旦那、宗介だ。宴席の上座に陣取り、今夜は馴染みの花魁、雛菊を隣に侍らせ杓をさせ、旦那衆と芸妓が見せる遊びを高見の見物と決め込み楽しそうだ。しかし、油断ならないのが宗介という男だった。

 銀次と別れた後、夜桜見物の花魁道中までの間どう過ごしたかさえ覚えていない。銀次の想い人が誰かなんて関係ない。ただ、彼にとって雛菊は妹以外の何者でもなく、好いた相手には成り得ないという絶望感が心を苛み、茫然自失のまま時間だけが過ぎていった。
 宗介に弱味を握られたくないという想いだけで、桜舞い散る夜道を練り歩いた。もちろん引き手茶屋へと入り宴席へとついてからも、普段通りに振る舞っている。一緒に呼ばれた妹花魁でさえ、雛菊の振る舞いに疑問を抱いたりしなかった。
 それなのに、なぜ宗介が気づくのか。

 雛菊は内心の焦りを悟らせまいと、ことさらゆっくりと話す。

「主さん、嫌でありんすわ。あちき、なんや失敗したでありんすか?」
「いんや、見事な花魁道中だったさ。明日の瓦版は雛菊花魁の話題で持ちきりだろうな」
「それは、ようござりんした」
「――ただな、なんでおめぇは、桜を一向にみない? いんや、違うな。桜を見るのを避けている。なんでだ?」
「……そんなこと、ありんせんよ」
「じゃあ、見てみろや」

 宗介がそう言った時、一瞬強い風が吹きつけ宴席へと桜の花びらが舞い散る。そして、ヒラヒラと宙を舞った花弁が一枚、盃へと落ちた。

「おめぇ、泣きそうな顔してんの気づいてねぇのか」

 宗介の言葉に思わず俯けば桜の花びらが浮く酒に眉根を寄せ口をつむぐ女が写っていた。

「雛菊……、一緒に来い」
「えっ……」

 宗介に手を握られ強く引き寄せられる。

「皆、すまねぇ。ちょっと、出てくらぁ」
「えっ、ちょっと、お待ちなんし!」

 雛菊の身体へと回された腕がヒョイっと雛菊を抱き寄せ立ち上がらせる。思いもよらない行動へと出た宗介に泡食っている間に、雛菊は吉原大門から外へと連れ出されていた。



 どこの世に、吉原に囚われた遊女をひょいっと大門外へ連れ出せる男がいるのか。

 雛菊は、今夜起こった前代未聞の出来事を反芻し頭を抱えていた。宗介という男はどこまでも型破りな男だ。本来であれば遊女を吉原の外に連れ出すには様々な手続きと数ヶ月前からの根回しが必要になる。思い立ったら吉日とばかりに連れ出せるものではないのだ。しかも、今雛菊が乗っているのは隅田川を流れる屋形船の中。己の置かれている状況が飲み込めず、雛菊は呆然と畳の上へと座るしかなかった。

「おい、なに呆けてんだ」

 雛菊の隣に陣取り手酌で酒を飲み始めた宗介が悪戯そうな笑みを雛菊へと向ける。

「主さん……、なんてことを……」
「はぁ、別に大したことねぇだろ」
「そう言ったって、ここは吉原の外でありんす」
「まぁ、そうだな。隅田の川の上だ。なんだおめぇ、俺と逃げたと思われんのが怖ぇのか?」

 くくく、と可笑しそうに笑う宗介の飄々とした態度に雛菊の頭に血がのぼる。

「そうは、言ってんせん!!」

 宗介が遣り手婆に大金を握らせているところを見た時点で、玉屋の誰も雛菊が逃げたと思わないことくらいわかっている。雛菊が驚いているのは、大門の人の出入りを見張る番人をすでに買収していた事実だ。遊女の逃亡を見張る番人は、ことさら女の出入りには厳しい。ちょっとやそっとの金で……、いいや金子を積まれようが、買収出来る相手ではないのだ。それをいとも簡単に宗介という男はやってのけた。

(なんてお人なの……)

 宗介という男の吉原遊廓における影響力は雛菊が想像する以上に大きいのかもしれない。吉原一の遊び人は、ただの遊び人ではない。そんな予感が雛菊の背をふるわす。

「まぁ、そんな事はどうでもいい。なぁ雛菊、これでおめぇの嫌ぇな桜は見えなくなった。ほらっ……、笑ってくれねぇか?」
「あっ……」

 スッと伸びてきた無骨な手に顎をつかまれ、指先で唇をなぞられる。その仕草があまりに優しくて雛菊はそっと宗介から視線をそらす。

「よ、よしてくんなんし」
「笑ってくれ、雛菊。おめぇが辛そうな顔すると俺も辛ぇんだ。 ……なぁ、何があった?」

 宗介の問いに雛菊の脳裏に銀次の顔が浮かぶ。

(銀さん……、あちきが春を捨てていたら、一人の女としてみてくれんしたか?)

 切なそうに歪められた宗介の顔が、恋しい人の顔と重なる。

(銀さん……、春を捨てたら、今みたいな顔してあちきをみてくれんすか?)

「主さん……、あちきを抱いておくんなんし」

 雛菊は自らの意思で宗介の口に口を寄せ、吸った。
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