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馴染みの盃

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「はは、ははは……」

 身体にかかっていた重みが消えると同時に響いた笑い声に、雛菊は目を開ける。上体を起こし、笑い声の主の方へと視線を移せば、宗介が顔を隠し、肩をふるわせ笑っている。今の状況を飲み込めない雛菊は、笑い続ける宗介を茫然と眺めることしか出来ない。

(なにがおこいんした?)
 
 今わかるのは、どうやら操は守られたと言うことだけだ。しかし、危機が去ったわけではない。すぐさま、反撃の策を考え始めた雛菊に、宗介が予想外の言葉を落とす。

「あぁ、お前は、昔と変わんねぇんだな。気がつぇ女。あの頃より、いい女になったな、雛菊」

 あの頃? 主さんは、何を言ってやす?

 まるで、昔から雛菊を知っていたかのような口ぶりに、胸がざわつく。

 自分の命を救ってくれたあの人と、目の前の男が同一人物であるはずがない。だって、宗介の掌には傷跡がない。簪で刺した古傷がないのだから。

 それに、命を救ってくれたのは『あの人』だ。目の前の男ではない。

 それなのに、心がざわつくのはなぜだろう。その理由がわからず、不安感だけが増していく。

「今夜は、なんていい夜なんだ。あぁ、たまんねぇなぁ」

 そう言って笑う宗介の無邪気さに心臓が大きく跳ね、胸がキュッと痛み出す。

「雛菊、おめぇの度胸に免じて、もう何もしねぇよ」

 ははは、と声をあげ笑いながら、こちらへと視線をよこす宗介の様子に、雛菊の鼓動は、ますます速くなる。

(あちき……、どうしちまったのさ)

 バクバクと疾走していく鼓動を誤魔化すように上半身を起こした雛菊は襦袢の衿をかき合わせ俯く。畳の目をジッと見つめ、どうにか心を落ち着かせようと必死になる雛菊の肩にバサっと打ち掛けが落ちてきた。

「えっ……」
「約束は守る。もう、何もしねぇから酌だけしてくれや」

 元居た座布団へと胡座をかき座った宗介が袂から煙管を出し火をつける。吸い口をくわえ、ゆっくりと煙管をくゆらせる姿から雛菊は目が離せなかった。

「……おいっ、どうしたよ。惚けた顔して、さっきまでの威勢はどうした」

 煙管からたちのぼる煙の向こう、意地悪な笑みを浮かべ流し目を寄こす男の言葉に雛菊はやっと我にかえった。

「だ、誰があんさんなんかに!?」

 雛菊は畳の上へと散らばっている帯と小袖を引っ掴むと、サッと立ち上がり躊躇うことなく男の前で着直す。着付師のようにはいかないが、長襦袢一枚という心許ない姿でいるよりはマシだ。

 手早く身支度を整える雛菊の後ろ姿を宗介がジッと見つめている。切れ長の目が切なげに細められていたことを雛菊は知らない。そして、彼の心の内も。

「雛菊や……、そうむくれんな」
「怒ってやせん」
「なら、こっちこい」

 トントンと隣の座布団を叩いて催促されてしまえば、このまま意地を張るのも出来なくなる。

(なんや、あちきが駄々をこねる童みたいやないの)

 急に恥ずかしくなった雛菊は憮然とした面持ちのまま言われた通り宗介の隣りに座ると姿勢を正しそっぽをむく。そんな雛菊の態度にも宗介は何も言わず、手酌で酒を飲み出した。

 徳利をお膳へと戻すカタッという音が静かな部屋に響き消え、わずかに開いた障子窓から時折り吹き込む風が、雛菊の乱れた髪を揺らす。心地よい沈黙が走り続ける心臓をなだめてくれた。

 雛菊はゆっくりと視線を動かし、さかずきに口をつけ、くいっと酒を飲み干す宗介をみやる。視線に気づいた宗介が空の盃を差し出しても雛菊はもう意地をはらなかった。
 徳利を手に持ち差し出された盃に酒を注ぐ。朱色の盃に注がれた酒が行燈の灯に照らされユラユラと揺れる。その幻想的なゆらめきに雛菊の身体もフワフワとゆらめく。

(あちき……、どうしちまったのさ)

 一口も酒を口にしていないのに酔ってしまったかのように頭が回らない。注がれた酒を宗介がいっきに飲み干す様を、ただただ見つめることしか出来ない雛菊の手に空の盃が手渡され、徳利が奪われる。

「おめぇも、飲むだろう?」
「……あい」

 雛菊は、その盃の意味することを理解していなかった。いいや、宗介の色香に当てられ理解できなくなっていたのだ。
 朱色の盃になみなみと注がれた酒が行燈の灯に照らされユラユラとゆれる。ゆっくりと唇を盃の縁へとつけ酒を飲み干した時、宗介の発した言葉に雛菊は空になった盃を落とした。

「雛菊……、やっとおめぇを手に入れた」
「えっ……」
「これで、俺は『馴染み』ってわけだ」

 行燈に照らされた宗介の顔が悪戯そうに歪む。ニッと笑んだ宗介の口元をぼんやりと見ていた雛菊が、畳へと転がった盃へと視線を落とした時、やっと彼女は宗介の言葉の意味を理解した。
 三三九度――、遊女と客が同じ盃で酒を交わす行為は擬似結婚を意味する。本来であれば、二度目の宴席『裏』で交わされる三三九度を二人きりの宴席で仕掛けてくるとは想像だにしていなかった。いいや、『裏』を飛ばして、『馴染み』になろうとするような型破りな客に、吉原の常識は通用しない。宗介の色香に当てられ、油断した雛菊の落ち度だ。

「卑怯でありんす!! こんな騙すように盃を渡すなんて! 帰りんす!!」

 まだ、間に合う。ここにいるのは宗介だけ。
 馴染みの盃を交わしたことが露見しなければ、言い逃れはできる。

 雛菊は状況を打破するため、怒りも顕に立ち上がる。しかし、そんな雛菊の焦りを読んでいたのか宗介が追い討ちをかけた。

「はは、遊女と客の駆け引きは、廓遊びの醍醐味だろ。己の落ち度を客になすりつけ逃げようなんざ、雛菊花魁は虚勢だけの腰抜けだったってわけか」
「――っな!? 帰りんせん!!」

 売り言葉に買い言葉。宗介の馬鹿にしたような物言いに神経を逆撫でされた雛菊は、腰をドカっと座布団へ下ろし、『ふんっ』とそっぽを向く。宗介相手だと、子供じみた態度しか取れぬ自分自身にも腹が立ち、雛菊の目にうっすら涙が浮かんだ。

(こんな男のために泣いてやるもんか!)

『遊女の涙は金子の涙。無礼な男のためにびた一文、金子の涙は流さない』と弱気になる心を叱咤し、溢れそうになる涙をこらえ雛菊は隣で悠々と酒を飲み続ける宗介を睨みつけた。そして、身体ごと宗介の方へと顔を向けた雛菊は、背を正し深々と頭を下げた。

「主さん、申し訳ありんせん。あちきが卑怯でありんした」
「くくく、なんだおめぇも非を認めるんか。なら、今日から俺はおめぇの『馴染み』って認めんだな」
「えぇえぇ、認めますとも。今日から主さんは雛菊花魁の『馴染み』でありんす」
「そうかい、そうかい」
「ただし――、馴染みを床に入れるかは花魁次第。そこんとこ、忘れねぇでおくんなんし」

 スッと立ち上がった雛菊の目に唖然とこちらを見つめる宗介の間抜け面が映る。その面を見下ろし溜飲を下げた雛菊は着物の裾を翻し、退席するために歩き出した。しかし、数歩も歩かぬうちに強い力で肩を引き寄せられた雛菊は、宗介に後ろから歯がいじめにされ身動きが取れなくなる。

「主さん、離しなんし!?」
「いいや、放さねぇ。雛菊、このまま聞けや」

 宗介の怒気を孕んだ声に、雛菊の喉がヒュっと鳴る。力の差は歴然。抵抗したところで、男が本気になれば逃げられるはずもない。突如襲ってきた恐怖から雛菊の歯がガタガタと鳴り出す。

「約束は守る。襲ったりはしねぇから……、話を聞いてくれ」
「こんな状態で、話なんて聞けんせん」
「あぁ、わかった。逃げないと約束すんなら、放す」

 さっきまで放っていた怒気を収め、耳元で響く弱々しい声に雛菊の心が揺れる。その追いすがるような声に心が囚われて離れない。

「わかりんした。逃げんせんから……、離しなんし」

 抱かれた身体が、ぎゅっと強く抱きしめられ離れていく。離れていく温もりにわずかな寂しさを感じ、落ちた手を握られ感じた温もりに心がキュッとなる。己の心情の変化に雛菊の頭はついていけない。
 何がなんだかわからぬまま、宗介に手を引かれ元居た座布団へと座った雛菊の隣へと、宗介もまた胡座をかく。

「なぁ、雛菊……、俺と契約を交わさねぇか?」
「――――、はっ? 契約でありんすか?」

 予想だにしない言葉に思わず宗介の顔をふり仰いだ雛菊は、彼の顔に浮かぶ無邪気な笑みに心がどうしようもなく囚われていくのを認めるしかなかった。
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