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第2章 地球活動編
第92話 悪魔の晩餐
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壁や天井、床に敷かれている絨毯、机にテーブルクロス、全て血のような赤一色に染め上げられた部屋。それがこの所長室だった。
そのテーブルの席の一つで紳士服を着た一人の恰幅のよい男がカチャカチャとフォークとナイフを忙しなく動かしている。
「おやおや、こんな場所まで客人とは珍しい」
皿の上の肉汁たっぷりのステーキを切るナイフを止めてマティアの顔を凝視すると、ナプキンで口元を拭くと立ち上がり軽く一礼をする。
「私はポイマン。アルコーン様にお仕えする公爵位を持つ貴族でございます」
「アルコーン? 皇帝ヒーム・ヴァンピールの配下じゃねぇのか?」
「この私があの愚帝の配下? ご冗談を」
マティアの当然の疑問に馬鹿にしたように答え、椅子に座り直すポエマン。
「…………」
(資料では皇帝の子供はジャジャ・ヴァンピールとルイズ・ヴァンピールの二柱だけのはず。
すると、アルコーンとは皇帝の隠し子か? それとも皇帝の親族のだれか――)
「まあ、まあ、疑問もありましょうが、客人をもてなすのは貴族の嗜み。
どうです。私は今、少々遅い夕食をとっている所です。貴公もいかがかな?」
ポイマンのお抱えの執事服を着た屈強な男が対面の椅子を進めてきた。
「必要ない」
(マティア、気をつけよ。こやつ悪魔じゃ!)
ライラのたっぷり警戒が含まれている声が頭の中で反響する。
悪魔ね……その独特の雰囲気から何となくその可能性についても予想はしていた。だから別にそこまで意外性はない。
《教会》での祓魔師での経験から悪魔の愚劣さは心底骨身にしみている。この世界に存在していても害悪にしかならない。見たところステータスはマティアよりも低い。とっと滅ぼすことにしよう。
マティアが聖槍を握る右手に魔力を籠めようとするのとポイマンの眼球が赤く煌めき濁流のような魔力が溢れ出すのはほぼ同時だった。
ポイマンの紫色の毒々しい魔力により周囲がチリチリと火花を散らし、皿やグラスにピシリと亀裂が走り、破裂する。皿から料理が飛び散り、グラスは砕け散り中の赤ワインが夕立のようにマティア達の頭上に落下する。
(ほ、本性、現しやがった!)
(此奴の魔力、大戦の魔神軍の将校クラスはあるぞ。傍にいる奴らもこの国の吸血種達とは格が違う)
ライラのいう大戦の魔神軍の将校とやらの強さなど、大戦の経験がないマティアには想像すらつかない。
しかし、この大気を軋ませるほど魔力を出せるのは《妖精の森》でも限られている。
マスターと思金神の旦那、刈谷のおっさん、スリーに本気を出したオベイロンくらいか。
兎も角、スキル強度の点を鑑みても今のマティアには少々分が悪い。気は乗らないが、今はこの場所からの離脱を最優先に考えるべきだ。外にはスリーとオベイロンがいるわけだし。
まずは隙を伺うべきだ。ウルは今マティアがおかれている切迫した状態の可能性を認識している。今に応援が駆けつけて来る。少なくともやたら心配性のステラの嬢ちゃんならそう指示するはずだ。
「いけない、いけない、料理が台無しだ。私としたことが」
ポイマンがパンパンと手を叩くと執事服の男達が粉々になったグラスや皿の片づけを始める。さらには赤ワインにより水浸しとなった床の絨毯まで取り換え始めた。
それから執事達は気味が悪いほど徹底的に部屋の掃除をし、テーブルに再度真っ赤に染まったテーブルクロスを掛ける。ポイマンはその様子に満足そうに何度も頷く。
「さて料理を再開しましょう」
「客人もどうぞお座りを」
今は変に逆らわない方が良い。椅子に手をかけ腰を下ろす。
ポイマンは満足そうに何度か頷くと再度掌を数回叩く。すると、調理室らしき奥の部屋からコック姿の男が両手に二つの皿を持ってきた。
コックはポイマンとマティアの前に皿をそっと置く。
「さあどうぞ。召し上がれ」
「…………」
中々手を付けようとしないマティアを見るポイマンの二つの眼球が再度血の色に染まる。この溢れんばかりの殺意。断れば問答無用で殺されるだろう。マティアもこんなところで死ぬつもりなど毛頭ない。まだ兄弟姉妹に誓ったあの約束は微塵も成し遂げられてはいないのだから。
(喰うしかねぇか……)
異常に過保護なマスターのおかげでマティア達メンバーには例外なく最大強度の精神汚染防御系スキルと状態異常無効化系スキルも常備されており、この料理に例え何が含まれていてもマティアには効果などあるまい。
フォークを持ち乱暴に肉を突き立てる。理由は簡単。気に入らないからだ。
ポイマンはピクッと一瞬眉を動かすがふくよかな顔一杯に満面の笑みを浮かべる。
「食べないのですか? 冷めてしまいますよ」
食べても問題ないし、今は食べる事で時間を稼ぐことが最良の選択。そのはずだ。そのはずなのに、マティアのフォークは口元で止まっていた。別にポイマンに何かされたわけではあるまい。ただマティアの何かがこれを口に入れてはいけない。そう全力で叫んでいたのだ。
「俺は洒落た料理は口に合わねぇんだ。なんせ生まれが悪ぃからよぉ」
「そのようですねぇ~では飲み物でもお持ちいたしましょう」
ポイマンがパンパンと手を叩くと、ウエイターがマティアの前に真っ赤な液体の入ったグラスを置く。
赤ワインか何かだろうか。一応、ポイマンは顔に笑みを形作ってはいるが、目はまるで笑ってはいない。引き延ばすのもこれが限界だろう。
震える手でグラスを取り、赤ワインを口に含む。
口内に広がるワイン特有の渋み。何の変哲もない赤ワインだ。肉体や精神に変調をきたしている様子もない。敵に勧められた料理だったから若干、警戒し過ぎていたか……。
ポイマンもマティアが赤ワインを喉に通したことで満足したのか再び、カチャ、カチャとフォークとナイフを動かし始める。
皿に盛られた料理を粗方食べ終わると、ポイマンはパンパンと手を叩く。
厨房からコック姿の男が姿を現す。
「料理長、本日のメインディッシュを持ってきなさい」
「かしこまりました」
コック姿の男は一礼すると厨房へ消えていきその数分後、黄金の蓋にすっぽりと覆い隠された大きな皿を右手に持ち、ポイマンの前に静かに置く。
「テート・ド・バンビーニユマンでございます」
「バンビーニユマン……?」
頭が真っ白になり、コックの言葉が理解できず口から呟きが漏れる。
幼少期からフランスで暮らしていたのだ。本来その言葉の意味することは理解できてしかるべきだ。
そう。このときのマティアは信じたくなかったのだ。それを認めてしまったら、マティアはマティアでいられない。そう思ったから。
しかし悪夢の晩餐の幕は既に開けてしまっていた。
「これは失礼。料理長。客人の前です。詳しく説明なさい」
料理長はポイマンに一礼すると説明を始める。
「人間の子供の頭を塩、胡椒、酢を加え、数時間煮たものに特製のソースをつけました――」
料理長の言葉の意味が全く頭に入って来ない。ただ己の身体が小刻みに震え出すのがマティアにはわかった。
……時間はさほど経過してはいまい。ただマティアにとってそれは無限にも等しい時間だった。そしてようやく料理長の言葉の意味を脳が理解してくる。
(此奴らなぜそんな出鱈目言ってイル?)
そうだ。そんなのは悪い冗談だ。あんな愛らしい奴らにそんな恐ろしい事できるはずがないから。マティアは必死で否定の理論を構築しようとする。
思金神の旦那のあの不可解な表情が頭に浮かぶ。
この地下三階のやけに厳重な扉と働く職員が皆無に等しいことが頭に浮かぶ。
この闇帝国首都への強襲がマスター抜きで為さなければならなかったことの疑問の解が頭に浮かんでしまう。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。考えては駄目だ。
しかし、それが真実ならばすべてのピースがぴったりとはまってしまう
(うあ……)
マティアの視界が歪んでいく。
マティアの現実が歪んでいく。
「ほう。それは美味そうだ。やはり同じ子供でも人間の子供は最高の食材――」
悪魔がタクトを振り、悪夢と絶望の行進曲の演奏は開始される。
(ああ……ああ……)
ゾワリとマティアの心の奥底から得体のしれない塊が這い上がって来る。
それは今までマティアの中でひっそりと眠っていたもの。
それは決して開けてはいけないパンドラの箱。
(お、落ち着くんじゃ、マティア!)
ライラの悲鳴染みた制止の声がやけに遠くに感じる。
(あああぁぁぁ……)
マティアから這い出した赤と黒の塊はマティアという人物をゆっくりと変質させていく。
――肉体は細胞レベルで異なるものへと置き換わる!!
――神聖なる魔力は赤黒色の凶悪な魔力へと変貌をきたす!!
――精神は最後に残された理性と共にとびっきりの悪意という名の闇に塗り替えられる。
――右手の透き通るような美しい聖槍が徐々に赤黒色に染まって行く。そう。まるで今のマティアの心を体現するかのように。
「では料理長、蓋を開けなさい」
ポイマンはそんなマティアの変化を楽しむかのように料理長に命じる。
料理長は蓋に手をかけ、持ち上げる。
その光景を視界にいれたとき――マティアはマティアではなくなった。
◆
◆
◆
「やはり同族でありましたか。まあ、混じり物でもあるようですが」
「…………」
人間? 同族? どうでもいい。今のマティアにとって自身の存在など心底どうでもいい。
ただ――。
(…………)
同化とは精神と肉体の一定限度での共有を意味する。だから同化者たるライラの今抱いている感情を明確にマティアは把握できた。
ライラに今ある想いは慈愛と悲壮、そして無限に近い井戸へ落ちるような激しい恐れ。そしてその感情の対象は全て同化者たるマティアに向けられていた。
(飽きた。此奴の糞ったれな顔も見飽きた。滅ぼすとしよう。その前に――)
「思った通りです。それほどの力。その常軌を逸した悪性。混じり物とは言え、同族でもある。我が至高の主――アルコーン様の配下へと参列する資格がある。さあ我らと――」
マティアは槍に黒赤色の稲妻を纏わせ一閃する。
子供の亡骸を乗せたテーブルは聖槍により瞬時に炎滅する。
――赤色のテーブルも。
――真っ赤なテーブルクロスも。
――皿に盛られた子供も。
全て一種にして蒸発する。
「少し教育が必要なようですなぁ」
料理を燃やされたポイマンは額に太いみみずばれのような青筋を張らせつつも、パチンと指を鳴らす。
それを契機に傍で恭しく控えていた数柱の執事が戦闘態勢に入る。
一柱が大剣を上段に構える。
一柱が巨大な星球の柄頭をブンブンと振り回す。
一柱が大きなロングボウに矢を番える。
一柱が超越魔術の演唱を開始する。
「愚か者が……」
マティアは右手に握る見る影もなくなった聖槍に指令を送る。
「獣たちよ」
聖槍から放出された赤黒色のオーラは触手のように蠢いて、次々に幾多もの獣の形を作り上げる。
――巨大な狼に。
――巨大な蟹に。
――巨大な虎に。
――巨大な獅子に。
――巨大な蜘蛛に。
――巨大な鮫に。
これはかつて敵として戦ったブラドがマティアに放ったものだが、強度もその超常性も別次元の存在だ。
何故この能力を今のマティアが使えるのかは不明だ。だが、今ならこの能力をブラド以上に扱える。そう本能で理解している。
「喰らい尽くせ」
マティアの命に狂乱乱舞するかのように獣達は殺到する。
巨大な狼は大剣を構える執事の首筋に巨大で鋭い牙を突き立てる。
巨大な蟹はその大きな二つのハサミで巨大な星球の柄頭をブンブンと振り回す執事を両断する。
巨大な虎はロングボウに矢を番える執事をその鋭い爪で八つ裂きにする。
巨大な獅子は魔術の演唱をしている執事をその頭から骨ごとかみ砕く。
獣達は執事たちにピクリとの反応も許さず、その柔らかな肉体に鋭い牙を突き立て、引きちぎり、溶解し、粉砕する。
グシャ、バリッ、ボリッ、ゴシャッ、ムシャッ、グシュッ。
瞬時に血液一つの残さず獣たちの身体の腹の中に納まってしまう。
「なっ!!!?」
ポイマンの顔が驚愕に染まる。
マティアは子供達の調理をしていたであろうコックに視線を向ける。視線が合うと蒼ざめて鼻から口元へ震えが走る。
コックは後ずさりを始めるが、突如天井に張り付いていた赤黒色の蜘蛛に糸でがんじがらめにされて天井へ引きずり上げられる。
コックは断末魔の絶叫を上げながらも、頭から全身の血液を吸われて干からびてしまう。
「ちっ!」
舌打ちをするとポイマンはマティアから距離を取る。
しかし――。
ポイマンが着地した瞬間、右脚は床を大海のごとく超高速で泳いでいた鮫に喰いちぎられる。
「わ、私はアルコーン様第二の眷属だぞ! 大悪魔だぞ! その私に低俗な混じり物ごときが――」
凄まじい怒りが眉の辺りに這わせつつも屈辱に身を震わせつつも、ポイマンの身体は急速に変貌していく。
身体が数倍に膨れ上がり、幾つもの手足が生える。首が身長する。忽ち、芋虫の化け物のような井出達となった。
(馬鹿が。今更変化した程度でどうなるものであるまいに……)
だが確かにこの獣達はスキルや魔術によって借り物の命が与えられた紛い物ではない。いわばマティアの分身であり、兄弟姉妹に等しい。ならば獣たちがこの下手物を喰らって、腹を壊しては溜まらない。獣達に待機を命じる。
『今更力の差に恐れをなしても手遅れだぁ!!』
闇に溶ける獣達。そして獣達を一度下げたことを、恐れを為したと判断したど阿呆。
『貴様は――』
床を蹴り上げ、疾風のごとくポイマンとの距離を喰らいつくし、槍に雷を纏わせ横凪にする。
雷鳴と共に解き放たれた槍によりポイマンの身体は弾丸のように一直線で壁に叩きつけられ、重機でビルを破壊するような巨大な衝撃音を上げる。
畳みかけるべく高速接近し、聖槍を深々と化け物の身体に食い込ませる。
『ぐおおぉぉ!!!』
耳障りな絶叫を上げるポイマン。その声すらも今のマティアの心を強く揺さぶる。
(喚くな!! 目障りだ!!!)
聖槍をポイマンから引き抜き、爆撃のような突きの連打を放つ。
悪魔はしぶとい。頭部一つになっても生きている。だから無心に聖槍を振るう。そう。ただ一心不乱に槍を突き動かした。
◆
◆
◆
十数秒後、マティアの足元には頭部だけとなったポイマンが転がっていた。
『馬鹿な、馬鹿な、馬鹿ぁぁ!! その力、嘗ての魔神軍の最高幹部ほどの力はあるぞ! 貴様一体――』
ヒュンッ!
マティアの聖槍が煌めくとポイマンの右耳がポトリと落ちる。
『ぎぃあやあぁあぁ!!!』
「…………」
喚くポイマンを足の裏で踏み砕き、その五月蠅い口を塞ごうとする。
『待て、待ってくれ! 配下の件、私がアルコーン様に取り次いでやる』
「…………」
上げた足を下げ、マティアは聖槍の穂先をポイマンへ固定する。
『ま、待ってください! そうだ。私のとっておきの宝物を差し上げます。この国も今やアルコーン様の支配下。好きにして構いません』
こんな奴に子供達は殺されたのか。
さぞ怖かっただろう。
さぞ痛かっただろう。
今終わらせてやるからな。
『私を殺せばアルコーン様が黙ってはいないぞぉぉ!』
槍に赤黒色の稲妻が纏う。
(マティア、止めよ!)
ライラの制止の言葉も今のマティアの耳には届かない。
マティアは渾身の力で突き下ろす。
(お主の兄弟姉妹達との誓い、忘れたのか?)
「~っ!!?」
ライラの言霊が頭を反芻し、槍を握る柄に力を籠める。槍の切っ先はポイマンの眉間の数mm手前で止まっていた。
何故止めたのか、いや、何故止めることができたのかわからない。ただ、ライラの言葉は今の変質したマティアの心に響き渡り、そして深く抉っていた。
「ライラ、何故止める!?」
「それは君の負うべき業ではないからだよ」
聖槍の刀身の柄の境にあるくびれた部分が掴まれ、上に持ち上げられていた。
そして眼前にはマティアが今最も会いたくない人が佇んでいた。
そのテーブルの席の一つで紳士服を着た一人の恰幅のよい男がカチャカチャとフォークとナイフを忙しなく動かしている。
「おやおや、こんな場所まで客人とは珍しい」
皿の上の肉汁たっぷりのステーキを切るナイフを止めてマティアの顔を凝視すると、ナプキンで口元を拭くと立ち上がり軽く一礼をする。
「私はポイマン。アルコーン様にお仕えする公爵位を持つ貴族でございます」
「アルコーン? 皇帝ヒーム・ヴァンピールの配下じゃねぇのか?」
「この私があの愚帝の配下? ご冗談を」
マティアの当然の疑問に馬鹿にしたように答え、椅子に座り直すポエマン。
「…………」
(資料では皇帝の子供はジャジャ・ヴァンピールとルイズ・ヴァンピールの二柱だけのはず。
すると、アルコーンとは皇帝の隠し子か? それとも皇帝の親族のだれか――)
「まあ、まあ、疑問もありましょうが、客人をもてなすのは貴族の嗜み。
どうです。私は今、少々遅い夕食をとっている所です。貴公もいかがかな?」
ポイマンのお抱えの執事服を着た屈強な男が対面の椅子を進めてきた。
「必要ない」
(マティア、気をつけよ。こやつ悪魔じゃ!)
ライラのたっぷり警戒が含まれている声が頭の中で反響する。
悪魔ね……その独特の雰囲気から何となくその可能性についても予想はしていた。だから別にそこまで意外性はない。
《教会》での祓魔師での経験から悪魔の愚劣さは心底骨身にしみている。この世界に存在していても害悪にしかならない。見たところステータスはマティアよりも低い。とっと滅ぼすことにしよう。
マティアが聖槍を握る右手に魔力を籠めようとするのとポイマンの眼球が赤く煌めき濁流のような魔力が溢れ出すのはほぼ同時だった。
ポイマンの紫色の毒々しい魔力により周囲がチリチリと火花を散らし、皿やグラスにピシリと亀裂が走り、破裂する。皿から料理が飛び散り、グラスは砕け散り中の赤ワインが夕立のようにマティア達の頭上に落下する。
(ほ、本性、現しやがった!)
(此奴の魔力、大戦の魔神軍の将校クラスはあるぞ。傍にいる奴らもこの国の吸血種達とは格が違う)
ライラのいう大戦の魔神軍の将校とやらの強さなど、大戦の経験がないマティアには想像すらつかない。
しかし、この大気を軋ませるほど魔力を出せるのは《妖精の森》でも限られている。
マスターと思金神の旦那、刈谷のおっさん、スリーに本気を出したオベイロンくらいか。
兎も角、スキル強度の点を鑑みても今のマティアには少々分が悪い。気は乗らないが、今はこの場所からの離脱を最優先に考えるべきだ。外にはスリーとオベイロンがいるわけだし。
まずは隙を伺うべきだ。ウルは今マティアがおかれている切迫した状態の可能性を認識している。今に応援が駆けつけて来る。少なくともやたら心配性のステラの嬢ちゃんならそう指示するはずだ。
「いけない、いけない、料理が台無しだ。私としたことが」
ポイマンがパンパンと手を叩くと執事服の男達が粉々になったグラスや皿の片づけを始める。さらには赤ワインにより水浸しとなった床の絨毯まで取り換え始めた。
それから執事達は気味が悪いほど徹底的に部屋の掃除をし、テーブルに再度真っ赤に染まったテーブルクロスを掛ける。ポイマンはその様子に満足そうに何度も頷く。
「さて料理を再開しましょう」
「客人もどうぞお座りを」
今は変に逆らわない方が良い。椅子に手をかけ腰を下ろす。
ポイマンは満足そうに何度か頷くと再度掌を数回叩く。すると、調理室らしき奥の部屋からコック姿の男が両手に二つの皿を持ってきた。
コックはポイマンとマティアの前に皿をそっと置く。
「さあどうぞ。召し上がれ」
「…………」
中々手を付けようとしないマティアを見るポイマンの二つの眼球が再度血の色に染まる。この溢れんばかりの殺意。断れば問答無用で殺されるだろう。マティアもこんなところで死ぬつもりなど毛頭ない。まだ兄弟姉妹に誓ったあの約束は微塵も成し遂げられてはいないのだから。
(喰うしかねぇか……)
異常に過保護なマスターのおかげでマティア達メンバーには例外なく最大強度の精神汚染防御系スキルと状態異常無効化系スキルも常備されており、この料理に例え何が含まれていてもマティアには効果などあるまい。
フォークを持ち乱暴に肉を突き立てる。理由は簡単。気に入らないからだ。
ポイマンはピクッと一瞬眉を動かすがふくよかな顔一杯に満面の笑みを浮かべる。
「食べないのですか? 冷めてしまいますよ」
食べても問題ないし、今は食べる事で時間を稼ぐことが最良の選択。そのはずだ。そのはずなのに、マティアのフォークは口元で止まっていた。別にポイマンに何かされたわけではあるまい。ただマティアの何かがこれを口に入れてはいけない。そう全力で叫んでいたのだ。
「俺は洒落た料理は口に合わねぇんだ。なんせ生まれが悪ぃからよぉ」
「そのようですねぇ~では飲み物でもお持ちいたしましょう」
ポイマンがパンパンと手を叩くと、ウエイターがマティアの前に真っ赤な液体の入ったグラスを置く。
赤ワインか何かだろうか。一応、ポイマンは顔に笑みを形作ってはいるが、目はまるで笑ってはいない。引き延ばすのもこれが限界だろう。
震える手でグラスを取り、赤ワインを口に含む。
口内に広がるワイン特有の渋み。何の変哲もない赤ワインだ。肉体や精神に変調をきたしている様子もない。敵に勧められた料理だったから若干、警戒し過ぎていたか……。
ポイマンもマティアが赤ワインを喉に通したことで満足したのか再び、カチャ、カチャとフォークとナイフを動かし始める。
皿に盛られた料理を粗方食べ終わると、ポイマンはパンパンと手を叩く。
厨房からコック姿の男が姿を現す。
「料理長、本日のメインディッシュを持ってきなさい」
「かしこまりました」
コック姿の男は一礼すると厨房へ消えていきその数分後、黄金の蓋にすっぽりと覆い隠された大きな皿を右手に持ち、ポイマンの前に静かに置く。
「テート・ド・バンビーニユマンでございます」
「バンビーニユマン……?」
頭が真っ白になり、コックの言葉が理解できず口から呟きが漏れる。
幼少期からフランスで暮らしていたのだ。本来その言葉の意味することは理解できてしかるべきだ。
そう。このときのマティアは信じたくなかったのだ。それを認めてしまったら、マティアはマティアでいられない。そう思ったから。
しかし悪夢の晩餐の幕は既に開けてしまっていた。
「これは失礼。料理長。客人の前です。詳しく説明なさい」
料理長はポイマンに一礼すると説明を始める。
「人間の子供の頭を塩、胡椒、酢を加え、数時間煮たものに特製のソースをつけました――」
料理長の言葉の意味が全く頭に入って来ない。ただ己の身体が小刻みに震え出すのがマティアにはわかった。
……時間はさほど経過してはいまい。ただマティアにとってそれは無限にも等しい時間だった。そしてようやく料理長の言葉の意味を脳が理解してくる。
(此奴らなぜそんな出鱈目言ってイル?)
そうだ。そんなのは悪い冗談だ。あんな愛らしい奴らにそんな恐ろしい事できるはずがないから。マティアは必死で否定の理論を構築しようとする。
思金神の旦那のあの不可解な表情が頭に浮かぶ。
この地下三階のやけに厳重な扉と働く職員が皆無に等しいことが頭に浮かぶ。
この闇帝国首都への強襲がマスター抜きで為さなければならなかったことの疑問の解が頭に浮かんでしまう。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。考えては駄目だ。
しかし、それが真実ならばすべてのピースがぴったりとはまってしまう
(うあ……)
マティアの視界が歪んでいく。
マティアの現実が歪んでいく。
「ほう。それは美味そうだ。やはり同じ子供でも人間の子供は最高の食材――」
悪魔がタクトを振り、悪夢と絶望の行進曲の演奏は開始される。
(ああ……ああ……)
ゾワリとマティアの心の奥底から得体のしれない塊が這い上がって来る。
それは今までマティアの中でひっそりと眠っていたもの。
それは決して開けてはいけないパンドラの箱。
(お、落ち着くんじゃ、マティア!)
ライラの悲鳴染みた制止の声がやけに遠くに感じる。
(あああぁぁぁ……)
マティアから這い出した赤と黒の塊はマティアという人物をゆっくりと変質させていく。
――肉体は細胞レベルで異なるものへと置き換わる!!
――神聖なる魔力は赤黒色の凶悪な魔力へと変貌をきたす!!
――精神は最後に残された理性と共にとびっきりの悪意という名の闇に塗り替えられる。
――右手の透き通るような美しい聖槍が徐々に赤黒色に染まって行く。そう。まるで今のマティアの心を体現するかのように。
「では料理長、蓋を開けなさい」
ポイマンはそんなマティアの変化を楽しむかのように料理長に命じる。
料理長は蓋に手をかけ、持ち上げる。
その光景を視界にいれたとき――マティアはマティアではなくなった。
◆
◆
◆
「やはり同族でありましたか。まあ、混じり物でもあるようですが」
「…………」
人間? 同族? どうでもいい。今のマティアにとって自身の存在など心底どうでもいい。
ただ――。
(…………)
同化とは精神と肉体の一定限度での共有を意味する。だから同化者たるライラの今抱いている感情を明確にマティアは把握できた。
ライラに今ある想いは慈愛と悲壮、そして無限に近い井戸へ落ちるような激しい恐れ。そしてその感情の対象は全て同化者たるマティアに向けられていた。
(飽きた。此奴の糞ったれな顔も見飽きた。滅ぼすとしよう。その前に――)
「思った通りです。それほどの力。その常軌を逸した悪性。混じり物とは言え、同族でもある。我が至高の主――アルコーン様の配下へと参列する資格がある。さあ我らと――」
マティアは槍に黒赤色の稲妻を纏わせ一閃する。
子供の亡骸を乗せたテーブルは聖槍により瞬時に炎滅する。
――赤色のテーブルも。
――真っ赤なテーブルクロスも。
――皿に盛られた子供も。
全て一種にして蒸発する。
「少し教育が必要なようですなぁ」
料理を燃やされたポイマンは額に太いみみずばれのような青筋を張らせつつも、パチンと指を鳴らす。
それを契機に傍で恭しく控えていた数柱の執事が戦闘態勢に入る。
一柱が大剣を上段に構える。
一柱が巨大な星球の柄頭をブンブンと振り回す。
一柱が大きなロングボウに矢を番える。
一柱が超越魔術の演唱を開始する。
「愚か者が……」
マティアは右手に握る見る影もなくなった聖槍に指令を送る。
「獣たちよ」
聖槍から放出された赤黒色のオーラは触手のように蠢いて、次々に幾多もの獣の形を作り上げる。
――巨大な狼に。
――巨大な蟹に。
――巨大な虎に。
――巨大な獅子に。
――巨大な蜘蛛に。
――巨大な鮫に。
これはかつて敵として戦ったブラドがマティアに放ったものだが、強度もその超常性も別次元の存在だ。
何故この能力を今のマティアが使えるのかは不明だ。だが、今ならこの能力をブラド以上に扱える。そう本能で理解している。
「喰らい尽くせ」
マティアの命に狂乱乱舞するかのように獣達は殺到する。
巨大な狼は大剣を構える執事の首筋に巨大で鋭い牙を突き立てる。
巨大な蟹はその大きな二つのハサミで巨大な星球の柄頭をブンブンと振り回す執事を両断する。
巨大な虎はロングボウに矢を番える執事をその鋭い爪で八つ裂きにする。
巨大な獅子は魔術の演唱をしている執事をその頭から骨ごとかみ砕く。
獣達は執事たちにピクリとの反応も許さず、その柔らかな肉体に鋭い牙を突き立て、引きちぎり、溶解し、粉砕する。
グシャ、バリッ、ボリッ、ゴシャッ、ムシャッ、グシュッ。
瞬時に血液一つの残さず獣たちの身体の腹の中に納まってしまう。
「なっ!!!?」
ポイマンの顔が驚愕に染まる。
マティアは子供達の調理をしていたであろうコックに視線を向ける。視線が合うと蒼ざめて鼻から口元へ震えが走る。
コックは後ずさりを始めるが、突如天井に張り付いていた赤黒色の蜘蛛に糸でがんじがらめにされて天井へ引きずり上げられる。
コックは断末魔の絶叫を上げながらも、頭から全身の血液を吸われて干からびてしまう。
「ちっ!」
舌打ちをするとポイマンはマティアから距離を取る。
しかし――。
ポイマンが着地した瞬間、右脚は床を大海のごとく超高速で泳いでいた鮫に喰いちぎられる。
「わ、私はアルコーン様第二の眷属だぞ! 大悪魔だぞ! その私に低俗な混じり物ごときが――」
凄まじい怒りが眉の辺りに這わせつつも屈辱に身を震わせつつも、ポイマンの身体は急速に変貌していく。
身体が数倍に膨れ上がり、幾つもの手足が生える。首が身長する。忽ち、芋虫の化け物のような井出達となった。
(馬鹿が。今更変化した程度でどうなるものであるまいに……)
だが確かにこの獣達はスキルや魔術によって借り物の命が与えられた紛い物ではない。いわばマティアの分身であり、兄弟姉妹に等しい。ならば獣たちがこの下手物を喰らって、腹を壊しては溜まらない。獣達に待機を命じる。
『今更力の差に恐れをなしても手遅れだぁ!!』
闇に溶ける獣達。そして獣達を一度下げたことを、恐れを為したと判断したど阿呆。
『貴様は――』
床を蹴り上げ、疾風のごとくポイマンとの距離を喰らいつくし、槍に雷を纏わせ横凪にする。
雷鳴と共に解き放たれた槍によりポイマンの身体は弾丸のように一直線で壁に叩きつけられ、重機でビルを破壊するような巨大な衝撃音を上げる。
畳みかけるべく高速接近し、聖槍を深々と化け物の身体に食い込ませる。
『ぐおおぉぉ!!!』
耳障りな絶叫を上げるポイマン。その声すらも今のマティアの心を強く揺さぶる。
(喚くな!! 目障りだ!!!)
聖槍をポイマンから引き抜き、爆撃のような突きの連打を放つ。
悪魔はしぶとい。頭部一つになっても生きている。だから無心に聖槍を振るう。そう。ただ一心不乱に槍を突き動かした。
◆
◆
◆
十数秒後、マティアの足元には頭部だけとなったポイマンが転がっていた。
『馬鹿な、馬鹿な、馬鹿ぁぁ!! その力、嘗ての魔神軍の最高幹部ほどの力はあるぞ! 貴様一体――』
ヒュンッ!
マティアの聖槍が煌めくとポイマンの右耳がポトリと落ちる。
『ぎぃあやあぁあぁ!!!』
「…………」
喚くポイマンを足の裏で踏み砕き、その五月蠅い口を塞ごうとする。
『待て、待ってくれ! 配下の件、私がアルコーン様に取り次いでやる』
「…………」
上げた足を下げ、マティアは聖槍の穂先をポイマンへ固定する。
『ま、待ってください! そうだ。私のとっておきの宝物を差し上げます。この国も今やアルコーン様の支配下。好きにして構いません』
こんな奴に子供達は殺されたのか。
さぞ怖かっただろう。
さぞ痛かっただろう。
今終わらせてやるからな。
『私を殺せばアルコーン様が黙ってはいないぞぉぉ!』
槍に赤黒色の稲妻が纏う。
(マティア、止めよ!)
ライラの制止の言葉も今のマティアの耳には届かない。
マティアは渾身の力で突き下ろす。
(お主の兄弟姉妹達との誓い、忘れたのか?)
「~っ!!?」
ライラの言霊が頭を反芻し、槍を握る柄に力を籠める。槍の切っ先はポイマンの眉間の数mm手前で止まっていた。
何故止めたのか、いや、何故止めることができたのかわからない。ただ、ライラの言葉は今の変質したマティアの心に響き渡り、そして深く抉っていた。
「ライラ、何故止める!?」
「それは君の負うべき業ではないからだよ」
聖槍の刀身の柄の境にあるくびれた部分が掴まれ、上に持ち上げられていた。
そして眼前にはマティアが今最も会いたくない人が佇んでいた。
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