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第1章 異世界武者修行編

閑話 スピリットフォーレストの日常(2)――村田和也

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 所謂脇役ですが、その視点も書いてて結構楽しいので閑話で入れてみました。半端でなく長いんで時間がないなら読み飛ばしてください。


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 村田和也むらたかずやは不幸な男だ。
 小学生のとき両親と死別し、親戚中を盥回しになる。和也の両親の残した遺産から養育費は出ているはずなのにいつも厄介者扱い。酷いときはまるで和也が生きている事自体が害悪のような扱いも受けた。
 そんな生活に心底嫌気がさしていた和也は中学生になって直ぐに学校に掛け合って住み込みのバイトの許可をもらい親戚の家を出る。
 中学生時代、誰にも関わらない様にひっそりと生きる。そのつもりだった。だが女を取ったと訳の分からない理由でヤンキーに睨まれ、それ以来凄まじいイビリにあう。
 中学を卒業して直ぐに小さな運搬会社に就職するが、1年もしない内に倒産し、無職となる。
 その後、転々と職を重ねてきたがそれほど悲観はしなかった。和也には夢があったから。それは書物の編集の仕事。そのために猛勉強をして大学検定の資格を取り、大学入学と卒業の資金をひたすら溜めた。
 そんな和也にも幸運な事はある。それは運命の出会い。
 本屋のバイトをしているとき同じバイトで働いている女性に会う。
 彼女―結愛ゆなは近隣の大学に通う女性で、和也と同様の境遇にあった。それ故か和也と彼女は直ぐに仲良くなった。
 和也が告白する形で2人は付き合うようになる。
 
 数年後和也と結愛ゆなは結婚し子供が生まれた。結愛ゆなの紹介で見習い的な扱いではあるが小さな出版社への就職も決まった。ここまでが和也の幸せの絶頂期。
 だが、和也はどうしょうもなく不幸なのだ。まるで予定調和のごとくこの幸せは和也達の最も愛する存在の病によりシャボン玉のように簡単に壊れてしまう。
まったく神様はどうしょうもなく残酷なようだ。なぜ和也のみを不幸にしないのだろう? それならきっと耐えられたのに……それならきっと諦めきれたのに……。
和也の愛する子供――子春こはるは『左心低形成症候群』という心臓の病に侵されていた。
 この病は左心室や上行大動脈等が先天的に低形成のため、全身へ血液をうまく送り出すことができない疾患だ。命をつなぎとめるためには入院による継続的治療が必要だった。
 この入院には莫大な金銭が必要となる。それも一時的なものにすぎず根本的な治療には手術が必要だった。
 娘――子春こはるのために和也と結愛ゆなは数年にわたり必死で働いた。寝る間も惜しんで働いた。それでどうにかこうにか子春こはるの治療費・入院費を払う事が出来ていた。
 そのギリギリの生活も長くは続かない。
 さらなる不幸が和也達を襲う。それは不況だ。所謂円高不況という奴だ。
 恩のある《読葉出版》は従業員10人足らずの小さな出版社。この近年稀に見る不況のあおりを食らってこの度倒産する事が決まった。
 和也の今の現状を知っている社長から何度も頭を下げられた。そもそも社長は精一杯やっていた。ただ運がなかっただけだ。だからただ『ありがとうございました』とだけ伝えた。

 和也と結愛ゆなの両者が失業したのは大きかった。不況からか真面な就職先もなく半年余りが過ぎる。
 元々ギリギリの状態だったのだ。治療費・入院費を賄うために多方面から借金をする事になる。
 結愛ゆな子春こはるの治療費・入院費を稼ぐため給料が良い歌舞伎町で一、二を争うキャバクラ――《ファーストステップ》に就職した。勿論、内心では嫌だったが、子春こはるの命には代えられない。反対などできようもなかった。
 結愛ゆなは和也にはもったいない程美しい。当然のごとく人気はうなぎのぼりで子春こはるの治療費・入院費を賄う事ができた。
 でも結局自分が何の力にもなれないのが和也はただ悔しかった。

               ◆
               ◆
               ◆


 多方面から借りた債権が全て不磨商事に譲渡されてしまう。その日から不磨商事の社員による激しい取り立ての日々が続く。
 結愛ゆなから聞くところによると《ファーストステップ》には和也達と同様の境遇の人達が数人いるらしい。
 結愛ゆなから紹介で《ファーストステップ》のナンバーワン――《水咲玲奈》と会い詳しい話を聞く。
 彼女も病気で入院している母親のために働いているそうだ。結愛ゆなも1日に平均15万程稼いでいる。今の調子なら子春こはるの治療費・入院費は賄える。
 何時までもバイトではいけない。早く和也も職を見つけて結愛ゆなを楽にさせてやりたい。そう心に誓い就職活動に精をだす。
 しかし、いつもそうだ。調子が良いと思っていると和也にとびっきりの不幸が訪れる。今度もそうだった。子春こはるの症状が悪化したのだ。
 医者の説明では子春こはるの心臓はもうボロボロで緊急の移植手術が必要だ。だが、既にかなりの負荷が身体にかかってしまっており、今の状況では手術の成功率は低く、仮に手術が成功しても生存率はかなり低くなるとのことだった。
 手術には最低でも億単位の金がかかる。そんな金何処も貸してなどくれない。仮に金を工面できたとしても生存率は数%に過ぎない。
 外で遊ぶ事も出来ず、美味しいものも食べられず、友達も恋もできない。子春こはるは一体何のために生まれてきたのだろうか? 和也の心は一条の光も見出せない暗雲に覆われる。
 もう嫌だ! 何故、いつも、いつもこうなんだ? 幸せになれるともうと運命に裏切られる! 愛娘の医療費・治療費を払えると思うと肝心の愛娘はもう余命いくばくもないと宣告される。こんな運命などもううんざりだ!
 
 和也はバイトをしながらも必死で職を探した。甲斐あって何度か決まりかけるが、試用期間中に不磨商事の社員が会社に取り立てに来て就職は呆気なく駄目になる。
 子春こはるの症状の悪化を聞き結愛ゆなも塞ぎこんでしまい、遂に体調を崩してしまう。今の子春こはるの治療費・入院費の収入源は恥ずかしながら結愛ゆなの収入で賄っている。そのため結愛ゆなは身体に鞭打ち《ファーストステップ》で働いた。

 そんなある日、和也の頭上に蜘蛛の糸が降ってきた。
 正午に就職希望の企業の面接を終えて自宅に帰ると結愛ゆなが興奮のために顔を赤く輝かせながら和也の帰りを待っていた。結愛ゆなの勤務時間は夜。今の時間帯は通常爆睡しているはずだ。
 首をかしげながら興奮する結愛ゆなから事情を聞く。
 その話は半分以上、空想が混じっているような話だった。
 スーツの男が《水咲玲奈》をデザイナーとしてスカウトするべく《ファーストステップ》に訪れた。その男は《水咲玲奈》の現状を打開する術を与えると言い、現に不磨商事の取り立ての魔術師の社員を圧倒し追い返した。そして戦闘で破壊された《ファーストステップ》の部屋を一瞬で元通りにしてしまった。
 いくらんでもそれはもはや魔術ではない。そんな事は魔術に素人の和也でもわかる。とうとう、心労で結愛ゆながおかしくなったのかと思い、《ファーストステップ》へ足を運び、上司の矢倉哲也やぐらてつやの事務所に行き詳しい話を聞く。
 矢倉哲也やぐらてつやは心底疲れ果てた顔をしていたが、和也達の事情を知っているからか詳しく話してくれた。
 驚いたことに結愛ゆなの言っている事は事実らしい。そして近日中に不磨商事は潰れるとの事だ。
 流石に半信半疑だったがそれが事実であることは就職の面接のため朝食をとっているとき流れていたニュースで明らかになる。
 何でも《妖精の森スピリットフォーレスト》という新興の魔術結社に  《ナンバーズゲーム》を挑まれ敗北し、次いで不磨商事が犯してきた様々な犯罪行為が白日の下に晒されたらしい。
 以前の矢倉哲也やぐらてつやの言葉が真実だと頭が理解するまで暫らくの時間を要した。やっと頭が理解したときまるで狙いすましたように郵便物が届けられる。
 差出人の名前は《水咲玲奈》。すぐに、結愛ゆなを起し手紙を読む。
手紙には次のような事が書かれていた。

春愛はるな。元気にしてる?
 沢山話したい事があるけど今は要件だけ先に伝えるね?
 私、小春こはるちゃんの件で力になれると思う。下記の日時・場所に和也さんと一緒に来てもらえる?
 絶対に来てね。待ってるから!
 8月15日土曜日午前10時 渋谷区神南一丁目4-15 ビル――スタント2階
 斎藤商事取締役兼デザイン部長。《水咲玲奈》こと榛原水咲はいばらみさき

 春愛はるな結愛ゆな源氏名げんじなだ。春は小春の病気の治癒祈願のため名付けたらしい。
 結愛ゆなは手紙を和也から受け取り読むが直ぐに手が震え出す。そしてその震えは全身に波及していく。その目からは大粒の涙が流れていた。

「よかった。玲奈ちゃん……ありがとう」

 結愛ゆなは手紙を胸に抱きしめ何度も玲奈への感謝の言葉を呟きながらもハラハラと涙を流す。
 手紙には小春こはるの事で力になれるとしか書いていなかった。まさか見ず知らずの人間のために数億にも及ぶ小春こはるの手術費用を払ってくれるわけもあるまい。この結愛ゆな小春こはるの病気が完治したごとき断定気味のリアクションに戸惑いを覚えたがせっかく調子が以前に戻り掛けているのだ。それに水をさすべきではない。仮にこの喜びが一時の儚い幻だったとしても。

               ◆
               ◆
               ◆

 次の日の8月15日の午前10時に和也と結愛ゆなは指定されたビルの3階を訪れる。
 ビルの待合室には見知ったか顔が数人いた。
それは潰れたはずの元《読葉出版》の仲間達。皆、例外なく困惑気味の顔をしていた。
 正面の扉が開きお祭りでも来たかのような賑やかな顔をした50代前半の禿頭の男性が何度も頭を下げながらも部屋から出来ていた。
 この男性も見覚えがある。

「しゃ、社長?」

「おお! 和也くん。結愛ゆなくん。これからもよろしく頼むよ!」

「は、はあ……」

 社長は和也の肩を叩くとスッキプしつつビルのエレベーターに乗り込む。社長は寡黙で真面目な人だった。間違ってもスキップするような人ではない。一体どうしてしまったのだろうか……。
 
 数人の同僚達も部屋に入り出て来るとまるで洗脳されたかのように社長と同様のリアクションを取る。
 それは隣に座る結愛ゆなも同じ。まるで和也だけ別世界に来たようで、猛烈に不安になる。


 遂に和也達の番になり、恐る恐ると部屋へ入る。
 部屋内は広くはないがその内装は今まで見たこともない程趣味が良かった。
 一礼して近づくと3人の女性がソファーから立ち上がり礼を返してくる。
 このうち一人の女性には見覚えがある。結愛ゆなの元同僚――《水咲玲奈》だ。本名は榛原水咲はいばらみさきというらしい。
 進められるがままに結愛ゆなと共にソファーに座る。

「あて……失礼、私は赤羽根涼香あかばねりょうか、右の紅の髪の女性が高橋神羅たかはしかみら、左の榛原水咲はいばらみさきはもうすでに知っておいででありすんね?」

 隣の紅髪の女性がゴホンと咳払いをすると涼香は慌てて取り繕うように話始める。

「そ、それでは時間もありませんし単刀直入に申します。
 貴方のお子さんの小春こはるちゃんの病気を治す事が私達にはできます。
 そのためにはある条件を呑んでもらわねばなりません。それでも――」

「お願いします。小春こはるを助けてください!!」

 涼香さんが言い終わらないうちに結愛ゆなは椅子を勢いよく立ち上がり、頭を深く下げる。正直話しについていけない和也は情けなくも呆然と彼女達のやり取りを眺めていた。

小春こはるちゃんは全く別次元の存在に生まれ代わります。それでもよろしいですか?」

 小春こはるが別次元の存在になる? 小春こはるが人間ではなくなるということだろうか。小春こはるの病気が治るならばどんなことでも許容する。だが娘の小春こはるに危険が及ぶなら話は別だ。大波のように襲ってくる不安に急き立てられるようにその真意を問いただそうとするが、結愛ゆなの言葉に遮られる。

「構いません! 仮に小春こはるが人間でなくなってもその心には影響はないんでしょう? 仮に全くの別人になるのならそんな方法玲奈ちゃんが私達に勧めるはずないもの!」

 涼香さんはその結愛ゆなの姿に聖母のような温かな笑みを浮かべつつもゆっくり言葉を紡ぐ。

「それは保障いたします。心は今の小春こはるちゃんのままで変質などいたしません。確かに存在は変わり老化がしにくくなるという弊害はありますが、その分病気等にはよほどのことがないとかかりにくくなります」

 老化がしにくくなる? 巷で噂になっている魔術師達がする同化者という奴だろうか。テレビやネットの情報では魔術師達が行う五界の住人との同化をすれば寿命が大幅に伸びると聞いた事がある。ならば構わない。今は小春こはるの命の方が優先事項だ。
 
「老化がしにくくなるということは小春こはるを五界の方と同化させるということですか? すると貴方は魔術師……」

「確かに私達は魔術師です。ですが小春こはるちゃんを同化させる事は致しません。ただその存在を今よりも一段階高次元の存在にするのです。
 勿論、魔術師のルールにより小春こはるちゃんには魔術師になってもらいます。貴方方二人もです。さらに我等の魔術結社――《妖精の森スピリットフォーレスト》に入ってもらいます。
この条件呑んでいただけますね?」

「お願いします!!」

 結愛ゆなが再度深く頭を下げる。小春こはるの心が今のままならあの忌々しい病気を治す事が先決だ。それで生じた困難は後で考えればよい。

「私からもお願いします。私達は何でもいたします。どうぞお力を貸しください」

「神羅、御両親から小春こはるちゃんの使徒進化の承諾が下りたとマスターにお伝えしなさい」

「了解しました。それでは失礼いたします」

 紅髪の女性――神羅さんは一礼すると部屋を出て行く。
 その後電車を乗り継ぎある屋敷へ案内され誓約の儀式とやら行う。その後、涼香さんから今後のことについて説明を受けた。 
 その内容は妄想が入っているとしか思えないような突拍子もない事だった。
 まずは異世界アリウスの存在。どうやらこの《妖精の森スピリットフォーレスト》というギルドは異世界へのゲートを管理しているらしい。これが世界に知られれば前代未聞の大パニックになる。それは仮にも出版会社に勤めていた和也にはよくわかった。
 誓約の宣誓には他者に秘密を漏らしてはならないという事項が多かった。こんな秘密を保持していればそれはそうだろう。
 次が斎藤商事への就職。当面は斎藤商事の社員として営業の職につくことになった。
 斎藤商事の業績が安定したら次期にできる斎藤商事の出版部門の社員として働くことになるらしい。その際の給与等も十分な色を付けるとのことだった。
《読葉出版》の社長や元同僚が、あれ程テンションが高かった理由がわかってしまう。
 出版の職に就きたかった和也としてもこれは嬉しい知らせだった。

 次が迷宮内でのレベル上げ。《妖精の森スピリットフォーレスト》の社員は強くなくてはならないとの思想の元、異世界にある《終焉の迷宮》に入り1日に数時間レベルを上げる必要があるらしい。
 和也もこの度、不磨商事による日々の追い込みで何度も悔しい思いをした。金を返せないものを殴って良い理由等ない。奴らの行為が不法行為に該当するのは間違いなかった。それなのに力のない和也は結愛ゆなが殴られても抵抗する術がなかった。そんな思いは二度と御免だ。少しでも強くなるなら越したことはない。

 次が、衣食住の提供だ。アリウスにある住居の一室が和也達に与えられそこに住むことが許可される。さらに三食全て無料で提供される。これほど破格な条件はあるまい。
 アリウスは異世界。電気・ガス・水道があるかは疑わしいが、当面家族で慎ましくも暮らしていければ十分幸せだ。

「パパ! ママ!」

 簡単な説明が終ると同時に背後から元気の良い子供の声が聞こえる。この声を忘れるわけはない。今和也と結愛ゆなにとって最も愛すべき声なのだから。
 歓喜が怒涛のように内部に打ちつける。不覚にも涙が出てきた。
 弾かれたように席を立ち上がり、視線を声の方に固定する。
 長い栗色の髪を腰まで垂らした5歳程の可愛らしい女の子が和也と結愛ゆなに微笑んでいた。その顔は生気に満ち溢れており病を患っているとはとても見えない。

「「小春こはるぅ!!!」」

 小春こはるの所まで駆け寄りその小さな身体を抱きしめる。
 結愛ゆなも顔を涙でグシャグシャにしながら小春こはるの可愛らしい顔に頬ずりをしていた。

「何でパパとママ泣いてるの?」

 キョトンとした顔で小春こはるは和也達に尋ねる。だがそんな事今答えられるはずもない。すると小春こはるは和也と結愛ゆなの頭を優しく撫でる。

「いい子、いい子。泣いちゃだめだよ」

 もう限界だった。和也達は人目を気にせず大泣きした。

               ◆
               ◆
               ◆

 水咲さんが和也達に与えられた住居であるギルドハウスへ案内してくれた。
 そこは高級ホテル並みの設備が揃った場所だった。驚いた事に電気・ガス・水道、さらにはテレビやインターネット等もある。
 しかも家族一部屋ではなく結愛ゆな小春こはるにそれぞれ一室が与えられるらしい。
 もっとも家族のメンバーは皆一緒の部屋に住むのが通例のようだ。一人一部屋はギルドマスターの方針らしく与えはするが使うかは自由意思らしい。
さらに食堂も高級レストラン並の設備がある。この高い景色を見ながら食事をとるのはさぞ気持ちが良い事だろう。
 そんな和也の心を読んだかのように水咲さんが食堂での食事を勧めてきた。どうせなのでお世話になるとする。
 食事をする間に小春こはるの現在の状態について詳しく聞く事が出来た。彼らは小春こはるを使徒という存在にして更に進化させた。その進化により小春こはる高位人間ハイヒューマンという存在となった。
 この高位人間ハイヒューマンへの進化により小春こはるの身体の構造が最適化された。これにより先天的な疾病も含めてあらゆる先天的疾病が消失したそうだ。
 問題の寿命も高位人間ハイヒューマンは30年ほど寿命が延び、人よりも老化が遅い程度でしかない。つまり大した問題ではないということだ。
 ほっと胸を撫で下ろしたところで食事が運ばれてきた。
 目の前に運ばれた料理に小春こはるは釘付けだ。ほんの少し前までは食欲など皆無だったのに。また目頭が熱くなってきたので『いただきます』の挨拶をして誤魔化すように料理を口にする。
 結論から言えば、料理は半端ではなく美味かった。軽く失神しそうになったほどだ。
 このような食事を無料で3食出す? あの豪奢な部屋といいとても現実とは思えない。
 魔術師が強いのはわかる。だがこれ程の建物と料理を構成員に無料で提供する程の経済力を持つ者など聞いた事もない。ギルドマスターは一体何者なのだろうか。


 そんなこんなで水咲さんと別れた後、ギルドハウスの和也の部屋で一晩家族と過ごした。
 
 初めての出勤日の朝、和也はこれ程かというくらい緊張していた。
 給料は月35万。週休2日。ただし、迷宮探索が2時間だけ義務付けられているが、その程度の残業など他の会社では日常茶飯事だ。
 さらに仕事に慣れたなら大学への入学金や授業料を斎藤商事が出してくれるそうだ。これほど好条件な組織は他にない。妻の結愛ゆなのためにも娘の小春こはるのためにも《妖精の森スピリットフォーレスト》に見限られるわけにはいかないのだ。

 出勤するとその緊張は消失する。
 《読葉出版》の元社長――樟葉源五郎くずはげんごろうさんはその指揮能力の高さから斎藤商事渋谷店フォーチュンツリーの支店長に命じられていた。
 その他にも数人、《読葉出版》の社員がいる。またこの面子で仕事ができるとは思わなかった。そう考えると今までの緊張が嬉しさ置き換わっていった。

「では開店です。皆さん、よろしくお願いします」

 樟葉くずはさんの言葉で皆一斉に仕事にとりかかる。

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               ◆
               ◆

 小さいといえども出版会社に勤めていたのだ。オーダーメイドの衣服をたった数分で作成し、1日で数十着売るなど考えられない。さらに言えばオーダーメイドは仮にイヤホンのような数千円で買えるものでも十数万するのが通例だ。衣服となると50万円は降るまい。まだ広告がされていないからこの程度済んではいるが次期に注文が全国から殺到するだろう。
 水咲さんはさも当たり前のように状況を受け入れているが彼らは聊か感覚が麻痺しているように思われる。
 《読葉出版》の皆も和也と同意見のようで複雑な表情をしていた。

「儂ら、とんでもないところに就職したようだな」

 樟葉くずはさんのボソリという呟きに皆、無言で同意の意を示す。


 その後、涼香りょうかさんと紅の髪の女性神羅かみらさんから解析、転移等の非常識な機能を有する指輪と銃や剣類、特殊部隊のようなボディーアーマー等を与えられ、それを更衣室で着替えて初めての迷宮探索に出た。
 
 最初の2時間は涼香りょうかさんと神羅かみらさんが魔物を行動不能にした上で和也達が倒す事の繰り返しだった。その度にレベルが上がり、身体能力は異常な速度で上昇していく。
 1時間50分を経過した時点でレベルが40を超えるとポロポロ、魔物モンスターを助けなく倒せるものが出始める。
 2時間後の終了時には皆、驚喜に近い表情を顔面に漲らしていた。

「儂、レベル44まで上がったぞ。和也君は幾つだ?」

「私はレベル42です。それにしてもすごい上がり方ですね。たった2時間でこれ程の力を得られるとは……」

 和也が剣を横凪にすると豪風が吹き荒れて壁に斬撃の跡が刻まれる。

「まったくだ。これ幼い頃に読んだ漫画の世界だぞ。それに魔術やスキルとやらもあるらしい。今後に期待だな」

「素朴な疑問なんですが私達のマスターって何者なんですかね? この迷宮やレベルアップシステム一つとっても世界が知れば発狂もんでしょう?」

 これは水咲さんにも真っ先に聞いた。だが彼女はただ乾いた笑いを浮かべるだけだった。おそらく幾度となく同様の質問をされたのだろう。彼女の様子からして答えられないというよりは彼女自身その答えを見つけられないでいる。そんな気がする。
 だからまだ入ったばかりの樟葉くずはさんに聞いても無駄な事くらいはわかっている。だがどうしても聞いて見たくなったのだ。

「さあなぁ……儂も職業柄五界の同化者達と何度か会った事があるがどうも彼らと儂らのマスターは違うな。どこが違うのかと言われれば説明できんのがもどかしいがね。まあ、これは儂の勘に過ぎんが」

 五界の同化者ではないか……。正直、それが一番可能性が高いと思っていた。というよりもそれしかこの現象を説明しようがない。
 まあ、周囲の職員達の表情を見ればマスターが何者なのかなどどうでもいい事だろう。そしてそれは和也も同じ。いや小春こはるを救っていただいた恩があるのだ。和也にとって今やギルドマスターは神に等しい存在となっていた。
 今の目標は崇敬のギルドマスターに和也の名前を覚えてもらうこと。

「店長! これから勇士を引き連れて飲みに行きましょうよ!」

「おうよ。ツマミは儂の奢りだ。ほらお前ら行くぞ!」

 どうやら和也は強制参加らしい。結愛ゆなに両手を合わせて謝る。彼女は家族で食事をしたかったであろう。盛大にむくれていた。
 だがそれもいい。こんな我侭な結愛ゆなの表情など久しぶりに見た。
 今までが悪い夢だったのだ。これからが本当の人生。
そう。これが和也の日常だ。


************************************************
 お読みいただきありがとうございます。
 次の閑話はギルドの幹部達の日常を書きたいと思います。
 ただ、もうそろそろ1部を終らせないと洒落にならないのでで一部終了後にまとめて投稿できたらなと思っております。
 次が一部の最終章です。徐々に恋愛的な要素も強くなってきます。最後までお読みいただければ幸です。
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