できそこないの幸せ

さくら怜音/黒桜

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第九章 VS相羽修行

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「いい音思いついた!」

風呂に入っていたと思いきや、びしょ濡れのまま光はタオル一枚で自室に駆け込んで行った。何か一曲思いついたらしく、ピアノの前に立ってしばらく演奏に耽っている。

「何やってんだ、ちゃんと服着てから出てこいって」
「今すぐ弾かないと忘れる」

新キーボードの録音機能を覚えた光は、スイッチを入れて「こうだっけ……」と必死に鍵盤を鳴らし記憶の糸を辿っている。やる気に満ち溢れるのはいいのだが、完全に自分の状況を忘れ、勝行の声も届かなくなっていた。
仕方なく勉強の手を止め、勝行は光の身体を拭き、服を着せて髪も乾かしてやった。その間ずっと光は無我夢中でピアノに向き合っている。
今までにもこんな光景は何度となくあったけれど、今日は随分焦っているようだった。うまく思い出せない、こうじゃないと言っては髪を掻きむしったり、突然鍵盤を叩き出したりする。

(珍しい。作曲に行き詰ってるのかな)

こんな時はそっとしておいた方がいいだろう。勝行は勉強道具を持って光の後ろに座り、暫くそのまま黙って見守っていた。
しかし、気づけば光はまるで過呼吸でも起こしたかのように、浅い呼吸を繰り返して肩を揺らしていた。気になって手元を見ると、指先から血がにじみ出ている。驚いた勝行は光の腕を掴んで引き止めた。

「光、もう終わりにして」
「……っ、なんで邪魔すんだ。はなせっ」
「今日はここまでにしよう。きっと明日、もっといい曲が思いつく」
「でも」
「大丈夫、落ち着いて。ゆっくり深呼吸」

一度は手を振り解き暴れるも、片手であっさり抑え込めるほど非力だった。手首を掴み、背中をさする勝行の言葉を聞いた光からはゆるりと力が抜けていく。

「指がかさついてる。保湿クリームも塗った方がいいんじゃないかな。ボールずっと触ってたからだよ、きっと」

光の意識をピアノから引き離した方がいい。そう判断した勝行は「おいで」と手を引き、ベッドに招き入れた。ベッドサイドに置いた引き出しの中から薬箱を取り出し、病院でもらったクリームを念入りに塗り込んでやる。
その間、光はずっと黙り込んで無抵抗だった。ボール遊びしていた時の表情とは随分違う。

「作曲で煮詰まるなんて珍しい。どうしたんだ」
「……」

勝行は冷えきった光の指先をマッサージしながら、光の返答を待った。俯き、浅い呼吸をしたその唇が僅かに開く。

「……怖かった」
「どうして?」
「わ……わかんねえ。お前が望むような歌、作れるかなって……考えたら、ピアノちゃんと弾けなくて……。俺、明日も生きたいのに……」
「光……」
「明日、なんの曲も作れないポンコツな手になってたら……とか、考えたら」

光が明日の自分を考えている?
勝行は思わず「お前が未来の話をするなんて進化だね」と口にした。光は訝し気な顔をしてこちらを見ている。

「光はいつも、明日目覚めた時、誰もいない世界にいるかもしれなくて怖いって言ってたよね。生きてる保障なんてないって」
「……ん」
「でも今の光は、明日も生きたいって。明日の自分が理想通りじゃなかったら怖いって言ってる。それって進化じゃない?」
「……そ、そうか……?」
「だって『明日の光』は、ちゃんとお前の心の中で『生きてる』じゃないか」

いつも病気と隣り合わせで生きていた光が、初めて未来を生きる自分を悲観しているのを聞いた。勝行は自分で言葉にしながらも、嬉しくなって光の掌に頬を摺り寄せた。

「嬉しいよ。光が明日も生きたいって言ってくれるなんて」

光はまだ呆然としていた。無理もない、自分でも何がなんだかわからなくて震えていたのだから。

「未来の自分がポンコツかもしれないだなんて。俺がいつも抱えている悩みだよ。光は今日それを初めて知って、怖くなったんだきっと。夏休みにさ、星を見ながら話したこと、覚えてる?」
「……未来は夜の空で、今は昼だって話?」
「そう、それ。光にも未来の星が見えてきた証拠だよ。だって光の中には、もう理想の自分の未来予想図が描けてるじゃないか。その通りにいかなかったらどうしようって、今はそれが怖いんだろう?」
「あ……」

ようやく納得できたのか、光は自分の手と勝行を交互に見つめていた。

「は……晴樹の話聞いたら。俺も……勝行がいなかったら……思ってたのと違う人生になったりするのかなとか……ゆ、指が動かなくなって……ピアノ弾けなくなったら。俺どうなるんだろうって……役立たずで捨てられるのかなって……怖くて……」
「馬鹿だな、捨てるわけない」

潤んだ光の目尻に唇を這わせ、それを舐め取りながら勝行は光を抱き寄せ、ふわふわと揺れる髪を撫でた。急いで乾かしたせいか、まだしっとりしている。
光は今思っていること、感じたことをとつとつと話して聞かせてくれた。
風呂に入る前からずっと、晴樹の話を聞いた時から胸騒ぎがしていたこと。それを紛らわすようにボールを触り続けていたこと。
この病気だらけの身体が、勝行の夢の足枷になるのではと不安になったこと。日本にとどまっていたいけれど、身体はどうにかして治したい。一秒でも長く、勝行の隣でピアノを弾いていたいと。

「指が動かなくなったら飯も作れねえし、ピアノも。そんな俺、いいとこなんもなくて……勝行、俺のこと要らなくなるだろ……?」
「ええ。あんなにアピールしてるのに。俺の気持ちを信じてもらえないのは辛いな」
「し、信じてないわけじゃ」

勝行は光の髪に顔を埋め、スンスンと嗅いで匂いを堪能した。毎日これを嗅ぐだけで安心できる、自分と同じシャンプーの香り。愛おしい光の生命の香りだ。

「理想の自分……よりも、なりたい自分に近づいたかどうか、が大事なのかなって。今の俺はそう考えてる。だから素直になる努力をしてるんだ」
「なりたい自分に?」
「うん。みんなの理想はきっと、相羽家の頂点に立つ男で、素養のいい俺。でも俺がなりたい自分は、終日好きな音楽に浸って惰眠を貪るような男」

ここまで親の言う通り真面目に生きてきたから、未来は自堕落に生きてもいいよねと勝行は笑った。

「それでね。俺も未来を考えたら、やっぱりお前と一緒に暮らして、一緒に音楽やってる自分しか『なりたい姿』が見つからないんだ。数年の我慢なんて冗談じゃない。俺だって光と離れて暮らすのは嫌だよ」

勝行と離れたくない。
以前そう言ってもらえて嬉しかったし、一緒にいる未来の自分のことを懸命に考えてくれた光に最大の感謝を伝えたい。せっかく互いの気持ちが通じ合ったばかりなのだ。ここですれ違うなんてつまらないことはしたくなかった。

「一生を添い遂げる本物のパートナーとして、君と一緒に生きたいと願ってる。それはピアノも料理も関係ないよ、俺は死ぬまでずっと、光と一緒にいる。前にも一度、そう告白したよね……?」
「……で、でも」

恥ずかしそうに目を泳がせる光は、どうしてもまだ不安なのか俯いてしまった。勝行はその顎に手をやり、上向きにした光の唇に優しく口づけた。
互いの熱い吐息が、冷えきった夜の空間に温もりを落とす。
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