たましいの救済を求めて

手塚エマ

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第十一章 崩壊

第十一話 どうして僕だけ

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 羽藤は下唇を戦慄かせてから、静かに泣いた。
 両手は組んで、腿の上に置かれている。視線は虚空を見つめていた。

 頬を伝い流れた涙が胸元に当たり、ほたほたと音を立てている。
 涙は、とめどなく流れ続ける。羽藤がひとりで歩んできた、いばらの道に雫の跡を残すかのようにして。

 麻子は羽藤の涙の音を聞いていた。

 今のこの、静けさだけを守りたい。麻子も伏し目になっていた。かける言葉は何もない。普通じゃないということで、どれほどの孤独を強いられるのかを、知っている。
 
「僕のこの指、見て下さい」

 涙ながらに羽藤が右手を差し出す。ペンだこや、足の指の付け根にできるタコに似た、白濁した大きなかたまり
 食パンや菓子パンや、うどんやラーメン、スナック菓子といった、吐き出しやすい食べ物を一度に一気に胃に収め、人差し指を喉に突っ込み、わざとえづいてトイレなどに吐いて出す。

 過食と拒食をくり返すうち、喉の粘膜に当たる人差し指の一部が硬化し、タコになる。こんなに大きなタコになっても、周囲は気づいていなかった。

 友人や叔母の若木に、「それどうしたの?」などと聞かれても、ペンだこだと言い、誤魔化した。
 それで周囲は納得をする。そして、それから関心を示さなくなる親しい人たち。
 誤魔化しきれる自信の裏に、ひそむ失意に蓋をする。

 追及をされずにいるのは、たいして存在価値がないからなのだと、思い込む。


「どうして僕だけ、こうなんですか? 皆、普通に生きているのに、僕だけ知らないうちに女の人とホテルにいたり、友達にケンカふっかけてたり。記憶がないから、本当に、そんなことをしているのかもしれないし」

 羽藤の眉が悲壮に歪む。麻子はそっと席を立ち、壁際のスチール棚からティッシュボックスとゴミ箱を持ってきた。

「良かったら、使って」
「……ありがとうございます」


 目元を拭うと、半身をねじって左を向き、音を立て過ぎないように洟をかむ。それらのティッシュをごみ箱に入れ、肩で大きく息をつく。
 羽藤には、こんな風に泣きたい時には泣くことで、怒りたいなら怒ることで、息がしやすくなることを、学んで欲しいと、切に願った。
 気がついて欲しかった。

「もしも羽藤さんが、過食と拒食をすることで、少しでも息がしやすくなるのなら。ほっとすることが出来るなら、続けもいいんじゃないでしょうか?」

 もちろん、いいとは思っていない。
 早急にやめさせなければならないことも、わかっている。けれども羽藤の涙を見ていたら、するべきことなど吹っ飛んだ。

 羽藤も、ぽかんと麻子を見ている。今すぐにでも止めるようにと、忠言されると予想して来たのだろう。

「そうすることで、あなたが生き延びられるなら。続けてもいいと思いますよ」
「どうして言ってくれないんですか? 先生は。やめろって」
「やめよう、やめようとしなくても、いつかはしなくてもいい日が来るからですよ」

 食べて吐きたい衝動を、意思の力で抑圧すれば、その分ストレスが増加する。
 それよりも、自分は壊れているのだと、今ここで口に出して言えたこと。
 さらけ出して泣けたこと。
 どうして自分は普通じゃないのか怒ったことで、吐き出せた何かがあるはずだ。

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