たましいの救済を求めて

手塚エマ

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第一章 人を殺しているかもしれない

第十二話 言えません

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 多重人格だとしても、なぜその気づきが殺人の可能性に繋がるのかは、あえて麻子は訊ねなかった。

 インテークでは、主訴を確認するだけだ。
 その先の話は彼を担当するカウンセラーの領域だ。

「じゃあ、もし、こちらのクリニックに通って診療を受けるとしたら、月に何回ぐらい可能ですか?」
「……一回の診察でかかる診察費って、いくらぐらいになりますか?」
「そうですね。お薬の数や種類にもよりますが、診察だけなら、大体千円ぐらいです。院長の診察以外に、お薬を処方されたり、カウンセリングも受けられるのなら、七千円前後になりますが」
「七千円……」
 
 羽藤は困惑したように呟いた。
 見開かれた瞳は弱々しく揺れ動き、金額に対する動揺が伝わった。

「あの、……実は、ここに来たことは叔母には言ってなくて」
 
 おずおずと答えた彼は、拳で口元を隠して続ける。

「だから通えるとしても月に……一回。か、二回ぐらい」
「カウンセリングは受けられますか?」
「……それもちょっと考えます」
「わかりました」
 
 保護者に内緒ということは、自分の小遣いで支払うつもりだったのだろう。
 よほど非常識な金額を渡されてでもいなければ、高校生の小遣いだけでは月に一、二度の通院ですら厳しくなる。

 羽藤は口調では平静さを装いながらも、僅かに眉を寄せていた。
 
 もし本当に多重人格障害だとしたら、最低でも週一回はカウンセリングと院長の診察が必要だ。

 それでも回復の兆しを見せるまで、少なくとも数年はかかる重篤な心身症。
 通院は、保護者でもある叔母の理解を得て、バックアップしてもらわなけれは不可能だ。

 だが、羽藤は叔母には内緒にしたい。
 
 それは心配をかけたくないという心遣いかもしれないし、奇異の目で見られたくないという不安や恐れがあるのかもしれない。
 実際、それらの理由で家族にも通院を隠し通す患者も少なくないのだ。

 どちらにしても羽藤の来院は二度とないはずだ。
 麻子は内心の落胆を隠せずにいた。


「では、今日の面談はこれで終わりますね。お疲れ様でした」

 テーブル上の時計を見ると、午後六時五十八分。
 カウンセリングは大体四十分から六十分単位で行われるため、時間感覚は身体に染みついている。
 するべき質問を時間内に全て終えて、麻子はボールペンの芯を収める。

「この後、院長の診療を受けて頂きますので、待合室でお待ち頂けますか? 順番に看護婦がお呼びしますので」
「わかりました。……あの、ありがとうございました」
 
 麻子が立つと、羽藤もつられるように腰を上げた。
 続いていつものように麻子がドアを引き開けて、羽藤が出るのを静かに待つ。
 
 こうして退席を促しても、依存性の高いクライアントは尻が重く、ぐずぐずと話を続けて居座り続けることもある。

 しかし、終了なのだと理解すると、紺のダッフルコートと鞄を抱え持ち、ドアまで姿勢正しく歩いて来た。
 羽藤は麻子と目が合うと、唇の端を引き上げるような微笑みをたたえ、軽い会釈をしたのちに、廊下に出た。
 
 この退室の踏ん切りの良さは、何なのだ。

 まるで面接室で起きたこと、話したことには何の思い入れも混濁も抱いていないかのようだ。

 麻子が感じた違和感は、とても小さなものだった。
 
 そして短いものだった。

 羽藤は患者が集う待合室のソファに座る。
 そして、受付を済ませた老婆が空席を探すように待合室を見回した。紳士的な羽藤のことだ。席を立って譲るだろうと麻子は思う。
 
 けれども老婆になどは見向きもせずに、羽藤は虚空を見つめている。

 この上もなく優雅な笑みをたたえている。

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