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第二部
20 囚われた者
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フォルケに支えられながら、ティアーナはゆっくりと地面に横たえられた。そして彼は少しの躊躇も見せず、振り返りもせず、去っていった。
自分を裏切った者の最期に立ち合うつもりはないと、地面に血塗れで倒れているティアーナを残して……
横たわるティアーナの隣にルーカスは屈み、膝を地面について、彼女の容態を確かめる。
治療師のリュシーはオルガノ達と共に、リビオラを送ってラスクールの町へ向かった。しかし、たとえこの場にリュシーがいたとしても、深手を負ったティアーナが助からないことは、誰の目にも明らかだった。
その後ティアーナは虫の息でルーカスに真実を話すと、やがて安心したように小さく息を吐き、ぼんやりと赤い夕刻の空を眺める。最愛の相手に置いていかれたというのに、彼女の表情はただただ穏やかだった。
「いずれ彼は真相に辿り着く、ティアーナ……貴女もそれを分かっているはずだ」
なのに何故、真実を語らなかったのか。
「ええ、その通りだわ。でも今は駄目なの。今ではなくて、もっと先の未来で彼がここまで辿り着いたなら、教えてあげて? きっとその頃には……彼も受け止められるようになっているわ」
お堅いフォルケにとって、自身を産み育ててくれた両親の存在は絶対だ。
間違ったことをするはずがないと心の底から信じていた者の行動に、ティアーナが追い詰められ自らの手で殺すに至ったなどと、耐えられる訳がない。知れば彼の心が壊れてしまうかもしれない。彼女はそれを何よりも気に掛けていた。
「でも、もしフォルケが辿り着かなかったとしても……それはそれでいいの……」
ティアーナはそう言って満足そうに笑い、ルーカスは理解した。
ボロボロの錆びきった人生の最期に望むのは、他人のためか……
ティアーナの頼みを了承する返事の代わりに、ルーカスは悲しみに顔を顰める。
手が、体が、震えた。ティアーナの命がもうすぐ終わりを迎えてしまうことを恐れて、命を繋ぎ止めるようにルーカスは彼女の手を取り、両手で強く握る。
手から伝わる、ティアーナの体が段々と冷たくなっていく感覚。
ルーカスの目から一つ、また一つと涙が伝っていく。
ルーカスの頬を次々零れ落ちていく涙に、ティアーナは目を止め。血の気の失せた、けれど心穏やかな表情で、彼女はゆっくりと瞬く。
優しくルーカスを見つめるティアーナの顔には、慈愛が浮かんでいた。
「……愛しているのはフォルケだけ。それを知っていてくれる人がいる。私はそれだけで満足だわ。それに……最期は一人孤独に死ぬと思っていたの。だからルーカス…………傍にいてくれてありがとう……」
綺麗な、笑みだった。
大切にされるべき生まれの、育ちの良いお姫様が……粗末な掘っ立て小屋以外何もない、故国から遠く離れた辺境の地で終わるなど。どんなにか無念だっただろう。どんなにか悔しかっただろう。どんなにか……寂しかっただろう。なのにティアーナはそれをおくびにも出さないのだ。
そして、遠い場所へ想いを馳せるように視線を空へ向け、ティアーナは淡々と述べた。
「ふふ、懐かしい、わね……昔はよく、こうして、原っぱで横にな……がら、……フォルケと、一緒……に、空を、眺め…………」
ティアーナの呼吸が徐々に緩やかになる。
もう空を見ることが出来なくなるのを惜しむように、ティアーナが先程から空ばかり見ていたのは、大切で大好きな婚約者の青年を思い出していたからだと、ルーカスは気付いた。
それから程なくして、静かにティアーナは息を引き取った。
*
町に戻ったルーカスの血塗れた姿に仲間達が驚き、息を呑む。
ティアーナは亡くなったとき妖精の姿をしていたから、町には連れて帰れなかった。
あんな寂しい場所に……一人残して自分だけおめおめと……
強く拳を握る。あんな優しい娘を、守るどころか何一つ……何もしてやれなかった。
「すまない……」そう言って、酷い喪失感に耐えながらも、ルーカスの意識は半ばおかしくなりかけていた。
あのとき、オルガノが血塗れのルーカスを躊躇なく抱き寄せ、有無を言わせず受け止めてくれなければ、どうなっていたか分からない。
ティアーナは真実を語った後、フォルケが彼女を信じるようになるまで、誰と話をするときも自身を世間の認識と同じ裏切り者だと語るよう、ルーカスに頼んだ。ルーカスは承知し、当時恋人だったオルガノにも口を閉ざし続けた。
ラーティに捨てられ、マグマに身を投げたときは、オルガノ宛の手紙にティアーナのことを克明に記した手紙を小屋に残した。
オルガノに後を託すことを、ルーカスは少しも心配していなかった。彼なら察して、寧ろ自分より上手く立ち回ってくれるかもしれないと思っていた程だ。
若返ってしまったことで、それも無用になったが……
そして魔王を討伐し凱旋してからも、ルーカスは町外れの掘っ建て小屋を守り続けた。約束を守り抜く強さに不安を覚え、ティアーナを思い出しながら、ずっとフォルケが来るのを待っていた。
話し終えたルーカスは、眼前の男に改めて目を向ける。
「……貴方はようやくここまで辿り着いたのだな」
ルーカスが話をしている間、フォルケの顔は午後に差し掛かった蒼天の空から降る優しい日差しに翳り、表情を見せなかった。その鍛えられた体から、ただ深い悲しみだけが滲み、彼はピクリとも動かなかった。否、動けなかったのだろう。
*
今頃、ドリスはルーカス達のいる中庭に着いているはずだった。
屋敷の中央に位置する中庭へ通じる扉は、幾つもある。なかでも食料庫の中を突っ切った、裏手奥にある扉が一番近道だ。
疲弊したガロンはフェリスに任せ、ドリスは仲間の窮地を救いに屋敷の広い廊下を走り、あと少しで扉が目前まで迫った。
茶色の、少し使用感のある扉が見えて、中庭へ通じる扉だとドリスはホッと息を吐く。逸る気持ちを抑え、最速で食料庫の裏手に回り込めたと、気が緩みそうになった。──しかし、
「申し訳ありませんが、まだ貴女をルーカス君の元へ行かせるわけにはいかないのですよ」
扉のすぐ横の暗がりから、静かな足取りで出てきた思わぬ人物に、ドリスは行く手を阻まれた。
「スクルド様……?」
行く手を妨げ、扉の前に立つ三十代半ばの男──ギルドの総裁、スクルド・リー・シーザー。
邪魔立てするならば力技を駆使してでも、今は排除すべき事態だ。
幸いスクルドは配下の者も連れず一人だが、相手はギルドの総裁である。大抵の相手には強気を通すドリスでも、下手に手を出せる相手でないことは分かる。
「……スクルド様、今は貴方が何故ここにいるのかを聞いている時間も、魔王討伐では力になって下さった貴方が何故このようなことをするのかも、議論している時間はありません。すみませんが、そこをどいて下さい」
ドリスは珍しく礼を取る姿勢を見せたが、やはり素を隠すのは難しい。結局最後はキッパリ言い切ったことで、台無しになっている。
すると、スクルドはキョトンと驚いた様子で数度瞬き、ふっと笑った。
ドリスが含意あるスクルドの反応に、「何でしょう?」と怪訝そうに尋ねる。
途端「不躾に失礼でしたね。申し訳ない」そう言ってスクルドは流そうとしたが、ドリスは沈黙と視線で圧を掛ける。逃がさなかった。
「……昔、私を助けてくれた女性に少し似ていると思ったのですよ」
根負けして口を割ったスクルドから向けられる、悲しみを秘めた優しい眼差し。そのあまりに切ない彼の様相に、ドキリとドリスの胸が鳴った。
「彼女も相手が誰であろうと一歩も引かず、自身の信念を貫き通した。私を助けたせいで大切なモノを全て失ったというのに、彼女は私に恨み言一つ零さなかった。寧ろ……」
「その方はスクルド様の恋人だったのですか?」
率直に聞くと、スクルドは小さくハハッと乾いた声で笑い「そうであったなら良かったのですが」とだけ答えた。
スクルドは今回勇者のラーティのパーティー全員が面識を持っている相手だが、ドリスも数えるほどしか会ったことはない。話したことがあるといっても、挨拶程度に二言三言だけだ。彼は表立って活動することはなく、最後の最後に登場するラスボスのような存在で、顔を出すときはいつも部下を引き連れている。
知的な顔立ちに、上に立つ者特有の頼りがいのある風格。カリスマ性のあるその姿を見た者は、口を揃えていい男だと述べる。
そんな滅多に人前に姿を現さない男が単独で動くなど、何よりらしくないではないか。
それも先程から話に出てくる女性とは、いったい誰のことを言っているのか。
つかの間、錯綜する思考に沈黙が流れる。
何にしても油断ならない相手だ。隙を見せるわけにはいかない。スクルドから目を逸らさず、ドリスが押し黙っていると……疑念を抱えるドリスに応えるように、彼が先に口を開いた。
「私は彼女に大したことはして差し上げられなかった。だからこれは、彼女を思い出させてくれたお礼……というより罪滅ぼしに、一つ教えて差し上げましょう」
疑問は残されたままだが、先程と打って変わって、スクルドの少し吹っ切れたような表情は若々しく。そこに浮かぶ、まるで青年のような茶目っ気のある笑みに、ドリスは「え、ええ」と気後れして思わず頷く。
「此度の件はイーグリッドではなく、一部の妖精と氷の精霊によるもの。ならばわざわざ大規模戦闘に持ち込むリスクを侵す必要はないのですよ」
「ギルドはラスクールと手を組んでイーグリットとエストラザを取り戻すのではなかったのですか?」
それが話し合いを終えて帰ってきたルーカス達から聞いた、ギルドの方針だったはずだ。
「ええ、そのつもりです。ですが、操られている相手を攻撃するのではなく、操っている相手を叩くのが先決と思いましてね」
一呼吸置いて、スクルドは更に話を続ける。
「同士討ちは避けるべきです。そしておそらく……此度の件、主犯となるのは表立ったフォルケではなく、力を貸している氷の精霊の方でしょう。ですが、その姿を確認した者は一人もいない」
ここでドリスはスクルドが行く手を阻む理由を理解した。
囮になってほしいと、スクルドからルーカスに申し出があったことは、ガロンから聞いている。彼は氷の精霊が現れていない今、囮の役割を結果的に担ってしまったルーカス達の前へ出ていくのは、早計だと言っているのだ。
「氷の精霊の正体を知るためには、ルーカス達が犠牲になっても構わないとおっしゃるのですか?」
「…………」
沈黙は長くは続かなかった。答えはすでに用意されていたのだから。
「これは彼らが乗り越えなくてはならない定めです。そして彼女の……ティアーナの望みを叶えられるのは、その資格があるのは、臓器を受け継いだルーカス君だけですから」
ドリスは唇をきゅっと引き結ぶ。スクルドが言うことは、ある意味正しい。だが……
「スクルド様、貴方はいったい何者なのですか」
これを聞けば、スクルドの中の確信的な何かに触れてしまう。ドリスの緊張が伝わったのだろう、彼は努めて朗らかな雰囲気を絶やさない。
「ルーカス君の子宮に関して妖精の国で何があったのか、大まかなことは知っていますね?」
ドリスは「はい」と硬い表情で頭を縦に振る。
「妖精の国に迷い込んだ人間がいた、という話も知っていますね?」
ハッとする。
「まさか……」
強張り、ドリスは言葉を失った。
今のスクルドの見た目は三十代くらいだ。しかしルーカス達がかつて英雄と呼ばれていた時代に彼が関わってくるとなると、年齢に矛盾が生じる。だからドリスは、彼が単独で現場に出てくることへの違和感を覚えながらも、その可能性を見過ごしていたのだ。
「私の中の多くは人間ですが、ほんのわずか、私にも妖精の血が流れているのです。私の親族のほとんどは普通の人間より少し寿命が長い程度ですが……先祖返りとでも言うのでしょうか、私はこれでも百歳を越えています」
妖精の国を訪れたときの外見は、もう少し若かったですがと、驚くドリスにスクルドは何でもないことのように話す。
「当時の姿のままでは色々と不都合が生じますので、妖精の変身能力で姿は変えていますが……ルーカス君も私も同じです。ティアーナの死を弔うために、ここにいる」
──あのとき彼女を救えなかった者として。
*
数十年前、自分の祖先の国を見てみたい好奇心に駆られて、スクルドは妖精の国を訪れた。
迷い込んだのではなく、自らの意思で赴いたのだ。
そしてスクルドはティアーナと出会ってしまった。
最初、ティアーナは他の妖精と同様に、スクルドを妖精の国に迷い込んだ人間だと思っていた。手を差し伸べ、助けてくれようとして……そこから互いが遠く離れた血縁に当たることを知った。
だからティアーナはスクルドに興味をもった。だから彼女は人間を城内に招き入れた。
──ここは貴方の祖国でもあるのよ? 遠慮することはないわ。
そう言って、ティアーナはスクルドを暖かく受け入れてくれた。だというのに……
スクルドは利用されてしまった。よりにもよって、ティアーナが最愛とする者の肉親の企てに。
しかしスクルドがティアーナの潔白を証明するために事情を話せば、彼女が純血ではないと暴くことになる。だからスクルドは彼女を助けることができなかった。
共に追放され、それでもティアーナはスクルドを責めなかった。
スクルドは真情を吐露し、言葉を失うドリスに揺るがぬ目を向ける。スクルドもまた、ルーカスと共に過去に囚われ続けた者の一人だった。
自分を裏切った者の最期に立ち合うつもりはないと、地面に血塗れで倒れているティアーナを残して……
横たわるティアーナの隣にルーカスは屈み、膝を地面について、彼女の容態を確かめる。
治療師のリュシーはオルガノ達と共に、リビオラを送ってラスクールの町へ向かった。しかし、たとえこの場にリュシーがいたとしても、深手を負ったティアーナが助からないことは、誰の目にも明らかだった。
その後ティアーナは虫の息でルーカスに真実を話すと、やがて安心したように小さく息を吐き、ぼんやりと赤い夕刻の空を眺める。最愛の相手に置いていかれたというのに、彼女の表情はただただ穏やかだった。
「いずれ彼は真相に辿り着く、ティアーナ……貴女もそれを分かっているはずだ」
なのに何故、真実を語らなかったのか。
「ええ、その通りだわ。でも今は駄目なの。今ではなくて、もっと先の未来で彼がここまで辿り着いたなら、教えてあげて? きっとその頃には……彼も受け止められるようになっているわ」
お堅いフォルケにとって、自身を産み育ててくれた両親の存在は絶対だ。
間違ったことをするはずがないと心の底から信じていた者の行動に、ティアーナが追い詰められ自らの手で殺すに至ったなどと、耐えられる訳がない。知れば彼の心が壊れてしまうかもしれない。彼女はそれを何よりも気に掛けていた。
「でも、もしフォルケが辿り着かなかったとしても……それはそれでいいの……」
ティアーナはそう言って満足そうに笑い、ルーカスは理解した。
ボロボロの錆びきった人生の最期に望むのは、他人のためか……
ティアーナの頼みを了承する返事の代わりに、ルーカスは悲しみに顔を顰める。
手が、体が、震えた。ティアーナの命がもうすぐ終わりを迎えてしまうことを恐れて、命を繋ぎ止めるようにルーカスは彼女の手を取り、両手で強く握る。
手から伝わる、ティアーナの体が段々と冷たくなっていく感覚。
ルーカスの目から一つ、また一つと涙が伝っていく。
ルーカスの頬を次々零れ落ちていく涙に、ティアーナは目を止め。血の気の失せた、けれど心穏やかな表情で、彼女はゆっくりと瞬く。
優しくルーカスを見つめるティアーナの顔には、慈愛が浮かんでいた。
「……愛しているのはフォルケだけ。それを知っていてくれる人がいる。私はそれだけで満足だわ。それに……最期は一人孤独に死ぬと思っていたの。だからルーカス…………傍にいてくれてありがとう……」
綺麗な、笑みだった。
大切にされるべき生まれの、育ちの良いお姫様が……粗末な掘っ立て小屋以外何もない、故国から遠く離れた辺境の地で終わるなど。どんなにか無念だっただろう。どんなにか悔しかっただろう。どんなにか……寂しかっただろう。なのにティアーナはそれをおくびにも出さないのだ。
そして、遠い場所へ想いを馳せるように視線を空へ向け、ティアーナは淡々と述べた。
「ふふ、懐かしい、わね……昔はよく、こうして、原っぱで横にな……がら、……フォルケと、一緒……に、空を、眺め…………」
ティアーナの呼吸が徐々に緩やかになる。
もう空を見ることが出来なくなるのを惜しむように、ティアーナが先程から空ばかり見ていたのは、大切で大好きな婚約者の青年を思い出していたからだと、ルーカスは気付いた。
それから程なくして、静かにティアーナは息を引き取った。
*
町に戻ったルーカスの血塗れた姿に仲間達が驚き、息を呑む。
ティアーナは亡くなったとき妖精の姿をしていたから、町には連れて帰れなかった。
あんな寂しい場所に……一人残して自分だけおめおめと……
強く拳を握る。あんな優しい娘を、守るどころか何一つ……何もしてやれなかった。
「すまない……」そう言って、酷い喪失感に耐えながらも、ルーカスの意識は半ばおかしくなりかけていた。
あのとき、オルガノが血塗れのルーカスを躊躇なく抱き寄せ、有無を言わせず受け止めてくれなければ、どうなっていたか分からない。
ティアーナは真実を語った後、フォルケが彼女を信じるようになるまで、誰と話をするときも自身を世間の認識と同じ裏切り者だと語るよう、ルーカスに頼んだ。ルーカスは承知し、当時恋人だったオルガノにも口を閉ざし続けた。
ラーティに捨てられ、マグマに身を投げたときは、オルガノ宛の手紙にティアーナのことを克明に記した手紙を小屋に残した。
オルガノに後を託すことを、ルーカスは少しも心配していなかった。彼なら察して、寧ろ自分より上手く立ち回ってくれるかもしれないと思っていた程だ。
若返ってしまったことで、それも無用になったが……
そして魔王を討伐し凱旋してからも、ルーカスは町外れの掘っ建て小屋を守り続けた。約束を守り抜く強さに不安を覚え、ティアーナを思い出しながら、ずっとフォルケが来るのを待っていた。
話し終えたルーカスは、眼前の男に改めて目を向ける。
「……貴方はようやくここまで辿り着いたのだな」
ルーカスが話をしている間、フォルケの顔は午後に差し掛かった蒼天の空から降る優しい日差しに翳り、表情を見せなかった。その鍛えられた体から、ただ深い悲しみだけが滲み、彼はピクリとも動かなかった。否、動けなかったのだろう。
*
今頃、ドリスはルーカス達のいる中庭に着いているはずだった。
屋敷の中央に位置する中庭へ通じる扉は、幾つもある。なかでも食料庫の中を突っ切った、裏手奥にある扉が一番近道だ。
疲弊したガロンはフェリスに任せ、ドリスは仲間の窮地を救いに屋敷の広い廊下を走り、あと少しで扉が目前まで迫った。
茶色の、少し使用感のある扉が見えて、中庭へ通じる扉だとドリスはホッと息を吐く。逸る気持ちを抑え、最速で食料庫の裏手に回り込めたと、気が緩みそうになった。──しかし、
「申し訳ありませんが、まだ貴女をルーカス君の元へ行かせるわけにはいかないのですよ」
扉のすぐ横の暗がりから、静かな足取りで出てきた思わぬ人物に、ドリスは行く手を阻まれた。
「スクルド様……?」
行く手を妨げ、扉の前に立つ三十代半ばの男──ギルドの総裁、スクルド・リー・シーザー。
邪魔立てするならば力技を駆使してでも、今は排除すべき事態だ。
幸いスクルドは配下の者も連れず一人だが、相手はギルドの総裁である。大抵の相手には強気を通すドリスでも、下手に手を出せる相手でないことは分かる。
「……スクルド様、今は貴方が何故ここにいるのかを聞いている時間も、魔王討伐では力になって下さった貴方が何故このようなことをするのかも、議論している時間はありません。すみませんが、そこをどいて下さい」
ドリスは珍しく礼を取る姿勢を見せたが、やはり素を隠すのは難しい。結局最後はキッパリ言い切ったことで、台無しになっている。
すると、スクルドはキョトンと驚いた様子で数度瞬き、ふっと笑った。
ドリスが含意あるスクルドの反応に、「何でしょう?」と怪訝そうに尋ねる。
途端「不躾に失礼でしたね。申し訳ない」そう言ってスクルドは流そうとしたが、ドリスは沈黙と視線で圧を掛ける。逃がさなかった。
「……昔、私を助けてくれた女性に少し似ていると思ったのですよ」
根負けして口を割ったスクルドから向けられる、悲しみを秘めた優しい眼差し。そのあまりに切ない彼の様相に、ドキリとドリスの胸が鳴った。
「彼女も相手が誰であろうと一歩も引かず、自身の信念を貫き通した。私を助けたせいで大切なモノを全て失ったというのに、彼女は私に恨み言一つ零さなかった。寧ろ……」
「その方はスクルド様の恋人だったのですか?」
率直に聞くと、スクルドは小さくハハッと乾いた声で笑い「そうであったなら良かったのですが」とだけ答えた。
スクルドは今回勇者のラーティのパーティー全員が面識を持っている相手だが、ドリスも数えるほどしか会ったことはない。話したことがあるといっても、挨拶程度に二言三言だけだ。彼は表立って活動することはなく、最後の最後に登場するラスボスのような存在で、顔を出すときはいつも部下を引き連れている。
知的な顔立ちに、上に立つ者特有の頼りがいのある風格。カリスマ性のあるその姿を見た者は、口を揃えていい男だと述べる。
そんな滅多に人前に姿を現さない男が単独で動くなど、何よりらしくないではないか。
それも先程から話に出てくる女性とは、いったい誰のことを言っているのか。
つかの間、錯綜する思考に沈黙が流れる。
何にしても油断ならない相手だ。隙を見せるわけにはいかない。スクルドから目を逸らさず、ドリスが押し黙っていると……疑念を抱えるドリスに応えるように、彼が先に口を開いた。
「私は彼女に大したことはして差し上げられなかった。だからこれは、彼女を思い出させてくれたお礼……というより罪滅ぼしに、一つ教えて差し上げましょう」
疑問は残されたままだが、先程と打って変わって、スクルドの少し吹っ切れたような表情は若々しく。そこに浮かぶ、まるで青年のような茶目っ気のある笑みに、ドリスは「え、ええ」と気後れして思わず頷く。
「此度の件はイーグリッドではなく、一部の妖精と氷の精霊によるもの。ならばわざわざ大規模戦闘に持ち込むリスクを侵す必要はないのですよ」
「ギルドはラスクールと手を組んでイーグリットとエストラザを取り戻すのではなかったのですか?」
それが話し合いを終えて帰ってきたルーカス達から聞いた、ギルドの方針だったはずだ。
「ええ、そのつもりです。ですが、操られている相手を攻撃するのではなく、操っている相手を叩くのが先決と思いましてね」
一呼吸置いて、スクルドは更に話を続ける。
「同士討ちは避けるべきです。そしておそらく……此度の件、主犯となるのは表立ったフォルケではなく、力を貸している氷の精霊の方でしょう。ですが、その姿を確認した者は一人もいない」
ここでドリスはスクルドが行く手を阻む理由を理解した。
囮になってほしいと、スクルドからルーカスに申し出があったことは、ガロンから聞いている。彼は氷の精霊が現れていない今、囮の役割を結果的に担ってしまったルーカス達の前へ出ていくのは、早計だと言っているのだ。
「氷の精霊の正体を知るためには、ルーカス達が犠牲になっても構わないとおっしゃるのですか?」
「…………」
沈黙は長くは続かなかった。答えはすでに用意されていたのだから。
「これは彼らが乗り越えなくてはならない定めです。そして彼女の……ティアーナの望みを叶えられるのは、その資格があるのは、臓器を受け継いだルーカス君だけですから」
ドリスは唇をきゅっと引き結ぶ。スクルドが言うことは、ある意味正しい。だが……
「スクルド様、貴方はいったい何者なのですか」
これを聞けば、スクルドの中の確信的な何かに触れてしまう。ドリスの緊張が伝わったのだろう、彼は努めて朗らかな雰囲気を絶やさない。
「ルーカス君の子宮に関して妖精の国で何があったのか、大まかなことは知っていますね?」
ドリスは「はい」と硬い表情で頭を縦に振る。
「妖精の国に迷い込んだ人間がいた、という話も知っていますね?」
ハッとする。
「まさか……」
強張り、ドリスは言葉を失った。
今のスクルドの見た目は三十代くらいだ。しかしルーカス達がかつて英雄と呼ばれていた時代に彼が関わってくるとなると、年齢に矛盾が生じる。だからドリスは、彼が単独で現場に出てくることへの違和感を覚えながらも、その可能性を見過ごしていたのだ。
「私の中の多くは人間ですが、ほんのわずか、私にも妖精の血が流れているのです。私の親族のほとんどは普通の人間より少し寿命が長い程度ですが……先祖返りとでも言うのでしょうか、私はこれでも百歳を越えています」
妖精の国を訪れたときの外見は、もう少し若かったですがと、驚くドリスにスクルドは何でもないことのように話す。
「当時の姿のままでは色々と不都合が生じますので、妖精の変身能力で姿は変えていますが……ルーカス君も私も同じです。ティアーナの死を弔うために、ここにいる」
──あのとき彼女を救えなかった者として。
*
数十年前、自分の祖先の国を見てみたい好奇心に駆られて、スクルドは妖精の国を訪れた。
迷い込んだのではなく、自らの意思で赴いたのだ。
そしてスクルドはティアーナと出会ってしまった。
最初、ティアーナは他の妖精と同様に、スクルドを妖精の国に迷い込んだ人間だと思っていた。手を差し伸べ、助けてくれようとして……そこから互いが遠く離れた血縁に当たることを知った。
だからティアーナはスクルドに興味をもった。だから彼女は人間を城内に招き入れた。
──ここは貴方の祖国でもあるのよ? 遠慮することはないわ。
そう言って、ティアーナはスクルドを暖かく受け入れてくれた。だというのに……
スクルドは利用されてしまった。よりにもよって、ティアーナが最愛とする者の肉親の企てに。
しかしスクルドがティアーナの潔白を証明するために事情を話せば、彼女が純血ではないと暴くことになる。だからスクルドは彼女を助けることができなかった。
共に追放され、それでもティアーナはスクルドを責めなかった。
スクルドは真情を吐露し、言葉を失うドリスに揺るがぬ目を向ける。スクルドもまた、ルーカスと共に過去に囚われ続けた者の一人だった。
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