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本編

29 着替えの服

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 駅近の高層マンションのことは噂で知っていたけど、住んでる家とは反対方向だし。そもそも、そこが俺のうちだなんて聞いてない。──と、外観を眺めた視線をこちらへスライドさせながら、麗子さんに「やっぱりボンボンだったのね」って目で見られた。
 それに関しては答えようがない。手立てなさそうに困り顔で空笑そらわらいして通す。

 親父は俺たちをマンションの入り口に一番近いところへ下ろすと、車を駐車場へ置きに行った。自分を待たずに先に帰っているよう親父に言われて、気後れしている麗子さんを案内しながら自宅のある最上階までエレベーターで上がったところで、更に麗子さんの態度が余所余所よそよそしくなったのは、想像にかたくなかった。
 何故ならエレベーターの扉が開くとまず見えるのが、広々としたホテルの玄関口げんかんぐち──ロビーみたいな玄関げんかんで、手で開け閉めするような扉がない。エレベーターの硬質な扉が家のドアの役割をになっているそこから一歩踏み出し、靴を脱いで玄関げんかんの段差を上がると、そのまま最上階の面積をまるまる使った家になっている。というのはどう見ても、一般家庭とはほど遠いからだ。

 ちなみに特別階扱いの最上階にはロックが掛かっているので、下の階の人は上がってこれない。
 最上階へ行くにはエレベーター内の行先階ボタンの横にある鍵穴に、専用のルームキーを差し入れて認証させないと、最上階のボタンはいくら押しても反応しない防犯システムになっている。

「麗子さん、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。ここ親父の持ち家だから、いるのは俺と親父とお手伝いさん二人と主治医の先生の五人だけだし」
「そう……」
「あと、時間が遅いから出迎えはしなくていいってお手伝いさんたちには連絡してあるから」
「そうなの……」
「親父が空いてる部屋ならどれでも好きな部屋を使っていいって言ってたんだけど、麗子さんはどの部屋がいい? 角部屋とか何か希望があれば……あの、麗子さん……?」

 さっきから麗子さんの目は、家の内装ばかりに向いている。そしてまたも「そうね……」と、心ここにらずな麗子さんの生返事に苦笑して、とりあえず靴を脱いで上がってもらう。じゃないと麗子さんは我に返った途端とたん、玄関口でそのままUターンとかやりかねないと思ったからだ。それもこんなずぶ濡れの格好で。
 だから、見渡しただけでも部屋の数が十数はありそうな家の規模に驚かれているのを承知の上で、むしろ余ってっから遠慮なく使ってよ。と、麗子さんの戸惑いには知らん顔で、再度どの部屋がいいか話し掛ける。

「……えっと、じゃあ一番小さい部屋でお願い」

 ようやく反応してくれたけど、やっぱり来たしょっぱなから相当そうとう遠慮されている。

「一番小さい部屋でいいの?」
「じゃないと落ち着かないのよ……」
「ははっ、うん分かった」

 帰ったときの出迎えはしないでほしいって、念のため車の中でメールしておいて本当によかった。挨拶がしたいなら、後からでもできる。
 勝手が分からない顔した彼女の手を引いて、いくつかの部屋の前を通り、一番小さい部屋のお風呂場まで案内する。

「じゃあ俺は居間にいるから……麗子さん?」

 今度は何故か、お風呂場を見つめたまま麗子さんが止まっている。

「私が住んでる部屋よりも、この家のお風呂の方が広いんだけど……」

 これでも一番小さい部屋なのかと、風呂場の広さにあきれたような口調だった。無駄遣むだづかいって単語が、麗子さんの頭に浮かんでいるような気がした。

「あー、麗子さん、とりあえず風邪引く前にお風呂入った方がいいんじゃ……」

 唖然あぜんとしていて動かない麗子さんに俺が手間取てまどっていたところで、ふわふわのタオル──ではなく、ふわふわの毛玉がトコトコやって来た。

「にゃーん」

 小さな子供ほどあるでかニャンコ。喫茶店「猫茶丸」のマイペースな看板猫、三代目猫茶丸だ。

「猫茶丸? そっか、あんた正式にはここの家猫だものね」
「にゃーん」

 良かった。麗子さんの関心が風呂から猫に向いた。

「こいつ、俺よりもこの家にくわしいんだ。なー三代目」
「にゃーん」

 閉店後は猫茶丸も一緒に親父の車に乗せてうちへ連れて帰るから、猫茶丸にとってはここも自分の家だ。普段寝ていることが多い俺と違って目がえている猫茶丸には、この家は自分の庭みたいなものなのかもしれない。
 幸いお出迎え不要の連絡をする必要がない相手のマイペースなお出迎えに、雰囲気がやわらいだ。

 けれどそうしてお出迎えをした後も、猫茶丸は俺の足元でこちらを見上げながらにゃんにゃん鳴いている。
 さっき俺と親父が急に出ていったから、どうやら心配していたらしい。柔らかいふわふわの頭をでて、その巨体をよいしょと抱っこする。

「どうした? さみしかったのか?」
「にゃーん」
「そっか、ごめんな」

 今でこそ猫茶丸は三代目の看板猫と言われているが、実は俺が拾ってきた捨て猫で、三代目になってからまだ一年ほどしかっていない。
 年も一歳には見えないくらいデカいし落ち着いている。ネズミを見ても反応しないし、小鳥が近くを飛んでものんびり昼寝している。猫としての役割をほとんど放棄している。というか、堂々としたもので、微塵みじんも果たそうとしていない。すこぶ温厚おんこうな性格の猫のようだ。

 そんなでかニャンコのイメージが強い猫茶丸は、それでも拾ってきた当初は両手のひらに乗せても手の面積が余るくらい、ミニマムサイズのやせっぽちだった。それがこんなにでかくて立派なモフモフになるとは思いもしなかった。

「そういえば二代目の猫茶丸って確か、前オーナーの壬生原子みぶはらこさんのご主人が飼っていた猫だったのよね。私が猫茶丸で働き始めた頃にはもういなかったけど……」
「うん、俺も二代目はご主人の引退前に亡くなったって聞いてるよ。お墓も近くにあるって聞いた……あ、そだ。今度のお彼岸ひがんにさ、一緒に二代目のお墓参り行かない?」
「ええ、いいわよ──クシュンッ!」

 麗子さんが震えて体を擦った。体をすっかり冷やしてしまったようだ。

「話してる場合じゃなかったね。着替えは用意しておくからさ、早く風呂入ってきた方がいいよ」
「あ、そういえば着替えって……誰の服貸してくれるの? まさか元カノの服とか言わないでしょうね」
「元カノって……麗子さん何言ってんの、俺の服貸すに決まってるでしょ。麗子さん俺より身長あるけどメンズ服だからサイズ的にはブカブカかもしれな……ん?」

 元カノって何の話だ? と、思いながら淡々と説明していると、麗子さんが申し訳なさそうな顔をした。それも頬がほんのり赤くなっているような気がする。でも熱というよりもこれって……

「何でもないわ。それでいいわよ、うん。ありがとう」
「どういたしまして……」

 急いで返事されて、俺も何となく返事をしてしまったけど、
 微妙な沈黙と表情に、麗子さんが元カノとか言い出したのは違うことを気にしてだと、不覚にも返事してから数秒後に悟った。

「あのさ、今は彼シャツとか気にしてるときじゃない、し……」
「うん……」
「「…………」」
 
 意味深な沈黙と妙な感じの気恥ずかしさに、互いに目線を外して違う方を見る。
 そこは盲点だった。とにかく麗子さんにはうちに避難しに来てもらいたいって、そこばかり考えていたし……

 今俺は、着替えの服が「彼シャツ」ってことを気にしている人に、そうに決まってるじゃん。ってきっぱり言い切ったわけだ。
 あー、くそっ。いったい何の会話をしてるんだ俺は。
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