君の手は、人生をつなぐ羅針盤

薄影メガネ

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本編

28 秋台風と住んでる家

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「麗子さんさ、うち来る?」
「え、でも……」

 九月に入って秋台風の季節になったとある日、真っ先にやられたのが麗子さんの住むマンションだった。それもマンションとは名ばかりの二階建て木造建築。
 それってマンションじゃなくてアパートなのでは……と思いつつ、
 並みの女性より身長があるとはいえ、安いからとオートロックなしのほぼ平屋みたいなところで女性の独り暮らし……聞いてるこっちが恐ろしくなった。それも、

「心配なんだよ。そんな頭からバケツかぶったみたいな格好で放っておいたら親父にどやされる」

 というより頼むから来てくれ、お願い。祈るような心境しんきょうとはこういうことを言うのだろうか。
 住んでいる家の屋根が台風で吹っ飛ばされて、麗子さんは一時的に猫茶丸で寝泊まりすることになった。──と、俺が寝ていた二時間ほど前に電話で麗子さんと話をしたって親父から聞かされた俺は、夜の二十時過ぎに台風で二、三日休業中の猫茶丸へすっ飛んできたわけだが、

 猫茶丸に着いて顔を合わせた普段着の彼女は、ティーシャツにロングたけのスカートで、上から下まで全身びしょ濡れだった。頭から腕から衣服から、えずしずくがポタポタと流れている。
 それも二時間前に避難してきたはずの人が、レインコートに傘まで持って、今しがた来たばかりのように見えた。
 麗子さんの家は喫茶店から徒歩二十分ほどのところにある。とっくに避難しているはずが、その格好は何事かとたずねたら、彼女は自宅に置いてある荷物を取りに行ってちょうど戻ってきたところだったと言う。

 台風で雨風が強いなかを、それも一度ではなく三、四回。一人で行き来していた。なんて聞かされたら──なんて無理するんだと、鳥肌どころかゾッと悪寒おかんが走った。
 でも、だからってこんなときに説教みたいなことをしてケンカになるリスクは避けたい。猫茶丸に残ると意地でも張られたら事だ。

 着いた当初はギョッとして、思わず食い入るように水のしたたる麗子さんの衣服にそそいでいた視線を、平気な顔した麗子さんに戻す。
 なるべくさっきから気にしない振りで軽口叩きながらも、口には出さないけど、間違いなく今の俺の顔色は真っ青だぞ。と、頭痛を通り越して目眩めまいがしてきた。
 麗子さんは以前俺に無茶するなと言ってたけど、麗子さんこそそんな無理はしないでほしい。そう本心では俺が思っていることも、今の様子だと麗子さんはおそらく気付いていない。

「それに三太もてっぺーも天候がよくなったら明日か明後日あさってうちに来るからさ」

 彼氏のお家訪問のハードルを下げるため、麗子さんだけじゃないことをあえて強調する。

「二人も来るの? こんなときに?」
「こんなじめじめした時期だからだよ。慰労会いろうかいねて、うちに集まることになったんだ。だからさ、麗子さんが家から運んできた荷物は後で取りに来ればいいよ。親父にはちゃんと行っとくからさ、必要なモノはある程度うちにそろってるし。そのまま来てくれれば大丈夫だよ」

 とりあえず今は、麗子さんにはうちに来てもらった方が安全だ。

「……慰労会いろうかいとか私聞いてない。いつの間にそんなことになってたのよ?」
「うん、決まったのつい十分前だからね」
「十分前……?」

 タイミングが良すぎて逆に疑われた。

「メールでやり取りしたんだよ」
「……本当に?」
「本当だよ。寝起きでメール来てたからすぐ返信して、軽く決まったところで親父から麗子さんのこと聞いたんだ。で、秒もたないうちに出てきたから、今の俺の格好、寝巻きもねたルームウェアでしょ?」
「まあ……普段着にしては少しゆるいような気もしてたけど……」
「ここ、普段は車で十分だけど、親父が車飛ばせば五分で来れるからさ。本当に嘘じゃないよ」

 しょっちゅう寝たり起きたりしているから、俺の格好は普段着にも見える質感の布地ぬのじにパーカー付きのルームウェアを着るようにしている。これならすぐ外に出られるし、こちらから言わなければ、外を歩いてても違和感はさほどない。

「それに最近はあんまり麗子さんと会えないからさー。今日は麗子さんが心配で親父に無理言って連れて来てもらったんだけど……本当に来てよかったよ」

 猫茶丸の休憩室に麗子さんと二人で話しながら、車で送ってくれた親父が待ってるカウンターの方向をチラ見する。休憩室は接客スペースの裏手に作られているのでもちろん見えないが、親父はこうして待たされている間もきっと、いつも通り淡々としているに違いない。

「そうね……今日は散々さんざんだったけど。でも、はじめ君の元気そうな顔が見れて良かったわ」
「うん、俺も麗子さんの顔見れて安心した」

 最近では、俺はほとんど猫茶丸に行くことはなくなった。
 実は夏の花火大会の翌日も翌々日も、俺は薬の副作用で丸二日どころか一週間起きなくて、気付いたときには病院だった。

 急激に病状が進んでいるのは、目の色がどんどん青さを増して行くのを見れば、聞かなくても分かる。鏡に映る自分の目が沖縄の青に近付いているのを知りながら、前を向くのはなかなかに忍耐がいる。
 起きて数日は、病院の与えられた個室に缶詰だった。親族以外の面会は禁止されていたので特段することもなく、置かれたお見舞いの花をボーッと眺めていたら、ようやく面会が許された。そして見舞いに訪れた麗子さんは……普通の顔をしていた。

 俺が眠りこけていた一週間、そして会えなかった数日、麗子さんはかなり落ち込んでいたと親父から聞いていたのに、俺の前に現れた彼女はいつも通りの彼女だった。何でもないみたいに普通の顔をしている。
 そこではたと思い出した。──やせ我慢する苦労人タイプ。ああ、彼女はそういう人だったと苦笑して、何だか少し元気が出た。
 彼女の手を握ると、ようやくその黒目勝ちな目に涙がにじんだのを見て、酷くホッとした。

 今もそうだ。限界まで助けてって言わない彼女から「分かったわよ。はじめ君の家に行くから、そんな捨てられそうな子犬みたいな目で見ないでよね」という言葉を何とか引き出すことができて、とりあえず俺は安心した。





 俺が高校のときまで住んでいた家は、如何いかにも金持ちのボンボンが住んでいそうな一軒家だったが、高校卒業と同時に、俺たち親子は勤め先になる猫茶丸の近くへ引っ越してきた。
 といっても引っ越し先は隣町で、そこまで知らない場所じゃない。新しい生活に慣れるのは思っていたよりも楽だった。

「スゴい……何ここ……」

 うちに来ることを渋々承諾して、やって来た麗子さんが、うちの外観に目を丸くしている。
 田舎いなかの住宅街にある猫茶丸から数キロ離れた、駅近にある四十階建てで見晴みはらしのいい高層マンション。その最上階が、今俺と親父が住んでいるところだ。
 駅前は都市開発中で、いずれは似たような高層ビルと商業施設が並ぶ予定の、ここはその一番手ってわけで、頭一つ分どころか飛び抜けすぎて逆に浮いている。まあ後二、三年で街並みにまぎれて、そのうちそんなことも思わなくなるだろうけど。
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