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古桜(3)夜桜
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昼間の喧騒が嘘のように、静まり返っていた。
夜桜見物をする人もなく、ぼんぼりなどもない。古木の根元にレジャーシートを敷き、シートの端に小さいランタンを置いているだけで、光は儚く、幽玄な雰囲気を醸し出している。
やがて、ゆっくりと富永さんが現れた。
「こんばんは」
「こんばんは。お招きに預かりまして」
「実はお客様がもう1人いらしてましてねえ」
言いながら、札をきる。
「おお……!」
「……お久しぶりです」
「お久しぶりです。全く変わっていない――そうか。あなたは桜の木の精だったのですね」
「その……フキと呼んで下さい」
2人は笑いながら、お互いに見つめ合った。
「まあ、どうぞ。立ちっぱなしもなんですから。
桜餅と、桜茶を用意して来ました」
重箱には、あの日に食べたというのと同じ関東風の桜餅。桜の花の塩漬けは小さな器に入れてあり、水筒には熱湯を入れて来た。
そして、僕と直は、そっと木の裏にまわる。そして、太い幹に手を置き、力を流していく。
できるかどうか怪しかったが、やがて、木の向こうから、
「まあ、桜の花が――!」
「おお──!良かった。死ぬ前にもう1度見られて。それも、あなたと」
「お帰りなさい」
「ただいま」
と声がする。
良かった、と思ったが、軽い貧血みたいになってふらつく。
僕と直は、邪魔にならないように静かに離れて、富永さんの息子夫婦の待機しているそばにしゃがみ込んだ。
何を話しているのかわからない。ただ、穏やかな表情だった。
どのくらいしたのだろうか。ふと、富永さんとフキさんの気配が、そばでした。
「もう、逝くのですか」
「はい。最期の最期に、いい思い出になりました。これで思い残す事は何もありません」
「本当にありがとうございました」
2人は頭を下げ、穏やかな笑みを浮かべながら、立ち上る光の粒子になって、消えて行った。
一緒にいた富永さんの息子夫婦が古木のそばに飛んで行き、膝をつく。
こずえに咲く桜の花は消えていたが、木の根元で富永さんが幸せそうな笑みを浮かべ、眠るように亡くなっていた。その胸の上には両手が重ねられ、小さな1輪の桜の花を、大事そうに包み込むようにして持っていた。
「桜の守り神様と一緒とは、親父も幸せな旅路だよなあ」
鼻声で、息子が言う。
「お義父さん、いい笑顔だわ」
言って、奥さんがハンカチで顔を押さえる。
「苦しまなくて良かった。最高の逝き方だよ。
ありがとうございました」
息子夫婦は深々と頭を下げ、そのまま、嗚咽を漏らした。
「いえ。富永さんの人生が招いた逝き方ですよ」
僕達は、花の無い古木を見上げていた。
その後、古木は危険なために切られる事になった。
本当ならもっと早くに寿命を迎えていただけあって、よく倒れもせずに立っていたと、幹の内部を見た皆はそう言い合ったほどらしい。
そして幹の一部は加工されて、神社に奉納される事になるそうだ。
「できたぞ。桜ケーキ」
桜リキュールを混ぜたゼリー溶液に水洗いした桜の花の塩漬けを散らして固め、それを、間に桜の花のみじん切りを混ぜた生クリームを挟み、上には白い生クリームを薄く塗ったスポンジケーキ台に乗せたケーキだ。
「お花!」
敬が桜の花が入っているのを見て喜び、
「優維ちゃんも大きくなったら一緒に食べようね」
と、ジッとケーキを見ているように見える優維ちゃんに言う。
うちに直の一家、兄の一家が集まっているのだ。
テラスが広く、桜もここから良く見えるので、美里も仕事の無い今日、ここからゆっくりと花見をすることになったのである。
「いただきます。
ああ。桜の香りがほのかにするなあ」
兄が言う。
御崎 司。頭脳明晰でスポーツも得意。クールなハンサムで、弟から見てもカッコいい、ひと回り年上の頼れる自慢の兄である。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。警察庁キャリアで、警視正だ。
「ゼリーから花が透けて見えるのがおしゃれだわ」
美里も気に入ったらしい。
御崎美里、旧姓及び芸名、霜月美里。若手ナンバーワンのトップ女優だ。演技力のある美人で気が強く、遠慮をしない発言から、美里様と呼ばれている。3月初めに入籍したばかりの、妻だ。
「何か、贅沢ねえ」
冴子姉も言う。
直は、
「何か優雅な気分になるよねえ」
と紅茶を飲む。
「美味しい!」
敬もご満悦で、ニコニコしている。
「ほんの一時なのよね、咲くのは」
「咲いたら見たくなるしねえ」
「ここ、本当に特等席ね」
女性3人は、仲良く楽しんでいるようだ。
「それで、無理矢理桜を咲かせて大丈夫なのか?」
兄が言う。
「大丈夫。ちょっと休んだら治ったから」
「怜の大丈夫はあんまり大丈夫じゃない時があるからねえ」
「気を付けろよ、怜。守るべき家族がいるんだからな」
「はい」
風が緩く吹いて、女性陣が歓声を上げた。
「わああ!風がピンク色!」
散った桜の花弁が風に乗って、ピンク色に見える。
「ああ。幸せだなあ」
穏やかな日差しが温かかった。
夜桜見物をする人もなく、ぼんぼりなどもない。古木の根元にレジャーシートを敷き、シートの端に小さいランタンを置いているだけで、光は儚く、幽玄な雰囲気を醸し出している。
やがて、ゆっくりと富永さんが現れた。
「こんばんは」
「こんばんは。お招きに預かりまして」
「実はお客様がもう1人いらしてましてねえ」
言いながら、札をきる。
「おお……!」
「……お久しぶりです」
「お久しぶりです。全く変わっていない――そうか。あなたは桜の木の精だったのですね」
「その……フキと呼んで下さい」
2人は笑いながら、お互いに見つめ合った。
「まあ、どうぞ。立ちっぱなしもなんですから。
桜餅と、桜茶を用意して来ました」
重箱には、あの日に食べたというのと同じ関東風の桜餅。桜の花の塩漬けは小さな器に入れてあり、水筒には熱湯を入れて来た。
そして、僕と直は、そっと木の裏にまわる。そして、太い幹に手を置き、力を流していく。
できるかどうか怪しかったが、やがて、木の向こうから、
「まあ、桜の花が――!」
「おお──!良かった。死ぬ前にもう1度見られて。それも、あなたと」
「お帰りなさい」
「ただいま」
と声がする。
良かった、と思ったが、軽い貧血みたいになってふらつく。
僕と直は、邪魔にならないように静かに離れて、富永さんの息子夫婦の待機しているそばにしゃがみ込んだ。
何を話しているのかわからない。ただ、穏やかな表情だった。
どのくらいしたのだろうか。ふと、富永さんとフキさんの気配が、そばでした。
「もう、逝くのですか」
「はい。最期の最期に、いい思い出になりました。これで思い残す事は何もありません」
「本当にありがとうございました」
2人は頭を下げ、穏やかな笑みを浮かべながら、立ち上る光の粒子になって、消えて行った。
一緒にいた富永さんの息子夫婦が古木のそばに飛んで行き、膝をつく。
こずえに咲く桜の花は消えていたが、木の根元で富永さんが幸せそうな笑みを浮かべ、眠るように亡くなっていた。その胸の上には両手が重ねられ、小さな1輪の桜の花を、大事そうに包み込むようにして持っていた。
「桜の守り神様と一緒とは、親父も幸せな旅路だよなあ」
鼻声で、息子が言う。
「お義父さん、いい笑顔だわ」
言って、奥さんがハンカチで顔を押さえる。
「苦しまなくて良かった。最高の逝き方だよ。
ありがとうございました」
息子夫婦は深々と頭を下げ、そのまま、嗚咽を漏らした。
「いえ。富永さんの人生が招いた逝き方ですよ」
僕達は、花の無い古木を見上げていた。
その後、古木は危険なために切られる事になった。
本当ならもっと早くに寿命を迎えていただけあって、よく倒れもせずに立っていたと、幹の内部を見た皆はそう言い合ったほどらしい。
そして幹の一部は加工されて、神社に奉納される事になるそうだ。
「できたぞ。桜ケーキ」
桜リキュールを混ぜたゼリー溶液に水洗いした桜の花の塩漬けを散らして固め、それを、間に桜の花のみじん切りを混ぜた生クリームを挟み、上には白い生クリームを薄く塗ったスポンジケーキ台に乗せたケーキだ。
「お花!」
敬が桜の花が入っているのを見て喜び、
「優維ちゃんも大きくなったら一緒に食べようね」
と、ジッとケーキを見ているように見える優維ちゃんに言う。
うちに直の一家、兄の一家が集まっているのだ。
テラスが広く、桜もここから良く見えるので、美里も仕事の無い今日、ここからゆっくりと花見をすることになったのである。
「いただきます。
ああ。桜の香りがほのかにするなあ」
兄が言う。
御崎 司。頭脳明晰でスポーツも得意。クールなハンサムで、弟から見てもカッコいい、ひと回り年上の頼れる自慢の兄である。両親が事故死してからは親代わりとして僕を育ててくれ、感謝してもしきれない。警察庁キャリアで、警視正だ。
「ゼリーから花が透けて見えるのがおしゃれだわ」
美里も気に入ったらしい。
御崎美里、旧姓及び芸名、霜月美里。若手ナンバーワンのトップ女優だ。演技力のある美人で気が強く、遠慮をしない発言から、美里様と呼ばれている。3月初めに入籍したばかりの、妻だ。
「何か、贅沢ねえ」
冴子姉も言う。
直は、
「何か優雅な気分になるよねえ」
と紅茶を飲む。
「美味しい!」
敬もご満悦で、ニコニコしている。
「ほんの一時なのよね、咲くのは」
「咲いたら見たくなるしねえ」
「ここ、本当に特等席ね」
女性3人は、仲良く楽しんでいるようだ。
「それで、無理矢理桜を咲かせて大丈夫なのか?」
兄が言う。
「大丈夫。ちょっと休んだら治ったから」
「怜の大丈夫はあんまり大丈夫じゃない時があるからねえ」
「気を付けろよ、怜。守るべき家族がいるんだからな」
「はい」
風が緩く吹いて、女性陣が歓声を上げた。
「わああ!風がピンク色!」
散った桜の花弁が風に乗って、ピンク色に見える。
「ああ。幸せだなあ」
穏やかな日差しが温かかった。
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