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2010年・秋
第38話「全力投球」
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「皆様、本日は、ようこそお越しくださいました。
紅葉が色づき、夜はたいそう寒くなってまいりました。
喫茶店で飲むブレンドコーヒーに、一層のありがたみを感じる季節でございます。お洒落なカフェや喫茶店でゆったり過ごすのも結構でございますが、本日は年に一度の機会ですので、どうぞコーヒーではなくお抹茶を、ごゆっくりお召し上がり下さいませ」
コーヒーではなく、の部分を少しだけ強調して発した効果か、その場にどっと笑いが生まれた。光蟲はいつもの半笑いを浮かべ、浅井も品よく微笑んでいる。
茶道経験者たる正客がこの冗句じみた挨拶をいかに受け取るか不安があったが、幸いにも笑顔を見せており、そこに怒りや軽蔑はないと都合よく解釈した。
「それでは、少々お早めとは存じますが、お手元のお菓子をお取り回しください」
正客が隣に座る次客(光蟲)に「お先に」と一礼し、光蟲も真似て一礼する。
「本日のお菓子は、『すや』の栗きんとんでございます」
亭主の東が正客用のお茶を点てるまで、ここからしばらく間がある。この間をどのように展開するか、半東として腕の見せどころだ。
昨日は、舞い上がってほとんどまともに会話ができなかった。しかし、今日はそんな気はしない。あれこれと話しまくる必要はないが、客を不快にさせない限りは自由に局面を動かせるこの数分間は、存分に個性を表出できる。
「お正客様も、茶道部の方でいらっしゃいますか?」
手始めに、正客の女性に声をかける。やはり、ここから展開していくのが自然だと感じた。
「はい、武蔵野大学裏千家茶道部二年の三河と申します。いろんな大学のお茶会に伺っておりまして、こちらには昨年もお邪魔しました」
「そうでしたか。二年続けてお越しいただき、ありがとうございます」
「亭主さんも半東さんも男性で、新鮮に感じますね」
三河は、率直な興味に突き動かされたようなナチュラルな微笑を湛えている。
「ありがとうございます。確かに、どこの大学も女性部員が多い茶道部としては珍しいかもしれません」
三河に返答しつつも、他に九名の客がいることを忘れぬよう、私は全体に向けて笑みを返す。
「茶道のお点前というのは、馴染みの薄い方からしますといったい何をやっているのだろうかとお思いでしょうが、ひとつ、興味深いことがございます」
全員に視線を送りながら、切り札となるべき一手を切り出す。
「釜のお湯を掬うあちらの柄杓ですが、我々裏千家においては、場面に応じて三種類の扱い方がございます」
三河は当然知っているはずなので自然な顔でうなずいており、他の面々も真剣な表情を浮かべている。
「それぞれ、置き柄杓、切り柄杓、引き柄杓という名称なのですが、“置き”・“切り”・“引き”といえば、お客様でしたら何を思い浮かべますか?」
右手をすっと出しながら、私はちょうど真ん中どころに座っている浅井に尋ねた。
遠目には気付かなかったが、今日の浅井は珍しくリップグロスをほんの薄く塗布している。厚すぎず薄すぎずの彼女の唇に、それは適度な色気をプラスさせていた。
「あっ、えっと……どれも囲碁用語にありますよね」
自分に振られるとは思っていなかったという様子で一瞬驚くも、浅井はすぐに平静を取り戻して的確な返答をする。
「その通りです。偶然にも、“置き”・“切り”・引き”、すべて囲碁の専門用語にございまして、大変よく使われます」
一同、声をもらしながら頷く。光蟲も、感心した様子で同様の反応を示している。
「ちなみに、囲碁は茶道以上にふれたことのない方が多いかと存じますが、黒と白の石を交互に打ち合うゲームです。オセロと異なり、裏返しても色はそのままです」
囲碁について未経験者に説明する際には(私の中では)定型とも言える文言であったが、裏返すゼスチュアを加えた効果か、客席は冒頭と同程度の笑いに包まれた。
「先ほど話しました柄杓の用語についてですが、調べてみたものの、特に関連性は見つかりませんでした。また私事ではありますが、囲碁部の部長も兼任しておりまして、稽古の時からこの柄杓の名称については気になっておりました。ちなみに、先ほど答えて頂いたお客様は、同じ囲碁部の後輩になります」
再度右手を出し、浅井を他の九人に紹介すると、浅井は面映ゆそうに顔をほころばせる。
不特定多数の人が集まる茶席でこのように特定の知人を取り上げて話すことが適切かどうかは分からなかったが、席の雰囲気を損ねている感はないので大丈夫だろう。
私のトリッキーなフリートークが終わるころ、東が正客用のお茶を点て終えた。
私は立ち上がり、東の横に移動して座る。そしてお茶碗を持ち、再び立ち上がって正客(三河)の前に運ぶ。
「お茶をどうぞ」
一礼。指先が乱れず、揃っていることを確認する。
「お先に」
三河が次客(光蟲)に軽く一礼すると、彼も慌てて礼を返した。
「お点前頂戴いたします」
彼女の言葉を受け、東と私が同時に一礼する。
「本日はまことに勝手ながら、三客様以降は点出し(水屋で点てたお茶を出すこと)にて失礼します」
続いて、次客用のお茶も同様にして、光蟲の前に運ぶ。
「お待たせいたしました。お茶をどうぞ」
互いに一礼。互いに半端な笑みは作らず、目下の状況を味わう。
さすがに、「お相伴いたします」(※)は抜かしていたが、先の三河を真似て「お先に」と「お点前頂戴いたします」の二つをクリアして抹茶を飲んでいる。変に周囲を意識し過ぎず、環境に順応できるところはさすが光蟲だ。
そういえば以前彼と飲んでいた際、「俺は人見知りとかいっさいしないわ」と、日本酒で顔を赤くして話していた。光蟲いわく、繊細さや感受性が致命的に欠落しているためだと話していたが、私は彼のそういうところを気に入っているし――そもそも、彼にそれらが欠落しているとは思っていないのだが――、間違いなく生きていく上でのストレングスであり、私は憧憬の念を抱いている。
次客への提供が終わると、順に水屋から点出しで運ばれた。
浅井も慣れない手つきで、しかし真剣にお茶碗を扱っている。茶碗の正面に口をつけるのを避けるという理由を知っていたかどうか分からないが、浅井を含めた多くの客が、口をつける前に九十度回すプロセスを経ており、私は思わず舌を巻いた。
「皆様。本日は、まことにありがとうございました。どうぞお気を付けてお帰りくださいませ」
もう当分、慣れた人以外とは話したくないなと思い、内心で大きくため息をつきながら、笑顔で客たちを見送った。
* *
※「お相伴いたします」…前回記したように、フォーマルな茶席では最上位の客である正客が一番上座に座ります。
その正客とともにもてなされる連れの客や同席する客のことを、「相伴」と呼びます。また茶席で正客以外、つまり次客から末客までが座る場所のことを「相伴席」といいます。
最初に正客がもてなされた後、二番目の次客以降の客にも順番にお茶が出されます。出されたお茶をいただく時、まず上座の人に掛ける挨拶の言葉が「お相伴いたします」なのです。
お茶が届いたら、まず前の客との間に茶碗をおいて「お相伴いたします」と挨拶し、続いて、後の客との間にお茶碗を置いて「お先に」と挨拶します。
「お先に」は一番初めの三河が言っていたので光蟲も真似できましたが、「お相伴いたします」は正客は言わないセリフなので、あらかじめ知っていなければ出てこないフレーズです。
紅葉が色づき、夜はたいそう寒くなってまいりました。
喫茶店で飲むブレンドコーヒーに、一層のありがたみを感じる季節でございます。お洒落なカフェや喫茶店でゆったり過ごすのも結構でございますが、本日は年に一度の機会ですので、どうぞコーヒーではなくお抹茶を、ごゆっくりお召し上がり下さいませ」
コーヒーではなく、の部分を少しだけ強調して発した効果か、その場にどっと笑いが生まれた。光蟲はいつもの半笑いを浮かべ、浅井も品よく微笑んでいる。
茶道経験者たる正客がこの冗句じみた挨拶をいかに受け取るか不安があったが、幸いにも笑顔を見せており、そこに怒りや軽蔑はないと都合よく解釈した。
「それでは、少々お早めとは存じますが、お手元のお菓子をお取り回しください」
正客が隣に座る次客(光蟲)に「お先に」と一礼し、光蟲も真似て一礼する。
「本日のお菓子は、『すや』の栗きんとんでございます」
亭主の東が正客用のお茶を点てるまで、ここからしばらく間がある。この間をどのように展開するか、半東として腕の見せどころだ。
昨日は、舞い上がってほとんどまともに会話ができなかった。しかし、今日はそんな気はしない。あれこれと話しまくる必要はないが、客を不快にさせない限りは自由に局面を動かせるこの数分間は、存分に個性を表出できる。
「お正客様も、茶道部の方でいらっしゃいますか?」
手始めに、正客の女性に声をかける。やはり、ここから展開していくのが自然だと感じた。
「はい、武蔵野大学裏千家茶道部二年の三河と申します。いろんな大学のお茶会に伺っておりまして、こちらには昨年もお邪魔しました」
「そうでしたか。二年続けてお越しいただき、ありがとうございます」
「亭主さんも半東さんも男性で、新鮮に感じますね」
三河は、率直な興味に突き動かされたようなナチュラルな微笑を湛えている。
「ありがとうございます。確かに、どこの大学も女性部員が多い茶道部としては珍しいかもしれません」
三河に返答しつつも、他に九名の客がいることを忘れぬよう、私は全体に向けて笑みを返す。
「茶道のお点前というのは、馴染みの薄い方からしますといったい何をやっているのだろうかとお思いでしょうが、ひとつ、興味深いことがございます」
全員に視線を送りながら、切り札となるべき一手を切り出す。
「釜のお湯を掬うあちらの柄杓ですが、我々裏千家においては、場面に応じて三種類の扱い方がございます」
三河は当然知っているはずなので自然な顔でうなずいており、他の面々も真剣な表情を浮かべている。
「それぞれ、置き柄杓、切り柄杓、引き柄杓という名称なのですが、“置き”・“切り”・“引き”といえば、お客様でしたら何を思い浮かべますか?」
右手をすっと出しながら、私はちょうど真ん中どころに座っている浅井に尋ねた。
遠目には気付かなかったが、今日の浅井は珍しくリップグロスをほんの薄く塗布している。厚すぎず薄すぎずの彼女の唇に、それは適度な色気をプラスさせていた。
「あっ、えっと……どれも囲碁用語にありますよね」
自分に振られるとは思っていなかったという様子で一瞬驚くも、浅井はすぐに平静を取り戻して的確な返答をする。
「その通りです。偶然にも、“置き”・“切り”・引き”、すべて囲碁の専門用語にございまして、大変よく使われます」
一同、声をもらしながら頷く。光蟲も、感心した様子で同様の反応を示している。
「ちなみに、囲碁は茶道以上にふれたことのない方が多いかと存じますが、黒と白の石を交互に打ち合うゲームです。オセロと異なり、裏返しても色はそのままです」
囲碁について未経験者に説明する際には(私の中では)定型とも言える文言であったが、裏返すゼスチュアを加えた効果か、客席は冒頭と同程度の笑いに包まれた。
「先ほど話しました柄杓の用語についてですが、調べてみたものの、特に関連性は見つかりませんでした。また私事ではありますが、囲碁部の部長も兼任しておりまして、稽古の時からこの柄杓の名称については気になっておりました。ちなみに、先ほど答えて頂いたお客様は、同じ囲碁部の後輩になります」
再度右手を出し、浅井を他の九人に紹介すると、浅井は面映ゆそうに顔をほころばせる。
不特定多数の人が集まる茶席でこのように特定の知人を取り上げて話すことが適切かどうかは分からなかったが、席の雰囲気を損ねている感はないので大丈夫だろう。
私のトリッキーなフリートークが終わるころ、東が正客用のお茶を点て終えた。
私は立ち上がり、東の横に移動して座る。そしてお茶碗を持ち、再び立ち上がって正客(三河)の前に運ぶ。
「お茶をどうぞ」
一礼。指先が乱れず、揃っていることを確認する。
「お先に」
三河が次客(光蟲)に軽く一礼すると、彼も慌てて礼を返した。
「お点前頂戴いたします」
彼女の言葉を受け、東と私が同時に一礼する。
「本日はまことに勝手ながら、三客様以降は点出し(水屋で点てたお茶を出すこと)にて失礼します」
続いて、次客用のお茶も同様にして、光蟲の前に運ぶ。
「お待たせいたしました。お茶をどうぞ」
互いに一礼。互いに半端な笑みは作らず、目下の状況を味わう。
さすがに、「お相伴いたします」(※)は抜かしていたが、先の三河を真似て「お先に」と「お点前頂戴いたします」の二つをクリアして抹茶を飲んでいる。変に周囲を意識し過ぎず、環境に順応できるところはさすが光蟲だ。
そういえば以前彼と飲んでいた際、「俺は人見知りとかいっさいしないわ」と、日本酒で顔を赤くして話していた。光蟲いわく、繊細さや感受性が致命的に欠落しているためだと話していたが、私は彼のそういうところを気に入っているし――そもそも、彼にそれらが欠落しているとは思っていないのだが――、間違いなく生きていく上でのストレングスであり、私は憧憬の念を抱いている。
次客への提供が終わると、順に水屋から点出しで運ばれた。
浅井も慣れない手つきで、しかし真剣にお茶碗を扱っている。茶碗の正面に口をつけるのを避けるという理由を知っていたかどうか分からないが、浅井を含めた多くの客が、口をつける前に九十度回すプロセスを経ており、私は思わず舌を巻いた。
「皆様。本日は、まことにありがとうございました。どうぞお気を付けてお帰りくださいませ」
もう当分、慣れた人以外とは話したくないなと思い、内心で大きくため息をつきながら、笑顔で客たちを見送った。
* *
※「お相伴いたします」…前回記したように、フォーマルな茶席では最上位の客である正客が一番上座に座ります。
その正客とともにもてなされる連れの客や同席する客のことを、「相伴」と呼びます。また茶席で正客以外、つまり次客から末客までが座る場所のことを「相伴席」といいます。
最初に正客がもてなされた後、二番目の次客以降の客にも順番にお茶が出されます。出されたお茶をいただく時、まず上座の人に掛ける挨拶の言葉が「お相伴いたします」なのです。
お茶が届いたら、まず前の客との間に茶碗をおいて「お相伴いたします」と挨拶し、続いて、後の客との間にお茶碗を置いて「お先に」と挨拶します。
「お先に」は一番初めの三河が言っていたので光蟲も真似できましたが、「お相伴いたします」は正客は言わないセリフなので、あらかじめ知っていなければ出てこないフレーズです。
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