半笑いの情熱

sandalwood

文字の大きさ
上 下
37 / 94
2010年・秋

第37話「ひとときの芸術」

しおりを挟む
 午後に入っても客は途切れることなく盛況だが、おおむね予定通りに進行していた。
 私の出番は一番最後なので、気持ちを整理する時間は十分にある。目を閉じ、全体の流れをイメージする。客席に浅井や光蟲が座っている姿を思うと、ふと半笑いがこぼれてきた。
 
 私の土俵だ。暗記だけでどうにかなるものではないものの、様々なケースを想定し、シミュレイションしておくことはできる。むろん、お菓子や道具――特にお茶碗は客が直接触れるため、何かと質問を受けることが多い――については安定した説明ができるよう、今一度再確認する。
 そして、新たに導入する"私らしさ"という秘策。昨日、ルノアールでまとめ直したメモを確認し、後は本番を待つだけだ。

「よし、いよいよ次で最後だな」
 東は、本日だけで三席も半東を務めている。
「お互い、悔いの残らないように頑張ろう」

 午前中は少し暑いぐらいだったが、午後に入ると暑さは和らぎ、でも肌寒いわけでもなく理想的な気候だ。
 水屋から覗くと、すでに客は待機していた。午前に亭主で入った時ほどの人数ではなさそうだった。浅井と光蟲の姿もあり、光蟲はどういうわけか――おそらく偶然だろう――次客じきゃく席(※1)にいた。

 菓子器を持ち、水屋から茶席に入る。視線と表情を一定に保ちながら、正客しょうきゃく(※2)の前に置く。一礼。
 一手一手、流れ作業にならないよう慎重にこなす。背を向けて水屋に戻る際、浅井と光蟲がそこにいる安心感を享受した。
 東とともに再度入り口につき、席入り。次客茶碗を所定の場所に置き、正客のほうに向き直し、一礼。

 正客は、他大学の茶道部員と思われる女性で、扇子や懐紙かいし(出されたお菓子をのせるための和紙)を持参していた。三客さんきゃく以降も、三十代くらいまでの比較的若い客が多い。指輪や腕時計を付けたままの人もおり――お茶碗をはじめ、茶道具に触れると傷つけてしまう恐れがあるので、これらは本来外しておくことが望ましい――、あまり茶道に馴染みのなさそうな面々といえる。
 ちょうど十名。午前の席と異なり、気心の知れた人がいるぶん様相はかなり異なるが、それでもこの十人が集結した席が、今この時しかない芸術であることは変わらない。彼らが、このひとときを多少とも幸福なものとして感じられるよう努めたいと思った。

「本日はソフィア祭茶会にお越しいただき、まことにありがとうございます」
 手始めに、正客へ向けて挨拶する。

「お招きいただき、ありがとうございます」
 正客の女性が、丁重に一礼する。

 この後の全体に向けての挨拶で、私は奇策を企てていた。

 * *

 ※1:次客…正客の隣の席に座る人を指す。
 正客ほど茶道の知識は要求されないものの、正客の次に重要な客となり、場合によっては正客と同等の知識をもつ人が次客席に座る場合もある。

 ※2:正客…茶会に招かれた客の代表となる人で、茶席では最も上位の席に座る人を指す。
 他の客に代わって招かれたお礼を言ったり、タイミングに合わせて当日に用意されている抹茶や茶道具、掛け軸やお花について尋ねるような役割がある。

 茶道に馴染みのない方には分かりづらいかと思いましたので、補足説明を記しました。
 次客の隣の三客以降のお客さんは基本的に主催側と会話をすることはなく、初心者でも参加しやすい席となっています。そのため、未経験の方や馴染みの薄い方は三客以降に座るのが普通です。

 とは言え、上記は正式な茶会においての慣習で、大学生が文化祭で行うような席でしたら、そこまで深くこだわる必要はないだろうと思われます。正客の役割なども絶対ではありません。その席に入ったお客さん全員が茶道未経験者、なんてことも十分考えられますからね。

 なんにせよ、お客さんは茶道の知識の有無などに関わらず、気楽に、肩の力を抜いて参加して良いのです。皆さん、ぜひ大学や高校の文化祭などで行われるお茶会に足を運んでみて下さい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

君が人生の時

sandalwood
現代文学
日常の「初めて」に対して人一倍慎重になり、警戒心を抱きながら安定した暮らしを求めてきた主人公。 最愛の恋人である由夏と別れてからの生活は、無難ではあるものの失望で色付いていた。 そんな中、行きつけの書店で手に取った囲碁雑誌の記事に、彼ははっと胸を衝かれる。 囲碁ファン並びに浜省ファン必読の短編恋愛小説。

噛ませのプライド

コブシ
現代文学
負け続けの噛ませ犬ボクサー弘。 思いがけない女性との出会い。 神様のいたずら。 そして運命のゴングが鳴る。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

漆黒の碁盤

渡岳
歴史・時代
正倉院の宝物の一つに木画紫檀棊局という碁盤がある。史実を探ると信長がこの碁盤を借用したという記録が残っている。果して信長はこの碁盤をどのように用いたのか。同時代を生き、本因坊家の始祖である算砂の視点で物語が展開する。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

教え子に手を出した塾講師の話

神谷 愛
恋愛
バイトしている塾に通い始めた女生徒の担任になった私は授業をし、その中で一線を越えてしまう話

これも何かの縁(短編連作)

ハヤシ
現代文学
児童養護施設育ちの若夫婦を中心に、日本文化や風習を話題にしながら四季を巡っていく短編連作集。基本コメディ、たまにシリアス。前半はほのぼのハートフルな話が続きますが、所々『人間の悪意』が混ざってます。 テーマは生き方――差別と偏見、家族、夫婦、子育て、恋愛・婚活、イジメ、ぼっち、オタク、コンプレックス、コミュ障――それぞれのキャラが自ら抱えるコンプレックス・呪いからの解放が物語の軸となります。でも、きれいごとはなし。 プロローグ的番外編5編、本編第一部24編、第二部28編の構成で、第二部よりキャラたちの縁が関連し合い、どんどんつながっていきます。

秘密のキス

廣瀬純一
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

処理中です...