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第三章 夢の深淵編
28話目 二人、綻びを綴る(二)
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見藤は歩きながら思考を巡らせる――。
視界が暗転するまでの一瞬、見藤が目にした霧子の姿。その姿は皆が知る、彼女の姿とは少し違っていた。
恐らく、霧子は自身の異変を感じて咄嗟に姿を隠そうと、こうして社へ戻ったのだろう。ところが、どういう訳か見藤も一緒に連れて来てしまった、と考えるのが妥当か。その理由は分からない。
二十数年、霧子と共に時間を過ごした。だが、見藤が人から祀られている怪異の社の中。それも神域とされるような場所へ足を踏み入れることなど、一度もなかった。それが意味するのは、この状況は異常事態だということ。
(霧子さんの身に、何が起こっているのか――。確かめないと)
斑鳩からの電話の内容など、とうに頭から消え去っていた。
「……くそ」
思わず悪態をついた。
歩いても、歩いても、濃霧は晴れることなく周囲を覆い隠し、見藤を拒絶しているかのようにも思える。しかし、この場に連れてきたのは霧子だ。それはまるで霧子の意思と、それに相反するものが働いているかのようだ。
見藤は歩みを止めることはない。あの瞬間は霧子の姿に視線を取られた。だが、冷静に思い返せば、見藤の腕を掴む瞬間。彼女は戸惑いと、見藤に懇望するような表情をしていた――。
「俺がもっと――」
言葉を交わしていれば、そう思わずにはいられない。
ことの発端は、覚の子――。いや、既に成体だと霧子は言っていた。人の心を読む妖怪、覚である沙織が見藤の元を訪ねて来たことだった。
霧子は見藤に自分以外の怪異や妖怪の痕跡、その傍に近寄ることを酷く嫌う。それは最早、霧子という怪異が持つ性分なのだろう。
人の世で生きていくことを選んだ沙織を、子どもであり庇護するべきだと主張した見藤と、妖怪として成体である、人で言えば大人であると主張し拒絶する霧子。
人と怪異、異なる尺度で物事を捉えた末に起こった、仲違いだった。
それから、見藤は沙織が事務所に出入りできるよう、霧子を説得したつもりだった。しかし、見藤の主張と、霧子の思いが全く別の方向を向いていたことに、終に気付くことはなかった。
そうして起こった、駅構内での暴漢事件。見藤の身を心配し、怪異としての姿で無事を確かめに出てきた霧子。それは一瞬ではあったものの、霧子の想いを示すには十分だった。
そこでふと、見藤は思考を止めた。
(そうだ、あの時……。一瞬ではあったが、霧子さんは怪異として人の集団の前で姿を現した――)
大多数の人間は怪異をその目で視ることは叶わないだろう。しかし、それがメディア媒体として記録され、霧子の怪異としての姿が広まっていたのだとしたら――。あの時、懸念していたことが現実となったのだとすれば――。
見藤は現代における情報の跳躍的性質を理解していなかった。彼の与り知らぬ場所で、霧子という怪異の存在は姿、人格でさえも集団認知に書き換えられようとしていたのだ。
事実に辿り着いたとき、見藤は己の無知と有象無象の俗衆に憤激した。
「くそっ……! 集団認知が集約された結果かっ……」
怪異は認知によって、存在を左右される。それは人々から奉られ社を得ていたとしても、見藤が例の眼の力を譲渡し彼女と契りを結んでいたとしても、及ばない。
――まるで集団認知には敵わないのだと、見藤を嘲笑っているかのようだ。
そして、それは望まぬ力を怪異に与えることを見藤は知っている。まだ少年だったあの頃、霧子から聞かれた彼女の哀しい過去だ。
それが再び、起ころうとしているのであれば――。今でも鮮明に覚えている、過去を話す彼女の悲しげな表情、静かに流す涙。
(……霧子さんに、そんな思いをさせたくない)
斑鳩から言われた言葉に「その傷跡が欲しい」と無責任にも望んだ。だが、それは共に時間を過ごした『霧子』であるからだ。どこぞの誰が、彼女の存在を書き換えてしまった怪異ではない。そんなものにくれてやる命はない、と見藤は目付きを鋭いものに変える。
「急がないと」
もう幾分の猶予は残されていない。今、こうして立っていられるのは、霧子が集団認知によって存在を書き換えられようとしているのを、必死に耐えているからだと想像に容易い。
見藤は奥歯を噛み締めると、その歩みを速めた。
すると鼻につく、ごく僅かな血の匂い。神経が張り詰めているから気付いたのか、霧の流れに乗ってきたのか、最早どちらでもいい。
見藤はその方向へ走り出した――――。
視界が暗転するまでの一瞬、見藤が目にした霧子の姿。その姿は皆が知る、彼女の姿とは少し違っていた。
恐らく、霧子は自身の異変を感じて咄嗟に姿を隠そうと、こうして社へ戻ったのだろう。ところが、どういう訳か見藤も一緒に連れて来てしまった、と考えるのが妥当か。その理由は分からない。
二十数年、霧子と共に時間を過ごした。だが、見藤が人から祀られている怪異の社の中。それも神域とされるような場所へ足を踏み入れることなど、一度もなかった。それが意味するのは、この状況は異常事態だということ。
(霧子さんの身に、何が起こっているのか――。確かめないと)
斑鳩からの電話の内容など、とうに頭から消え去っていた。
「……くそ」
思わず悪態をついた。
歩いても、歩いても、濃霧は晴れることなく周囲を覆い隠し、見藤を拒絶しているかのようにも思える。しかし、この場に連れてきたのは霧子だ。それはまるで霧子の意思と、それに相反するものが働いているかのようだ。
見藤は歩みを止めることはない。あの瞬間は霧子の姿に視線を取られた。だが、冷静に思い返せば、見藤の腕を掴む瞬間。彼女は戸惑いと、見藤に懇望するような表情をしていた――。
「俺がもっと――」
言葉を交わしていれば、そう思わずにはいられない。
ことの発端は、覚の子――。いや、既に成体だと霧子は言っていた。人の心を読む妖怪、覚である沙織が見藤の元を訪ねて来たことだった。
霧子は見藤に自分以外の怪異や妖怪の痕跡、その傍に近寄ることを酷く嫌う。それは最早、霧子という怪異が持つ性分なのだろう。
人の世で生きていくことを選んだ沙織を、子どもであり庇護するべきだと主張した見藤と、妖怪として成体である、人で言えば大人であると主張し拒絶する霧子。
人と怪異、異なる尺度で物事を捉えた末に起こった、仲違いだった。
それから、見藤は沙織が事務所に出入りできるよう、霧子を説得したつもりだった。しかし、見藤の主張と、霧子の思いが全く別の方向を向いていたことに、終に気付くことはなかった。
そうして起こった、駅構内での暴漢事件。見藤の身を心配し、怪異としての姿で無事を確かめに出てきた霧子。それは一瞬ではあったものの、霧子の想いを示すには十分だった。
そこでふと、見藤は思考を止めた。
(そうだ、あの時……。一瞬ではあったが、霧子さんは怪異として人の集団の前で姿を現した――)
大多数の人間は怪異をその目で視ることは叶わないだろう。しかし、それがメディア媒体として記録され、霧子の怪異としての姿が広まっていたのだとしたら――。あの時、懸念していたことが現実となったのだとすれば――。
見藤は現代における情報の跳躍的性質を理解していなかった。彼の与り知らぬ場所で、霧子という怪異の存在は姿、人格でさえも集団認知に書き換えられようとしていたのだ。
事実に辿り着いたとき、見藤は己の無知と有象無象の俗衆に憤激した。
「くそっ……! 集団認知が集約された結果かっ……」
怪異は認知によって、存在を左右される。それは人々から奉られ社を得ていたとしても、見藤が例の眼の力を譲渡し彼女と契りを結んでいたとしても、及ばない。
――まるで集団認知には敵わないのだと、見藤を嘲笑っているかのようだ。
そして、それは望まぬ力を怪異に与えることを見藤は知っている。まだ少年だったあの頃、霧子から聞かれた彼女の哀しい過去だ。
それが再び、起ころうとしているのであれば――。今でも鮮明に覚えている、過去を話す彼女の悲しげな表情、静かに流す涙。
(……霧子さんに、そんな思いをさせたくない)
斑鳩から言われた言葉に「その傷跡が欲しい」と無責任にも望んだ。だが、それは共に時間を過ごした『霧子』であるからだ。どこぞの誰が、彼女の存在を書き換えてしまった怪異ではない。そんなものにくれてやる命はない、と見藤は目付きを鋭いものに変える。
「急がないと」
もう幾分の猶予は残されていない。今、こうして立っていられるのは、霧子が集団認知によって存在を書き換えられようとしているのを、必死に耐えているからだと想像に容易い。
見藤は奥歯を噛み締めると、その歩みを速めた。
すると鼻につく、ごく僅かな血の匂い。神経が張り詰めているから気付いたのか、霧の流れに乗ってきたのか、最早どちらでもいい。
見藤はその方向へ走り出した――――。
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