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第二章 怪異変異編
20話 凶兆、現る(三)
しおりを挟む神獣白澤は生まれながらにして神獣だった。
どこで生まれ、何故そう在ったのか、分からない。だが、己の存在意義と、この世における役割は既に理解していたのだ。人の前に姿を現し、知識を授ける。そうすることで「人」という脆弱な種を存続させる役割の一端を担っていたと『彼』は記憶していた――。
ある時代では、神獣白澤は優れた為政者の治世に姿を現すとされ、妖異鬼神の知識について語り、世の害を除くため忠言したとされている。それにより「人」という種は害を成す者から身を守り、病による苦しみ、飢餓による苦しみとも無縁に暮らせると、白澤は信じていた。
しかし、人は人だ。白澤が授けた知識によって数多の戦が起きた。人は自ら苦しみの中へと突き進んでいくのだ。その愚かさに、同胞である麒麟や鳳凰はとうに姿を隠してしまった。
白澤は最後まで、人を見捨てることが出来なかったのだ。しかし、それが災いした。
人の欲にあてられたのだ。知識欲、好奇心、支配欲、その欲は数えきれない。いつしか己の本来の姿も、役割も忘れてしまった。――そうして、神獣白澤は神とも、妖ともとれぬ曖昧な存在に成り果ててしまったのだろう。
すると『彼』は人の世で起こる奇妙な事象を知る。
不思議な力を宿す眼を持つ者が数世紀に一度、現れるようになった。その眼は宿す者によって色も、力も異なっていた。時代、血筋、全てにおいて共通項はなく、まるで神が不意にその大いなる力を落としてしまったかのような――。
元より妖怪、怪異と人の距離が近かった時代だ。その話は瞬く間に、怪異たちの間で口承されるものになった。実際、その眼を食らった妖怪がいたそうだ。その後どうなったのか、何か力を得たのか、はたまた何も変わらなかったのか――、遠く離れた地にいた白澤は知らぬままだった。
流れる時と共に、まるで病のように心を蝕む――『欲』。
そして『彼』は思い至ったのだ。人の欲に晒されたのであれば、人を薬とすればどうか、と。毒を以て毒を制すとは、このことである。
そして、手始めに人の認知から生まれ出でる怪異の摂理を書き換えようとしたのだ。人の知識欲、好奇心という『欲』から生まれる怪異は『彼』にとって、良い実験体だったのだ。次第に、妖怪や人へと段階は移り変わっていった――。
そして、偶然にも見つけたのだ。例の眼を持つ者を。
伝承であれば、その眼を食らえば力が手に入るというではないか。それを以ってすればこの病も癒せるのだろうか――、と淡い期待を寄せた。途中、例の眼を見失ってしまい、半狂乱になったこともあった。
しかし、更に興味を引いたものがあったのだ。それが強運によって自らの運命すら書き換えてしまった、人の子だ。そして、人の子は見失ったはずの探し物を見つけてくれた――。
◇
「ちと、長かったな」
白沢はそう呟き、見藤を見据える。月明りに照らされた見藤の瞳は、紫黒色をしていた。
その事実に、白沢は首を傾げたのだった。
「お前、あの深紫の眼はどうした? なんや、力がほとんど残っとらん」
「お前には関係ないことだ」
見藤は低い声で静かに、ゆっくりとした口調で答えた。
――何故、神獣がとうの昔に捨てた眼の色を知っているのか。見藤には理解し難いことだった。
だが、この眼に起きたことなど答える義理はない、とでも言うように、見藤は白沢を睨み付けた。
「まぁ、残りカスでも貴重なもんは貴重やからな。もらっとくで?」
――何を?
見藤が白沢の言葉を疑問に思う時間さえもなかった。気付いた時には、手が文字通り目前に迫っていたのだ。眼を抉られる、そう理解した。だが、咄嗟に避けようとする時間はない。
暗転。見藤の名を叫ぶ、久保の必死な声が聞こえた――。
◇
「人のものに手を出す奴は嫌われるわよ?」
見藤の頬に少し冷たい体温が伝わり、耳元で霧子の声がした。依然、見藤の視界は暗闇の中だ。
――間一髪だった。
どこからともなく現れた霧子が、見藤を白沢の魔の手から守ったのだ。彼女は怪異本来の姿をさらけ出し、見藤を腕の中に閉じ込めている。その白く華奢な手で、見藤の目を覆い隠したのだった。心なしか、見藤を抱き込む腕には力が入っている。
そして、霧子の反対の手は白沢の手首を掴み上げ、骨が軋む音をその場に響かせていた。しかし、一方の白沢は平然と軽口を叩く。
「おっと、姉さん。新参怪異のくせに、えらい力をつけとる。何ぃ、その男と契ったんかいな」
「……男女の関係を他人が詮索すること程に、野暮なものはないわよ」
霧子がそう言い放つと、白沢の手首はあらぬ方向を向いていた。
だが、彼は痛みなどさも感じないような素振りで、相変わらず不気味な笑みをたたえている。その視線は外されることはなく、じっと見藤を見ている。
そうして、白沢は気付く。何故、例の眼の存在を見失ってしまったのか。
―― 久保と見藤が出会った所は視えていた。しかし、その眼の力が極限まで失われていることは把握できなかった。それはこの女怪異によって隠されていたのだ、と。例の眼を持つ者を探し出そうとすると、濃霧によって視界が遮られていたのだ。
ここで初めて、白沢の笑みが消えた。
すると、霧子の腕の中から消え入りそうな声が上がる。
「……、霧子さん」
「あ、悪いわね」
「…………」
見藤の申し訳なさそうな声を聞き、霧子はようやく目を覆っていた手をずらした。が、離れるのが名残惜しいのか、その手は離れ際に見藤の頬を撫でていく。
手を視線で追っていた霧子は、見藤のこめかみに作られた血痕を目にする。途端、彼女の瞳孔が蛇のように変わった。それは、見藤が何者かによって傷つけられたことに対する怒りだろう。
霧子は決して、腕の中から見藤を解放しようとしなかった。
一方の見藤は、なんとも言い難い表情を浮かべていた。
――霧子に守られている。その状況を情けなく思い不服そうな。しかし、この状況から離れがたいような。
二人の様子を目にした白沢は、先程の軽口は事実であると察し、鼻で笑った。
「はっ、見せつけてくれるわ」
白沢がそう悪態をつくと同時に、霧子によってへし折られた腕とは逆の腕が見藤に向かう。
しかし、その腕を防いだのは火車の姿をした猫宮だった。大きな口と立派な牙を剝き出しにし、白沢へ掴みかかったのだ。
それには白沢も思わず人の姿ではなく、また別の姿だろうか。今度は獅子のような獣の姿を取り、空を駆けた。それを猫宮が追う。
「なんや、あのおっさん。えらい怪異に好かれとるなぁ」
「お前には関係ないことだな」
猫宮は白澤の軽口に応じるつもりは、さらさらなかった。
◇
地上に残された見藤と久保は、緊張の糸が解けたように息を大きく吸った。そして、霧子はやっと見藤を解放し、こめかみに付着した血を拭ってやっている。
その様子を確認すると、煙谷は地面に横たわる男を担ぎ上げ適当な場所に転がした。彼は猫宮に押し潰され、知らぬ間に気絶していたようだ。
猫宮が獣の姿をした白澤と空で戦いを繰り広げている最中。煙谷は地上で呑気に煙草を吸っていた。
いつものように飄々としている煙谷を目にした見藤は、思わず声音厳しく声を掛けた。
「おい、お前はあれと交戦しないのか」
「いやぁ、俺はただの煙の怪異だよ?無理でしょ」
「煙々羅のくせによく言うよ」
煙谷の呑気な返答に、見藤は呆れた顔をしたのだった。
煙谷と猫宮、煙々羅と火車。どちらも地獄とに所縁のある妖怪だ。そのような妖怪が揃い、神獣である白澤の悪行を制裁しようとしているのかと、流石の見藤もことの大きさに肩を竦めた。――この依頼は最初から、煙谷によってお膳立てされていたのかもしれない。
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