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3章
2話 盃
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「僕は、長岡さんの意見に賛成です」
二人きりになったところで、開口一番そう告げると、案の定、高階は苦り切った顔をした。
「随分きっぱり言うのね。あれほどアートを愛していたあなたが」
「ええ。昔の僕なら、間違いなく反対していたと思います。アートより素晴らしいものはこの世に存在しない。アートを守るためなら、たとえ何百人、何千人と犠牲が出ても構わない――そう、綺麗に割り切っていたと思います」
実際、海江田が一連の事件で多くの死者を出したときも、その圧倒的悲劇を前に凪の心はそよとも揺るがなかった。
名前どおりの凪の海。いや、それを言えばこれまでの人生で、凪の心が波立ったことは一度もない。施設時代は……確かに、いろいろなことがあった。それが凪の、世界に対する絶望を完成させたのは間違いない。自身の容貌への嫌悪も。
それでも、心は常に凪いでいた。水素すら凍る絶対零度の中で、一切の願いも、感動すらも抱くことなく生きていた。
なのに今、凪の心には確かに波が立っている。優しく浜辺を洗う無数の漣。
「もちろん、カードとして残す方法も検討すべきだと思います。ですが、もはや遺すべき人類の資産として特別扱いをすべきではない。今はただ、渡良瀬さんを抑えるための道具だと割り切るべきです。……不破さんの親友だったあなたには、正直、心苦しい話でしょうけど」
すると高階は小さく溜息をつくと、椅子の背凭れをそっと撫でた。
「いいの。この椅子についた時から、いずれ向き合う問題だと覚悟していたわ。確かに……光代は素晴らしいアーティストだった。知り合った時にはもう、あの子のアートは私でも触れられないほど遠く離れていたけれど、キャンバスに向き合うあの子の姿は、間違いなく、真摯にアートに向き合う人間のそれだった。……誰にも見せることのできないアートを、触れてすらもらえないアートを、それでも毎日、真摯に描き続けたあの子を私は今でも尊敬しているわ。でも……それと今回の問題は別よ。今の私には、この協会を、ギフテッドを守る責任がある」
酒が欲しいわね、と呟くと、高階は書架の隅から洋酒の瓶を取り出す。来客からは本に隠れて見えない場所に置かれたそれは、高階が隠し持つ脆さの象徴、という感がした。それを高階は、やはり同じ場所に隠し持っていた二つのグラスに注ぎ、一つを凪に差し出してくる。
「本当はね、私、ずっとあの男に嫉妬していたの」
「嫉妬……?」
「そう。結局最後まで、私は光代の作品に触れることができなかった。彼女が旅立ったあとも、可能なかぎり審美眼を鍛えて、折に触れてはあの子の作品に挑んだのだけど、それでも駄目だった。ほんの一部を目にしただけで、ああ、これは死ぬ、と本能が警告するのよ。……そのたびに、光代の世界に触れることを許されたあの男に私は嫉妬したわ。おそらく今も、その嫉妬が私の決断を鈍らせている。ここで光代のアートを破壊すれば、私は、いよいよ負けを認めることになる」
笑ってちょうだい、と、高階は自嘲気味に笑う。が、今の凪にはとても笑えない。昔の彼なら笑っていたかもしれない。くだらない感情だと冷ややかに突き放していたかもしれない。でも今は、高階の苦悩が手に取るようにわかるのだ。もし、海江田のアートが、不破のそれと同じようにはるか彼方にあったなら――そこに、自分以外の誰か一人が触れることを許されたなら、やはり、狂おしいほどに心を乱されていただろう。
「……とりあえず、渡良瀬さんにメッセージを出しましょう。次に何らかのアートテロを起こした場合、不破さんのアートを破壊する、と」
「そう……結局、それが正しいのよね」
「何が正しいかなんて、この際、問題じゃありませんよ。現状、あの人を止めるには今はこの方法しかない、というだけの話です」
むしろこの状況では、下手に正しさを求めるべきではないと凪は思う。少なくとも、長い長いアートの歴史を俯瞰すれば、この選択は何をどう言い訳しようと間違っているのだ。不破光代のアートは、本来、一点も取りこぼすことなく後世に届けなくてはならない。それは、凪もキュレーターとして痛いほど理解している。
それでも今は、この世界を守らなくては。あの子も生きるこの世界を。
「ただ……言葉だけではあの人は僕らの言葉を信用しない。こちらの覚悟を示すためにも、まずは一点、不破さんの作品を壊し、それを動画なりであの人に見せる必要があるでしょう」
すると高階は、一瞬ぎょっとし、改めて苦しそうな溜息をつく。そこには、不破の友人というだけではない、責任者としての苦悩が滲んでいた。
「そうなると……問題は、誰がその役目を担うか、という話よね」
「ええ」
そう、この問題におけるもう一つの大きな問題。要するに……一体誰が、この役目を引き受けるのか。キュレーターですら、うっかり目にすれば命を落とすアート。それを破壊する瞬間を映像に収める。その、大きな危険を伴う作業を、一体、誰が担えるのか。
だが凪は、すでに答えを出している。
「僕がやりますよ」
「えっ? ……あなたが?」
「ええ。というより、僕以外に適任はいないでしょう。ここでは随一の高い審美眼。それに……たとえ命を落としたところで、とくに悲しむ家族もいない」
――俺は、あくまでもギフテッドとして、あなたのそばにいたい。
ふと脳裏をよぎった言葉を、凪は、気付かなかったふりで笑みを保つ。そう、これが、現状取りうる最良の選択なのだ。例えば、言い出しっぺの長岡には何があろうと任せられない。彼の二人の子供は、まだ小学校にも上がっていないのだ。その点、家族も持たず、また持つ予定もない凪はうってつけの人材だろう。
「そういう言い方はやめて」
グラスから顔を上げた高階が、咎めるように凪を睨む。
「私は、悲しいわよ。あなたは、自分が築いたものをいつも軽く見積もるけど」
「すみません。でも、どうせ誰かが負わなきゃいけないなら」
手元の酒を一気に飲み干すと、グラスをローテーブルに置き、踵を返す。
酒の味もそれに料理の味も、凪にはよくわからない。ただ、酒好きの高階が隠し持っていたぐらいだ。一応、上等な酒ではあるのだろう。最後に、いいものを口にできてよかった。
「待って! それであの人が止まるとは限らない!」
「ええ。ですが、少なくとも可能性の一つは潰せます。とにかく今は、一つでも多くの方法を試すことです。……もし、これであの人が止まらなかったとして、その時はその時だ。生き残った人間が、僕の屍を踏み越えて戦ってくれればいい」
「な……何か、ないの? あなた、仮にもスパイだったわけでしょう? あの人との独自のコネクションなり、意思疎通を図る方法なり――」
「あったら、今日のような醜態は晒しちゃいません」
肩越しに振り返り、ほろ苦く笑う。
「あの人には、もうずっと、海江田くんの作品をデジタルデータで渡すよう求められていました。おそらく本来は、それを今回のテロに用いるつもりだったんでしょう。でも、僕は彼の要求を拒んだ。その時点で、あの人との繋がりは切れています。それに……あなたを前にこんな言い方も何ですが、やはり不破さんの作品は、この世界にあってはならないんです。キュレーターとしてではなく、今を生きる人間として、今は、そう思うんです」
胸に立つ漣は、なおも止む気配を見せない。あの子の生きる世界を守れと、祈るように囁き続けている。
「わ……わかったわ。じゃあ私は、倉庫から光代の作品を一つ、運び出してきます。一時間後にここで……それで構わないかしら」
「ええ、構いません」
言い残すと、凪は所長室を出る。
エレベーターに乗り、指先が当たり前のように七階――海江田の居住階のボタンを押そうとするのを思い留まる。駄目だ。ここであの子に会う訳にはいかない。会えばあの子は事情を聞きたがるし、聞けば……必ず、代わりを申し出てくる。自分が奪った命のためだのと言って。それだけは、認めるわけにはいかない。
代わりに凪は自分の部屋に戻ると、まずはコーヒーで酒精を飛ばす。それから、普段はカラスの行水で済ませるシャワーをあえてゆっくりと浴びた。食事と同様、こちらもすっかり雑に済ませることを覚えた身体を押し留めながら。でも、いざゆっくり浴びようとすると、これも難しい。一度身体に染みついたリズムに抗うことの、何という難しさ。
ようやくシャワーを終えると、洗面台で髭を剃り、丁寧に髪を乾かして撫でつける。クローゼットからクリーニングを終えたばかりのシャツとスーツを選び、袖を通す。動画に撮られるなら見苦しい恰好は避けたい。何より……これが事実上の死に装束になるのだ。
着替えを終えると、改めて凪は姿見の前に立つ。
普段は決して口にしないが、綺麗な男だと自分でも思う。ただ、そんな自分の外見を誇らしいと思ったことは一度もない。街行く女が――時には男すらも向けてくる不躾な眼差し。いや、そんなものはまだ可愛い方だ。幼少期を過ごした保護施設では、この外見のせいで、見目の良い子供が遭遇しうるあらゆる地獄を強いられた。
思えばあの人が、凪に、人としての尊厳を授けてくれたのだった。
保護される前の凪は、支配するか、されるか、その二択の中で生きていた。まるで獣が、群れの中で自分の立ち位置を測るように。〝権威〟、いや〝支配〟のギフトは、そんな暮らしの中で授けられたものだ。体力的にも非力な凪が自分の身を守ろうと思えば、使えるものは何でも使うしかなかった。それが、思いがけず授かった才能であったとしても。
だからあの人に保護された直後、凪は、やはり同じように彼を支配下に置こうとした。それが凪にとって、身の安全を確保する唯一の手段だったから。……が、そもそも彼にギフトは通じない。凪は愕然とした。そして恐怖した。また奪われてしまうのか。この、美しさのせいで――
愕然となる凪に、しかし、あからさまに不快そうにあの人は言った。
――いい気になるんじゃない。この世界は、君なんぞより美しいもので溢れ返っている。
なおも姿見の前で襟を整え、ネクタイの歪みを入念に直す。
あの人にかけられた言葉は、当時の凪には紛れもない救済であり、解放だった。自分のような人間が、貪られずに済む世界がある。生身の人間のそれよりもはるかに高次で洗練された美を共有する世界。全ての人間が彼と同じ美を共有できたなら、そこは、凪にとって本当の意味で安全な世界になる。誰にも愛されない代わりに求められもしない、そんな、穏やかな世界――
なのに。
それを、まさか凪の方から突き放す日が来るとは思わなかった。――否、突き放さざるをえなかった。出会ってしまった以上、その人のために生きるしかない人生があることを、あの子に出会って初めて凪は知った。今回、自分からこの任務を引き受けたのは、ひとえに、あの子が背負おうとするのを防ぐため。律儀なあの子はきっと負ってしまうから。これこそが自分のなすべき償いだと信じて。……違うんだ。海江田くん。そうじゃない。君には、背負わなくてもいい人生がある。だから。
そんな自分を――かつての自分からすれば信じがたいほど愚かな自分を、今は、とても誇らしく感じている。支配するかされるかの二択しか知らなかった自分が、こんな。
「ありがとう」
それが渡良瀬に対する感謝か、それともあの子に対する感謝か、わからないまま凪は呟く。振り返り、部屋の収集品たちをゆっくりと見渡した後で、リビングのもっとも目立つ場所に飾った油彩画に目を止める。
それは、海江田が初めてフリマに出した作品で、キュビスム的表現に日本のポップアートを取り入れた意欲的なものだ。ただでさえ三次元を無理やり二次元に落とし込むキュビスムに、さらに、二次元表現の粋であるジャパニーズポップアートの要素をぶち込むリスキーな賭け。だが、その賭けにこの絵は見事に勝利している。平面的でありながらも立体的。軽薄なようで多面的で奥深い――まさに海江田漣という人間をそのまま映しこんだアートだろう。ただ、モチーフは明らかに凪であり、なのでこれは凪の肖像でもある。
改めて、素晴らしいアートだ、と思う。
だが、漣を除く大多数の人間は、この美に触れることができない。それを、惜しい、と感じながら、まさにこれと同じ悔しさをあの人も味わい続けてきたのだろうと凪は思う。気の毒だ、とも。
それでも、いや、だからこそ、誰かが断ち切らなくてはいけないのだ。もはや呪いと化した夢を。
リビングの電気を落とし、玄関を出る。三十年に満たない人生だったが、それでも、満たされていた。ただ……願わくば、やはり、これからも進化を続けるあの子とそのアートを、そばで見守っていたかった。
二人きりになったところで、開口一番そう告げると、案の定、高階は苦り切った顔をした。
「随分きっぱり言うのね。あれほどアートを愛していたあなたが」
「ええ。昔の僕なら、間違いなく反対していたと思います。アートより素晴らしいものはこの世に存在しない。アートを守るためなら、たとえ何百人、何千人と犠牲が出ても構わない――そう、綺麗に割り切っていたと思います」
実際、海江田が一連の事件で多くの死者を出したときも、その圧倒的悲劇を前に凪の心はそよとも揺るがなかった。
名前どおりの凪の海。いや、それを言えばこれまでの人生で、凪の心が波立ったことは一度もない。施設時代は……確かに、いろいろなことがあった。それが凪の、世界に対する絶望を完成させたのは間違いない。自身の容貌への嫌悪も。
それでも、心は常に凪いでいた。水素すら凍る絶対零度の中で、一切の願いも、感動すらも抱くことなく生きていた。
なのに今、凪の心には確かに波が立っている。優しく浜辺を洗う無数の漣。
「もちろん、カードとして残す方法も検討すべきだと思います。ですが、もはや遺すべき人類の資産として特別扱いをすべきではない。今はただ、渡良瀬さんを抑えるための道具だと割り切るべきです。……不破さんの親友だったあなたには、正直、心苦しい話でしょうけど」
すると高階は小さく溜息をつくと、椅子の背凭れをそっと撫でた。
「いいの。この椅子についた時から、いずれ向き合う問題だと覚悟していたわ。確かに……光代は素晴らしいアーティストだった。知り合った時にはもう、あの子のアートは私でも触れられないほど遠く離れていたけれど、キャンバスに向き合うあの子の姿は、間違いなく、真摯にアートに向き合う人間のそれだった。……誰にも見せることのできないアートを、触れてすらもらえないアートを、それでも毎日、真摯に描き続けたあの子を私は今でも尊敬しているわ。でも……それと今回の問題は別よ。今の私には、この協会を、ギフテッドを守る責任がある」
酒が欲しいわね、と呟くと、高階は書架の隅から洋酒の瓶を取り出す。来客からは本に隠れて見えない場所に置かれたそれは、高階が隠し持つ脆さの象徴、という感がした。それを高階は、やはり同じ場所に隠し持っていた二つのグラスに注ぎ、一つを凪に差し出してくる。
「本当はね、私、ずっとあの男に嫉妬していたの」
「嫉妬……?」
「そう。結局最後まで、私は光代の作品に触れることができなかった。彼女が旅立ったあとも、可能なかぎり審美眼を鍛えて、折に触れてはあの子の作品に挑んだのだけど、それでも駄目だった。ほんの一部を目にしただけで、ああ、これは死ぬ、と本能が警告するのよ。……そのたびに、光代の世界に触れることを許されたあの男に私は嫉妬したわ。おそらく今も、その嫉妬が私の決断を鈍らせている。ここで光代のアートを破壊すれば、私は、いよいよ負けを認めることになる」
笑ってちょうだい、と、高階は自嘲気味に笑う。が、今の凪にはとても笑えない。昔の彼なら笑っていたかもしれない。くだらない感情だと冷ややかに突き放していたかもしれない。でも今は、高階の苦悩が手に取るようにわかるのだ。もし、海江田のアートが、不破のそれと同じようにはるか彼方にあったなら――そこに、自分以外の誰か一人が触れることを許されたなら、やはり、狂おしいほどに心を乱されていただろう。
「……とりあえず、渡良瀬さんにメッセージを出しましょう。次に何らかのアートテロを起こした場合、不破さんのアートを破壊する、と」
「そう……結局、それが正しいのよね」
「何が正しいかなんて、この際、問題じゃありませんよ。現状、あの人を止めるには今はこの方法しかない、というだけの話です」
むしろこの状況では、下手に正しさを求めるべきではないと凪は思う。少なくとも、長い長いアートの歴史を俯瞰すれば、この選択は何をどう言い訳しようと間違っているのだ。不破光代のアートは、本来、一点も取りこぼすことなく後世に届けなくてはならない。それは、凪もキュレーターとして痛いほど理解している。
それでも今は、この世界を守らなくては。あの子も生きるこの世界を。
「ただ……言葉だけではあの人は僕らの言葉を信用しない。こちらの覚悟を示すためにも、まずは一点、不破さんの作品を壊し、それを動画なりであの人に見せる必要があるでしょう」
すると高階は、一瞬ぎょっとし、改めて苦しそうな溜息をつく。そこには、不破の友人というだけではない、責任者としての苦悩が滲んでいた。
「そうなると……問題は、誰がその役目を担うか、という話よね」
「ええ」
そう、この問題におけるもう一つの大きな問題。要するに……一体誰が、この役目を引き受けるのか。キュレーターですら、うっかり目にすれば命を落とすアート。それを破壊する瞬間を映像に収める。その、大きな危険を伴う作業を、一体、誰が担えるのか。
だが凪は、すでに答えを出している。
「僕がやりますよ」
「えっ? ……あなたが?」
「ええ。というより、僕以外に適任はいないでしょう。ここでは随一の高い審美眼。それに……たとえ命を落としたところで、とくに悲しむ家族もいない」
――俺は、あくまでもギフテッドとして、あなたのそばにいたい。
ふと脳裏をよぎった言葉を、凪は、気付かなかったふりで笑みを保つ。そう、これが、現状取りうる最良の選択なのだ。例えば、言い出しっぺの長岡には何があろうと任せられない。彼の二人の子供は、まだ小学校にも上がっていないのだ。その点、家族も持たず、また持つ予定もない凪はうってつけの人材だろう。
「そういう言い方はやめて」
グラスから顔を上げた高階が、咎めるように凪を睨む。
「私は、悲しいわよ。あなたは、自分が築いたものをいつも軽く見積もるけど」
「すみません。でも、どうせ誰かが負わなきゃいけないなら」
手元の酒を一気に飲み干すと、グラスをローテーブルに置き、踵を返す。
酒の味もそれに料理の味も、凪にはよくわからない。ただ、酒好きの高階が隠し持っていたぐらいだ。一応、上等な酒ではあるのだろう。最後に、いいものを口にできてよかった。
「待って! それであの人が止まるとは限らない!」
「ええ。ですが、少なくとも可能性の一つは潰せます。とにかく今は、一つでも多くの方法を試すことです。……もし、これであの人が止まらなかったとして、その時はその時だ。生き残った人間が、僕の屍を踏み越えて戦ってくれればいい」
「な……何か、ないの? あなた、仮にもスパイだったわけでしょう? あの人との独自のコネクションなり、意思疎通を図る方法なり――」
「あったら、今日のような醜態は晒しちゃいません」
肩越しに振り返り、ほろ苦く笑う。
「あの人には、もうずっと、海江田くんの作品をデジタルデータで渡すよう求められていました。おそらく本来は、それを今回のテロに用いるつもりだったんでしょう。でも、僕は彼の要求を拒んだ。その時点で、あの人との繋がりは切れています。それに……あなたを前にこんな言い方も何ですが、やはり不破さんの作品は、この世界にあってはならないんです。キュレーターとしてではなく、今を生きる人間として、今は、そう思うんです」
胸に立つ漣は、なおも止む気配を見せない。あの子の生きる世界を守れと、祈るように囁き続けている。
「わ……わかったわ。じゃあ私は、倉庫から光代の作品を一つ、運び出してきます。一時間後にここで……それで構わないかしら」
「ええ、構いません」
言い残すと、凪は所長室を出る。
エレベーターに乗り、指先が当たり前のように七階――海江田の居住階のボタンを押そうとするのを思い留まる。駄目だ。ここであの子に会う訳にはいかない。会えばあの子は事情を聞きたがるし、聞けば……必ず、代わりを申し出てくる。自分が奪った命のためだのと言って。それだけは、認めるわけにはいかない。
代わりに凪は自分の部屋に戻ると、まずはコーヒーで酒精を飛ばす。それから、普段はカラスの行水で済ませるシャワーをあえてゆっくりと浴びた。食事と同様、こちらもすっかり雑に済ませることを覚えた身体を押し留めながら。でも、いざゆっくり浴びようとすると、これも難しい。一度身体に染みついたリズムに抗うことの、何という難しさ。
ようやくシャワーを終えると、洗面台で髭を剃り、丁寧に髪を乾かして撫でつける。クローゼットからクリーニングを終えたばかりのシャツとスーツを選び、袖を通す。動画に撮られるなら見苦しい恰好は避けたい。何より……これが事実上の死に装束になるのだ。
着替えを終えると、改めて凪は姿見の前に立つ。
普段は決して口にしないが、綺麗な男だと自分でも思う。ただ、そんな自分の外見を誇らしいと思ったことは一度もない。街行く女が――時には男すらも向けてくる不躾な眼差し。いや、そんなものはまだ可愛い方だ。幼少期を過ごした保護施設では、この外見のせいで、見目の良い子供が遭遇しうるあらゆる地獄を強いられた。
思えばあの人が、凪に、人としての尊厳を授けてくれたのだった。
保護される前の凪は、支配するか、されるか、その二択の中で生きていた。まるで獣が、群れの中で自分の立ち位置を測るように。〝権威〟、いや〝支配〟のギフトは、そんな暮らしの中で授けられたものだ。体力的にも非力な凪が自分の身を守ろうと思えば、使えるものは何でも使うしかなかった。それが、思いがけず授かった才能であったとしても。
だからあの人に保護された直後、凪は、やはり同じように彼を支配下に置こうとした。それが凪にとって、身の安全を確保する唯一の手段だったから。……が、そもそも彼にギフトは通じない。凪は愕然とした。そして恐怖した。また奪われてしまうのか。この、美しさのせいで――
愕然となる凪に、しかし、あからさまに不快そうにあの人は言った。
――いい気になるんじゃない。この世界は、君なんぞより美しいもので溢れ返っている。
なおも姿見の前で襟を整え、ネクタイの歪みを入念に直す。
あの人にかけられた言葉は、当時の凪には紛れもない救済であり、解放だった。自分のような人間が、貪られずに済む世界がある。生身の人間のそれよりもはるかに高次で洗練された美を共有する世界。全ての人間が彼と同じ美を共有できたなら、そこは、凪にとって本当の意味で安全な世界になる。誰にも愛されない代わりに求められもしない、そんな、穏やかな世界――
なのに。
それを、まさか凪の方から突き放す日が来るとは思わなかった。――否、突き放さざるをえなかった。出会ってしまった以上、その人のために生きるしかない人生があることを、あの子に出会って初めて凪は知った。今回、自分からこの任務を引き受けたのは、ひとえに、あの子が背負おうとするのを防ぐため。律儀なあの子はきっと負ってしまうから。これこそが自分のなすべき償いだと信じて。……違うんだ。海江田くん。そうじゃない。君には、背負わなくてもいい人生がある。だから。
そんな自分を――かつての自分からすれば信じがたいほど愚かな自分を、今は、とても誇らしく感じている。支配するかされるかの二択しか知らなかった自分が、こんな。
「ありがとう」
それが渡良瀬に対する感謝か、それともあの子に対する感謝か、わからないまま凪は呟く。振り返り、部屋の収集品たちをゆっくりと見渡した後で、リビングのもっとも目立つ場所に飾った油彩画に目を止める。
それは、海江田が初めてフリマに出した作品で、キュビスム的表現に日本のポップアートを取り入れた意欲的なものだ。ただでさえ三次元を無理やり二次元に落とし込むキュビスムに、さらに、二次元表現の粋であるジャパニーズポップアートの要素をぶち込むリスキーな賭け。だが、その賭けにこの絵は見事に勝利している。平面的でありながらも立体的。軽薄なようで多面的で奥深い――まさに海江田漣という人間をそのまま映しこんだアートだろう。ただ、モチーフは明らかに凪であり、なのでこれは凪の肖像でもある。
改めて、素晴らしいアートだ、と思う。
だが、漣を除く大多数の人間は、この美に触れることができない。それを、惜しい、と感じながら、まさにこれと同じ悔しさをあの人も味わい続けてきたのだろうと凪は思う。気の毒だ、とも。
それでも、いや、だからこそ、誰かが断ち切らなくてはいけないのだ。もはや呪いと化した夢を。
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