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3章
3話 なぜあなたがここに
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手帳を閉じ、執務机の引き出しにしまいこむと、加奈子は所長室を出る。
随分と遠回りをしてしまったが、結局ここが自分たちの行きつく場所なのだろうと小さく嘆息する。あの男も、光代も、それに加奈子自身も。光代の作品を破壊することは、これまで何度も加奈子の中で検討してきた。高い審美眼を持つキュレーターですら死に至らしめる彼女のアートは、もはや人類の資産ではなく、核廃棄物レベルの危険物としてしか未来に遺すことができない。それでも保存を続けたのは、ほとんど個人的な感情のせいだったと今なら思う。
エレベーターに乗り込むと、加奈子はカードリーダーにIDを通し、地下二階のボタンを押す。通常、このボタンはロックされており、キュレーターがIDカードをかざした時でなければ反応しない。その地下二階でエレベーターを降りた高階は、廊下の最奥に意外な人物の姿を見つけ、足を止めた。
「あー、やっぱり来た」
「……どうしてここに」
ごく素直に加奈子は驚く。今頃は凪と二人で最後の時間を惜しんでいるものと思っていたのに。すると、人影の主こと海江田漣は、背中を預けていた壁からひょいと離れ、加奈子に歩み寄ってくる。
「いや、さっきのあれ、どう考えても嶋野さんが処分役をやらされる流れだったでしょ。だから、その、俺が代われないかなーって」
目上の人間に対するにはあまりにも軽薄な口調。だが、この悪童ぶってはいるが根はどこまでも育ちの良い青年は、本心を隠したい時ほどかえって口が軽くなる。事実、口ぶりこそおどけてはいるが、声は、気の毒なほど震えていた。本当は怖くてたまらないのだ。それを、精一杯の虚勢でどうにか押し隠している。
「この件は嶋野凪に一任することが決まっています。今のあなたにできるのは、あの子の無事を祈ることだけ」
すると海江田は、それまでの虚勢をあっけなく振り捨て、今にも泣き出しそうな顔をする。だったら最初から、素直に頭を下げればいいのに。若いのだ。良くも悪くもこの子は、まだ。
「お願いします。俺にやらせてください」
「それは許可できません。あなたの審美眼レベルでは、とてもじゃないけど光代のギフトに耐えられない。あの子の方が、まだ、生き残る目はあるわ」
強いて冷ややかに言い捨てると、加奈子は、海江田を押しのけながら操作盤の前に立つ。
ブラウスの中に襟元から手を突っ込み、スーツに合わせるにしては太いチェーンを引っ張り出す。そのトップには、親指大の棒状の鍵。それをチェーンごと首から外し、目の前の鍵穴に差し込む。操作盤には他にもテンキーが備えつけられ、そこに今度は任意の数字を入力すると、傍らの、銀行の金庫を思わせる巨大な扉の奥で、がぢゃり、と金属の擦れる重い音がした。その扉こそは、不破光代の作品群のためだけに設けられた倉庫の入り口であり、この奥で、見る者を死に至らしめる彼女の作品群がひっそりと眠りについている。
扉の取っ手に手をかけ、ぐっと引く。厚さ三十センチはある巨大なスチールの扉は、正直、女の細腕には重い。が、時間をかければ人ひとりが開かないこともない――が、初めてここを訪れる海江田には無理だと見えたのか、断りもなく手を貸してくる。
「結構よ。一人でも開くから」
「や、遠慮しないでくださいよ。――この奥に、不破さんの作品が?」
言いながら海江田は、早くも人ひとり分の通り道を開いてしまう。細身で非力に見えるが、やはり男なのだ。
「もういいわ。あなたはここにいて」
「えー、せっかく開けるの手伝ったのに」
「……わかったわよ。ただし、入るだけね」
外の操作盤で倉庫の電気を灯す。倉庫自体はさほど広くはなく、加奈子の所長室よりも一回り小さいぐらいだ。そこにスチール製の二段ラックが五つ並び、その、段のそれぞれに細長い化粧箱が縦にぎっしりと並んでいる。
作品は、それぞれ箱に収められた状態で収蔵されている。こればかりは間違いなく渡良瀬の功績だろう。所長時代、彼女の作品の保存に腐心していたあの男は、光代の作品を一点一点、大事に梱包してここにしまい込んだ。そのおかげで、彼以外の人間も、ただ倉庫に入っただけでは命を落とすことはない。
箱にはそれぞれ数字と短い言葉が記され、数字は制作日を、言葉の方はタイトルを示している。その、見覚えのある几帳面そうな筆跡に加奈子は一抹の懐かしさを覚える。そういえばあの男、こんな文字を書いたわね。
あの男と初めて会ったのは、かれこれ三十年近くも前になる。当時、新宿のキャバレーで専属歌手を務めていた加奈子は、その頃、明らかに客足が遠のいていることに胸を痛めていた。直近に起きた客からの暴行事件を、どうにか乗り越えた矢先の出来事だったから猶更だ。店長やバンドマンたちとの関係も拗れ、そろそろ首を切られるかという頃、あの男が店に現れ、加奈子に告げた。
――君の歌は美しい。
それが、渡良瀬淳也との出会いであり、今に続く状況の始まりでもある。なぜなら渡良瀬との出会いは、つまり、光代との出会いでもあったからだ。
ギフテッドとして渡良瀬に保護された加奈子は、そこで光代と出会う。彼女は、渡良瀬以外には誰にも見せることのできない絵を、来る日も来る日も描き続けていた。
最初は、渡良瀬の恋人だろうかと考えた。表現者は誰であれ、作品を
が誰にも届かないことに耐えられない。にもかかわらず、光代がそれを苦にするそぶりはなかった。つまり、たった一人の鑑賞者でも耐えられるのは、その一人が、光代にとってかけがえのない人間だと考えるしかない。その人のためだけに描ければ十分だろう、というほどの――でも、そうではなかった。
「どの箱も絶対に開いちゃ駄目よ。いえ、何も触らないで」
「わかってます。……うわぁ、え、これ何点ぐらいあるんすか」
「油彩画が六九八点。水彩画が二八四点。ドローイングが二二五九点、といったところね。ただし、スケッチブック等のラフや習作は数に含んでいない」
「へぇ……や、やばいっすね」
「ええ。わずか三十年あまりの人生で、それだけの作品を生み出したのよ。こと彼女に関しては、ギフトの凄まじさばかりが取り沙汰されるけど、何よりも凄いのは、誰に見せるでもなくこれだけの作品を描き上げた、その無尽蔵な創作意欲の方だわ」
おそらく彼女は、たとえ渡良瀬と出会わなくともこれだけの作品を描いただろう。毎日アトリエに籠もりながら、一体どこからそんなイメージが湧き出るのかと不思議に思うほど、次々と、新たなイメージをキャンバスに描きつけていった光代。そんな彼女の湧き水のように澄んだ瞳をキャンバスの裏側から盗み見ながら、いつか自分も彼女の世界に触れたいと、アートを学び感性を磨き、たとえ一歩分でもその背中に近づこうとした。
でも。
そんな加奈子の努力など素知らぬ速さで光代は駆けていった。もはや視線すら届かない彼方へ。
「特に、この作品にする、みたいなやつは決めてるんすか」
「まさか。一枚も鑑賞できてないのに――」
そう、何となしに声の方を振り返った加奈子は、背後の海江田越しにありえざる人影を見つけ、息を呑む。
「……何してるの、そこ」
思わず声をかけてから、そういえばあの人、キュレーター試験に通っていなかったわよねと思い出し、余計にこの状況の異様さに気付く。なぜ。この地下二階には、キュレーターのIDを持たない人間はたとえ住人でも足を踏み入れることはできない……はずなのに。
すると侵入者、もとい、ロイド=カーペンターはこちらを振り返ると、にっと笑い、懐から何かを取り出す。それがスタンガンだと気付くや、加奈子は発声練習の要領で歌声を――響かせようとして、それが無駄な抵抗だと悟る。カーペンターの頭には、ノイズキャンセル用のヘッドホンが装着されていた。つまり最初から、この男は加奈子を制圧するつもりでここを訪れたのだ。
「後ろ!」
「えっ」
振り返った海江田が、カーペンターの存在に気づいて身を翻すのと、そのカーペンターがこちらに突撃するのとはほぼ同時だった。突き出されたスタンガンの先端は、おそらく海江田を狙ったものだったのだろう。それが空振りに終わり、虚しく突き出されたままの腕をさっと取ると、間合いに入り、背負い投げの要領で投げ飛ばす。硬いコンクリートの床にめいっぱい侵入者を叩きつけながら、相変わらず加奈子は、なぜ、と考えている。なぜカーペンターが? まさか彼が、もう一人のスパイだった……?
その一瞬の戸惑いが、しかし、加奈子には命取りになる。
「――は、」
手首を襲う鋭い痛み。と同時に、糸の切れた人形のようにくずおれる身体。見ると、早くも上体を起こしたカーペンターがスタンガンの先を加奈子の腕に押し当てている。
待って。私には、まだ、やるべきことが――
随分と遠回りをしてしまったが、結局ここが自分たちの行きつく場所なのだろうと小さく嘆息する。あの男も、光代も、それに加奈子自身も。光代の作品を破壊することは、これまで何度も加奈子の中で検討してきた。高い審美眼を持つキュレーターですら死に至らしめる彼女のアートは、もはや人類の資産ではなく、核廃棄物レベルの危険物としてしか未来に遺すことができない。それでも保存を続けたのは、ほとんど個人的な感情のせいだったと今なら思う。
エレベーターに乗り込むと、加奈子はカードリーダーにIDを通し、地下二階のボタンを押す。通常、このボタンはロックされており、キュレーターがIDカードをかざした時でなければ反応しない。その地下二階でエレベーターを降りた高階は、廊下の最奥に意外な人物の姿を見つけ、足を止めた。
「あー、やっぱり来た」
「……どうしてここに」
ごく素直に加奈子は驚く。今頃は凪と二人で最後の時間を惜しんでいるものと思っていたのに。すると、人影の主こと海江田漣は、背中を預けていた壁からひょいと離れ、加奈子に歩み寄ってくる。
「いや、さっきのあれ、どう考えても嶋野さんが処分役をやらされる流れだったでしょ。だから、その、俺が代われないかなーって」
目上の人間に対するにはあまりにも軽薄な口調。だが、この悪童ぶってはいるが根はどこまでも育ちの良い青年は、本心を隠したい時ほどかえって口が軽くなる。事実、口ぶりこそおどけてはいるが、声は、気の毒なほど震えていた。本当は怖くてたまらないのだ。それを、精一杯の虚勢でどうにか押し隠している。
「この件は嶋野凪に一任することが決まっています。今のあなたにできるのは、あの子の無事を祈ることだけ」
すると海江田は、それまでの虚勢をあっけなく振り捨て、今にも泣き出しそうな顔をする。だったら最初から、素直に頭を下げればいいのに。若いのだ。良くも悪くもこの子は、まだ。
「お願いします。俺にやらせてください」
「それは許可できません。あなたの審美眼レベルでは、とてもじゃないけど光代のギフトに耐えられない。あの子の方が、まだ、生き残る目はあるわ」
強いて冷ややかに言い捨てると、加奈子は、海江田を押しのけながら操作盤の前に立つ。
ブラウスの中に襟元から手を突っ込み、スーツに合わせるにしては太いチェーンを引っ張り出す。そのトップには、親指大の棒状の鍵。それをチェーンごと首から外し、目の前の鍵穴に差し込む。操作盤には他にもテンキーが備えつけられ、そこに今度は任意の数字を入力すると、傍らの、銀行の金庫を思わせる巨大な扉の奥で、がぢゃり、と金属の擦れる重い音がした。その扉こそは、不破光代の作品群のためだけに設けられた倉庫の入り口であり、この奥で、見る者を死に至らしめる彼女の作品群がひっそりと眠りについている。
扉の取っ手に手をかけ、ぐっと引く。厚さ三十センチはある巨大なスチールの扉は、正直、女の細腕には重い。が、時間をかければ人ひとりが開かないこともない――が、初めてここを訪れる海江田には無理だと見えたのか、断りもなく手を貸してくる。
「結構よ。一人でも開くから」
「や、遠慮しないでくださいよ。――この奥に、不破さんの作品が?」
言いながら海江田は、早くも人ひとり分の通り道を開いてしまう。細身で非力に見えるが、やはり男なのだ。
「もういいわ。あなたはここにいて」
「えー、せっかく開けるの手伝ったのに」
「……わかったわよ。ただし、入るだけね」
外の操作盤で倉庫の電気を灯す。倉庫自体はさほど広くはなく、加奈子の所長室よりも一回り小さいぐらいだ。そこにスチール製の二段ラックが五つ並び、その、段のそれぞれに細長い化粧箱が縦にぎっしりと並んでいる。
作品は、それぞれ箱に収められた状態で収蔵されている。こればかりは間違いなく渡良瀬の功績だろう。所長時代、彼女の作品の保存に腐心していたあの男は、光代の作品を一点一点、大事に梱包してここにしまい込んだ。そのおかげで、彼以外の人間も、ただ倉庫に入っただけでは命を落とすことはない。
箱にはそれぞれ数字と短い言葉が記され、数字は制作日を、言葉の方はタイトルを示している。その、見覚えのある几帳面そうな筆跡に加奈子は一抹の懐かしさを覚える。そういえばあの男、こんな文字を書いたわね。
あの男と初めて会ったのは、かれこれ三十年近くも前になる。当時、新宿のキャバレーで専属歌手を務めていた加奈子は、その頃、明らかに客足が遠のいていることに胸を痛めていた。直近に起きた客からの暴行事件を、どうにか乗り越えた矢先の出来事だったから猶更だ。店長やバンドマンたちとの関係も拗れ、そろそろ首を切られるかという頃、あの男が店に現れ、加奈子に告げた。
――君の歌は美しい。
それが、渡良瀬淳也との出会いであり、今に続く状況の始まりでもある。なぜなら渡良瀬との出会いは、つまり、光代との出会いでもあったからだ。
ギフテッドとして渡良瀬に保護された加奈子は、そこで光代と出会う。彼女は、渡良瀬以外には誰にも見せることのできない絵を、来る日も来る日も描き続けていた。
最初は、渡良瀬の恋人だろうかと考えた。表現者は誰であれ、作品を
が誰にも届かないことに耐えられない。にもかかわらず、光代がそれを苦にするそぶりはなかった。つまり、たった一人の鑑賞者でも耐えられるのは、その一人が、光代にとってかけがえのない人間だと考えるしかない。その人のためだけに描ければ十分だろう、というほどの――でも、そうではなかった。
「どの箱も絶対に開いちゃ駄目よ。いえ、何も触らないで」
「わかってます。……うわぁ、え、これ何点ぐらいあるんすか」
「油彩画が六九八点。水彩画が二八四点。ドローイングが二二五九点、といったところね。ただし、スケッチブック等のラフや習作は数に含んでいない」
「へぇ……や、やばいっすね」
「ええ。わずか三十年あまりの人生で、それだけの作品を生み出したのよ。こと彼女に関しては、ギフトの凄まじさばかりが取り沙汰されるけど、何よりも凄いのは、誰に見せるでもなくこれだけの作品を描き上げた、その無尽蔵な創作意欲の方だわ」
おそらく彼女は、たとえ渡良瀬と出会わなくともこれだけの作品を描いただろう。毎日アトリエに籠もりながら、一体どこからそんなイメージが湧き出るのかと不思議に思うほど、次々と、新たなイメージをキャンバスに描きつけていった光代。そんな彼女の湧き水のように澄んだ瞳をキャンバスの裏側から盗み見ながら、いつか自分も彼女の世界に触れたいと、アートを学び感性を磨き、たとえ一歩分でもその背中に近づこうとした。
でも。
そんな加奈子の努力など素知らぬ速さで光代は駆けていった。もはや視線すら届かない彼方へ。
「特に、この作品にする、みたいなやつは決めてるんすか」
「まさか。一枚も鑑賞できてないのに――」
そう、何となしに声の方を振り返った加奈子は、背後の海江田越しにありえざる人影を見つけ、息を呑む。
「……何してるの、そこ」
思わず声をかけてから、そういえばあの人、キュレーター試験に通っていなかったわよねと思い出し、余計にこの状況の異様さに気付く。なぜ。この地下二階には、キュレーターのIDを持たない人間はたとえ住人でも足を踏み入れることはできない……はずなのに。
すると侵入者、もとい、ロイド=カーペンターはこちらを振り返ると、にっと笑い、懐から何かを取り出す。それがスタンガンだと気付くや、加奈子は発声練習の要領で歌声を――響かせようとして、それが無駄な抵抗だと悟る。カーペンターの頭には、ノイズキャンセル用のヘッドホンが装着されていた。つまり最初から、この男は加奈子を制圧するつもりでここを訪れたのだ。
「後ろ!」
「えっ」
振り返った海江田が、カーペンターの存在に気づいて身を翻すのと、そのカーペンターがこちらに突撃するのとはほぼ同時だった。突き出されたスタンガンの先端は、おそらく海江田を狙ったものだったのだろう。それが空振りに終わり、虚しく突き出されたままの腕をさっと取ると、間合いに入り、背負い投げの要領で投げ飛ばす。硬いコンクリートの床にめいっぱい侵入者を叩きつけながら、相変わらず加奈子は、なぜ、と考えている。なぜカーペンターが? まさか彼が、もう一人のスパイだった……?
その一瞬の戸惑いが、しかし、加奈子には命取りになる。
「――は、」
手首を襲う鋭い痛み。と同時に、糸の切れた人形のようにくずおれる身体。見ると、早くも上体を起こしたカーペンターがスタンガンの先を加奈子の腕に押し当てている。
待って。私には、まだ、やるべきことが――
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