群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

37 もうひとつの戦い

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「て……っ、てめええええええっっ!!!」

 まさに疾風の如き速度で、直樹が香月の横をすり抜けていった。
 直樹がその怒りを向ける先は、正気を喪い香月を陵辱すべく追ってきていた龍造寺。

「ふうぅ……」

 直樹の姿を見て、必死に動かし続けていた脚をやっと止める事ができた香月である。その場に膝をつき、大きく肩を上下させた。
 地面に四肢を投げ出したい衝動に駆られたが、霧の中に全身を埋もれさせる行為は流石に思い止まった。

 背後から激しく肉を殴打する音と叫び声が響いてくるが、香月はその様子を見る事もせず呼吸を落ち着ける事に努めた。
 龍造寺の強靭な肉体が持つ破壊力は常軌を逸するものがあろうが、それでも直樹が負けるとは微塵も考えていない。
 その考えを証明するかのように、漏れ聞こえてくる呻き声は龍造寺のものばかりである。

(大体、直樹は加減ってものを分かってないのよね)

 香月に累が及ぼうとすると、直樹の中で良心だとか手加減などというものはあっさりと吹き飛ぶ。
 これまでも、香月の肉体を目当てにちょっかいを出そうとしてきた不良グループの人間をどれだけ病院送りにしたものか。

 愛されているのだと感じる反面、随分と極端なものだと思ってはいるのだが、どれだけ注意してもその直樹の特性は変わる事はなかった。
 いつの時も相手に非があったからこそ大事には至っていないが、学生のうちに直してもらわねば胃痛に悩まされる日々を迎えそうな予感がする。

「センパ~イ、見~つけた~ぁ」

 疲労で震えるばかりだった膝も落ち着き、直樹の様子を確認しようと立ち上がる香月。
 そんな香月の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
 元はといえば、希理を捜すために校舎に飛び込んだ香月である。
 校舎内の異常事態には苦労させられたが、こうして合流できるとなればそれも報われるというものだ。

「キ、キィ……っ!?」

 しかし、やっと会えたと思った親友の姿を見て、香月は絶句した。
 袖を通しただけの制服は小振りながらも形の良い胸を申し訳程度にしか隠しておらず、下半身に至ってはスカートを履いていないために細い脚と純白の下着が露わになっている。
 ここは人目のない場所であるからまだしも、その格好のまま外に出れば警察に補導されるか、劣情を催した通りすがりの何者かの餌食にされてしまうに違いない。

「な・お・き、センパ~~イっ!」

 しかしそんな香月の心配など知りもしない希理は、直樹を求めて甘い嬌声をあげながら駆け寄ってくる。
 視界に入っている筈の香月の存在にすら、気付いていないようだった。


  ぷちん


 香月の中で、何かが切れたような音がした。

「キィーーっ!! そこに直れえええええっ!!!」

 怒号と共に、間近にまで迫っていた希理の襟元を掴む香月。
 しかし触れ合うまでに距離を詰めても、それでも希理には直樹しか見えていないようで、軽やかな足取りに反してその勢いは香月をぐいぐいと押し返す。

「えっ? ちょ? なにこれ、キィ!?」

 体格では希理に勝る香月だが、あっさりと押し負けた事で希理も正常ではない事にやっと気付いた。
 香月を排除すべく掴みかかられていたならば命の危険さえあったかもしれないが、幸いにして希理には香月が見えていない。

「センパ~~イ!!」

 希理の瞳がハートマークになっていた。比喩などではなく、本当にピンク色のハートマークだ。
 龍造寺を見た時も香月は薄ら寒い思いをしたが、人体を物理的に変化させる空間などホラーでしかない。

「目を……覚ましなさいっ!!」

 両腕を交差させながらしっかりと希理の襟を掴み直すと、その小柄な身体を背負うように踏み込み、動かし続けている足を大きく払った。
 力任せに前進しようとする勢いを利用しての背負い投げは綺麗な弧を描き、希理はその背を地面に強く叩き付けられた。

「へぶっ!!」

 背を打った衝撃で間の抜けた叫びを発した希理だったが、何事もなかったかのようにすぐに起き上がろうとする。

「なんなのよ、もうっ!」

 慌ててその背に飛びつくと、渾身の力を込めて引き倒す。
 両脚を希理の腰に回し、左腕をその細い首に巻きつけた。左手で右腕を掴み、外れないように固定する。
 頸動脈を圧迫する絞技、裸絞めだ。

 背負い投げは体育の授業で習っただけだが、希理の動きが一直線の単調なものだったのでタイミングは取りやすかった。
 裸絞めの方は危険だから指導者の見ていない場では使うなと言われていたものだが、この場ではそうも言っていられない。
 とにかく今は希理を無力化させないと、どんな被害を生み出すか分かったものではない。

「う゛う゛あ゛あ゛う゛あ゛~~~!!」

 香月の腕の中で、もがき苦しむ希理。
 その手は離れた直樹を求めるように宙を掻くばかりであり、香月の腕を解こうとする意思は感じられない。
 普通の者ならば、自身の首を絞める存在を排除しようと動くだろう。
 それをしない希理の顔からは、みるみるうちに血の気が引いてゆく。

(キィ…、キィってば……お願いよ)

 希理の変わりように泣きたくなる気持ちを抑えながらも、絞める腕の力は抜かない。抜けなかった。
 ここで希理を手放してしまっては、元も子もない。
 いかな直樹であっても、希理に対して実力行使はできないだろう。
 ここはなんとしても、香月が希理を止めなくてはならない。

「ぅ……ぁ………」

 そう時間はかからずに、希理は落ちた。
 絞められている状況から逃れるための演技ではないかと、内心でビクビクしながら離れたが、本当に失神しているようだった。
 大きく溜息を吐き、改めて直樹の様子に目を向ける香月。

 肩で大きく息をしている背が見えた。少し離れてはいるが、その背を見間違う事などない。
 香月は、不覚にも涙が出そうになった。
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