群青の緋

竜田彦十郎

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或いは夢のようなはじまり

36 奈紀美を追って

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「先輩っ!」


「奈紀美先輩っ!?」


「ちょっと待ってくれ~~っ!!」


 奈紀美の後を追うと決めたまではよかったものの、その背までの距離は一向に縮まらなかった。
 追っても叫んでも、頼りなさげな足取りでありながら追いつける気がまったくしない。

 奈紀美といえば追い掛けられてばかりだった直樹である。
 撒くのにもかなり苦労した覚えがあるが、追い掛けるとなるとこうも大変なものだったのかと改めて思う。
 何度か直樹を振り返るような素振りを見せていた奈紀美であったが、立ち止まる気配はまったく感じられず、逃げているというよりも先導されているような気になってしまう。

 即かず離れず。そしてひらひらと泳ぐ手など、直樹に向けておいでおいでをしているようにしか見えなくなってくる。
 何度か差し掛かった分岐路でも迷う事なく進む奈紀美。
 それを追う直樹。そして、その直樹を追う希理。
 そんな構図が10分程も続いたところで、随分と開けた場所に出た。

「ここは……屋上庭園だな」

 霧によって周囲の様子が視認し辛いのは変わらずだったが、これまでにない広い空間と芝生の感触が爪先にあった。

「そうだ、奈紀美先輩は……っ?」

 初めて出た場所に戸惑っていた間に、直樹は奈紀美の背を見失ってしまっていた。
 慌てて視線を周囲に飛ばすが、姿はおろか気配さえも感じない。
 ここに至るまで奈紀美に誘われているような感覚を抱いていたが、残念ながら単なる勘違いだったようだ。

 奈紀美を保護する事も重要案件のひとつであるが、まずやらねばならない事は、すぐに追いついてくるであろう希理の対応だ。
 屋上庭園であれば身を隠せそうな場所もある筈だが、霧の特性を考えてみると直樹の行動はすべて筒抜けであると見るのが自然だ。
 詰まるところ、希理を正気に戻す――或いは無力化する事ができないのであれば、逃げるしか選択肢はない。

(セ~ンパ~~イ……!)

 姿は見えなかったが、後方の霧の向こうから直樹を求める声がじわりと響いてきた。
 この空間が希理に有利に働くとはいえ、背後から追ってきている状態で前方から現れるほどに万能ではなかった。そうであったならば、鬼ごっこ開始早々に捕まっていただろう。
 希理の声に背を向けたところで、直樹は前方の霧の中に人影を見た。

「奈紀美先輩……?」

 一瞬、見失ったばかりの女生徒の姿を想起した。
 が、その期待はすぐに裏切られる事となる。
 但し、直樹にとって最上の意味で。

「香月っ!!」

 霧の中から現れたのは、紛う事なき捜し求めていた少女の姿。
 随分と疲弊した様子ではあるが、この空間の影響は受けていないようだと、その気配から察する事ができて一安心する。

「な、直樹~っ」

 香月も直樹の姿を認識したのか、若干の情けない声を上げながらも駆け寄ってくる。

「…? な、なんだ!?」

 安堵の溜息を漏らしつつも香月の疲弊の原因について考察しようとした直樹だったが、香月の後ろから現れたものを見た瞬間に思考のすべてが吹き飛んだ。

「そろソろ限界かな~ァ? られる覚悟はできてッか~?」

 香月を追って、のっそりと現れたのは全裸の男。
 当然のように股間を曝け出しており、イレクトした男性器が待ちきれないとばかりにビクビクと震えている。

「て……っ、てめええええええっっ!!!」

 変質者を通り越して犯罪者そのものが香月を追い立てているという状況に、直樹は己の理性が吹き飛ぶ事に抗わなかった。
 叫び終わる前に地を蹴り、香月に向かって――正確には、その向こうの追ってくる男に向かって全力で駆けていた。

「俺サマは容赦ないからナぁ~。自分で濡らしてオかないと死ぬほどキッつ――ブぱアッ!!?」

 男――龍造寺の言葉尻は悲鳴に変わった。
 直樹の靴の踵が顔面にめり込み、香月に向けられた言葉を最後まで言わせなかったのだ。

 突然の衝撃に、鈍重な音を立てて背後に倒れ込む龍造寺。
 しかし大したダメージは受けていないかのように、軽く頭を振りながら上半身を起こした。
 否、龍造寺が平素の状態であれば相当のダメージであった筈だが、この空間の影響によって痛覚は麻痺しており、龍造寺自身は痛みなど感じていなかった。
 倒れ込んでしまったのは、直樹の攻撃によって身体のバランスが崩されたからという単純な話である。

 獲物である香月の細い四肢が自身に危害を及ぼすなど、微塵も考えていなかった龍造寺である。
 突然にして自分を襲った衝撃に戸惑いを見せていた。

「ナ、何だイきなり――ぶぺェっ!?」

 烈火の如く怒り狂っている直樹にしてみれば、敵の見せた隙が僅かな時間であっても充分だった。
 常人では目にも留まらぬ速度で両脚が回転し、龍造寺の首が上下左右に跳ねまくる。

「ウぶっ!! べヒっ!! びゅぷッ!! ぶピっ!!」

 何事か言葉を発しようとする龍造寺だったが、止むことのない直樹の猛攻にまともに口が開けない。
 直樹の履くスニーカーは特注品である。外観こそ一般的なものであるが、爪先や踵に鉄板が埋め込まれた戦闘用にカスタマイズされた極悪品だ。
 まさか人間相手に振るう日がくるとは思いもしなかったが、香月に対し狼藉を働いた者にかける容赦などない。

「な……ナんなん……ばぴゃっ!!!」

 強引に立ち上がろうとした龍造寺だったが、右膝を蹴り砕かれて絶好の打撃ポイントに逆戻りとなる。
 そして直樹の蹴りが、雨霰と降り注ぐ。

 龍造寺自身は痛みなど感じないとはいえ、攻撃を受け続ければ肉体にはダメージが蓄積する。
 自分に向けられた攻撃を防ごうとする動きは緩慢となり、全身の至るところが内出血により腫れ上がる。
 もともと何処を向いていたかも分からなかった眼球も腫れ上がった顔面に埋没し、龍造寺は視界を完全に塞がれる事となった。

(くソっ、マだだ。まだ俺ハ負けちャいない……!)

 言葉はすでに他人が聞き取れる声になっておらず、腫れた唇の隙間からひゅーひゅーと漏れる音でしかない。
 龍造寺は鉛のように重くなった腕を振り回し、咆哮する。
 誰よりも圧倒的な肉体を持つ龍造寺である、ひとたび攻撃が当たれば攻守は完全に逆転できる。
 そうすれば今度は自分が相手をボコボコにする番だ。
 泣いても叫んでも許してなどやるものか。半殺しの目に遭わせてやる。

 そして邪魔者を排除したならば、いよいよお楽しみの時間だ。

(ぐふぐふフふ……。想像するだケで気持ち良くナるぜぇ……!)

 薄ら笑いを浮かべながら、龍造寺の意識は途絶えた。
 ダメージ蓄積の限界を超えた肉体が、力尽きたのだった。
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