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第5話-2 後輩のデートを覗きに行った日のこと
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竹内ちゃんのデート予行演習は週末に決まったらしい。彼女は律儀に琴科さんの教えを守って、「美味しいジンギスカンを出すお店があるんですけど、ご一緒しませんか」と誘っていた。ジンギスカンを食べる、という目的をさりげなく設定している。
しかしそれを退勤間近のオフィス内でやらなくても良かったのではないかな竹内ちゃん。人が少ないとは言え、だ。ああ、ほら、社長が固まってる。茶屋町さんも大和田くんも驚いた表情になっているんだけれど。
対して琴科さんは「いい誘い方だね」と笑みを浮かべて了承した。
○ ○ ○
「週末は出かけるわ」
「うむ。分かった」
今日の夕食は鰹のたたきだった。初夏の季節の初鰹を食わずして鍋師が語れるかと三鍋は豪語していたけれど、鍋と鰹に何の関係性もないでしょうと私は言いたい。もちろんそれを口にしないのは、言ったところで何が変わるわけではないからだ。まだ暖かい鰹のたたきを見て、「そんなに急いでたの? まだ冷め切ってないじゃない」と文句を言ったが、三鍋いわくこれが本場・土佐での食べ方らしい。本来ならばにんにくも丸かじりしながら食べるのだそうだが、一口食べて辛みが強すぎたので、私は大人しくすりおろした物を使った。
週末の琴科さんと竹内ちゃんのデート練習、私はこっそり後をつけるつもりだ。別に、琴科さんが竹内ちゃんをどうこうするなんて思ってはいない。単純に、二人のデートコースが気になるだけだ。世間ではこれを出歯亀と言う。ピーピングトムとも。どちらも不名誉な称号である上に人名が由来となっているが、甘んじて受け入れよう。私はこの週末にスニーキングシライになることを。
「そういえば、三鍋って何が好きなの?」
「どうした、急に」
「今日、職場でね。男性が好きなものは何かって話になって。一つのサンプルとして聞きたいの」
「食うことだな。それもうまいものを、だ。人間、食わねば生きてはいけん。つまり、生きているならものが食えるということだ」
「好物とかないの? 逆に嫌いなものとか」
三鍋がことりと茶碗を置いた。
「美味しく食えるものはなんでも好物だ。思い出の味、という意味でならば、母のカレーだな」
「あ、それは分かるわ。友達の家のカレーって、何か違うのよね」
「うむ。我が家はちくわが必ず入っていた」
「うちは冷凍のコーンだったなあ。懐かしいわね。で、嫌いなものは?」
三鍋が少し顔をしかめた。お、これは三鍋の弱点を聞き出すチャンスか。何だ何だ? 用意できるものなら早急に用意することもやぶさかではないぞっ。
「蠍は苦手だ。以前、ナミビアで刺されてな」
「ああ、サソリかあ。それは……ご愁傷様」
それは用意してあげられないなあ。うん、残念。
「蠍に刺されるとどうなるか知っているか」
「知りたくも無い」
「だろうな。まあ、後で調べたところ、輸入が禁止されているものだった。日本でお目にかかることもあるまい」
そういって何事もなかったかのように三鍋は笑った。いや、結構な大事だったと思うんだけれど。サソリに刺されてまでも、三鍋は鍋師になりたいのだろうか。
そういえばそもそも、どうしてそれになろうとしているのだろうか。
「ねえ、鍋師とやらになろうと思ったきっかけって何なの」
まだほのかに暖かい鰹のたたきを口に放り込み、私は三鍋に聞いてみることにした。鍋師が何なのか。これはもう、一度そこいらに投げ捨てておこう。鍋師は鍋師なのだから、鍋師以外の何者でもないのだろう。よく分からんけれども。
分からんものは、分からんままにしておく方が良いこともある。世の中、分からんものだらけなのだから。
そして三鍋は少し考え込む素振りをみせた。箸を置き、言葉を選んでいるようにも見えるが、どうせたいした理由もないのではないかと私は考えた。三鍋のことだ。美味いもの食いたさが高じて、各地を放浪する渡り鳥のような存在になってしまったのだろう。根無し草、放浪者、バガボンド。そういった風来坊なところは昔から変わっていなさそうに思える。
「どうしても、もう一度食いたい物があるのだ。それは確かに美味かった」
「何が食べたいの?」
「どこにでもあるものだか、今は無いものだ」
「やめてよね、禅問答みたいな言い方は。よーし分かった。私には何の答えも見えそうにないことは分かった」
「鍋師とは、そういうものだ。ともあれ、それを食べるために鍋師を目指していると言ってよかろう」
鍋師とやらが何なのかは未だ分からない。鍋師になりたかったきっかけも、私には理解が及ばない。こういう時にどういう行動を取ればいいか、私は知っている。目の前の料理を楽しめば良いのだ。幸い、三鍋の料理は美味い。それは事実である。事実は認めなければいけない。
仔細はよく知らないが、三鍋の試練とやらが終わればこの料理ともおさらばかと思うとほんの少しだけ寂しくもある。特にこの、大根と水菜の味噌汁などは仕事で疲れた体によく染み渡るのだ。明日も頑張ろうと自然と思えてくる。よし。平日の仕事をしっかりと乗り切って、週末のストーキングに全力を尽くそう。
食後の茶を飲んで、私は翌日の準備諸々を。三鍋は少し仕込みをしてから寝ると言った。美味いものを作ろうとする真摯な姿勢は、素直に尊敬する。これで鍋師見習いなどとよく分からない存在でなかったならば、きっといい男なのだろう。でもなあ、三鍋だからなあ。
○ ○ ○
交通の中心地である、それなりに大きな駅前、午後二時。三鍋の作った具入りおにぎりを頬張りながら標的がコンタクトを取るのを待つ。お、アジのほぐし身が入ってた。うん、美味い。昼食を家で済ませていては琴科さんと竹内ちゃんの待ち合わせに間に合わなかったので、何のかんのと言い訳をして握り飯にしてもらったがこれは正解だった。
それにしても週末の天気が晴れではないのは、梅雨が戻ってきたからなのか、それとも尾行などとよからぬ事を考えている私への戒めか。どんよりとたれ込める雲に、何か不穏な気配を感じなくもない。いや、大丈夫だ。しっかりとスニーカーを履いてきているし、普段は着ないようなだぼついたパーカーに帽子とサングラスまで用意したのだ。これでバレる方がおかしい。バレなければ、それは無いも同然なのだ。大丈夫、大丈夫。
柱の影から観察しているが、琴科さんの休日姿というものを初めて見た。なるほどなかなかスタイリッシュに決めているじゃあないか。
お、竹内ちゃんが来た。ふわふわとかわいい感じの服装を予想していたが、なかなかどうしてこちらもシンプルにまとめている。そういえば、ジンギスカンを食べに行くと言っていた。あまりその邪魔になるような服装もTPOを考えるとよろしくない。その辺りをきっと彼女も分かっているのだろう。
さて、どこまで尾行したものか。
できればジンギスカンの店とやらに入ってみたいものだが一人で行くとなるといささか場違いな感じが出るのではないだろうか。
あ、標的が移動し始めた。しかし、昼過ぎに待ち合わせて、ジンギスカンはいつ食うのだろう。夕方かしら。するとそれまではどうデート予行を消化するというのだろう。
むう、会話も何やら弾んでいる様子……。分かっていると思うが、琴科さん。竹内ちゃんは新卒の新入社員ですからね。一回りほども離れていることをどうかお忘れなきよう。
「何やってんすか、白井さん」
「ふゃ?」
えらくみっともない声が漏れてしまったようだが気のせいだろう。
声の主へと顔を向けると、大和田君がいた。
「大和田君?」
「えらくコソコソしてますけど……」
「ひ、人違いじゃないかしら」
「僕の名前、ばっちり呼びましたよね。そこからごまかせるとでも?」
ぐう、不覚……。
いったいどうしてこんな所に大和田君がいるのか。そして何故バレた。私の変装は完璧だったはずだ。
「どうしたの? こんなところで」
「僕は買い物に……って、向こうにいるの、琴科さんと竹内さんじゃないすか」
「え、あ、あらそうね、偶然ねえ」
大和田君がこちらとあちらを交互に見て、そして言った。
「白井さん、割と嘘つくの下手っすよね。尾行、僕もお供しますよ」
「こ、これは尾行とかそういうのじゃ……」
尾行である。
どこをどう考えても尾行である。いやしかしこれは必要な尾行なのだ。わが社のかわゆい新入社員である竹内ちゃんが悪い天狗に引っかからないように見張らなければならないのだ。そうとも。そうだとも。
「どうみても尾行じゃないすか」
「……認めるわ。どうしても気になっちゃって」
大和田君が少し険しい顔をする。あ、もしかして、大和田君って本当に竹内ちゃんを気にかけてたりするのかしら。最近はよくオンラインのゲームで遊んでるって竹内ちゃんが言ってたし。
なるほどそうかそうか。いやしかしなあ大和田君。相手は社長の姪っ子だぞ?
「社内恋愛はおススメしないわよ。仕事の効率が落ちるから」
「どうしてそうなるんすか」
「違うの?」
「違いますよ。あ、行っちゃいますよ」
「おっと、追うわよ大和田君」
二人が移動した先には、古めかしい喫茶店があった。商店街の路地を一本外れたところの、さらにシャッターの閉まった何かの店の横にある狭い階段を上った先に、それはあった。
場所を知らなければこんなところに喫茶店があるとは誰も思わないだろう。
これは、追跡に難を要する。
入るべきではあると思うのだが、感じからして座席の数も少なそうな喫茶店だ。
階段の脇には小さな看板がかかっていて、『茶座 こぐま』と書かれていた。
「どうします、白井さん。追いますか」
「ここに入るのは危険よね……ちょっと調べてみましょ」
「御意に」
いうが早いか、大和田君がグルメサイトの口コミをいくつか見て店の情報を手に入れていた。
「ダメっす。座席がカウンター五席しかないみたいです」
「小じんまりしすぎでしょう。評価はどうなの?」
「本格的な珈琲が味わえる数少ない名店、とか口コミには書かれてますね」
「それはちょっと飲んでみたいけど……リスクが高すぎるわね」
「じゃ張り込みっすね。アンパンでも買ってきましょうか」
「昭和の刑事ドラマじゃないんだから。あ、私、こしあんしか認めないからね」
「うわ、僕つぶあん派なのに」
初夏の曇天の下、晴れ間など欠片も見えない中で待つことおよそ一時間。標的は喫茶店から出て大通りの方へと歩いていく。
まだ夕食までには間があるだろうし、デートは続行なのだろう。どこへ行こうというのだろうか。
大和田君と尾行を続け、次に二人が入ったのはえらくカワイイ方面に洒落た雰囲気のカフェだった。店名はやたらポップなフォントで書かれており非常に読みにくい。
「いかにも若者向けの店ね。店名、なんて読むのアレ」
「ララ、ロ……? すいませんちょっと読めないっす」
「私も読めない。入るわよ」
「うえぇ? 僕ら、浮きません?」
「あの自称天狗も大概浮いてるから大丈夫よ。賑わってるみたいだし」
一人であれば躊躇していたであろう、自分はターゲッティングから外れていますと言わんばかりの内装。キラキラとした雰囲気。
大学時代だったら……いや、そもそも趣味が合わないな。こういうコンセプトを前面に押し出した店は、その対象となる人にしっかりと届けばよいのだ。尾行という目的がなければ、そして大和田君がいなければ場違いを紛らわせる事もできなかっただろう。恥ずかしいが、巻き添えがいるならばまだ耐えられる。
さあ、いざ。
店名の読めない未知の領域へと、私たちは標的を追って足を踏みいれた。
しかしそれを退勤間近のオフィス内でやらなくても良かったのではないかな竹内ちゃん。人が少ないとは言え、だ。ああ、ほら、社長が固まってる。茶屋町さんも大和田くんも驚いた表情になっているんだけれど。
対して琴科さんは「いい誘い方だね」と笑みを浮かべて了承した。
○ ○ ○
「週末は出かけるわ」
「うむ。分かった」
今日の夕食は鰹のたたきだった。初夏の季節の初鰹を食わずして鍋師が語れるかと三鍋は豪語していたけれど、鍋と鰹に何の関係性もないでしょうと私は言いたい。もちろんそれを口にしないのは、言ったところで何が変わるわけではないからだ。まだ暖かい鰹のたたきを見て、「そんなに急いでたの? まだ冷め切ってないじゃない」と文句を言ったが、三鍋いわくこれが本場・土佐での食べ方らしい。本来ならばにんにくも丸かじりしながら食べるのだそうだが、一口食べて辛みが強すぎたので、私は大人しくすりおろした物を使った。
週末の琴科さんと竹内ちゃんのデート練習、私はこっそり後をつけるつもりだ。別に、琴科さんが竹内ちゃんをどうこうするなんて思ってはいない。単純に、二人のデートコースが気になるだけだ。世間ではこれを出歯亀と言う。ピーピングトムとも。どちらも不名誉な称号である上に人名が由来となっているが、甘んじて受け入れよう。私はこの週末にスニーキングシライになることを。
「そういえば、三鍋って何が好きなの?」
「どうした、急に」
「今日、職場でね。男性が好きなものは何かって話になって。一つのサンプルとして聞きたいの」
「食うことだな。それもうまいものを、だ。人間、食わねば生きてはいけん。つまり、生きているならものが食えるということだ」
「好物とかないの? 逆に嫌いなものとか」
三鍋がことりと茶碗を置いた。
「美味しく食えるものはなんでも好物だ。思い出の味、という意味でならば、母のカレーだな」
「あ、それは分かるわ。友達の家のカレーって、何か違うのよね」
「うむ。我が家はちくわが必ず入っていた」
「うちは冷凍のコーンだったなあ。懐かしいわね。で、嫌いなものは?」
三鍋が少し顔をしかめた。お、これは三鍋の弱点を聞き出すチャンスか。何だ何だ? 用意できるものなら早急に用意することもやぶさかではないぞっ。
「蠍は苦手だ。以前、ナミビアで刺されてな」
「ああ、サソリかあ。それは……ご愁傷様」
それは用意してあげられないなあ。うん、残念。
「蠍に刺されるとどうなるか知っているか」
「知りたくも無い」
「だろうな。まあ、後で調べたところ、輸入が禁止されているものだった。日本でお目にかかることもあるまい」
そういって何事もなかったかのように三鍋は笑った。いや、結構な大事だったと思うんだけれど。サソリに刺されてまでも、三鍋は鍋師になりたいのだろうか。
そういえばそもそも、どうしてそれになろうとしているのだろうか。
「ねえ、鍋師とやらになろうと思ったきっかけって何なの」
まだほのかに暖かい鰹のたたきを口に放り込み、私は三鍋に聞いてみることにした。鍋師が何なのか。これはもう、一度そこいらに投げ捨てておこう。鍋師は鍋師なのだから、鍋師以外の何者でもないのだろう。よく分からんけれども。
分からんものは、分からんままにしておく方が良いこともある。世の中、分からんものだらけなのだから。
そして三鍋は少し考え込む素振りをみせた。箸を置き、言葉を選んでいるようにも見えるが、どうせたいした理由もないのではないかと私は考えた。三鍋のことだ。美味いもの食いたさが高じて、各地を放浪する渡り鳥のような存在になってしまったのだろう。根無し草、放浪者、バガボンド。そういった風来坊なところは昔から変わっていなさそうに思える。
「どうしても、もう一度食いたい物があるのだ。それは確かに美味かった」
「何が食べたいの?」
「どこにでもあるものだか、今は無いものだ」
「やめてよね、禅問答みたいな言い方は。よーし分かった。私には何の答えも見えそうにないことは分かった」
「鍋師とは、そういうものだ。ともあれ、それを食べるために鍋師を目指していると言ってよかろう」
鍋師とやらが何なのかは未だ分からない。鍋師になりたかったきっかけも、私には理解が及ばない。こういう時にどういう行動を取ればいいか、私は知っている。目の前の料理を楽しめば良いのだ。幸い、三鍋の料理は美味い。それは事実である。事実は認めなければいけない。
仔細はよく知らないが、三鍋の試練とやらが終わればこの料理ともおさらばかと思うとほんの少しだけ寂しくもある。特にこの、大根と水菜の味噌汁などは仕事で疲れた体によく染み渡るのだ。明日も頑張ろうと自然と思えてくる。よし。平日の仕事をしっかりと乗り切って、週末のストーキングに全力を尽くそう。
食後の茶を飲んで、私は翌日の準備諸々を。三鍋は少し仕込みをしてから寝ると言った。美味いものを作ろうとする真摯な姿勢は、素直に尊敬する。これで鍋師見習いなどとよく分からない存在でなかったならば、きっといい男なのだろう。でもなあ、三鍋だからなあ。
○ ○ ○
交通の中心地である、それなりに大きな駅前、午後二時。三鍋の作った具入りおにぎりを頬張りながら標的がコンタクトを取るのを待つ。お、アジのほぐし身が入ってた。うん、美味い。昼食を家で済ませていては琴科さんと竹内ちゃんの待ち合わせに間に合わなかったので、何のかんのと言い訳をして握り飯にしてもらったがこれは正解だった。
それにしても週末の天気が晴れではないのは、梅雨が戻ってきたからなのか、それとも尾行などとよからぬ事を考えている私への戒めか。どんよりとたれ込める雲に、何か不穏な気配を感じなくもない。いや、大丈夫だ。しっかりとスニーカーを履いてきているし、普段は着ないようなだぼついたパーカーに帽子とサングラスまで用意したのだ。これでバレる方がおかしい。バレなければ、それは無いも同然なのだ。大丈夫、大丈夫。
柱の影から観察しているが、琴科さんの休日姿というものを初めて見た。なるほどなかなかスタイリッシュに決めているじゃあないか。
お、竹内ちゃんが来た。ふわふわとかわいい感じの服装を予想していたが、なかなかどうしてこちらもシンプルにまとめている。そういえば、ジンギスカンを食べに行くと言っていた。あまりその邪魔になるような服装もTPOを考えるとよろしくない。その辺りをきっと彼女も分かっているのだろう。
さて、どこまで尾行したものか。
できればジンギスカンの店とやらに入ってみたいものだが一人で行くとなるといささか場違いな感じが出るのではないだろうか。
あ、標的が移動し始めた。しかし、昼過ぎに待ち合わせて、ジンギスカンはいつ食うのだろう。夕方かしら。するとそれまではどうデート予行を消化するというのだろう。
むう、会話も何やら弾んでいる様子……。分かっていると思うが、琴科さん。竹内ちゃんは新卒の新入社員ですからね。一回りほども離れていることをどうかお忘れなきよう。
「何やってんすか、白井さん」
「ふゃ?」
えらくみっともない声が漏れてしまったようだが気のせいだろう。
声の主へと顔を向けると、大和田君がいた。
「大和田君?」
「えらくコソコソしてますけど……」
「ひ、人違いじゃないかしら」
「僕の名前、ばっちり呼びましたよね。そこからごまかせるとでも?」
ぐう、不覚……。
いったいどうしてこんな所に大和田君がいるのか。そして何故バレた。私の変装は完璧だったはずだ。
「どうしたの? こんなところで」
「僕は買い物に……って、向こうにいるの、琴科さんと竹内さんじゃないすか」
「え、あ、あらそうね、偶然ねえ」
大和田君がこちらとあちらを交互に見て、そして言った。
「白井さん、割と嘘つくの下手っすよね。尾行、僕もお供しますよ」
「こ、これは尾行とかそういうのじゃ……」
尾行である。
どこをどう考えても尾行である。いやしかしこれは必要な尾行なのだ。わが社のかわゆい新入社員である竹内ちゃんが悪い天狗に引っかからないように見張らなければならないのだ。そうとも。そうだとも。
「どうみても尾行じゃないすか」
「……認めるわ。どうしても気になっちゃって」
大和田君が少し険しい顔をする。あ、もしかして、大和田君って本当に竹内ちゃんを気にかけてたりするのかしら。最近はよくオンラインのゲームで遊んでるって竹内ちゃんが言ってたし。
なるほどそうかそうか。いやしかしなあ大和田君。相手は社長の姪っ子だぞ?
「社内恋愛はおススメしないわよ。仕事の効率が落ちるから」
「どうしてそうなるんすか」
「違うの?」
「違いますよ。あ、行っちゃいますよ」
「おっと、追うわよ大和田君」
二人が移動した先には、古めかしい喫茶店があった。商店街の路地を一本外れたところの、さらにシャッターの閉まった何かの店の横にある狭い階段を上った先に、それはあった。
場所を知らなければこんなところに喫茶店があるとは誰も思わないだろう。
これは、追跡に難を要する。
入るべきではあると思うのだが、感じからして座席の数も少なそうな喫茶店だ。
階段の脇には小さな看板がかかっていて、『茶座 こぐま』と書かれていた。
「どうします、白井さん。追いますか」
「ここに入るのは危険よね……ちょっと調べてみましょ」
「御意に」
いうが早いか、大和田君がグルメサイトの口コミをいくつか見て店の情報を手に入れていた。
「ダメっす。座席がカウンター五席しかないみたいです」
「小じんまりしすぎでしょう。評価はどうなの?」
「本格的な珈琲が味わえる数少ない名店、とか口コミには書かれてますね」
「それはちょっと飲んでみたいけど……リスクが高すぎるわね」
「じゃ張り込みっすね。アンパンでも買ってきましょうか」
「昭和の刑事ドラマじゃないんだから。あ、私、こしあんしか認めないからね」
「うわ、僕つぶあん派なのに」
初夏の曇天の下、晴れ間など欠片も見えない中で待つことおよそ一時間。標的は喫茶店から出て大通りの方へと歩いていく。
まだ夕食までには間があるだろうし、デートは続行なのだろう。どこへ行こうというのだろうか。
大和田君と尾行を続け、次に二人が入ったのはえらくカワイイ方面に洒落た雰囲気のカフェだった。店名はやたらポップなフォントで書かれており非常に読みにくい。
「いかにも若者向けの店ね。店名、なんて読むのアレ」
「ララ、ロ……? すいませんちょっと読めないっす」
「私も読めない。入るわよ」
「うえぇ? 僕ら、浮きません?」
「あの自称天狗も大概浮いてるから大丈夫よ。賑わってるみたいだし」
一人であれば躊躇していたであろう、自分はターゲッティングから外れていますと言わんばかりの内装。キラキラとした雰囲気。
大学時代だったら……いや、そもそも趣味が合わないな。こういうコンセプトを前面に押し出した店は、その対象となる人にしっかりと届けばよいのだ。尾行という目的がなければ、そして大和田君がいなければ場違いを紛らわせる事もできなかっただろう。恥ずかしいが、巻き添えがいるならばまだ耐えられる。
さあ、いざ。
店名の読めない未知の領域へと、私たちは標的を追って足を踏みいれた。
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