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第二章

第45話 渡航前夜-後編-穂乃果

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「振られ…た?」

「そう。振られたの。もう俺に関わらないでって。だけど、渉の事を好きな気持ちはどうしても消えなくて……それで……」


 突然自分語りを始めたお姉ちゃんに私は戸惑いを隠せず、パッと顔を上げてお姉ちゃんを見つめると、お姉ちゃんは泣きながら優しい表情で私の涙を拭い、私の事を労るように、ゆっくりと背中を撫でるように背中をさすり始めた。

 子供の頃、私が夜眠れなくてお姉ちゃんのベッドに潜り込んだ時によくこうやって背中を摩ってくれたな……

 昔はお姉ちゃんの事が大好きだったから、隙あらばいつもくっついて居たかったんだけどな。
 でも、お姉ちゃんはいつもわっくんとさとくんと一緒に居て……

 うっかりお姉ちゃんの手の心地良さに、一瞬心も身を委ねて回想に耽ってしまいそうになったが、はたと意識が戻ってくると目の前の現実に引き戻される。

 お姉ちゃんは一体何を勘違いしているのか……
 怒って感情をぶつけてくるならまだ理解出来るが、私が気遣われる要素なんてひとつもないのに。
  私に八つ当たりされて悪意をぶつけられている被害者はお姉ちゃんなのにも関わらず、はらはらと綺麗な涙を流しながら、自分を悪意をもって責め立てる私の事を気遣う。まるで逆に私が責められている被害者のような……

 正直、私にはお姉ちゃんのこの行動の意味がわからなかった。

 まさか、私がわっくんやお姉ちゃんの為に泣いてるとでも思っているのだろうか。

 それこそ大きな勘違いだ。
 そんな訳ない。私はのだから。


 昂り過ぎて収まりのつかない感情が、涙となって溢れて私の頬伝う。

 お姉ちゃんはその涙を黙って拭いながら、寂しそうに微笑むと何かを決心したかのように深く溜息を落として、ポツリと言った。


「…傍にいられない分、細くても確実な繋がりを持っていたくて……だから、許嫁の関係だけは手放したくなかったのかもしれない。」


 浅ましいね、お姉ちゃんは自嘲するようにそう言うと、膝の上でハンカチをぎゅっと握りしめた。

 途端に私の中で何かが弾けた。

 そして、気が付くとお姉ちゃんを突き飛ばして大きな声を張り上げていた。


「何よ、それ……そんなの……そんなの、全部お姉ちゃんのエゴじゃん!」


 エゴ

 お姉ちゃんに言っているはずのその言葉が何故か胸に突き刺さる。
 お姉ちゃんは私の言葉を、静かに受け止めると小さく何度も頷いた。


「うん、確かに。そうだね…… 何言っても言い訳にしかならないし、穂乃果の言う通り、ただの私のエゴ…」

「だったらさ、留学するなら、わっくんを解放してあげて!身を引いてよ、お姉ちゃん。」


 私はお姉ちゃんをキッと睨みつけると、弾かれるように顔を上げたお姉ちゃんの苦悩に満ちた目とかち合った。
 その目を見て私の感情の堰が決壊し、大声で思いの限りをお姉ちゃんにぶつけた。


「だって狡いじゃない?私だってずっとわっくんが好きだったのに、わっくんはお姉ちゃんにべったりで……やっと振り向いて貰えたと思ったら今度は許嫁?なんでなのよ!!!」

「穂乃果……」

「それで、今度はわっくん置いて留学?!わっくんどうするのよ?!それに私は?!」


 泣きながらお姉ちゃんに手当り次第クッションとぬいぐるみを投げつけた。
 お姉ちゃんはそれを黙って受け止めていた。そして、暴れる私に少しずつ近づいて私の目の前まで来ると、お姉ちゃんは私をそっと抱きしめた。


「なんでお姉ちゃんばかり自分の思う通りになるの?!狡いじゃない!!!だから、今度こそ、私にわっくんをちょうだいよ!」


 そんなお姉ちゃんの胸を押し返して、私はお姉ちゃんの胸を叩きながら暴れた。そんな私を、今度はお姉ちゃんは力の限りぎゅっと抱きしめた。

 抵抗しようと思えば抵抗出来た。私よりも少しだけ小柄なお姉ちゃんの腕力なんてたかが知れてるし、本気で抵抗すれば突き飛ばせるけれど、何故かそんな気は起きなくて、私はそのままお姉ちゃんに抱かれていた。


「穂乃果の気持ちはよくわかったよ。渉の気持ちも……」


 お姉ちゃんは私を抱きしめたまま、私の背中をぽんぽんと撫でながら、落ち着かせるように繰り返しそう言った。
 私は目を閉じ、お姉ちゃんの温もりに身を委ねる。


「それなら解消してくれる?」


 徐々に気持ちが落ち着いて来た頃、私がポツリとそう言うと、お姉ちゃんは少しの間の後、私からそっと身体を離した。
 そして、ゆっくりと深呼吸をすると私と視線を合わせる。

 その瞳からは先程までの迷いは消え、強い決意の色が滲んでいた。


「……そう、だね、解消しないといけないよね。もともと許嫁解消は留学が決まったら言おうと思ってたんだけど……どうしても勇気が無くて言えなかった。それに、もうとっくに振られてるのに、いつまでも許嫁という関係にしがみついてるなんて、ほんとに情けないね。……穂乃果、苦しめてごめん。」


 そう言って、お姉ちゃんは苦しそうに笑った。
 その瞬間、望んでいた回答が貰えて喜ばしいはずなのに何故か凄まじい敗北感と虚無感が襲ってきて、漠然と『負けた』と思った。

 私はずっとお姉ちゃんが羨ましかった。
 優しくて誰からも愛されるお姉ちゃんになりたかった。
 だから、お姉ちゃんに向けられる愛情の中で最も大きい物…わっくんが私の物になれば、お姉ちゃんに少しでも近付けると思っていた。

 それなのに……

 私はずっと自分の主張をしてきたのに、お姉ちゃんは終始自分の不甲斐なさへの後悔と私と渉への謝罪、それに加えて私への気遣いを見せていた。

 近付けるどころか、こんなの勝てる訳がない。
 こんな自分の事しか考えていない私が、お姉ちゃんに憧れた所でなれる訳が無いのだ。

 悔しい。凄く悔しい。


「何よ………何よ何よ何よ何よ!!!」


 止まったはずの涙が再び溢れて頬を濡らすと、抑えていた感情も再び溢れ出す。


「お姉ちゃんは昔からそう!お姉ちゃんは何食わぬ顔で私の欲しいものを全部もっている癖に、何故か何も持っていないような顔をするの!わっくんの事だって!全部持ってるんだからわっくんくらい私に譲ってよ!!!」


 一気に捲し立てて言い終わると、お姉ちゃんを睨めつけた。


「譲るもなにも…渉はものじゃない。それに、穂乃果と渉は想いあってるんだから、なんの心配もないよ。邪魔者はもう居なくなるでしょ?」


 お姉ちゃんは先程と変わらない苦しそうな笑みを浮かべたまま、優しい口調で諭すようにそう言いながら、私の手を取りベッドに座らせると、ぎゅっと抱きしめてトントンと背中を叩いた。

 幼い頃、癇癪を起こして興奮した私をいつもそうやって宥めていたように。

 こんなに自分勝手に喚いて傷付けるような事をした私なのに、まるでそれら全てが許されているような気分になり、いたたまれなくなる。


「ほんと、そう言うところ!私、お姉ちゃんのそう言うところ大っ嫌い!!!」

「私は穂乃果の事大好きだよ。もちろん渉の事も……だから、大好きなふたりには幸せになって欲しいの。」


 苦し紛れにそう言うと、お姉ちゃんは優しい口調で返してくれる。


「嫌い!嫌い!大っ嫌い!!!……嘘、大好き……お姉ちゃん、大好き……ごめ…っ…」


 そう言って私をぎゅっと抱きしめるお姉ちゃんの腕の中で私は感情をぶつけて大声で泣いた。

 泣いて泣いて、心の中で思っていることを取り留めもなく吐き出した。
 その間、お姉ちゃんは優しく相槌を打って私の背中を撫でてくれた。

 お姉ちゃんの優しさに触れて、ささくれだっていた心が癒されて行くような気がした。



 ◇◇◇



「穂乃果!いつまで寝てるの?!お姉ちゃんはもうとっくに学校に行ったわよ!」


 気が付くとお母さんのけたたましい声で起こされた。
 どうやら泣き疲れてあのまま眠ってしまったようだ。
 時計を見ると7時半を回ろうとしていて、このままでは遅刻してしまう。


「やっば!」


 すぐさま飛び起きて洗面所へ向かい顔を洗うと、泣き腫らしてパンパンになった瞼を冷水で冷やしながらふと昨夜の事を思い出す。

 確か、お姉ちゃんは今日伊織叔父さんのところへ行くと言っていたな……

 何時の飛行機かなと思いふと時計を見ると、そんな事言ってる場合じゃなかったと飛び上がる。
 バタバタと支度を終えると私はダッシュで玄関に向かった。


「穂乃果ー、今日の夜はお隣さんとクリスマスパーティなんだけど、パーティ前に話があるから早く帰ってくるのよー。」


 玄関の扉を開けると同時に、リビングからお母さんの声が聞こえたが、返事をする余裕もなく駅に向かってかけだした。

 そうだ、今日は久しぶりのパーティだった。
 遅刻しそうで沈んでいた気持ちもちょっぴり上向きになる。

 でも、このモヤモヤを抱えたままではパーティを楽しむに楽しめないし、お姉ちゃんにも禍根を残したくなかった。

 それにはパーティ前にお姉ちゃんに謝らないと。
 出発までに話す時間はあるのだろうか。
 せめて昨日取り乱した事だけは謝りたかったのだが、ふと、飛行機の時間を聞いていなかった事を思い出した。

 何時に家出るのかな?お母さんなら知ってるかも。
 後でメッセージアプリでメッセージ送っておこう。

 そんな能天気な事を考えていたこの時の私は、まさかこのままお姉ちゃんと暫く会えなくなるとは思ってもいなかった。
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