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第二章

第37話 決断

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「実は俺、来年から留学するんだよね。」


 先程からこの言葉がぐるぐると頭の中を回っていた。

 軽い進路相談のつもりが思いもよらない方向へ話が流れ、自分の視野の狭さに気が付かされた。

 今までは、特に希望もなく内部進学が当たり前の様に考えていた私の概念が、やりたい事のために進路を選択できるという事に気が付いた事により、根本からひっくり返った。

 自分で選んでいいんだと気が付いたら、今まで漠然と抱いていたやりたい事が形として見えてきて、それには複数ある進路の中から、留学する事が最も近道なのかもしれないということから、私の進路は一気に留学に傾いて行った。


 そして、漸く広がった視野を更に広げるのに留学はいい機会なのかもしれないと思うと、留学する事については、とても前向きな気持ちになれた。

 であれば……と、航くんへ私の答えを伝える。


「航くん、私、留学の件、前向きに考えてみる。だけど、私に合わせるとかそういうのは無しにしよう?航くんは航くんの将来の為に進路を考えて欲しい…足枷になりたくないし、何より、後悔して欲しくないから……」


 私は航くんをじっと見つめて笑顔でそう言った。本心だった。

 航くんは私の言葉を受けると、少し考えるような素振りをした後、困ったように眉尻を下げて小さく、わかった、と言って少しだけ寂しそうに笑った。


「香乃果がそう望むなら…そうしよう?でも、本音としては一緒に行きたいのは変わらない。だけど、あんまり強引に進めて香乃果に嫌われたら嫌だから……香乃果の言う通り将来の事だからちゃんと俺も考えるよ。だけど約束して?もし、香乃果も留学するのであれば、留学先の事ちゃんと相談して欲しい。いい?」


 航くんの最後の"いい?"に力が篭っていて、私は思わず反射的にコクコクと首を縦に振りながら返事をした。


「うん、それはもちろん。ちゃんと相談する。」

「ん、ならいい。」


 私の返答に満足したのか柔らかく表情を崩すと、航くんはファイルを棚に戻しに席を立った。

 その後ろ姿をぼぅっと眺めながら、私は先程航くんに言われた言葉を思い出していた。


 "香乃果…俺は留学先にに香乃果を連れて行きたいと思ってる。一緒に留学して卒業したらできればその後も一緒に居れたらって思ってる。俺は香乃果との将来を考えてるよ。"


 航くんは私との将来を考えていて、留学先に私を連れて行きたいと言っていた。

 それに、色々と支援するとも……

 この場合の"支援"って、相談に乗るとか精神的に支える"支援"では無いだろう。

 恐らく、金銭的なものから生活の保障など……

 それに、航くんは私との将来を考えているって……実質的な求婚をされた訳で、それはすなわち結婚を前提にって言うことだろうし、結婚前提で留学先に連れていくっていうのは、具体的には一緒に暮らすとか同じ学校に通うとかそう言う事だろうと理解している。

 それって航くんの家が後ろ盾になるって言ってるって事で、暗にパトロンになるって言外に示しているようなものだ。

 航くんからすれば、将来の結婚相手への投資のつもりだろうけど、もしそう言う事なら、航くんと一緒に行くと決めた時点で、求婚に同意したと言う事になる。
 それは、渉との今の関係や渉への想いや未練を全て断ち切らなければならない、と言う事……


 言葉で言うのは簡単だけど、実際はどうだろうか。

 渉への想いを断ち切れる?と自問自答してみると、胸がズキリと痛んだ。

 答えは、断ち切れるものならとっくに断ち切っている、だ。

 結局、渉への想いを断ち切る事すら出来ない私には、航くんからの申し出を受ける資格なんてないと言う結論が私の中で出る。


「だけど、航くん、私……航くんとは一緒に行けないよ。」


 気が付くと、目の前の航くんの後ろ姿にそう言っていた。


「それが香乃果の出した結論?」


 航くんはそう言うと、くるりとこちらに向き直り、感情のない顔で私を見つめた。
 私は俯いたまま黙ってコクンと頷いた。


「そっか……ねぇ、香乃果。香乃果はまだその幼馴染くんの事が好きなの?だから、俺と一緒に来れないの?」


 航くんは表情を変えずに私にそう訊ねた。

 渉の事は好き…だった。凄く。
 物心が付いた頃から渉の事をずっと想ってた。

 だけど、今でも好きかと言われると……


「正直…好き、なんだと思う。」

「思う?好き、ではなくて?」


 あんな酷い事をされたのに、渉が好きという気持ちは消えないし、離れていても、渉の事を考えない事はない。
 だけど、離れている時間が長過ぎてしまったのか、渉の事を考えてチリリと胸が痛む事はあっても、あの時のような激しい胸の痛みはもう感じない。

 これでも、好きと言えるのだろうか……


「なんだかわからなくなってきちゃった。自分の気持ちも、渉の事も。だから、好き、なんだと思う、かな?」


 私の答えを聞くと、航くんは目を瞑り、ふぅと長い息を吐いた。
 そして、つかつかと目の前のソファに戻ると腰を下ろし、俯いている私の顔を覗き込んだ。


「そう、なら俺の事はどうかな?この2年で少しは好きになってくれた?」

「航くんといるとね、ここがじんわり温かくなるの。一緒に居ると安らげるっていうか……大事な存在なのは間違いないよ。だけど、こんな中途半端な気持ちで、航くんの申し出は受けられない。」


 2年前あんな事があって、心がバラバラに壊れてしまうんじゃないかってくらい凄く傷ついたのを側で支えてくれたのは航くんだった。
 バラバラになった私の心をひとつひとつかき集めて、そして守ってくれた。
 航くんはどんな時でも一緒に居てくれて、いつだって私を優先してくれた。いつしか、そんな航くんに心が傾いて行った。

 徐々に航くんで心が満たされていくのに、渉の話を聞いたり少しでも姿が見えたりしただけで、私の心はすぐに渉で塗り替えられてしまう。

 でも、現実は残酷で、渉と私の距離はあの日のまま。
 交わる事はない。

 だから、狡い私はまた傍にいてくれる航くんに心を寄せて行く。
 そして、いつか、渉よりも好きになれるんじゃないかって思っていた。

 だけど、やっぱり渉が好きで……

 見えないけれど、私の心の奥にはいつも渉がいて、優しいのも私の事を想ってくれているのも航くんなのに、ここまで来てもまだ私の中は渉でいっぱいなのだと思い知らされる。

 そんな私は、航くんの気持ちに応えられない。

 苦しげに訊ねる航くんに、私は正直に自分の今の気持ちを伝えた。

 すると、航くんは頻りに何かに納得するように何度も小さく頷くと、いつものようにふわりと優しく微笑んだ。


「そっか。今はそれで十分。それなら尚更自分の気持ちを見つめ直すのにも留学するのはいい機会だと思うよ。幸い香乃果は英語の成績もいいし、定期的にTOEFLとかも受けてるでしょ?スコアだって悪くないし、資質は十分にあるから。」

「そう、かな?」

「うん、大丈夫!後は必要な勉強と準備…きっと1年あれば十分だと思う。ちゃんと手伝うから、俺の事、頼って欲しいな。」


 いつもと同じ優しい言葉と口調、いつもと同じ柔らかな笑顔で航くんはそう言う。
 だけど、私は彼の申し出を断ったのだから、そんな都合よくいい所だけ利用するような事は出来ない。
 返す言葉がなく口篭る私に、航くんはにっこりと綺麗なアルカイックスマイルを浮かべて立ち上がると、こちらに歩を進めながら言った。


「気にしないで?見返りなんて求めてない。それに、俺は何年でも待つつもりでいるしね。」

「航くん…」

「ここまで待てたんだから、あと何年かかろうが待てるよ。ちゃんと、気持ちと向き合って、そして、出来れば俺を選んで欲しいな。」


 そう言うと、航くんは私の横に腰を下ろして、私の頭をぽんぽんと撫でた。



 ◇◇◇



 あの航くんの突然の留学宣言と告白から数日経った。
 3日後に三者面談を控え、色々と考えたり自分なりに調べた結果、私も留学をする事に決めた。

 まだ課題は山積みだが、あれ程悩んでいた進路の方向が何となくでも定まると、心が穏やかに凪いだような気がした。

 そして、最大の難関である三者面談の前に親に話さないといけないという事だが、今まで何でも親の言う事に逆らう事なく、敷かれたレールの上を歩いてきた。
 でも、今回は自分の気持ちをちゃんと伝えて、わかって貰おうと思っている。
 その為にも、学校の進路指導室で留学関連の資料をゲットしてきたので、早速今日家に帰ったら話す予定だ。

 私の進みたい道に最適な学校はどこなのか、どんなことが学べるのか、これからの事を考えるとなんだか楽しくなってくる。 

 ただひとつ、決まらないのは優柔不断で臆病な私の気持ちだけ。

 渉か、航くんか……
 それとも……

 どちらも選べないなんて、ただ自分が傷つきたくないだけの方便に過ぎないのはわかっているのだが……

 私は暫し考える事を放棄して、空を見上げて遠い異国へ想いを馳せた。
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