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第二章

第29話 境遇-後編-

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「香乃果?なんか遠い目してるけど、引いた、よね……?」


 ハッとして意識が戻ってくると目の前にいたはずの航くんが、いつの間にか隣に座って困ったように眉尻を下げた顔で覗き込んでいる。


「あ、うん…いや、全然!!!」

「本当に?」


 慌てて取り繕う私の真意を探るようにじっと見つめている航くんの視線から逃れるように、私は航くんから目を逸らして俯いた。


「うん、引いてはいないよ……引くって言うか、吃驚したって言うか……なんかちょっと凹んだ、かな…って。」

「え?!なんで?!なんで凹んだの?!俺なんかしたかな?無神経な事言ってたらごめん……」


 私の凹んだという発言に、航くんは目を見開き驚いたような声を上げた。


「…何もしてない。航くんは悪くないよ。ただね、色々と何も知らなかった自分に凹んでるんだ。無神経なのは寧ろ私の方だよ。」


 そう、私はあまりにも航くんの事を何も知らなかったのだ。
 航くんの実家の家業の事も、この広い家で航くんがひとりで生活していることにも……

 実際、私みたいな一般人が到底お付き合い出来るはずもない家柄だった事とか、今日初めて聞いた事が沢山で吃驚したし、混乱もしていて、今でもまだ心臓がバクバクいってる。

 普通なら豪邸に住んでいるお坊ちゃんを羨ましいとか、お近づきになりたいとかそう言う気持ちになるのかもしれないけれど、そんな気持ちは一切湧いてこなくて、それよりも航くんの置かれている状況を…航くんの事を知ろうとしなかった罪悪感が胸を刺して酷く痛んだ。

 そして、知らなかったとはいえ、真逆の環境に置かれている航くんに、私は楽しそうに家族の話や隣の幼馴染達の話を聞かせていた。その事がどれだけ航くんの事を傷付けていたのだろうか。

 一緒にいる時に航くんが時折見せる寂しそうな横顔の意味はそういう事だったのか……

 その事に漸く気が付くと、途端に自分の無神経さに打ちのめされて居た堪れなくなった。
 痛んだ胸が今度はぎゅうっと締め付けられ、呼吸をする事を忘れてしまう程胸が痛くて苦しくて、じわじわと涙が滲んだ。涙で視界が揺れると私は零れそうな涙を隠すように咄嗟に両手で顔を覆った。

 航くんはふわりと私を引き寄せ抱きしめると、落ち着かせるように背中を何度も擦りながら、優しく諭す様な口調で言った。


「香乃果、ゆっくり呼吸して。それは俺が話してなかったから知らないのは当然だよ。香乃果は気にしなくていい。だから泣かないで?ね?」


 そして、私の手をひとつずつ外し私の瞳から溢れて頬を伝う涙を指で拭うと、優しい眼差しで私を見つめ両手で頬を包むように持ち上げ額にキスを落とした。


「航くん……ごめん、なさい。」

「謝らないで?何も話さなかった俺が悪いんだから。」

「で、でもっ……」


 渉に拒絶されて打ちのめされている時に、航くんが傍に居てくれてどれだけ私は救われたか。それだけでも有難かったのに、無理矢理関係を進めることもせず、見返りも求めずにただ私の気持ちに寄り添ってくれた。

 いつだって航くんは私の話を聞くだけで、自分の話をする事はなかった。
 いや、私が楽しげに家族の話をするものだから、もしかしたら出来なかったのかもしれない。

 最低だ……
 なんて最低なやつなんだろう。
 自分の話ばかりして彼の好意に甘えるだけ甘えて、私は彼の事を知ろうともしなかったのだから。

 航くんに対して申し訳なくて、自分が嫌になる。
 そして、自分がいかに浅ましく自己中心的な人間なのかを思い知らされて、涙が止まらなかった。


「香乃果、好きだよ。君のその愛情深いところにどうしようもなく惹かれてる。いつも家族とか幼馴染の話を聞いていて、その愛情が向かう相手が羨ましいなって思ってた。少しでもいい、その愛情が俺に向いて欲しいって。」


 溢れる涙をそっと唇で拭うと航くんは困ったように切なく笑った。そのまま顔中にちゅっちゅっとキスの雨を降らせる。


「んっ……こ、航く…ん……」


 私が擽ったさに身を捩ると航くんは一旦キスを止めて、眉根を寄せトロリとした甘さを含んだ瞳で私の瞳を覗き込んだ。
 その瞳の奥にある熱にドキリと心臓が跳ね、頬に熱が集まる。


「ねぇ、香乃果。その涙は俺の為だよね?俺、少しは自惚れてもいいのかな…… 少しでも俺の事を想ってくれてるって、思ってもいい?」


 緊張しているのだろうか、航くんは今にも泣き出しそうな震える声でそう言うと、私をぎゅっと抱き締め熱い息を吐いた。
 いつも優しく包み込んでくれていた航くんの余裕ない姿に、私が必要だと言われているような気がして、胸がぎゅうっと締めつけられた。


「香乃果……このまま先に進んでもいい?」


 心做しか私を抱き締める航くんの腕は震えていて、心臓はバクバクと脈打つような早い鼓動を打っている。

 初めてみる航くんの姿に、彼の孤独と寂しさが垣間見えたような気がした。
 そして、この人には私が必要なんだ、この人の傍にいてあげないといけない、と本心からそう思った。


 だけど……

 だけど、航くんへの罪悪感からそれを口に出す事は出来なかった。

 こんなに私の事を求めてくれる航くんの気持ちに応えなければ、とそう思う反面、心の奥にある渉への想いと今の微妙な関係が頭を掠める。

 航くんの事を想いながらも、まだ私の中には渉への想いも残っている……

 航くんの事を愛おしいと思ってしまう気持ちと断ち切れない渉への想いが交錯して、頭がどうにかなりそうだった。
 自分の気持ちなのに何一つ自分の思う通りにならず、こんな優柔不断な自分が心底嫌になる。

 こんな中途半端な状態の今の私では、優しい航くんの気持ちに応るべきではないし応えられない。で、あればこれ以上先に進む訳にはいかない。

 私は気が付くと震える航くんの胸を押し返していた。
 その私の様子に航くんは一瞬大きく目を見開く。


「……香乃果?」

「航くん、ごめんなさい…まだ……」


 私は辛そうな顔をしている航くんにどう答えていいのかわからず、きゅっと唇を結び視線を泳がせる事しか出来なかった。
 そんな私を見て航くんは軽く嘆息すると、伏し目がちにそっと身体を離して自嘲するように笑い苦虫を噛み潰したような表情で言った。


「……そう、だよね。俺が、君の気持ちがこちらに向くまでゆっくり待つって言ったんだもんね。うん……大丈夫、約束はちゃんと守るつもりだよ。だけど…さっき俺の為に流した君の涙を見ちゃったから少し…ね。」


 俯きながら言う航くんに罪悪感が押し寄せ胸がチリチリと痛んだ。


「航くん……ほんとに…」

「もう、これ以上謝らないで?……余計に辛くなるからさ。」


 私の言葉を遮ると顔を上げ寂しそうに笑った航くんに胸がぎゅうぎゅうと締めつけられ自然と涙が零れると、航くんは少し乱暴に私を引き寄せ抱きしめる。


「だけど、そうだな……これくらいは許してくれる?」

「え?」

「困らせるつもりはなかったんだけど……強引でごめんね。」


 航くんは耳元で小さくそう呟くと私の両手首を掴みソファの背もたれに押し付けると、噛み付くように私の唇を塞いだ。
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