冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも

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1巻

1-3

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 長年の付き合いだが、初めて怜が年相応の男に見える。いつも落ち着いていて淡々と仕事をこなす怜だが、どうやら一人の女性に執着しているようだ。
 だが飛行機に乗り込むと、仕事モードに切り替えたのか、いつも以上に精力的に仕事を片付けている。今度は寝る間も惜しんで仕事をしている怜が心配になり、「どうした?」と尋ねると、驚きの返事が返ってきた。

「一分一秒でも早く、日本に帰ってさくらに会いたい」
「……」

 驚き過ぎて言葉が出ないとはこのことだ。あの怜がここまで執着するさくらとはどんな女性なのかと、陸斗も興味が湧いてくる。

「どこで出会ったんだ?」

 常に行動を共にしている陸斗には、当然の疑問だ。

「田崎のパーティー」
「えっ!? あっ、お前、俺に全てを押し付けて、早々に会場から姿を消したから何かあるとは思っていたけど、出会った日に部屋へ連れ込んだのか?」
「お前の言い方だと、まるで俺が遊び人のように聞こえて心外だな。さくらは俺の運命の相手だ」
「そのさくらちゃんは、どこの誰なんだ?」
「なんか、お前にさくらちゃんと言われると腹が立つな」
「何でだよ! さくらちゃん以外、呼びようがないだろう」

 怜が女性に執着する日が来るなんて、まだ信じられない。しかも、こんなに必死になる怜の姿を見られるなんて……
 神楽坂グループの御曹司で端正な顔立ちの怜は、昔からとにかく周囲の目を惹く存在だった。世界各国から縁談の申し入れがあるが、今まで全て断ってきた。後継者のことを考えると、一生独身では困るが、怜が興味を示さないとどうにもならない。

「さくらという名前と、田崎の秘書だとしかわからない」
「えっ? 田崎って、この間婚約発表をした、あの田崎悠太?」
「ああ」
「秘書ってことは、月川さんのことか。お前、面食いだな」
「何でお前が、さくらのことを知ってるんだ?」
「そんな怒り口調で言われても。何度か田崎と仕事で会った時に連れて来てたんだよ。月川さんとも名刺交換をしたから。でも、何となくだが、田崎と付き合ってるんじゃないかと思ってたんだけど、違ったんだな。まさか婚約発表するとは思わなかった」
「……」
「どうした?」
「田崎と付き合っていたんだ」
「はあ!?」
「何も知らされずにパーティーに出席して、当日会場で自分の彼氏が婚約したことを知ったんだ」
「うわぁ、何だそれ。最低な男だな。でも相手があれだし、いい気味だな」
「ああ」

 田崎は彼女のことを知らなかったようだが、来栖亜美は昔から怜やイケメン御曹司達を見つけては、追いかけ回していた。しかもライバルには裏で嫌がらせをする腹黒さで、常にトラブルを起こしていたのだ。怜も被害に遭った一人で、勝手に彼女だと言いふらされてつきまとわれ、迷惑を被った。

「で? いくら美人でも、田崎の元カノを選ぶなんてお前らしくない」
「田崎は全く関係ない。一度、奴が秘書を連れている姿を見たことがあったが、その時は美人だなとは思ったけど興味はなかった。あのパーティーの日に会場でさくらを見つけて、気になって後を追いかけた。やけ酒しているさくらに自分から声をかけた時点で、俺は彼女に落ちてたんだな」
「ほー、お前にそんなことを言わせるなんて……」

 陸斗は怜の選んだ相手が、田崎の元カノということに多少引っ掛かったが、すでに田崎は亜美と婚約している。怜自身がその事実を受け入れていれば、問題はないだろう。
 親友としては、純粋に応援したい。
 早く帰国したい怜の気持ちを尊重し、必死で仕事を片付けていく。
 ところが仕事を終えて帰国した怜を、驚くべき現実が待っていた――


 飛行機が空港に着陸した辺りから、怜が珍しくそわそわしている。理由がわかる陸斗は楽しくて仕方ない。
 空港には神楽坂の迎えの車を待たせている。

「お帰りなさいませ」

 運転手がスーツケースを受け取ってトランクに積み込んでいる間に、怜が後部座席に乗り込んだ。陸斗はいつも通り助手席へ乗り込む。

「行き先は、本社でよろしいですか?」
「いや……」

 怜は運転手の言葉を否定するものの、なぜか行き先を言わない。

「中村さん、田崎に向かってもらえますか?」
かしこまりました」
「……」

 陸斗には怜の気持ちはお見通しだ。
 パーティー以来の日本だが、怜はもう何年ぶりかと思うほど長く感じている。それほどまでに、焦れったく待ち遠しかったのだ。


 車は田崎ホールディングス本社のエントランスに停まった。陸斗が先に降りて後部座席の扉を開ける。その場にいた田崎の社員達が、見慣れない高級車に視線を向けた。
 そこに怜が降り立つと、ざわめきが起こった。神楽坂グループの社長が出向いて来ることは、今まで一度もなかったのだ。
 しかも若くてイケメンなだけでなく、オーラが凄まじい。

「きゃあ……」

 怜が通るだけで周囲の女性達から黄色い声が上がる。

「行きましょう」

 二人は脇目も振らずに受付へ向かった。受付の女性達も二人に見惚れてぼ~っとしている。

「すみません」
「あっ、はい。いらっしゃいませ」
「神楽坂の辻です」
「辻様、お伺いしております。こちらをどうぞ」

 受付をして入館用のパスをもらっている陸斗に、怜が驚きの声を上げた。

「何を驚いてる? 行くぞ」

 何度か来たことのある陸斗は案内を断り、エレベーターへ向かう。怜には今のこの状況がいまいち理解できていないのだ。
 周囲の目を気にして黙っていた怜も、エレベーターに乗った途端に陸斗に詰め寄る。

「どうなってる?」
「いくらグループの代表とはいえ、突然来たら相手が困る。アポを取るのが当然だろ?」
「……確かに」
「しかも彼女が社内にいるかもわからない。それでも帰国した足でお前はそのままここに来るだろうと思って、アポを入れておいたんだ。わかったか?」
「ああ」

 怜は、すでにさくらとの再会を思い浮かべて浮足立っていた。アポを取るという初歩的なことでさえ、頭からすっぽりと抜け落ちていたのだ。陸斗がいてくれて良かった。
 ぐんぐんと上昇するエレベーターに合わせるかのように、怜の期待も増していく。
 エレベーターが最上階に着いて扉が開いた。そこには……
 思わず怜と陸斗は顔を見合わせる。

「いらっしゃいませ」
「何で、お前がここにいる?」
「亜美に会えて嬉しいでしょう? 神楽坂先輩」

 そこには田崎の婚約者の亜美がいたのだ。亜美の言葉を聞いた瞬間、ピキッと音が聞こえそうなくらいに、怜の眉間にシワが寄る。

「来栖さん、案内していただけますか?」

 このままではマズイと思って陸斗が口を挟んだ。

「はい……」

 客に取る態度とは思えない、不貞腐れた失礼な返事をする。チヤホヤされたい亜美は、怜の冷たい口調ですぐに無駄だと悟ったようだ。
 亜美がここにいる時点で嫌な予感しかない。怜からは一気にピリピリしたオーラが発せられた。

「どうぞ」
「……」

 怜に相手にされないとわかると、亜美は態度を一変させた。客に応対するには向いていないその態度に、険悪な空気が流れる。そして案内されて入った秘書室が更に酷かった。
 以前、陸斗がここを訪れた時は綺麗に整えられて清潔だったが、今は泥棒でも入ったかのような有様だ。これなら、普通は応接室に案内するべきだろう。田崎ホールディングスで、一体何が起こっているのだろうか。
 亜美が専務室の扉をノックして声をかけた。

「悠太、お客様だよ」
「「……」」

 婚約者とはいえ、客の前で平気で名前を呼び捨てにする常識のなさに驚く。

「えっ、あっ、はい」

 悠太は今日の来客が誰かを思い出し、慌てて扉を開けた。この様子からして、受付からの来客到着の連絡も亜美で止まっていたことが予想できる。

「神楽坂社長……!」
「これはどういう状況だ?」

 グループの社長として、傘下の会社の不穏な空気には黙っていられない。

「すみません。色々ありまして……」

 はやる気持ちを一旦落ち着かせて、詳しく話を聞くしかない。怜がここへ来た一番の目的である、さくらの姿が見られないのも気になった。
 悠太がバタバタしている理由は、間もなく迫った副社長就任のためでないことは一目瞭然だった。
 勧められたソファに怜と陸斗は腰を掛けて、悠太からの説明を待っている。

「で? これはどういう状況だ?」
「はい……。それが、秘書が突然辞めてしまいまして……」
「何だと?」

 秘書が辞めて困っていることを伝えたつもりだったが、怜が突然怒りを含んだ声を上げた。悠太には、その理由がわからずに戸惑ってしまう。

「怜、落ち着け。最後まで聞こう。田崎専務、あなたの秘書が辞めたのはいつですか?」
「えっ、はあ。先日のパーティー後の週明けです」
「そうですか。でも、私の知る月川さんは、無責任に仕事を辞める方ではないと思いますが」
「……」
「何があったんだ?」
「今は俺が彼と話してる。怜は黙ってろ」

 陸斗が抑えていないと、今にも殴りかかりそうだ。
 怜が言葉を発するたびに、部屋の空気が冷えていく。

「僕が結婚することが、気に入らなかったんですかね……」
「はあ? それくらいでは、突然無責任に仕事を投げ出さないだろう! お前、なんて言ったのか正直に言ってみろ」

 怜の怒りは止まりそうにない。陸斗も目の前の男を庇う気はなくなった。

「実は、彼女とは付き合っていたんです。ですが今回見合いの話が来て、条件が良かったので結婚することに決めました。だから彼女には、今までよりも会う回数が減ってしまうと話したんです」
「「……」」

 すでに怜の怒りは最高潮に達していたが、陸斗がなんとか最後まで話を聞くように制した。

「そこで彼女が急に怒り出して、浮気相手になるつもりはないと、退職届を叩きつけられました。引き継ぎもしないで、そのまま会社に来なくなって……。そんな無責任な女だとは、思いもしなかった」

 この言葉を聞いた瞬間、怜が陸斗の制止を振り切り、悠太は胸ぐらを掴まれて思いっきり殴られていた。大きな音と共に悠太が床に倒れ込む。一発では足りないとばかりに、更に殴りかかろうとする怜を陸斗が必死で止めた。

「怜、止めとけ。こいつを殴るだけ無駄だ。こんな腐った奴を相手にするな」
「悠太どうしたの? 大丈夫?」

 その音を聞いた亜美が、ノックもなしに入ってくる。

「無責任だと? お前みたいな常識の欠落している男には、腹黒女がお似合いだ。今後一切さくらに関わるなよ。さくらに何かあったら田崎ホールディングスはおしまいだ」
「さくら? なぜ神楽坂社長がその名前を?」
「お前に教える義理はない!」

 悠太は怜の発する言葉に身震いした。冗談ではなく、怜なら田崎ホールディングスを簡単に潰せるだろう。そうしてはいけない人を敵に回してしまった。自分の選択が間違っていたと気づいても、もう遅かった。
 怜は冷酷な笑みを残して、田崎ホールディングスを後にする。
 怒り冷めやらぬまま、待っていた神楽坂の車に乗り込んだ。しかし、これからどうしたらいいのか見当もつかない。

「怜、どうする? お前のその様子だと、彼女と連絡先も交換していないよな?」
「ああ」
「住まいだけでもわかったら……。俺が調べてみるから一旦待ってくれ。ただ、今は個人情報には厳しいから、時間が掛かるかもしれない」
「頼む」

 必死に仕事を終わらせて帰国した怜を待ち受けていた辛い現実。陸斗まで切なくなった。しかもパーティー後の話を聞いて、当日だけでもショックだったさくらへの田崎の言葉に、怜が思わず手を出したのも頷ける。
 月川さくらは今、どこにいるのだろうか……
 そして陸斗がさくらの住まいを見つけた頃には、彼女は本当に消えてしまっていた。
 さくらの住んでいたマンションは解約されていた。不動産会社がたまたま神楽坂グルーブの子会社で、担当者に話を聞くと、電話で荷物の処分と解約の連絡があったそうだ。
 これでついに、全ての手掛かりがなくなってしまった――


   ***


 沖縄へ来て彩葉と出会い、生活をこの地に移して約一ヶ月が経った。
 昼間は翻訳の仕事をし、夜は彩葉の店の人手が足りない時には手伝いをしている。手伝いをしていない日も、店で夕飯を食べて常連客と楽しく過ごす日々。
 彩葉だけでなく、さくら目当てに来てくれるお客さんがたくさんいるのだ。

「いらっしゃいませ」
「今日は、さくらちゃんが手伝ってる日か。来て良かった」
「何? 私だけじゃ不満なの?」
「そんなことは言ってないだろう」

 こんな会話が、ここでは日常茶飯事で繰り広げられている。
 お客さんは、地元の常連客と周辺のリゾートホテルの宿泊客が半々くらいで、いつも店は賑わっているのだ。
 彩葉の祖母のレシピを受け継いで作られた料理は、美味しくてついつい食べ過ぎてしまう。
 自分は太らない体質だと思っていたさくらだが、以前よりも食べる量が増えて、少しウエスト周りが大きくなった気がしている。このままでは太ってしまいそうだ。
 体重増加を気にしていたさくらだが、今度は突然食べられなくなった。ずっと、胃のあたりがムカムカしているのだ。

「さくらちゃん、最近顔色が悪くない? 体調悪いの?」

 心配をかけまいと数日黙っていたが、とうとう気づかれてしまった。

「実は、数日前から胃のあたりがムカムカして……」
「何か思い当たることはないの?」
「はい……。特にアレルギーもありませんし」
「無理はしないようにね。何かあったら遠慮せずに言うのよ」
「はい」

 不思議と彩葉には素直になれる。その後もさくらの体調は悪くなる一方で、何か口に入れた途端にトイレへ駆け込み、嘔吐してしまう。
 そしてここ数日は、彩葉の店に行くこともままならず寝込んでしまった。

「さくらちゃん、大丈夫?」

 彩葉が心配して様子を見に来てくれた。

「吐き気がなかなか治まらなくて……」
「熱は?」
「ないです」
「他に症状は?」
「それが、全くなくて」
「ねえ、さくらちゃん。生理は順調に来てる?」
「えっ!?」
「彼氏だと思っていた人に裏切られた話は聞いてるけど、最近まで彼氏がいたんだし、避妊しても絶対に妊娠しないとは限らないわよ?」
「……」

 彩葉に、沖縄へ来た理由である悠太の話はしていた。だが、もし万が一妊娠しているとしたら、悠太の子ではない。悠太との行為は最後の生理の前だとハッキリしている。可能性があるとするなら、パーティーの日の王子だけだ。避妊はしていたが最後までは記憶がない。しかも、思い返せばちょうど排卵日あたりだった気がするのだ。

「何か心当たりがあるようね?」
「はい……」
「話は後で聞くわ。まずは検査薬を買ってくるわね」
「えっ……」
「病院へ行く前に調べましょう。妊娠もしていないのに今の症状なら、それはそれで心配じゃない」
「はい。……ありがとうございます」

 出会って一ヶ月ほどのさくらに親身になってくれる彩葉には、感謝しかない。
 彩葉はすぐにドラッグストアまで買いに行ってくれた。

「初めて買うから、何種類かあって迷っちゃった」
「私も初めて見ました」
「だよね」

 彩葉が、さくらの緊張をほぐそうとしているのが伝わってくる。

「どんな結果でも、さくらちゃんがどんな道を選んでも、私は全力で応援するからね。どんと構えて検査しなさい」
「彩姉……」

 彩葉の心強い言葉に、さくらの顔から不安な表情が消えた。買ってきてもらった検査薬を手にトイレに入る。
 数分後……
 さくらが検査薬を手にトイレから出てきた。青白かった顔色がほんのりとピンクに色づいて、何も聞かなくてもその表情から結果と決断が伝わってくる。

「さくらちゃん、おめでとう」
「ありがとうございます」

 さくらは一瞬目を見開いて驚いたが、その表情はすぐに母性あふれる笑顔へと変わり、幸せで満ちあふれている。
 そして彩葉にはパーティーの夜の出来事を正直に話した。

「えっ、じゃあ、その王子がどこの誰だかわからないの?」
「はい」
「しかも、そのままホテルに置き去りにするなんて、さくらちゃんやるわね」
「置き去りって。そんなつもりはありませんから。あれ以上一緒にいたら、そのまま依存してしまいそうなくらい、とても素敵な男性だったんです」
「そんなパーフェクトな男性なら、いつか私も会ってみたいわ」
「怜さんには本当に感謝しているんです。あの夜、彼に出会わなければ、前へ進めずに今でも泣いて過ごしていたと思うんです」
「運命の相手ね。会いたいと思わないの?」
「ん~。正直、いつかは会ってお礼を言いたい気はします。赤ちゃんを授かったことは驚きましたが、私自身が家族に恵まれなかったこともあって、いつかは子供が欲しい、家族が欲しいと思っていたんです。その相手は悠太だと思っていたんですが、最悪の形で裏切られてしまって。でも、どん底の時に彼に出会って助けてもらって、こうして最高のプレゼントまでもらいましたから、もう充分です」
「いい顔をしてるわ。さくらちゃんの決めたことなら、私は全力で応援するわよ。お腹の子は、ここのみんなで大切に育てましょう。さくらちゃんと王子に縁があれば、いつかどこかで再会するかもしれないしね」
「でも、もし再会することがあっても彼には彼の人生があるでしょうし、この子のことは言わないつもりです」
「さくらちゃんがそれでいいなら、私は何も言わない。ただ、赤ちゃんはいっぱい可愛がるわよ~」
「本当に、彩姉に出会えて良かった」

 涙を流しながら彩葉に抱きつく。
 さくらの生い立ちは複雑だった。父は会社を経営していて裕福な家庭で育ったが、幼い頃から厳しく躾けられ、毎日習い事の日々だった。父も母も忙しく、どこかに行った記憶もなければ、何もかも家政婦任せで食卓を共にする機会も少なく、愛情には恵まれなかった。
 ただ、習い事をたくさんしていたことは、今でも役に立っているので感謝している。
 けれど、そんな裕福な生活も中学までだった。高校へ上がる頃には父の会社が傾き、父と母は離婚した。両親のどちらにも別のパートナーがいたようで、さくらが引き取られることはなく、高校生にして一人暮らしを始める。高校と大学の学費と多少の生活費をもらい、見捨てられたも同然な状態になったのだ。
 中学までは、親の見栄のためなのか、私立の一貫校に通っていた。一流の家庭の子供が多かったが、さくらに合わなかった。高校進学と親元を離れたことを機に、地元の公立高校へ通うことになる。公立の高校には様々な家庭環境の子がいて、自分が今まで金銭面では何不自由なく育ったことには感謝したが、その代わりに温かい家庭はなかったと痛感することもあった……
 そして勉強にアルバイトにと、忙しい学生生活を過ごし、田崎ホールディングスに就職した。
 いつも心の中にあったのは、自分が親になる時が来たら、愛情いっぱいに子供を育てたいという想いだった。
 今回は思いがけない妊娠だが、さくらの中にはもう母性が芽生えていて、産まないという選択肢はなかった。
 この土地で、この子を幸せに育ててみせる。
 翌日、彩葉に教えてもらった産婦人科を受診して、妊娠二ヶ月だと告げられた。心拍も確認できて、役所で母子手帳をもらい、母親になったことを改めて実感する。
 妊娠初期で、無理はしないようにと注意された。彩葉にも、つわりが落ち着いて安定期に入るまで店の手伝いを禁止される。そして安定期に入るまでは周囲には知らせないことに決めたのだ。
 彩葉に助けられて、妊娠初期の辛いつわりを無事に乗り切った。
 細身のさくらのお腹がふっくらとしてきて、常連客も変化に気づき始める。密かにさくらに憧れていた男性陣が、涙を流したのは言うまでもない。


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