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1巻
1-2
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***
「ん~っ」
伸びをしながら目覚めた怜は、ベッドに自分以外の気配がないことに気づいて飛び起きる。
神楽坂グループ傘下の田崎ホールディングスのパーティーに、グループの社長として出席するため一時帰国をした。
一ヶ月ほどの予定で海外出張を組んでいたが、パーティーのことは、怜も、秘書で幼馴染みの辻陸斗もすっかり忘れていたのだ。今回は、創立記念のパーティーのため、欠席をする訳にもいかず、強行スケジュールで帰国した。翌日の夜には、アメリカにとんぼ返りする。
面倒に思いながらも出席したパーティー会場でさくらの姿を目にした怜は、彼女の凛とした立ち姿と意志の強い眼差しに、一瞬で惹きつけられた。怜の姿を見つけて寄ってくる者達を陸斗に任せ、彼女に魅入っていた。ところが途中から哀愁漂う様子になり、こちらまで切なくなるような表情に変わったのだ。視線を追ってみると、なんとなく状況がわかった気がした。周囲を意識してか、さくらは平静を装って会場を後にしたが、怜には全てお見通しだった。
さくらの様子が気になって仕方のない怜は、後のことは陸斗に押しつけてさくらの後を追う。
陸斗も今までにない怜の様子に気づいたのか、何も言わずに送り出してくれた。
最上階のバーのカウンターに腰掛けたさくらを見て、コの字のカウンターの対面に座った。顔見知りのバーテンダーは、怜の姿を見て目を見開いて驚いている。何の前触れもなくグループのトップが現れたのだ。だが、すぐに怜がさくらへと向けている訳ありの視線に気づいたようだった。
何も言わずに目の前へドリンクを出して、声を掛けることはしない。一流と言われるホテルのバーテンダーの対応は満点だ。
さくらの様子を見ながら、怜もグラスを傾ける。今までのことでも思い出しているのか、時折表情が歪んでいた。
アルコールに強いのか定かではないが、飲むペースが早過ぎる。このままでは、いくら強くても酔ってしまう。
そうなりたいのかもしれないが、危なくて見ていられない。
「すまない。彼女のカクテルをノンアルコールに代えてくれ。あと、支払いは俺に付けといてくれ」
「かしこまりました」
さくらの知らないところで、そんな会話を交わしていた。
そろそろ限界に近いだろうと感じて、怜はさくらの隣の席へ移動する。
「飲み過ぎじゃないか?」
怜の呼びかけに、自分が話しかけられているとは思っていないようで、反応がない。
「おい」と再度呼びかけると、アルコールで頬を赤らめて目を潤ませたさくらが、やっと怜の方へ顔を向けた。
その美貌は、いつも冷静で冷酷と言われている怜でさえ、思わず動揺するほどの破壊力だった。今この瞬間、さくらに向き合っているのが自分で良かったと心から思う。
さくらの今の状況を詳しく把握したくて、初対面を理由に話を聞き出す。
「さっきまで、このホテルで会社の創立記念パーティーがあったんです。そこで、今日まで彼氏だと思っていた人が突然婚約を発表したんです。私じゃない人と……。おかしくないですか?」
さくらからは、裏切られた怒りよりも何も知らされていなかった疑問が大きく感じられた。もっと怒りをあらわにしてもいいのに、こんな時も真面目な人柄がひしひしと伝わり、その健気さに怜まで切なくなった。
話を聞けば聞くほど田崎のズルさに腹が立った。どう考えても田崎の方に非があるのに、文句の言葉よりも哀しみを一生懸命に堪えているさくらが、今にも消えてしまいそうで、抱きしめたい衝動に駆られる。
田崎は昔から柔らかな雰囲気を持つ男で、いつも周りに人が集まり、リーダー的な印象を与えるが、怜からすると八方美人で優柔不断としか思えない。学生時代は、常に違う女性を連れていた記憶がある。
怜に下心を持って近寄ってくる後輩のうちの一人で、皆その柔らかさに騙されがちだが、実際はかなりの野心家だった。それを見抜いていた怜は、他の後輩同様相手にはしていなかった。
ただそれでも、田崎は神楽坂グループ傘下の社長の息子。嫌でも顔を合わせることはある。
一度、秘書であるさくらを連れて歩いているのを見掛けたことがあった。
綺麗な女性だとは思ったが、田崎が連れている女に一切興味はない。パーティー会場で再び見かけるまで、さくらのことは忘れていた。
どん底のさくらとこのタイミングで再会したのは、自分にとっては運命だと怜には思える。
健気で儚いさくらを笑顔にしたい、幸せにしたいという気持ちが強くなる。今まで女性に心を動かされたことのない怜が、初めて守りたいと思える女性に出会ったのだ。
時折声を詰まらせながらも全て話し終えたさくらの頭を、気づくと無意識に撫でていた。視界の端に入ったバーテンダーが驚いている。
怜のその対応が引き金になったのか、さくらの目から一気に涙が溢れ出した。この時点で、すでに怜の理性は崩壊していたのだ。もう、このまま手放す選択肢はなかった。
「辛い記憶を、俺が塗り替えてやろうか?」
普段なら、絶対に口にしないような言葉が自然に出ていた。
さくらも今は冷静ではない。そこにつけ込んだと言われればその通りだが、すでにさくらの一生を背負う覚悟はできている。
酔ってよろけながら歩くさくらをエスコートして、これから宿泊するスイートルームを目指す。怜にエスコートされながらも、会計を気にするさくらが可愛くて仕方ない。
女性にしては長身でスレンダーな美しい肢体。儚い彼女の素顔を暴いていくのが楽しみで、ぞくぞくする。
田崎のことを考える余裕すら与えずに熱い夜を過ごし、さくらが先に意識を手放した。
一晩で何度も繋がり、何度も熱を放出したが、まだまだ足りないと感じるほど、さくらに溺れている。寝顔を見ながらいつの間にか眠りについた怜は、まさか自分がホテルに置いていかれるとは考えもしなかった。
翌朝、隣に人の気配がないことに気づいて、怜は飛び起きた。冷静に辺りを見回すも、さくらの姿はどこにもない。自分が全裸なのも忘れてリビングスペースに行くと、テーブルには『ありがとうございました』とメモが一枚残されているだけだっだ。
「クソッ」
さくらが起きたことに気づかずに眠っていた自分に対しての言葉だ。
暫く呆然としていたが、スイートルームにチャイムの音が響いた。外は明るいが、起きたばかりの怜には何時なのかもわからない。
今は出たくないが、チャイムが何度も鳴っている。更には怜を呼ぶ陸斗の声が、微かにだが聞こえてくる。仕方なく、全裸にバスローブを羽織った姿で鍵を開けた。
「おい、怜。スマホを何度も鳴らしたんだぞ。って、何だ? その色気がだだ漏れな姿は……。もしかして部屋に誰かいるのか?」
「いや、置いていかれた」
「はあ? 今、なんて言った?」
「だから、起きたらいなくなってたんだ!」
苛立ちよりもショックで自棄になっている。
「……ブハッ。アハハハハ」
泣く子も黙る神楽坂グループの社長である怜が、まさか女から置き去りにされるとは。
陸斗は笑いが止まらず、この後の展開が楽しみだと転げ回っている。
***
ホテルから自宅に帰ったさくらは、不思議とスッキリしていた。恋人だと思っていた人に、最悪の形で裏切られてどん底だったはずが、怜のお陰で前を向けた。
もしかしたら、悠太から言い訳か謝罪の連絡があるかと思っていたが、スマホが鳴ることはなかった。だがショックではなく、正直さくらはホッとしたのだ。
ただ、仕事では直属の上司。嫌でも顔を合わせてしまう。昇進して副社長になる悠太は、今後のことをどう考えているのだろうか。
周りに関係を知られていないのは幸いだった。社内では、悠太の婚約と副社長への昇進が話題になるだけだろう。さくらが捨てられたことは、誰にも知られることはないのだ。
自主退職、異動……いくつかの選択肢が脳裏を過るが、さくらが問題を起こした訳ではないので解雇はないはずだ。でも、これから仕事がやりづらくなることは間違いない。
悠太の出方次第ですぐに退職できるように、『退職届』は用意することにした。
週明け、さくらはいつも通りに出勤する。オフィスビルが見えた辺りから、心臓がバクバクしてきた。表情には出さないようにポーカーフェイスを心掛ける。
やはりと言うべきか、オフィスビルへ入ったところから、話題は悠太の婚約のことで持ちきりだった。
「専務、婚約したね。しかも、副社長になるんだよね」
「ショック~密かに玉の輿を狙ってたのに」
「何言ってるの~、専務と結婚なんて無理無理」
「わからないじゃない」
「あんなに綺麗な秘書が近くにいるのに、社内では手を出さないで、別の会社の社長令嬢と婚約したんだよ」
「確かに~」
すでに、さくらのことまで話題になっていた。ここに捨てられた人がいますよ、と内心で突っ込めるほどふっ切れている。それよりも、頭の中にちらつくのは怜のこと。
ふとした瞬間に、抱かれた時の快感を思い出してしまう。我を忘れて乱れた恥ずかしさと、初めて知った気持ちよさの余韻が、まだ身体に残っているようだ。悠太と対峙する前に何を考えているのかと、自分を叱責する。エレベーターに一緒に乗り合わせた人達は、秘書のさくらに詳細を聞きたいと思っているはずだが、話しかけづらい雰囲気を醸し出す。
最上階の役員フロアに着く頃には、エレベーターの中はさくら一人になった。大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。少し早めの時間帯で、まだフロアは閑散としていた。
役員は各々に個室があり、廊下から秘書の部屋を通って奥に入るタイプの造りで、出勤すると必ず上司と顔を合わせることになるのだ。
そして悠太の出勤時間が近づいてきた。さくらは、悠太の出方を見てから今後のことを決めようと思っていた。この際だから遠方に異動でも構わない。その方がお互いのためだろう。
カチャリとドアが開く音がして、悠太が専務室に入ってきた。副社長には来月から正式に就任となる。
「専務、おはようございます」
「おはよう」
まるで週末の出来事など存在しなかったようないつもと変わらない会話に、身構えていたさくらは訳がわからなくなった。
今から仕事だからと気持ちを立て直して、通常通り業務に取りかかる。月曜日の朝は、とにかく忙しいのだ。
もう少し気まずい空気になるのかと思っていた。それとも、二人の関係はもうなかったことにされているのだろうか。それならそれで構わないが、曖昧なままだと先に進めない。
モヤモヤとしながらも、お昼を迎えた時だった。一階の受付から内線が入る。
「お疲れ様です。受付の中山です」
「お疲れ様です」
「専務にお客様ですが……」
「えっ、本日アポは入っていませんが」
「お客様は、婚約者の来栖様と仰っています。電話が繋がらないから、直接来られたと……」
今日の悠太は、朝からオンラインで各地の田崎の社員とミーティングをしている。電話が繋がらないのは当然のことだ。
「専務に確認いたしますので、お待ちいただけますか」
「わかりました」
まだミーティング中だと、内線を鳴らすと邪魔になってしまう。専務室の扉を軽くノックした。
「どうぞ、ちょうどミーティングが終わったところだ」
「失礼します」
「どうした?」
「専務に来客です」
「えっ? 誰だ?」
「来栖様です」
「……ああ、今はどこにいるんだ?」
「受付です」
「わかった」
続けて指示があるかと思って待っていると、悠太がデスクの上の受話器を取って、自分で内線を掛けている。
「田崎だ。来栖さんに代わってもらえるか?」
あちらの声は聞こえないが、今日は一日忙しいから退社後に連絡すると伝えていた。伝えるというよりは、言い聞かせているように感じる。なんとか、そのままお引き取りいただけたようだ。
「はあ」
安堵なのか、よくわからない溜息を吐き出している姿を見ていると、パーティーでの悠太は嘘のようだ。仲睦まじい様子は演技だったのだろうか。次のミーティングまでは時間があり、このチャンスを逃すまいとさくらから話しかけた。
「専務、この度はご婚約おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。彼女、来栖食品のご令嬢なんだ。副社長になるには、彼女と結婚するのが確実だし、見た目も可愛いからラッキーだったよ」
「……」
これが元カノに告げる言葉だろうか。その無神経さに思わず驚いてしまった。
「あっ、さくらとは会える日が減ってしまうのが申し訳ない」
「……はあ!?」
今、なんて言った? 会う日が減る? まさかこれからも会うつもりだろうか? 混乱し過ぎてわからなくなる。
「何を驚いているんだ?」
「専務は何を仰っているのでしょうか? ご結婚されるんですよね?」
「ああ」
「では、私達の関係はこれで終わりですよね?」
「えっ? 何でだ?」
目の前の人物は、本当に今まで彼氏だった男だろうか? これまでこんな非常識な男と付き合っていたなんて自分が情けなくなった。
「何でも何も、私は浮気相手になるつもりはありません。異動があるなら受け入れるつもりでしたが、ただ今を持ちまして退職させていただきます」
そう言って、準備していた退職届を悠太に突きつけた。
「さくら!」
部屋を出る際、悠太が何か言っていたがもう未練はない。さくらは振り返らずに会社を後にした。
三年間も恋していたはずが、一瞬にして冷めてしまうこともあるのか……
恋愛経験がほとんどなく、今までは悠太が理想の彼氏だと思っていた。恋は盲目とはよく言ったものだ。まさか、あんな奴だったなんて思いもしなかった……
会社を辞めたことに後悔はない。むしろ、こんなこともあろうかと、退職届を準備していた自分を褒めたいくらいだ。
通勤用の鞄だけを持って、会社から出てきた。後の荷物は勝手に処分したらいい。
無職になってしまったが、何もかもスッキリとして清々しい気持ちだ。
エントランスを出て振り返り、改めてオフィスビルを見上げたが、今までプライドを持って働いていたはずのビルがくすんで見える。
一度、都会から離れるのもいいのかもしれない。今はパソコンさえあれば、どこでも仕事ができるのだ。
そういえば、昔はカフェを開くのが夢だったな――
自宅に帰り着く頃には、すでに東京を離れる決心がついていた。身の回りの物をスーツケースに詰め込み、部屋を片付ける。
翌日には、必要な物を詰めたスーツケースと貴重品だけを持って、飛行機に乗り込んでいた。
***
東京から約二時間半。さくらは青い海と白い砂浜の広がる暖かい地、沖縄へやって来た。
スマホには、何度か悠太からの着信が入った。秘書が突然辞めて困ったからなのか、さくらに未練があるからなのかはわからないが、飛行機に乗る前にスマホは解約したので真相は不明だ。何もかもリセットして、一から始めようと思っている。沖縄の中心街から離れたリゾート地のホテルに滞在して、今後のことをゆっくりと考えるつもりだ。まずは、今まで仕事を頑張ってきた自分を労ってあげたい。
リムジンバスに乗り、車窓から見える長閑な景色に癒やされて、ホテルへと到着した。チェックインをして、辺りを散策する。まるで異国の地に来たような、のんびりした時間が流れている。
この地に住み着くのもありかもしれない。すでに気持ちは都会から離れていた。
そして、夕食に立ち寄った『ちゅらかーぎー彩』という名の沖縄料理店で、今後のさくらの人生に大きな影響を与える出会いがあった。
「めんそーれ」
「こんばんは」
「あら、初めて見る顔ね」
「はい。一人なんですが……」
「大歓迎よ。おしゃべりするのが嫌じゃなければ、カウンターに座って」
お店を経営しているのは、さくらと同年代のショートカットが似合う女性だ。
ドリンクと料理を何品か注文して、カウンターの中で調理する女性と会話をする。
「一人旅?」
「はい。少しのんびりしようと思いまして」
「いいと思うわよ」
きっと女性には訳ありだと見抜かれただろう。
「名前を聞いてもいい?」
「さくらです」
「さくらちゃんね。私は彩葉よ」
「あっ、お店の名前の」
「そうそう。みんなからは彩姉って呼ばれてるの」
「そう叫びたくなるのもわかる気がします」
「そう?」
「はい」
先日までは悠太との関係もあり、常に気を張って生活していたので、さくらには社内に心を許せる人がいなかった。時々連絡を取り合う学生時代からの友達はいるが、秘書課に異動してからは、社内の人との交流がなくなってしまったのだ。入社当時は同期と仕事帰りに食事へ行くこともあったが、異動してからは一度もない。
限られた人との交流しかない部署で、仕事でもプライベートでも悠太中心の生活をしていたら、悠太しか見えなくなってしまうのも致し方ない。
怜との出会いで、これまでの洗脳のような状態が解かれたと言っても過言ではなかった。
彩葉との会話は楽しく、時間が経つのも忘れてしまう。お店には、彩葉を慕って食事に来る客が後を絶たない。さくらは、沖縄に来て最初に出会ったのが彩葉だったことに感謝した。
「いつまで沖縄にいる予定? まだ決めてないの?」
「はい。もうこの数時間で、すでにここに住みたいと思っています」
聞き上手な彩葉には、つい何でも正直に話してしまう。
「そうなの? のんびりして本当に沖縄に住むって決めたら、いつでも相談してね。この辺りには顔が利くから」
「いいんですか? それは心強いです」
「そうそう。困ったら何でも彩姉に相談だよ」
近くの席で話が聞こえていた常連のお客さんからも、同意の声があがる。
初日から、素敵な出会いがあったことに感謝だ。
その後もホテルに滞在しながら、さくらは毎晩のように彩葉の店へ通い、常連客とも仲良く打ち解けていった。
沖縄に来て一週間ほど経った頃、さくらの決意が固まった。
「さくらちゃん、これからどうするか決まったの?」
「はい。暫くこの辺りに住みたいと思っているんですが、住むところとかってあるんですかね?」
「中心街からは離れているけど、この辺りでいいの?」
「はい。むしろ彩姉の近くにいたいです」
さくらもすっかり彩葉に懐いている。
「この店は私の祖母から引き継いだって、以前話したわよね?」
「はい」
「この店の裏に、小さなハイツがあるのはわかる?」
「はい。可愛らしい建物ですよね」
「あれもおばあから継いで、今は私が管理してるの」
「えっ、そうなんですか?」
「私もそこに住んでるし、今は女性専用の住まいにしてるの。ちょうど一つ空きがあるから、良かったらさくらちゃんもそこに住まない?」
「いいんですか?」
「もちろん。でも、今までの住まいはどうするつもりなの? まだ借りたままよね?」
「残りの荷物は少ないので、管理会社に連絡して処分と解約をお願いするつもりです」
「じゃあ、明日にでも部屋に案内するわね」
さくらは本格的にこの地に住むことに決めた。実はすでに仕事も見つけている。求人サイトで在宅勤務可の翻訳の仕事を探して、見事採用されたのだ。
英語が堪能なさくらは、今までも何度か翻訳の仕事をしたことがあり、実績実力共に申し分ないと判断された。
翌日、早速見せてもらった部屋は、今まで一人暮らしをしていた部屋よりも広くて綺麗なのに、家賃は東京の半分以下だった。都会の物価は高いと改めて思う。家具や家電も、以前住んでいた人が置いていった物はそのまま使える。最小限の出費で済みそうだった。
管理会社に連絡を入れて、今月の家賃と処分費用を引き落としてもらうことで話をつけた。
沖縄に来て一ヶ月ほど経った頃には生活基盤ができあがり、どん底だったさくらはもうどこにもいなかった。
けれど、何もかも順調だったさくらに、思わぬ出来事が待っていた……
第二章 すれ違いの時間
ホテルに一人置き去りにされた現実が、陸斗の笑いと共に怜の心に重くのしかかる。
さくらを探しに行くと言いかけた怜に、陸斗が言葉を被せた。
「今はそんな時間はない。何時だと思ってる? 今から用意してすぐに空港へ向かうぞ」
「戻りたくない」
今まで仕事にも自分にも厳しく一切の妥協を許さない、『冷酷王子』と呼ばれている男が発した言葉とは思えない。
「早ければ、あと二週間で帰って来られるんだ」
「帰ってきたら、俺の邪魔をするなよ」
「仕事さえきちんとしてくれたら文句は言わない」
「ん~っ」
伸びをしながら目覚めた怜は、ベッドに自分以外の気配がないことに気づいて飛び起きる。
神楽坂グループ傘下の田崎ホールディングスのパーティーに、グループの社長として出席するため一時帰国をした。
一ヶ月ほどの予定で海外出張を組んでいたが、パーティーのことは、怜も、秘書で幼馴染みの辻陸斗もすっかり忘れていたのだ。今回は、創立記念のパーティーのため、欠席をする訳にもいかず、強行スケジュールで帰国した。翌日の夜には、アメリカにとんぼ返りする。
面倒に思いながらも出席したパーティー会場でさくらの姿を目にした怜は、彼女の凛とした立ち姿と意志の強い眼差しに、一瞬で惹きつけられた。怜の姿を見つけて寄ってくる者達を陸斗に任せ、彼女に魅入っていた。ところが途中から哀愁漂う様子になり、こちらまで切なくなるような表情に変わったのだ。視線を追ってみると、なんとなく状況がわかった気がした。周囲を意識してか、さくらは平静を装って会場を後にしたが、怜には全てお見通しだった。
さくらの様子が気になって仕方のない怜は、後のことは陸斗に押しつけてさくらの後を追う。
陸斗も今までにない怜の様子に気づいたのか、何も言わずに送り出してくれた。
最上階のバーのカウンターに腰掛けたさくらを見て、コの字のカウンターの対面に座った。顔見知りのバーテンダーは、怜の姿を見て目を見開いて驚いている。何の前触れもなくグループのトップが現れたのだ。だが、すぐに怜がさくらへと向けている訳ありの視線に気づいたようだった。
何も言わずに目の前へドリンクを出して、声を掛けることはしない。一流と言われるホテルのバーテンダーの対応は満点だ。
さくらの様子を見ながら、怜もグラスを傾ける。今までのことでも思い出しているのか、時折表情が歪んでいた。
アルコールに強いのか定かではないが、飲むペースが早過ぎる。このままでは、いくら強くても酔ってしまう。
そうなりたいのかもしれないが、危なくて見ていられない。
「すまない。彼女のカクテルをノンアルコールに代えてくれ。あと、支払いは俺に付けといてくれ」
「かしこまりました」
さくらの知らないところで、そんな会話を交わしていた。
そろそろ限界に近いだろうと感じて、怜はさくらの隣の席へ移動する。
「飲み過ぎじゃないか?」
怜の呼びかけに、自分が話しかけられているとは思っていないようで、反応がない。
「おい」と再度呼びかけると、アルコールで頬を赤らめて目を潤ませたさくらが、やっと怜の方へ顔を向けた。
その美貌は、いつも冷静で冷酷と言われている怜でさえ、思わず動揺するほどの破壊力だった。今この瞬間、さくらに向き合っているのが自分で良かったと心から思う。
さくらの今の状況を詳しく把握したくて、初対面を理由に話を聞き出す。
「さっきまで、このホテルで会社の創立記念パーティーがあったんです。そこで、今日まで彼氏だと思っていた人が突然婚約を発表したんです。私じゃない人と……。おかしくないですか?」
さくらからは、裏切られた怒りよりも何も知らされていなかった疑問が大きく感じられた。もっと怒りをあらわにしてもいいのに、こんな時も真面目な人柄がひしひしと伝わり、その健気さに怜まで切なくなった。
話を聞けば聞くほど田崎のズルさに腹が立った。どう考えても田崎の方に非があるのに、文句の言葉よりも哀しみを一生懸命に堪えているさくらが、今にも消えてしまいそうで、抱きしめたい衝動に駆られる。
田崎は昔から柔らかな雰囲気を持つ男で、いつも周りに人が集まり、リーダー的な印象を与えるが、怜からすると八方美人で優柔不断としか思えない。学生時代は、常に違う女性を連れていた記憶がある。
怜に下心を持って近寄ってくる後輩のうちの一人で、皆その柔らかさに騙されがちだが、実際はかなりの野心家だった。それを見抜いていた怜は、他の後輩同様相手にはしていなかった。
ただそれでも、田崎は神楽坂グループ傘下の社長の息子。嫌でも顔を合わせることはある。
一度、秘書であるさくらを連れて歩いているのを見掛けたことがあった。
綺麗な女性だとは思ったが、田崎が連れている女に一切興味はない。パーティー会場で再び見かけるまで、さくらのことは忘れていた。
どん底のさくらとこのタイミングで再会したのは、自分にとっては運命だと怜には思える。
健気で儚いさくらを笑顔にしたい、幸せにしたいという気持ちが強くなる。今まで女性に心を動かされたことのない怜が、初めて守りたいと思える女性に出会ったのだ。
時折声を詰まらせながらも全て話し終えたさくらの頭を、気づくと無意識に撫でていた。視界の端に入ったバーテンダーが驚いている。
怜のその対応が引き金になったのか、さくらの目から一気に涙が溢れ出した。この時点で、すでに怜の理性は崩壊していたのだ。もう、このまま手放す選択肢はなかった。
「辛い記憶を、俺が塗り替えてやろうか?」
普段なら、絶対に口にしないような言葉が自然に出ていた。
さくらも今は冷静ではない。そこにつけ込んだと言われればその通りだが、すでにさくらの一生を背負う覚悟はできている。
酔ってよろけながら歩くさくらをエスコートして、これから宿泊するスイートルームを目指す。怜にエスコートされながらも、会計を気にするさくらが可愛くて仕方ない。
女性にしては長身でスレンダーな美しい肢体。儚い彼女の素顔を暴いていくのが楽しみで、ぞくぞくする。
田崎のことを考える余裕すら与えずに熱い夜を過ごし、さくらが先に意識を手放した。
一晩で何度も繋がり、何度も熱を放出したが、まだまだ足りないと感じるほど、さくらに溺れている。寝顔を見ながらいつの間にか眠りについた怜は、まさか自分がホテルに置いていかれるとは考えもしなかった。
翌朝、隣に人の気配がないことに気づいて、怜は飛び起きた。冷静に辺りを見回すも、さくらの姿はどこにもない。自分が全裸なのも忘れてリビングスペースに行くと、テーブルには『ありがとうございました』とメモが一枚残されているだけだっだ。
「クソッ」
さくらが起きたことに気づかずに眠っていた自分に対しての言葉だ。
暫く呆然としていたが、スイートルームにチャイムの音が響いた。外は明るいが、起きたばかりの怜には何時なのかもわからない。
今は出たくないが、チャイムが何度も鳴っている。更には怜を呼ぶ陸斗の声が、微かにだが聞こえてくる。仕方なく、全裸にバスローブを羽織った姿で鍵を開けた。
「おい、怜。スマホを何度も鳴らしたんだぞ。って、何だ? その色気がだだ漏れな姿は……。もしかして部屋に誰かいるのか?」
「いや、置いていかれた」
「はあ? 今、なんて言った?」
「だから、起きたらいなくなってたんだ!」
苛立ちよりもショックで自棄になっている。
「……ブハッ。アハハハハ」
泣く子も黙る神楽坂グループの社長である怜が、まさか女から置き去りにされるとは。
陸斗は笑いが止まらず、この後の展開が楽しみだと転げ回っている。
***
ホテルから自宅に帰ったさくらは、不思議とスッキリしていた。恋人だと思っていた人に、最悪の形で裏切られてどん底だったはずが、怜のお陰で前を向けた。
もしかしたら、悠太から言い訳か謝罪の連絡があるかと思っていたが、スマホが鳴ることはなかった。だがショックではなく、正直さくらはホッとしたのだ。
ただ、仕事では直属の上司。嫌でも顔を合わせてしまう。昇進して副社長になる悠太は、今後のことをどう考えているのだろうか。
周りに関係を知られていないのは幸いだった。社内では、悠太の婚約と副社長への昇進が話題になるだけだろう。さくらが捨てられたことは、誰にも知られることはないのだ。
自主退職、異動……いくつかの選択肢が脳裏を過るが、さくらが問題を起こした訳ではないので解雇はないはずだ。でも、これから仕事がやりづらくなることは間違いない。
悠太の出方次第ですぐに退職できるように、『退職届』は用意することにした。
週明け、さくらはいつも通りに出勤する。オフィスビルが見えた辺りから、心臓がバクバクしてきた。表情には出さないようにポーカーフェイスを心掛ける。
やはりと言うべきか、オフィスビルへ入ったところから、話題は悠太の婚約のことで持ちきりだった。
「専務、婚約したね。しかも、副社長になるんだよね」
「ショック~密かに玉の輿を狙ってたのに」
「何言ってるの~、専務と結婚なんて無理無理」
「わからないじゃない」
「あんなに綺麗な秘書が近くにいるのに、社内では手を出さないで、別の会社の社長令嬢と婚約したんだよ」
「確かに~」
すでに、さくらのことまで話題になっていた。ここに捨てられた人がいますよ、と内心で突っ込めるほどふっ切れている。それよりも、頭の中にちらつくのは怜のこと。
ふとした瞬間に、抱かれた時の快感を思い出してしまう。我を忘れて乱れた恥ずかしさと、初めて知った気持ちよさの余韻が、まだ身体に残っているようだ。悠太と対峙する前に何を考えているのかと、自分を叱責する。エレベーターに一緒に乗り合わせた人達は、秘書のさくらに詳細を聞きたいと思っているはずだが、話しかけづらい雰囲気を醸し出す。
最上階の役員フロアに着く頃には、エレベーターの中はさくら一人になった。大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。少し早めの時間帯で、まだフロアは閑散としていた。
役員は各々に個室があり、廊下から秘書の部屋を通って奥に入るタイプの造りで、出勤すると必ず上司と顔を合わせることになるのだ。
そして悠太の出勤時間が近づいてきた。さくらは、悠太の出方を見てから今後のことを決めようと思っていた。この際だから遠方に異動でも構わない。その方がお互いのためだろう。
カチャリとドアが開く音がして、悠太が専務室に入ってきた。副社長には来月から正式に就任となる。
「専務、おはようございます」
「おはよう」
まるで週末の出来事など存在しなかったようないつもと変わらない会話に、身構えていたさくらは訳がわからなくなった。
今から仕事だからと気持ちを立て直して、通常通り業務に取りかかる。月曜日の朝は、とにかく忙しいのだ。
もう少し気まずい空気になるのかと思っていた。それとも、二人の関係はもうなかったことにされているのだろうか。それならそれで構わないが、曖昧なままだと先に進めない。
モヤモヤとしながらも、お昼を迎えた時だった。一階の受付から内線が入る。
「お疲れ様です。受付の中山です」
「お疲れ様です」
「専務にお客様ですが……」
「えっ、本日アポは入っていませんが」
「お客様は、婚約者の来栖様と仰っています。電話が繋がらないから、直接来られたと……」
今日の悠太は、朝からオンラインで各地の田崎の社員とミーティングをしている。電話が繋がらないのは当然のことだ。
「専務に確認いたしますので、お待ちいただけますか」
「わかりました」
まだミーティング中だと、内線を鳴らすと邪魔になってしまう。専務室の扉を軽くノックした。
「どうぞ、ちょうどミーティングが終わったところだ」
「失礼します」
「どうした?」
「専務に来客です」
「えっ? 誰だ?」
「来栖様です」
「……ああ、今はどこにいるんだ?」
「受付です」
「わかった」
続けて指示があるかと思って待っていると、悠太がデスクの上の受話器を取って、自分で内線を掛けている。
「田崎だ。来栖さんに代わってもらえるか?」
あちらの声は聞こえないが、今日は一日忙しいから退社後に連絡すると伝えていた。伝えるというよりは、言い聞かせているように感じる。なんとか、そのままお引き取りいただけたようだ。
「はあ」
安堵なのか、よくわからない溜息を吐き出している姿を見ていると、パーティーでの悠太は嘘のようだ。仲睦まじい様子は演技だったのだろうか。次のミーティングまでは時間があり、このチャンスを逃すまいとさくらから話しかけた。
「専務、この度はご婚約おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。彼女、来栖食品のご令嬢なんだ。副社長になるには、彼女と結婚するのが確実だし、見た目も可愛いからラッキーだったよ」
「……」
これが元カノに告げる言葉だろうか。その無神経さに思わず驚いてしまった。
「あっ、さくらとは会える日が減ってしまうのが申し訳ない」
「……はあ!?」
今、なんて言った? 会う日が減る? まさかこれからも会うつもりだろうか? 混乱し過ぎてわからなくなる。
「何を驚いているんだ?」
「専務は何を仰っているのでしょうか? ご結婚されるんですよね?」
「ああ」
「では、私達の関係はこれで終わりですよね?」
「えっ? 何でだ?」
目の前の人物は、本当に今まで彼氏だった男だろうか? これまでこんな非常識な男と付き合っていたなんて自分が情けなくなった。
「何でも何も、私は浮気相手になるつもりはありません。異動があるなら受け入れるつもりでしたが、ただ今を持ちまして退職させていただきます」
そう言って、準備していた退職届を悠太に突きつけた。
「さくら!」
部屋を出る際、悠太が何か言っていたがもう未練はない。さくらは振り返らずに会社を後にした。
三年間も恋していたはずが、一瞬にして冷めてしまうこともあるのか……
恋愛経験がほとんどなく、今までは悠太が理想の彼氏だと思っていた。恋は盲目とはよく言ったものだ。まさか、あんな奴だったなんて思いもしなかった……
会社を辞めたことに後悔はない。むしろ、こんなこともあろうかと、退職届を準備していた自分を褒めたいくらいだ。
通勤用の鞄だけを持って、会社から出てきた。後の荷物は勝手に処分したらいい。
無職になってしまったが、何もかもスッキリとして清々しい気持ちだ。
エントランスを出て振り返り、改めてオフィスビルを見上げたが、今までプライドを持って働いていたはずのビルがくすんで見える。
一度、都会から離れるのもいいのかもしれない。今はパソコンさえあれば、どこでも仕事ができるのだ。
そういえば、昔はカフェを開くのが夢だったな――
自宅に帰り着く頃には、すでに東京を離れる決心がついていた。身の回りの物をスーツケースに詰め込み、部屋を片付ける。
翌日には、必要な物を詰めたスーツケースと貴重品だけを持って、飛行機に乗り込んでいた。
***
東京から約二時間半。さくらは青い海と白い砂浜の広がる暖かい地、沖縄へやって来た。
スマホには、何度か悠太からの着信が入った。秘書が突然辞めて困ったからなのか、さくらに未練があるからなのかはわからないが、飛行機に乗る前にスマホは解約したので真相は不明だ。何もかもリセットして、一から始めようと思っている。沖縄の中心街から離れたリゾート地のホテルに滞在して、今後のことをゆっくりと考えるつもりだ。まずは、今まで仕事を頑張ってきた自分を労ってあげたい。
リムジンバスに乗り、車窓から見える長閑な景色に癒やされて、ホテルへと到着した。チェックインをして、辺りを散策する。まるで異国の地に来たような、のんびりした時間が流れている。
この地に住み着くのもありかもしれない。すでに気持ちは都会から離れていた。
そして、夕食に立ち寄った『ちゅらかーぎー彩』という名の沖縄料理店で、今後のさくらの人生に大きな影響を与える出会いがあった。
「めんそーれ」
「こんばんは」
「あら、初めて見る顔ね」
「はい。一人なんですが……」
「大歓迎よ。おしゃべりするのが嫌じゃなければ、カウンターに座って」
お店を経営しているのは、さくらと同年代のショートカットが似合う女性だ。
ドリンクと料理を何品か注文して、カウンターの中で調理する女性と会話をする。
「一人旅?」
「はい。少しのんびりしようと思いまして」
「いいと思うわよ」
きっと女性には訳ありだと見抜かれただろう。
「名前を聞いてもいい?」
「さくらです」
「さくらちゃんね。私は彩葉よ」
「あっ、お店の名前の」
「そうそう。みんなからは彩姉って呼ばれてるの」
「そう叫びたくなるのもわかる気がします」
「そう?」
「はい」
先日までは悠太との関係もあり、常に気を張って生活していたので、さくらには社内に心を許せる人がいなかった。時々連絡を取り合う学生時代からの友達はいるが、秘書課に異動してからは、社内の人との交流がなくなってしまったのだ。入社当時は同期と仕事帰りに食事へ行くこともあったが、異動してからは一度もない。
限られた人との交流しかない部署で、仕事でもプライベートでも悠太中心の生活をしていたら、悠太しか見えなくなってしまうのも致し方ない。
怜との出会いで、これまでの洗脳のような状態が解かれたと言っても過言ではなかった。
彩葉との会話は楽しく、時間が経つのも忘れてしまう。お店には、彩葉を慕って食事に来る客が後を絶たない。さくらは、沖縄に来て最初に出会ったのが彩葉だったことに感謝した。
「いつまで沖縄にいる予定? まだ決めてないの?」
「はい。もうこの数時間で、すでにここに住みたいと思っています」
聞き上手な彩葉には、つい何でも正直に話してしまう。
「そうなの? のんびりして本当に沖縄に住むって決めたら、いつでも相談してね。この辺りには顔が利くから」
「いいんですか? それは心強いです」
「そうそう。困ったら何でも彩姉に相談だよ」
近くの席で話が聞こえていた常連のお客さんからも、同意の声があがる。
初日から、素敵な出会いがあったことに感謝だ。
その後もホテルに滞在しながら、さくらは毎晩のように彩葉の店へ通い、常連客とも仲良く打ち解けていった。
沖縄に来て一週間ほど経った頃、さくらの決意が固まった。
「さくらちゃん、これからどうするか決まったの?」
「はい。暫くこの辺りに住みたいと思っているんですが、住むところとかってあるんですかね?」
「中心街からは離れているけど、この辺りでいいの?」
「はい。むしろ彩姉の近くにいたいです」
さくらもすっかり彩葉に懐いている。
「この店は私の祖母から引き継いだって、以前話したわよね?」
「はい」
「この店の裏に、小さなハイツがあるのはわかる?」
「はい。可愛らしい建物ですよね」
「あれもおばあから継いで、今は私が管理してるの」
「えっ、そうなんですか?」
「私もそこに住んでるし、今は女性専用の住まいにしてるの。ちょうど一つ空きがあるから、良かったらさくらちゃんもそこに住まない?」
「いいんですか?」
「もちろん。でも、今までの住まいはどうするつもりなの? まだ借りたままよね?」
「残りの荷物は少ないので、管理会社に連絡して処分と解約をお願いするつもりです」
「じゃあ、明日にでも部屋に案内するわね」
さくらは本格的にこの地に住むことに決めた。実はすでに仕事も見つけている。求人サイトで在宅勤務可の翻訳の仕事を探して、見事採用されたのだ。
英語が堪能なさくらは、今までも何度か翻訳の仕事をしたことがあり、実績実力共に申し分ないと判断された。
翌日、早速見せてもらった部屋は、今まで一人暮らしをしていた部屋よりも広くて綺麗なのに、家賃は東京の半分以下だった。都会の物価は高いと改めて思う。家具や家電も、以前住んでいた人が置いていった物はそのまま使える。最小限の出費で済みそうだった。
管理会社に連絡を入れて、今月の家賃と処分費用を引き落としてもらうことで話をつけた。
沖縄に来て一ヶ月ほど経った頃には生活基盤ができあがり、どん底だったさくらはもうどこにもいなかった。
けれど、何もかも順調だったさくらに、思わぬ出来事が待っていた……
第二章 すれ違いの時間
ホテルに一人置き去りにされた現実が、陸斗の笑いと共に怜の心に重くのしかかる。
さくらを探しに行くと言いかけた怜に、陸斗が言葉を被せた。
「今はそんな時間はない。何時だと思ってる? 今から用意してすぐに空港へ向かうぞ」
「戻りたくない」
今まで仕事にも自分にも厳しく一切の妥協を許さない、『冷酷王子』と呼ばれている男が発した言葉とは思えない。
「早ければ、あと二週間で帰って来られるんだ」
「帰ってきたら、俺の邪魔をするなよ」
「仕事さえきちんとしてくれたら文句は言わない」
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