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第二章
番頭不在
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ところが、夜になっても音助は戻って来なかった。
呑んだくれて敷居を跨いだ途端、張り手の一つでもぶちかましてやろうと、わざわざ軒先で仁王立ちしていた吉森だが、これはどうもおかしいと、さすがに眉をひそめる。
恩師の見舞いを終え、香都子が屋敷に到着したのが午後九時を回った時分。
音助はまだ戻ってこない。
いよいよ、これは只事ではないと、嫌な予感が広がっていく。
店の連中もひそひそし始めた。
「警察に知らせましょうか」
女と酒を何よりの娯楽にしている音助だが、無断で店を空けることはしないと香都子は言い張る。香都子も吉森と同じように店先に立った。
「そのうち、悪びれもせず千鳥足で戻ってくるだろうよ」
ハッと笑って店の前の路地を何度も見渡したが、それらしき影は全く見当たらなかった。
「是蔵の件に、何やら関係しているのではありませんか? 」
その香都子の言葉で、直ちに吉森は丁稚を警察署まで走らせるに至った。
「まさか、是蔵殺しと関係があると」
大河原はちょび髭を指先で摘まみながら、しかめっ面で鼻息を荒くする。
客の引けた店の奥座敷には、大河原を上座に、吉森、香都子が向かい合っていた。
「そうとしか考えられません」
いつになく取り乱したふうで、余所行きにしては地味過ぎる濃紺の、飾りのブローチ一つないワンピースの裾をひらひらさせた香都子は、間に挟んだ一枚板の座卓を越え、大河原に詰め寄った。
瞳を潤ませた美少女の顔を間近に、さすがの大河原も顔を赤らめる。
「音助さんは私達が生まれるずっと前から、この店に奉公されています。二十年以上、無断で出歩くなんてことはなかったそうです。もしかすると、音助さんも」
その先を躊躇い、香都子はぶるっと身を震わせた。香都子は是蔵を殺した犯人が音助とは信じがたいようで、音助も同じように命を断たれたのではあるまいかと危惧している。
「奥さんはどちらに」
「自室で、探偵が話相手になっていますよ」
吉森の依頼に関して全く使い物にならないので、取り敢えず松子の相手をさせている。
「ふむ。探偵がね」
大河原が胡散臭そうに頷いたと同時に、襖が開いた。
「警部さんがいらっしゃったそうで」
店の誰かから聞いたのか、探偵気質丸出しのこの男は、役目を放棄していそいそと顔を覗かせる。
「松婆さんの具合はどうだ」
ジロリと吉森は睨んだ。しゃしゃり出て余計なことを口走られては、堪ったものではない。特に吉森からの依頼の内容は、店の先行きを大きく揺るがすほどのものだ。
「すっかり滅入ってますね」
そんな吉森の内心には全く気付いていないらしく、呑気に肩を竦めてみせる。
「そりゃあ、ご自分を慕う者がいなくなったことは、女として辛いものがありますよ」
わかったふうな口を香都子がきく。
「是蔵が未だに独り身だったのは、お母様に執心なさっていたからですよ」
「馬鹿なことを言うな」
吉森は咎めると、すっかり温くなった茶を啜った。
「あら、ご存知なかったの? お母様、今でこそああいった身形ですけど、お父様が亡くなる前は随分お綺麗で、熟した果実そのものだと、大層評判だったじゃありませんか」
香都子の話す通り、現在は吉森を筆頭に香都子や音助が客の応対をして滅多に店に姿を現すことはなくなったが、かつては注目されたいがためにわざと町中をしゃなりしゃなりとゆっくり歩いて色香を振り撒いていたほどだ。昔も今もお茶だのお華だのと好き勝手しているのに変わりはないが、三年前まではそれすら客寄せの一つとして担っていた。
その頃のことは大河原もしっかり記憶しているようで、ふむふむと首を縦に振っている。
「確かに。辰屋の主はその美貌に取り憑かれて、婚約者のいた松子さんを金にあかせて無理繰り手に入れたと、一時期噂になったほどでしたな。もう二十三、いや、二十四年前の話になりますかな」
「あんな白髪の婆さんがな。よくやるもんだ。金の力とは恐ろしい」
行儀悪く座卓に肘をつくと、吉森は天井の木目に視線を這わせた。
「お母様はそのような強欲ではありません! 」
怒鳴るや、机を拳でどんと叩く。
香都子がこれほど感情的になるのも珍しい。
やはり店の者が殺害され、あろうことか番頭が行方を眩ませてしまったことに気を揉んでいるのだろう。
「どうだかな」
一息に茶を飲み干す吉森の喉元を、香都子はむっと睨みつけた。
「ま、まあ。取り敢えず、こちらも全力をかけて音助を捜し出しますよ」
己の失言が原因で、暗雲立ち込め出した空気に、大河原は参ったと言わんばかりに口を挟んだ。偉ぶった凛々しい眉が垂れ下がってしまっている。
渡邊といえば、襖の前でちょこんと座し、一連の遣り取りをまるで寸劇を見るようにカッと見開いた眼で、ただただ傍観していた。
呑んだくれて敷居を跨いだ途端、張り手の一つでもぶちかましてやろうと、わざわざ軒先で仁王立ちしていた吉森だが、これはどうもおかしいと、さすがに眉をひそめる。
恩師の見舞いを終え、香都子が屋敷に到着したのが午後九時を回った時分。
音助はまだ戻ってこない。
いよいよ、これは只事ではないと、嫌な予感が広がっていく。
店の連中もひそひそし始めた。
「警察に知らせましょうか」
女と酒を何よりの娯楽にしている音助だが、無断で店を空けることはしないと香都子は言い張る。香都子も吉森と同じように店先に立った。
「そのうち、悪びれもせず千鳥足で戻ってくるだろうよ」
ハッと笑って店の前の路地を何度も見渡したが、それらしき影は全く見当たらなかった。
「是蔵の件に、何やら関係しているのではありませんか? 」
その香都子の言葉で、直ちに吉森は丁稚を警察署まで走らせるに至った。
「まさか、是蔵殺しと関係があると」
大河原はちょび髭を指先で摘まみながら、しかめっ面で鼻息を荒くする。
客の引けた店の奥座敷には、大河原を上座に、吉森、香都子が向かい合っていた。
「そうとしか考えられません」
いつになく取り乱したふうで、余所行きにしては地味過ぎる濃紺の、飾りのブローチ一つないワンピースの裾をひらひらさせた香都子は、間に挟んだ一枚板の座卓を越え、大河原に詰め寄った。
瞳を潤ませた美少女の顔を間近に、さすがの大河原も顔を赤らめる。
「音助さんは私達が生まれるずっと前から、この店に奉公されています。二十年以上、無断で出歩くなんてことはなかったそうです。もしかすると、音助さんも」
その先を躊躇い、香都子はぶるっと身を震わせた。香都子は是蔵を殺した犯人が音助とは信じがたいようで、音助も同じように命を断たれたのではあるまいかと危惧している。
「奥さんはどちらに」
「自室で、探偵が話相手になっていますよ」
吉森の依頼に関して全く使い物にならないので、取り敢えず松子の相手をさせている。
「ふむ。探偵がね」
大河原が胡散臭そうに頷いたと同時に、襖が開いた。
「警部さんがいらっしゃったそうで」
店の誰かから聞いたのか、探偵気質丸出しのこの男は、役目を放棄していそいそと顔を覗かせる。
「松婆さんの具合はどうだ」
ジロリと吉森は睨んだ。しゃしゃり出て余計なことを口走られては、堪ったものではない。特に吉森からの依頼の内容は、店の先行きを大きく揺るがすほどのものだ。
「すっかり滅入ってますね」
そんな吉森の内心には全く気付いていないらしく、呑気に肩を竦めてみせる。
「そりゃあ、ご自分を慕う者がいなくなったことは、女として辛いものがありますよ」
わかったふうな口を香都子がきく。
「是蔵が未だに独り身だったのは、お母様に執心なさっていたからですよ」
「馬鹿なことを言うな」
吉森は咎めると、すっかり温くなった茶を啜った。
「あら、ご存知なかったの? お母様、今でこそああいった身形ですけど、お父様が亡くなる前は随分お綺麗で、熟した果実そのものだと、大層評判だったじゃありませんか」
香都子の話す通り、現在は吉森を筆頭に香都子や音助が客の応対をして滅多に店に姿を現すことはなくなったが、かつては注目されたいがためにわざと町中をしゃなりしゃなりとゆっくり歩いて色香を振り撒いていたほどだ。昔も今もお茶だのお華だのと好き勝手しているのに変わりはないが、三年前まではそれすら客寄せの一つとして担っていた。
その頃のことは大河原もしっかり記憶しているようで、ふむふむと首を縦に振っている。
「確かに。辰屋の主はその美貌に取り憑かれて、婚約者のいた松子さんを金にあかせて無理繰り手に入れたと、一時期噂になったほどでしたな。もう二十三、いや、二十四年前の話になりますかな」
「あんな白髪の婆さんがな。よくやるもんだ。金の力とは恐ろしい」
行儀悪く座卓に肘をつくと、吉森は天井の木目に視線を這わせた。
「お母様はそのような強欲ではありません! 」
怒鳴るや、机を拳でどんと叩く。
香都子がこれほど感情的になるのも珍しい。
やはり店の者が殺害され、あろうことか番頭が行方を眩ませてしまったことに気を揉んでいるのだろう。
「どうだかな」
一息に茶を飲み干す吉森の喉元を、香都子はむっと睨みつけた。
「ま、まあ。取り敢えず、こちらも全力をかけて音助を捜し出しますよ」
己の失言が原因で、暗雲立ち込め出した空気に、大河原は参ったと言わんばかりに口を挟んだ。偉ぶった凛々しい眉が垂れ下がってしまっている。
渡邊といえば、襖の前でちょこんと座し、一連の遣り取りをまるで寸劇を見るようにカッと見開いた眼で、ただただ傍観していた。
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