10 / 95
キスはお断り
しおりを挟む
イザベラは自分の耳がうまく機能していないのかと疑った。
子爵たるもの、このような愚かな閃きを堂々と口にするばずがない。
「な、何を仰ったのかしら? 」
戦慄きを抑えようにも無理だ。動揺はしっかり声に出てしまっている。
ルミナスは内緒話をするように、イザベラの耳に口を近づけて、低音でその鼓膜を揺する。
「だから、私にキスをするんだよ」
イザベラの希望は砕かれた。
「君、物欲しそうな目でいつも私の唇を凝視してくるだろ」
「何ですって? 」
「言い合いの最中、いつも、唇から目を離さないじゃないか」
「とんだ自惚れ野郎ですね」
「反発しているのは、本心を誤魔化すためか? 」
「都合の良い解釈ですこと」
ルミナスの胸板を両手でつく。鍛えられたルミナスの胸筋は硬く、びくともしない。
「呆れて物も言えないわ。馬鹿馬鹿しい」
このままでは埒が開かない。
会話の幕引きは自分だと判断する。
「返してください。アリアの勉強を見なくちゃ」
「なら、とっとと私にキスしたまえ」
ルミナスは譲らない。
ルビー色の真っ赤な瞳が、チリチリと燃えているような錯覚。
その瞳の中に己の姿を見て、イザベラはビクッと痙攣した。
「……正気? 」
「勿論」
心なしかルミナスの声が一オクターブ低い。
「酔っ払いになんか付き合っていられないわ」
このままでは、本当にキスされかねない。
酒で理性を失った愚か者は、何を仕出かすかわからない。巻き込まれるのは御免だ。
イザベラはルミナスの壁からするりと抜け出すと、速足で扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたとき、生温かい熱が被さる。ルミナスの大きな手がイザベラの手を包み込んでいた。
「眼鏡は諦めるのかい? 」
男性に肌を触らせるなんて、実に十年ぶりだ。面接での握手は、あまりにも頭に血が昇り、冷静さを失った結果だから、カウントしない。
「か、買い直します」
免疫のない熱に、頭がくらくらしてしまう。このままでは倒れてしまいそう。さっさと自室に引っ込んでしまうに限る。
イザベラはガチャガチャとドアノブを前後させた。何故か鍵がかけられている。
「おい、待て。ノブが壊れるだろう」
イザベラは聞かない。
先程よりもさらに力を込めて、ノブを引っ張る。開かないなら、鍵を壊すまでだ。
「待てと言っているだろう」
ルミナスの命令に真っ向から背くイザベラに、いい加減にイライラを募らせたのだろう。
「ミス・シュウェーター」
我慢の限界に来ていたルミナスは、口中で何事か罵ると、勢いよくイザベラを引っ張り、体の向きを返させる。
贅肉のついていないほっそりした体は、おもしろいくらいクルリと反転し、至近距離で視線がぶつかった。
イザベラの喉が上下する。
子爵に雇用されて間もなく一年。
この男の真剣な眼差しを目にしたのは、これが初めてだったから。
いつものイザベラならすぐさまこの愚かな行為に対処していたはずだが、何故か今は金縛りにあってしまったように動けない。もしや子爵は魔法使いではあるまいか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが過ぎったときだ。
唇に得体の知れない柔らかさが密着した。
引き結びを割り、火傷しそうなくらい熱くてぬるぬるしたものが、口内に侵入する。その正体不明の異物は縦横無尽に粘膜を蹂躙し、歯の裏を舐め、唾液を吸い上げ、好き勝手振る舞った。
苦味のあるワインの名残を乗せたその侵入物を、もっと味わってみたい。柔らかさを共有したい。
イザベラの好奇心が沸き立つ。
イザベラは本能に従い、その侵入物に舌を絡めてみた。
一瞬、ビクッとその侵入物が強張ったものの、すぐさま柔らかさを取り戻し、イザベラの舌に纏いつく。
ぴちゃぴちゃと次第に大きくなっていく水音。時折混じる吐息。侵入物との絡みはさらに激しく、イザベラの舌が別の個体になってしまったような感覚。
えもいわれぬ心地良さ。
それがルミナスにもたらされたと知ったのは、彼が一旦顔を離し、ぬらぬらと光る唇を舌舐めずりしたときだ。
キスされた!
本からでしか知識を得ていないから、イザベラがそのことを理解するのに、かなりの間を要した。
「どうだい? 本だけでは得られない知識だろう? 」
丸きり諭すような言い方。己の経験豊富さを誇示している。
たちまちイザベラは陶然とした夢から、生々しい現実に引き戻された。
子爵とキスしてしまった!
否定しようにも、舌先に残る感覚はどうあっても現実的だ。
イザベラは手の甲で唇を拭いながら、これでもかとルミナスを睨みつける。
「放蕩者だなんて未熟な若者の呼び方も、今のうちよ」
「何だと? 」
「そのうち不品行な中年にピッタリの、好色漢て呼ばれるから」
酔っ払いの戯れにまんまと嵌まってしまったことが悔しい。
動揺するイザベラとは裏腹に、ルミナスは自分を見失いはしない。余裕綽々で、イザベラの睨みをかわす。
「成程。覚えておくよ」
扉の鍵が外すと、ルミナスは「どうぞ」とエスコートした。
子爵たるもの、このような愚かな閃きを堂々と口にするばずがない。
「な、何を仰ったのかしら? 」
戦慄きを抑えようにも無理だ。動揺はしっかり声に出てしまっている。
ルミナスは内緒話をするように、イザベラの耳に口を近づけて、低音でその鼓膜を揺する。
「だから、私にキスをするんだよ」
イザベラの希望は砕かれた。
「君、物欲しそうな目でいつも私の唇を凝視してくるだろ」
「何ですって? 」
「言い合いの最中、いつも、唇から目を離さないじゃないか」
「とんだ自惚れ野郎ですね」
「反発しているのは、本心を誤魔化すためか? 」
「都合の良い解釈ですこと」
ルミナスの胸板を両手でつく。鍛えられたルミナスの胸筋は硬く、びくともしない。
「呆れて物も言えないわ。馬鹿馬鹿しい」
このままでは埒が開かない。
会話の幕引きは自分だと判断する。
「返してください。アリアの勉強を見なくちゃ」
「なら、とっとと私にキスしたまえ」
ルミナスは譲らない。
ルビー色の真っ赤な瞳が、チリチリと燃えているような錯覚。
その瞳の中に己の姿を見て、イザベラはビクッと痙攣した。
「……正気? 」
「勿論」
心なしかルミナスの声が一オクターブ低い。
「酔っ払いになんか付き合っていられないわ」
このままでは、本当にキスされかねない。
酒で理性を失った愚か者は、何を仕出かすかわからない。巻き込まれるのは御免だ。
イザベラはルミナスの壁からするりと抜け出すと、速足で扉へと向かった。
ドアノブに手をかけたとき、生温かい熱が被さる。ルミナスの大きな手がイザベラの手を包み込んでいた。
「眼鏡は諦めるのかい? 」
男性に肌を触らせるなんて、実に十年ぶりだ。面接での握手は、あまりにも頭に血が昇り、冷静さを失った結果だから、カウントしない。
「か、買い直します」
免疫のない熱に、頭がくらくらしてしまう。このままでは倒れてしまいそう。さっさと自室に引っ込んでしまうに限る。
イザベラはガチャガチャとドアノブを前後させた。何故か鍵がかけられている。
「おい、待て。ノブが壊れるだろう」
イザベラは聞かない。
先程よりもさらに力を込めて、ノブを引っ張る。開かないなら、鍵を壊すまでだ。
「待てと言っているだろう」
ルミナスの命令に真っ向から背くイザベラに、いい加減にイライラを募らせたのだろう。
「ミス・シュウェーター」
我慢の限界に来ていたルミナスは、口中で何事か罵ると、勢いよくイザベラを引っ張り、体の向きを返させる。
贅肉のついていないほっそりした体は、おもしろいくらいクルリと反転し、至近距離で視線がぶつかった。
イザベラの喉が上下する。
子爵に雇用されて間もなく一年。
この男の真剣な眼差しを目にしたのは、これが初めてだったから。
いつものイザベラならすぐさまこの愚かな行為に対処していたはずだが、何故か今は金縛りにあってしまったように動けない。もしや子爵は魔法使いではあるまいか。そんな馬鹿馬鹿しい考えが過ぎったときだ。
唇に得体の知れない柔らかさが密着した。
引き結びを割り、火傷しそうなくらい熱くてぬるぬるしたものが、口内に侵入する。その正体不明の異物は縦横無尽に粘膜を蹂躙し、歯の裏を舐め、唾液を吸い上げ、好き勝手振る舞った。
苦味のあるワインの名残を乗せたその侵入物を、もっと味わってみたい。柔らかさを共有したい。
イザベラの好奇心が沸き立つ。
イザベラは本能に従い、その侵入物に舌を絡めてみた。
一瞬、ビクッとその侵入物が強張ったものの、すぐさま柔らかさを取り戻し、イザベラの舌に纏いつく。
ぴちゃぴちゃと次第に大きくなっていく水音。時折混じる吐息。侵入物との絡みはさらに激しく、イザベラの舌が別の個体になってしまったような感覚。
えもいわれぬ心地良さ。
それがルミナスにもたらされたと知ったのは、彼が一旦顔を離し、ぬらぬらと光る唇を舌舐めずりしたときだ。
キスされた!
本からでしか知識を得ていないから、イザベラがそのことを理解するのに、かなりの間を要した。
「どうだい? 本だけでは得られない知識だろう? 」
丸きり諭すような言い方。己の経験豊富さを誇示している。
たちまちイザベラは陶然とした夢から、生々しい現実に引き戻された。
子爵とキスしてしまった!
否定しようにも、舌先に残る感覚はどうあっても現実的だ。
イザベラは手の甲で唇を拭いながら、これでもかとルミナスを睨みつける。
「放蕩者だなんて未熟な若者の呼び方も、今のうちよ」
「何だと? 」
「そのうち不品行な中年にピッタリの、好色漢て呼ばれるから」
酔っ払いの戯れにまんまと嵌まってしまったことが悔しい。
動揺するイザベラとは裏腹に、ルミナスは自分を見失いはしない。余裕綽々で、イザベラの睨みをかわす。
「成程。覚えておくよ」
扉の鍵が外すと、ルミナスは「どうぞ」とエスコートした。
4
あなたにおすすめの小説
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
家出を決行した結果
棗
恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。
デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。
自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。
※なろうさんにも公開しています。
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
【完結】赤ちゃんが生まれたら殺されるようです
白崎りか
恋愛
もうすぐ赤ちゃんが生まれる。
ドレスの上から、ふくらんだお腹をなでる。
「はやく出ておいで。私の赤ちゃん」
ある日、アリシアは見てしまう。
夫が、ベッドの上で、メイドと口づけをしているのを!
「どうして、メイドのお腹にも、赤ちゃんがいるの?!」
「赤ちゃんが生まれたら、私は殺されるの?」
夫とメイドは、アリシアの殺害を計画していた。
自分たちの子供を跡継ぎにして、辺境伯家を乗っ取ろうとしているのだ。
ドラゴンの力で、前世の記憶を取り戻したアリシアは、自由を手に入れるために裁判で戦う。
※1話と2話は短編版と内容は同じですが、設定を少し変えています。
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる