寡黙な消防士でも恋はする

続編 愛くらい語らせろ

４６

　リビングに入るなり、日浦は男をフローリングに叩きつけるように放り投げた。
　ひえええ！こいつを怒らせたら、やっぱり恐ろしい。
　馬鹿力で放り捨てられた男は、床に二回転して仰向けに倒れ込む。幾ら防音がきいてるからって、さすがに階下に響くだろ。振動で棚の食器がずれている。ソファも斜めに位置を変えた。俺の足の裏もジンジンする。
「やっとズボンを履いたな」
　仁王立ちしながら一瞥したかと思えば、これかよ。他に言うことあるだろうがよ。思わず日浦を睨みつけてしまった。
　もんどり打って倒れ伏した男の左耳脇スレスレに足をドン、と踏み鳴らした日浦は、腕を組んで見下ろす。
「説明してもらおうか」
　丁度部屋のライトを頭上から受けた光で顔に影が落ち、より一層の酷薄を増長している。
「答え方次第では、蹴り倒すぞ」
　まさしく鬼だよ、お前は。
「べ、別にあんたらに危害加える気はないよ」
　声を上擦らせつつ、男はのろのろと上半身を起こす。
　俺はあっと叫びそうになった。
　左隣に居住している、プロレスラーみたいなごつい男だ。やたらめったら、エレベーターだの廊下だのとよく鉢合わせをしたやつだ。
「こいつは、ここの住人じゃない」
　日浦が言い切る。
「は？」
　何ですと？
「こいつは、隣には住んでいない」
「嘘だろ？」
　俺が自分ちに帰ろうとドアノブを捻れば、男も同じように自分ちのドアノブを触ってたじゃねえか。
「嘘じゃない」
　またしても日浦が言い切る。
　いや、だってこいつ、いつも自分ちの前にいたぞ。
　いやいや、待て待て。
　何だこいつ、ジッと見てきやがって。などと気を悪くしつつ会釈していつも先に中に入るのは俺。
　こいつが自分ちに入って行くのを見たか？
「左隣は空室だ。不動産屋に確認した」
　なかなかに日浦の衝撃発言。
　俺は一足で真後ろに飛び、男と距離をとる。
「お前は忍者か」
　呆れたような日浦の声をくらっても、関係あるか。
　って、日浦。あんまり近寄ってたら危ないぞ。
「大丈夫だ。こいつの目は戦意喪失した目だ」
　声には出していないのに、よく俺の言いたいことがわかるよな、こいつ。
「だから、別に危害加えるつもりはないから」
　日浦に男が声を被せ、抗議した。
「じゃあ、何故、いつも俺達を盗み聞きしていたんだ？」
　ん？盗み聞き？
　日浦の男への問いかけに引っ掛かって、つい片眉を上げてしまう。
　鉄仮面の些細な俺の変化なんて誰も気にしていない。
「住人の振りをして、居住者に紛れてこの階まで来ただろ」
「それは……」
「いつもドアに耳を近づけて、中の会話を盗み聞きしていただろ」
「人聞き悪いな」
　不貞腐れるものの、否定はしない。
　マジかよ。こいつ盗聴してたのか。
　まさか、日浦との、あれやこれやも。
　たちまちカーッと頭に血が昇って拳を握り込めば、俺が足を踏み出す前に日浦にジェスチャーで待てと制される。
　いやいや、引き下がっちゃ駄目だろ。別人になるくらい殴って脅して、俺らの関係を口止めしとかないと。後々、洒落にならねえことになるぞ。
　なんて、マシンガンのごとく心の中で不服を連ねていたら、俺の思考を読んだかのように、またしても日浦の睨みをくらってしまった。
　わかったよ。取り敢えずは大人しくしとくよ。
　そのまま拳をポケットに突っ込む。　
　それを見届けて、ようやく日浦は視線をずらした。
　誰もが何も喋らなくなってしまった。誰しもが互いの出方を探っていると言うべきか。
　シン、と室内が静まり返る。
　雑音一つない空間。
　防音が完備されているから、外からの余計な音は一切しない。珍しく隣の奇声もない。
　あまりに静か過ぎて、耳鳴りまでしてきやがった。
　再び沈黙を破ったのは、日浦だ。
「刈谷理人だな」
　日浦は男に対して問いかけるのではなく、確信をついて、その名を口にした。